横浜メリーポピンズ

ささゆき細雪

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山下公園午後三時の天候:曇りのち雨

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 アイボリーブルーの空。だんだんと濃くなっていく灰色が雨雲を連れてくる。空の色がゆるやかに染まっていく。風も唸っている。今にも雨が降りそうな。

 横浜午後三時。

 修学旅行や遠足で来たのだろう、学生服を来た少年少女たちが楽しそうに方々へ散りだした。これからお待ちかねの自由行動に入るのだろう。

 自由行動の間も気が抜けないのか、ピリピリと神経を張り詰めている年配男性の姿がある。彼がたぶん、あの学校の引率教諭なのだろう。お互い大変だよなあと弘瀬ひろせは苦笑を浮かべ、自分が率いる生徒たちを一瞥する。

 二時間半後にマリンタワー前集合、とだけ告げて、弘瀬は生徒たちを見送る。
 自分の学校の生徒たちが観光船乗り場へ姿を消したのを見て、弘瀬はふぅ、と溜め息をつき、ベンチへ腰掛ける。

 同時にボォオオオオオ、という野太い汽笛が鳴り響く。ベンチの周囲を歩き回っていた十数羽もの鳩が危険を察知したかのように一斉に空へと飛んでいく。生徒たちが「せんせぇー!」と大声あげながら手を振っている。海の向こうの近代都市がどんなものか、期待で瞳を輝かせている彼らに弘瀬は座ったまま手を振り返す。やがて船はゆるやかに水面を滑り出す。

 山下公園の観光船乗り場から横浜駅へ出発した船が弘瀬の視界から遠ざかっていく。

 その頃には、風はいっそう強く吹き、霧雨も音を立てずに降り始めていた。気まぐれな空を見上げ、弘瀬は息を飲む。



 ――少女が空を飛んでいた。



 飛ぶ、というよりも落下している、と言った方がいいのだろうか。弘瀬の目の前で濃緑のブレザーを着た少女が、おおきなピンクの傘を開いた状態で宙を舞っている。このままだと海に落ちそうだが、強風に煽られているせいか、落下速度が異常に遅い。まるで重力に逆らっているかのように。

 彼が理系の教師ならまずその非科学的な現象に気づいたはずだ。だが弘瀬は英語教諭なので、そのことに気づけない。それどころか焦っている。この事態にどう対処すればいいのかわからず混乱している。

 さっきの船から飛び下りたのか? どこの学校だ? あの臙脂色のタイ、見覚えあるがまさかうちの……

 周囲を見回すが、雨が降り出したからか弘瀬以外の人間の姿がなくなっている。観光船乗り場も「強風のため本日の運転は十五時の便を最後に終了しました」とのプレートが掛けられ、スタッフも引っ込んでいる。

 少女が宙を舞っていることに、誰も気づいていない。

 彼がパニックに陥ってる間も、少女は落下を続けている。枯れ枝のように風に従い、ゆらゆらと、海から地上へ落下地点を変更していく。それを見て、弘瀬は考えるのをやめ、今自分が何をすべきなのか、行動をとる。

 ゴォッと風が唸る。霧雨激しくなる中、弘瀬は両腕をひろげ、少女を受けとめようと飛び出していた。

 傘を握りしめたまま、少女は落下を続ける。

 衝撃を覚悟していた弘瀬は、瞳を閉じ、その瞬間を待つ。


   * * *


 想像以上に軽かった。少女の背中に天使の翼でも隠れているのではないかと疑いたくなるほどに。

 少女は落下寸前に傘を手放した。ピンクの大輪の花を咲かせたようなおおきな傘は、さっきまで弘瀬が腰掛けていたベンチに引っかかり、動かなくなる。ぶつかった衝撃で骨が一本折れてしまったようだ。

 少女の落下を認めると、さっきまで吹いていた強い風までもが急に落ち着いた。まるで魔法のように。

 弘瀬はまじまじと腕の中の少女を見つめる。見覚えのある顔。それは少女も同じだったようだ。

「……先生」

 心底安堵した表情の少女を見て、弘瀬は我に却る。

「どういう、ことだ?」

 抱きとめた少女を見て、弘瀬は彼女が以前、担任していたクラスに在籍していたことに気づく。

 口をぱくぱくさせている弘瀬を見上げ、切羽詰った表情で、少女は乞う。



「お願いです。――いまは、なにも、訊かないで」



 なぜお前がここにいる?

 そう言おうとした口は、彼女に塞がれていた。

 霧雨降りしきる中、そこだけが時間を止めてしまったかのような、そんな錯覚が弘瀬を襲う。

 少女とは思えない力で拘束され、されるがままになっていた彼は、振り切ろうと身体をよじる。口唇が触れ合っただけの稚拙なキスなのに、呆気なく弘瀬の思考を麻痺させる。まるで毒を注いだかのように。

 顔をはなした少女は、じっと弘瀬の瞳を、瞳の奥をみつめている。何もかも見据えるような漆黒の瞳は、揺るがない。

「……怒るおこーぞ」


 顔を真っ赤にする弘瀬を余所に、少女は何食わぬ顔をしている。

「それよりも、困惑の方が強いみたいですね」

「ん」

 弘瀬は自分がまだ彼女を抱きとめたままだということに気づき、慌てて腕をはなす。霧雨のせいでふたりともびしょ濡れになっている。

 少女はベンチに引っかかった傘を手にとり、弘瀬の頭にかぶせる。一本の折れた骨が長身の彼の首筋に触れる。ゾクリとするような金属の冷たさすら、夢なのか現なのか判断できない。

 そんな弘瀬の思考を読み取ったかのように、少女は言い切る。

「夢ですよ」

 淋しそうに笑って、告げる。

「そう認識した方が、先生にとってみれば都合がいい」

 夢だと? そのヒトコトですべてを割り切って、本当にいいんか?

「……アホなこと言うな」

「言いますよ。言ってやります。だってあたしはメリーポピンズだから」
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