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prologue Singapore
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* * *
カナトはシンガポールで見初めた少女をほかの誰のものにもしたくなかった。記憶力が抜群の彼は十五年経ったいまも彼女のことを覚えている。あのとき「結婚しよう」と口走ったのは間違いではなかった。たとえ彼女が自分のことを忘れてしまったとしても、探し出せると信じていた。
だって彼女は恥ずかしそうにうなずいたのだ。
『おとなになってもりいかのことすきでいてくれる? なら、誓って?』
昼間はつまらないと風景だと思っていたシンガポール海峡のタンカー・ビューの煌びやかなライトを見下ろしながら、幼いふたりは唇をふれあわせるだけの口づけをした。初めてのキスはしょっぱい、海の味がした。
『誓うよ。父の後を引き継いだら、俺は君を花嫁に――……』
いつになるかわからない約束を本気にして、カナトはその日から、彼女を手に入れるための策を練りだした。
だが、カナトの初恋は前途多難だった。現地法人に所属していると思われた一等航海士のナガタニという人間は、カナトがマツリカを見初めた翌年に消息がわからなくなってしまったのだ。ヨーロッパで起きたケミカルタンカー事故に関連しているとのはなしだったが、当時未成年のカナトが詳細な情報を手に入れることはできなかった。大人になったカナトが直接調べようにも、すでに事故として処理された案件は過去の鳥海運輸の汚点として封されていた。ナガタニという名の航海士は死んだものとして扱われており、その娘がどうなったのか知ることも叶わない。
それでも約束したのだとカナトは父の後を継ぐため中学卒業後に商船高専へ進学、国家資格である三級海技士、第一級海上特殊無線技士、ボイラー技士、小型船舶操縦士、危険物取扱者などの資格を次々と取得、二十歳で日本の業界四天王のひとつとされている父の海運会社へ就職、海外渡航を含む現地での実務経験を経て二級海技士を取得した後、ようやく彼女の父親が持っていた一等航海士の称号も手に入れた。外洋を航行するための大型船舶の船長になるにはさらにうえの試験を受ける必要があるが、次期社長として鳥海海運グループを率いることになるであろうカナトにはもう充分だと、それよりも今度は陸上職の勤務を覚えろというはなしになり……海の上で三年、陸の上で二年、いまも彼は年老いた父に代わり必死に働きつづけている。
十歳だったカナトは二十五歳になっていた。『鳥海の若き海運王』と呼ばれるようになった彼は、国内外で注目される貴公子に成長していた。
いまの俺なら、彼女を花嫁に迎えに行ける。だが、あのとき約束した少女は、自分のことを覚えているだろうか。
塩辛いキスをして、ふたりで笑いあった晩夏のシンガポールの出来事を……
「カナトさま?」
けれどもいまは、そんな感傷にも浸れない。
父は息子の運命の出逢いを面白がっていたが、いつしかそのことも忘れてカナトに縁談を勧めるようになったのだ。
目の前にいるヤマトナデシコは、カナトが靡かないのを見て、苦笑する。椿の刺繍がされた振り袖を上品に着こなした美人は、父親に頼まれてこの場に来てくれたが、カナトの落胆した表情を見てすべてを悟ったらしい。
「人違いですよね、わたし、シンガポールなんて行ったことありませんから」
「そのようですね。父が勘違いしていたみたいで……申し訳ない」
「いいえ。鳥海の若き海運王とおはなしできて楽しかったですよ。初恋、叶うといいですね」
「中谷さん」
事前に手渡された書類には「中谷真理香」と記されていた。……カナトが探しているのは「長谷マツリーカ」である。名前の響きと年代だけで見合いの相手に選ばれた彼女は鳥海海運同様、国内の海運四天王のひとつ、横須賀汽船の令嬢だ。すでに生まれた頃から婚約者が定められていた彼女は、カナトの父に理由も知らされないまま呼び出された被害者であるはずなのに、こちらの事情を汲んで、カナトの初恋を真摯になってきいてくれたのだ。そのうえ――
「それより、若き海運王の心を射止めた女性にわたし、心当たりがあるんですけど……」
「え」
「ニューヨークで、コンシェルジュをされていたマツリカ・キザキという女性とお会いしたんです。彼女の旧姓がたしかナガタニ、って」
中谷の言葉に、カナトは絶句する。
目の前が真っ白になる。
初恋の約束をしたはずの彼女は、すでに既婚者になっていた――……?
