若き海運王は初恋の花を甘く切なく手折りたい

ささゆき細雪

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prologue Singapore

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「危ない!」

 ふだんよりも勢いのある波に飲み込まれ、身体が海面に叩きつけられてしまう。
 日本の海とさほど変わらない濁った海は、ほんのすこし足を動かすだけで深さが異なる一面を持っていた。
 カナトは海水のなかに姿を消した少女を追いかけ、波に反発するように泳いでいく。
 暗くなりゆく海の深みに囚われた少女はパニックに陥って両手両足をばたつかせている。
 カナトが声をかけたところでもはや届いているとは思えない。監視員は何をしているのだろう、もう時間だからと仕事をとっとと終えて帰ってしまったのだろうか。苛立ちながらカナトは少女の腕をつかむ。

「うっ、ぐっ……!」
「しっかりして、このまま浜辺に連れていく……親御さんは?」

 カナトが英語で声をかけながら、浜辺まで運んでいく。海水を飲んだからか、苦しそうに咳き込んでいる。意識はあるのか「あっち」と砂浜を指さしていたので伊瀬に目配せをして探させる。ビーチハウスからすこしはなれた浜辺にたどり着いたカナトは少女に海水を吐かせて、背中をさする。ゴホッゴホッと何度か咳を繰り返し、やがて落ち着いたのか涙ぐみながらこちらを見つめる少女の姿に、思わず胸が高鳴る。
 涙の膜が張った青みがかった瞳はまるで深い海に眠る碧玉のようだ。生まれてはじめて見た美しい虹彩を前に、カナトはつい、日本語で感嘆の声をあげていた。

「……人魚?」
「りいかは、にんげんだよ?」

 ふて腐れた表情の少女を見て、カナトはハッと我に却る。

「――君、日本語わかる、の……?」
「すこし」

 ふるふると首を振ったマツリカは、やがて目的の人物を見つけたのかその場ですくっと立ち上がり「ばーぱー!」と声を張り上げる。伊瀬が探したであろう彼女の父親らしき男が「マリカー!」と叫びながら駆けつける。屈強な体つきの男性がカナトとマツリカを見て、目を瞠る。

「Anak raja perkapalan!?」

 カナトの姿を認めた男性は、英語でも日本語でもない言語を口にしながら感嘆の声をあげる。
 マツリカが「bapaバパ? Apa yang何を awak cakap言ってるの?」と同じような言葉で問い返せば、慌てて彼は伊瀬とカナトの前で跪く。

「失礼いたしました……マリカー、娘を助けていただきありがとうございます」
「あの……貴方は?」

 きょとんとするカナトに、伊瀬が日本語で囁けば、彼は納得したのかホッと息をつく。

「そうか、現地法人の航海士なのか」
一等航海士チーフオフィサーの長谷と申します。海上職ゆえなかなか本社に参ることはありませんが」

 マツリカのあたまを撫でながら長谷が説明する。シンガポールを拠点としているケミカルタンカー事業を海上で支える立場にいるという彼は、久しぶりの休暇を娘とふたりで過ごしていたのだという。海に慣れている娘が足を踏み外して溺れるなんて信じられないと呆れながらも無事戻ってきたのを見て安堵の表情を浮かべている。
 ふたりの会話を眺めていた伊瀬が、ふと思い出したようにカナトに告げる。

「おそれいりますカナトさま。わたくし長谷氏とすこし込み入った話をしたいので彼をお借りしてもよろしいでしょうか」
「そうだな、こちらからも頼みたい。鳥海の上層部に現状報告できるなら直接したいことがある」

 伊瀬につられて長谷も頷く。不安そうな表情になるマツリカに「仕事のはなしだよ」と長谷が父親の顔になって微笑する。

「そっか。じゃありいか、お兄さんと一緒に待ってる!」
「おう……そういうわけで、娘をお願いしても? このビーチハウスのなかならどこにいてもかまわないよ」
「はい、大丈夫です」

 カナトの大人びた反応に安心したのか、伊瀬と長谷はビーチハウスの奥にあるというプライベートルームへと姿を消していく。
 おとなふたりを見送ったマツリカはカナトに日本語でゆっくりと声をかける。

「お兄さん、たすけてくれたお礼に、とっておきの場所、りいかが教えてあげる!」
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