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弐
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しおりを挟む――ちいさくて、なんて愛らしいおなごなんだ。
それは、小子がまだ藤原北家の姫君、伊子と呼ばれていた頃のこと。
父、基房が平家と悶着を起こして備前に流される前で、母と幼い弟が傍にいて、女房たちも自分をおそれることなく世話をしていてくれた頃のこと。
家族で信濃から分社された諏訪神社へお参りに行った時に、小子はその声を聞いた。
「だあれ?」
ちいさなおなご、は、ここには自分しかいない。きっと小子を呼んだのだろう。だから小子は虚空に向かって声をかける。小子の話しかける声はまわりの人間にしてみれば奇妙なものに映っただろうが、本人はまったく気にしていなかった。
もう一度、小子は声をあげる。さっきよりもおおきな声で。
「聞こえているよ。小さき子」
社殿の裏から、透き通った声とちりりん、という鈴の音色とともに、巫女装束の少女が現れる。少女、というよりは女性と表現した方がいいくらいの年齢かもしれないが、十に満たない小子にとってみたらどちらにしてもあまり変わらない。
目の前にいた巫女はおおきくて、威厳があって、妙に偉そうに見えた。
そしてとても美しかった。化粧をしているのか、色白の肌に桜色の頬に、凛とした一重瞼に夜空を思わせる漆黒の瞳と薔薇の花弁のような口唇が映えている。
「――見つけましたよ。姫様」
「わたしに、何かご用ですか?」
改まった口調の巫女に尋ねると、彼女は首を左右に振る。その振動でちりりん、ちりちりんと鈴の音もつづく。彼女は左右の腕につけていた鈴の輪を小子に見せながら、妖艶な笑みを浮かべる。
「お前がとても愛らしくて、つい声をかけてしまっただけさ」
中性的な声色がまた、目の前の女性の神秘性を増幅している。小子が愛らしいと巫女は口にしているが、小子からすれば彼女の方が何倍も魅力的に思える。
そんな小子の気持ちがわかったからか、巫女はそれ以上愛らしいという言葉を唇に乗せることはなかったが、小子の前までやってくると、懐からそっと匂い袋を取り出し、小子の手の中へ握らせた。
「巫女さま?」
「受け取れ。お守りだ」
「でも、知らないひとからものをいただいてはいけませんってお父様が」
「匂款冬の花だ。大したものではない」
匂い袋からは、いままで嗅いだこともない甘い芳香が漂っている。高貴な蘭花と豊潤な秋葡萄を混ぜ合わせたような独特でありながらくどくない香りだった。巫女に渡された花の香りに小子は夢中になる。
「それにもう、お前とはここで知りあっているだろう?」
そう言って、無邪気に抱きついてくる。鈴を鳴らしたような笑い声をあげたのは自分だったのか、それとも巫女だったのか。
ありがとうと礼を言おうとした時には、その姿は霞のように消えていなくなっていた。
「ちいさき子よ。この先お前は大変な苦難を強いられるだろう。だが、案ずることはない。耐え忍んだその先には運命の出逢いがある……またな」
大切に抱きしめられた温度と、謎めいた助言を残して。
それからだ。小子が鬼に憑かれた冬の姫だと京で噂になって、隠れて暮らさざるおえなくなったのは。
だからあのとき出逢った美しすぎる巫女は、もしかしたら鬼が化けたものだったのかもしれない。けれど小子は彼女がくれた匂い袋を捨てられない。
匂款冬の蟲惑的な甘い香りは長い年月を経ても褪せることなく、いまもなお小子の周りで香り続けている。
あの巫女は、ほんとうに神に仕えた女性だったのだろうか。その後、平家が台頭してきたことで源家側にあった諏訪神社は廃れ、いまでは管理する人間もいなくなってしまったときく。もしかしたら自分が鬼に魅入られてしまったから、父をはじめとした家族や周りの人間を不幸に導いてしまったのかもしれない。
それでも、ひとり自分を責めても呪われた身は一生続くと陰陽師に定められてしまった。自死することさえ許されなかった小子は、巫女の助言どおり、静かに耐え忍ぶことしかできなかったのだ。
義仲に出逢うまでは。
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