カナトはシンガポールで見初めた少女をほかの誰のものにもしたくなかった。記憶力が抜群の彼は十五年経ったいまも彼女のことを覚えている。あのとき「結婚しよう」と口走ったのは間違いではなかった。たとえ彼女が自分のことを忘れてしまったとしても、探し出せると信じていた。
だって彼女は恥ずかしそうにうなずいたのだ。
『おとなになってもりいかのことすきでいてくれる? なら、誓って?』
昼間はつまらないと風景だと思っていたシンガポール海峡のタンカー・ビューの煌びやかなライトを見下ろしながら、幼いふたりは唇をふれあわせるだけの口づけをした。初めてのキスはしょっぱい、海の味がした。
『誓うよ。父の後を引き継いだら、俺は君を花嫁に――……』
いつになるかわからない約束を本気にして、カナトはその日から、彼女を手に入れるための策を練りだした。
だが、カナトの初恋は前途多難だった。現地法人に所属していると思われた一等航海士のナガタニという人間は、カナトがマツリカを見初めた翌年に消息がわからなくなってしまったのだ。ヨーロッパで起きたケミカルタンカー事故に関連しているとのはなしだったが、当時未成年のカナトが詳細な情報を手に入れることはできなかった。大人になったカナトが直接調べようにも、すでに事故として処理された案件は過去の鳥海運輸の汚点として封されていた。ナガタニという名の航海士は死んだものとして扱われており、その娘がどうなったのか知ることも叶わない。
それでも約束したのだとカナトは父の後を継ぐため中学卒業後に商船高専へ進学、国家資格である三級海技士、第一級海上特殊無線技士、ボイラー技士、小型船舶操縦士、危険物取扱者などの資格を次々と取得、二十歳で日本の業界四天王のひとつとされている父の海運会社へ就職、海外渡航を含む現地での実務経験を経て二級海技士を取得した後、ようやく彼女の父親が持っていた一等航海士の称号も手に入れた。外洋を航行するための大型船舶の船長になるにはさらにうえの試験を受ける必要があるが、次期社長として鳥海海運グループを率いることになるであろうカナトにはもう充分だと、それよりも今度は陸上職の勤務を覚えろというはなしになり……海の上で三年、陸の上で二年、いまも彼は年老いた父に代わり必死に働きつづけている。
十歳だったカナトは二十五歳になっていた。『鳥海の若き海運王』と呼ばれるようになった彼は、国内外で注目される貴公子に成長していた。
いまの俺なら、彼女を花嫁に迎えに行ける。だが、あのとき約束した少女は、自分のことを覚えているだろうか。
塩辛いキスをして、ふたりで笑いあった晩夏のシンガポールの出来事を……
「カナトさま?」
けれどもいまは、そんな感傷にも浸れない。
父は息子の運命の出逢いを面白がっていたが、いつしかそのことも忘れてカナトに縁談を勧めるようになったのだ。
目の前にいるヤマトナデシコは、カナトが靡かないのを見て、苦笑する。椿の刺繍がされた振り袖を上品に着こなした美人は、父親に頼まれてこの場に来てくれたが、カナトの落胆した表情を見てすべてを悟ったらしい。
「人違いですよね、わたし、シンガポールなんて行ったことありませんから」
「そのようですね。父が勘違いしていたみたいで……申し訳ない」
「いいえ。鳥海の若き海運王とおはなしできて楽しかったですよ。初恋、叶うといいですね」
「中谷さん」
事前に手渡された書類には「中谷真理香」と記されていた。……カナトが探しているのは「長谷マツリーカ」である。名前の響きと年代だけで見合いの相手に選ばれた彼女は鳥海海運同様、国内の海運四天王のひとつ、横須賀汽船の令嬢だ。すでに生まれた頃から婚約者が定められていた彼女は、カナトの父に理由も知らされないまま呼び出された被害者であるはずなのに、こちらの事情を汲んで、カナトの初恋を真摯になってきいてくれたのだ。そのうえ――
「それより、若き海運王の心を射止めた女性にわたし、心当たりがあるんですけど……」
「え」
「ニューヨークで、コンシェルジュをされていたマツリカ・キザキという女性とお会いしたんです。彼女の旧姓がたしかナガタニ、って」
中谷の言葉に、カナトは絶句する。
目の前が真っ白になる。
初恋の約束をしたはずの彼女は、すでに既婚者になっていた――……?
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