上 下
8 / 27

+ 4 +

しおりを挟む



 寿永二年十一月十九日に起きた法住寺合戦は、京のひとびとを震撼させた。
 俱利伽羅峠くりからとうげでの戦いや篠原の戦で目覚ましい活躍を見せ、朝日将軍などという称号を与えられた木曾義仲が、平家一門が都落ちした七月から半年もたたないうちに軍事衝突を起こしてしまったのだから。
 このことから、義仲と実質政権を握っていた後白河法皇との関係が決裂したことが民草にも知れ渡ることとなる。
 法皇御所を襲い、わずか四歳の今上帝を確保したのち、法皇を五条東洞院へ監禁。あらたに摂政として権大納言師家もろいえを立て、反抗するすべてのものを制圧。容赦はせず、その場にいた僧侶や公家たちにまで刃を向け、殺戮を楽しむ姿はまさに鬼神とおそれられ、ひとびとに噂された。
 ほかにも、十二歳にして摂政という役を任ぜられた藤原師家のことや、摂政宅に隠匿されていた姫君の神隠しなどが根も葉もない噂となって小子の耳元に流れてくる。
 噂の情報源はお喋りな巴だ。

「京のひとびとは冬姫の失踪を神隠しなんて騒いでいるけど、公家連中はそうは思ってないでしょうね。あなたのお父様は平家一門が京を牛耳っているときに残念ながら関白の地位を剥奪されたうえに備前へ流されていたんですもの、復権を狙って息子の師家を傀儡の摂政に仕立て上げることと引き換えに、やり場に困った姫君を押しつけた、なんて言ってるらしいわ」
「わたし、押しつけられた……?」
「何言ってるの。義仲があなたを見初めて連れて来たのは事実なんでしょ、知らない人間に好き勝手言われたって構わないじゃない」

 世間から隠されたように生活していた小子にとって、根拠のさだかではない噂話は刺激的だ。

「巴は強いね」
「姫様が世間知らずなだけよ」
「それは認めるけれど、自分の知らない場所で好き勝手憶測されるのって、気分のいいものではないわ」

 自分が冬姫と呼ばれ、おそれられてしまったのも、最初は一部の囁きだけだったのだ。それが、放っておいたらどんどんおおきくなる炎のように、小子や家族が気づかないうちに拡がって、ついには陰陽師の手に委ねることになった。しかし、救いを求めた陰陽師にまでなすすべはないと言われ、幽閉されることになったのだから、巴に言われて素直に「じゃあ好き勝手言わせておく」とは応えられない。

「それに、義仲だって好き勝手言われているじゃない。巴はどう思うの?」
「別に何も思わないわよ。彼は彼の信念に基づいて動いているだけ。他人にとやかく言われようが己を貫くひとだから、あたしもそれに従っているだけ」

 きっぱりとした巴の言葉は、悶々とした小子の不安を取り去っていく。

「彼が鬼神だっておそれられても構わないし、彼が鬼に憑かれた姫君を正室に迎えるって言いだしたときも反対しなかったわ。だってそれは決定事項だったんですもの」
「決定事項……?」
「そうよ。義仲は最初からあなたを探していたの。上洛した、そのときから」


 ――見つけましたよ、姫様。
 小子の脳裡で、懐かしい笑い声が、ぱちんと弾けて、消える。


「……違うわ」

 あれは誰。わたしを探して見つけたと笑いながら抱きしめてくれたのは……
 淡い思い出はときに優しくときに残酷に小子を翻弄させる。けれど小子はいままで義仲と逢ったことはなかったはずだ。どうして彼が自分を最初から探すなんて言う?

「わたしと、義仲はあの日の夜が初対面。きっと、人違いだわ」

 それでも、自分が義仲につよく求められているいま、人違いだと正面から言い切る自信は、ない。
 義仲はまっすぐ小子を見ていた。だから小子を正室にすると言っていたのは、巴の言うとおりなのだろう。
 義仲の瞳が、小子を動かした。いまさら人違いだったと彼が訂正するとは思えないけれど……

「人違い、ね」

 巴は小子の否定に対して淡く笑うだけ。
 だからそれ以上、何も聞かれなかったし、何も言われることもなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

桑の実のみのる頃に

hiro75
歴史・時代
 誰かにつけられている………………  後ろから足音が近づいてくる。  おすみは早歩きになり、急いで家へと飛び込んだ。  すぐに、戸が叩かれ………………  ―― おすみの家にふいに現れた二人の男、商人を装っているが、本当の正体は……………  江戸時代末期、甲州街道沿いの小さな宿場町犬目で巻き起こる痛快時代小説!!

いくよ一月あなたの許へ

古地行生
歴史・時代
お江戸の長屋が舞台のちゃらんぽらんなお話です。

私訳戦国乱世  クベーラの謙信

zurvan496
歴史・時代
 上杉謙信のお話です。  カクヨムの方に、徳川家康編を書いています。

壬生狼の戦姫

天羽ヒフミ
歴史・時代
──曰く、新撰組には「壬生狼の戦姫」と言われるほどの強い女性がいたと言う。 土方歳三には最期まで想いを告げられなかった許嫁がいた。名を君菊。幼馴染であり、歳三の良き理解者であった。だが彼女は喧嘩がとんでもなく強く美しい女性だった。そんな彼女にはある秘密があって──? 激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。 参考・引用文献 土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年 図説 新撰組 横田淳 新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

ニキアス伝―プルターク英雄伝より―

N2
歴史・時代
古代ギリシアの著述家プルタルコス(プルターク)の代表作『対比列伝(英雄伝)』は、ギリシアとローマの指導者たちの伝記集です。 そのなかには、マンガ『ヒストリエ』で紹介されるまでわが国ではほとんど知るひとのなかったエウメネスなど、有名ではなくとも魅力的な生涯を送った人物のものがたりが収録されています。 いままでに4回ほど完全邦訳されたものが出版されましたが、現在流通しているのは西洋古典叢書版のみ。名著の訳がこれだけというのは少しさみしい気がします。 そこで英文から重訳するかたちで翻訳を試みることにしました。 底本はJohn Dryden(1859)のものと、Bernadotte Perrin(1919)を用いました。 沢山いる人物のなかで、まずエウメネスの伝記を取り上げました。この「ニキアス伝」は第二弾です。 ニキアスというひとの知名度もかんばしいとは言えません。高校の世界史用語集に『ニキアスの和約』が載ってたっけな?くらいのものです。ご存じのかたでも、“戦わざるを得なかったハト派”という程度のキャラクターで理解されていることが多いように思いますが、なかなか複雑で面白い人生なのです。どうぞ最後までお付き合いください。 ※区切りの良いところまで翻訳するたびに投稿していくので、ぜんぶで何項目になるかわかりません。 ※エウメネス伝のほうはWEB版は註を入れませんでしたが、こちらは無いとなんのことやら文意がとれない箇所もありますから、最低限の解説はあります。

処理中です...