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第一話
過去の卵と未来の卵
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それは家族だんらんの、夕食時の父親の一言から始まった。
「お父さんが勤めている会社の、この県の支社は、今月で廃止されることになった。来月からは東京の本社に勤める。会社が住宅手当は出してくれるそうだから、家族みんなで東京に引っ越してほしい。」
「ええええええっ~!」
母親が、驚きの声をあげた。
兄で中学一年生のトオルは目を見開いてポカンとし、妹で小学四年生の結香(ゆか)は、お箸を口に入れたまま、固まった。
トオル達家族は、西日本のM県に住んでいる。父親も母親も、実家はM県内にあり、ふたりは、この地で知り合って恋愛し、結婚して家庭を作った。
父親も母親も、トオルも結香も、この地での生活が続いてゆくものと信じていた。
それが突然、ひっくり返ることになったのである。
「会社の業績が悪くてね、利益のでていないところの支社は、整理されるんだ。お父さんの同僚の中には、リストラになった人もいる。お父さんは、まだ雇ってもらえるだけありがたいことだと思う。」
母親が、おずおずと尋ねた。
「この県内の、同じ業種の他社に、転職することはできないの?」
父親が、にがりきった表情で答えた。
「今は、この業界全体が不況なんだ。募集をしている他社なんてないよ……」
父親の言葉を聞き、3人はだまりこくった。
この日の後も、トオルと結香は、東京へ行くという実感が持てずにいたが、数日の間に、母親が大量のダンボール箱に荷物を詰めはじめ、引っ越しの準備を始めたのを目の前にすると、「この地を離れるんだ」という覚悟のようなものを感じてきた。
トオル達が住んでいたのは、M県の中でも都市部ではなく、豊かな自然にあふれているところで、自然とふれあいながら、トオルは育ってきた。
小学校に入学。小学校まで1キロ。徒歩。
数人の友達とわいわい言いながら、田んぼの間の道を通学した。カエルを見つけたり、セミを見つけたりするのがトオル達の楽しみだった。
中学校に入学。中学校まで3キロ。自転車通学。
自転車でさっそうと風を切りながら、移り変わる四季の中で、トオルは成長してきた。
その生活が一変してしまうのだ。
友達とのあわただしい別れの挨拶。
「転校してもずっと友達だよ。」「LINEでいつでもやり取りできるよ。」「東京へ行って、面白いものがあったら教えてくれよ。」
みんな温かい言葉をかけてくれた。
あわただしい別れと引っ越しの後、トオル達の一家は、都心からは離れているが、以前とは全く違う環境の、ビルが立ち並ぶなかにある、小ぶりなマンションの一室に収まった。
転校初日。
まだこちらの中学校の制服が届いていないので、トオルは以前の中学校の制服で登校した。思い返せば、このことが、こちらの中学の生徒の目には、奇妙に写ってしまったのかもしれない。
先生の机の横にクラスの皆と向かいあって立つように担任の先生に言われ、担任の先生がトオルのことを転校生と紹介した。
先生が話している間、クラスの皆を見回したトオルは、おかしな感じを受けた。
(男子も女子も、目の底が冷たい……)
担任の先生から、トオルから皆に、一言あいさつを言うようにと言われ、トオルは言った。
「M県から来た山崎トオルです。よろしくお願いします。」
そしてトオルは自分の席に着いた。
いじめは翌日から始まった。
朝、トオルが教室に入ると、自分の机の中に、鼻をかんだ後のティッシュが、いくつも詰め込まれていた。
トオルは誰かの軽いいたずらだろうと思い、教室の後ろから、ゴミ入れを持ってきて捨てた。
その翌日。
今度は机の上に、チョークでぐるぐると、なぐり書きがされていた。
明らかに、悪意のある行為だ。
それでもトオルは、自分のティッシュペーパーを取り出し、きれいにふいて席に着いた。
そのまた翌日。
今度は、トオルの机と椅子が、教室の列からはずされ、教室のいちばん後ろに離されて置かれていた。
トオルは机と椅子を、元あった場所に、ひとりで運んで戻し、着席した。
その様子を、他の生徒は冷たい目でニヤニヤ笑いながら眺めていた。
こんなことが続くうちに、トオルの心身に異変が現れてきた。
声がうまく出なくなったのだ。
隣の席の生徒に話かけようと思っても、自分の口から出てくるのは、
「あっ、あの…あの…」
というふうで、いつまで待っても話が始まらないので、声をかけられた生徒も、何のことかわからず、そのうちそっぽを向かれてしまう。
そうした状態のなか、ことは起こった。
英語の授業で、先生がトオルに、英文の読みをするよう当てたのだ。
トオルは英語が不得意なわけではない。以前の学校では、中一相当にはできていた。
しかし、今は、声がうまく出ない。
それでもトオルは立ち上がり、指示されたところを読もうとした。
「Ca…キャ…Can…ユ…スピ…ッ……」
クラスのなかに、クスクス笑う声が広がっている。女子生徒は教科書に顔をうずめて笑いを隠し、男子生徒は吹き出しそうになる口を、片手でふさいでいる。
そんな状況のなかで、英語の先生の言葉がギロチンのように落とされた。
「きみには英語のセンスがないねえ。」
ドッ!!!
堰を切ったように、教室は、トオルをバカにした笑い声であふれた。
立っているトオルに向けられる、あざけりをたたえた、目…目…目…
その視線は針のように、トオルの体を指しつらぬく。
人の視線が、物理的な痛みを伴うものだということを、トオルは初めて体験した。
翌日からトオルにあだ名がついた。
「キャッキャッキャッ、田舎っモンキー。」
廊下ですれ違う生徒が、トオルに向かって
そう呼びかける。この上ないあざわらいの表情で。
(田舎者のサルということか…)
それを聞いた女子生徒たちが、2、3人集まってはクックッ、とわらう。
トオルはとうとう学校に行けなくなった。
朝、母親が、トオルを起こしに来た時、頭が痛い、体が動かないと訴え、布団にもぐり込んだ。
翌日も…その翌日も…
「学校で、何かあったの?」
母親はやさしく聞いてくれた。
トオルは心に蓋をして、押さえていたガマンの感情が、涙とともに、ドッとあふれ、いじめを受けていたことを、一気に話した。
「そんな、ひどいことをされていたなんて…」
母親も、悲しみと困惑の表情を、涙とともに浮かべた。
その夜、母親と父親で、トオルのことについて話し合っているのを、トオルは隣の部屋の壁に耳をつけて聞いていた。
母親が提案した。
「いまの中学校より、通うのは遠くなるけれど、隣の学区の中学校に転校するのはどうかしら?」
父親がこたえた。
「そこでも同じようなことが起こったらどうする?今の子ども達は、学区を越えてLINEでつながりあっていると聞くぞ。」
「ではどうすれば…」
「トオルは勉強は好きな子だから、学校を少々休んでも、勉強はいずれ塾ででも取り戻せると思う。それより大切なのは、あの子の心の傷を癒すことだと思う。」
「しばらく休ませるのがいいってこと?」
「簡単に、結論がでるようなことではないからね。しばらく休ませて、トオルの気持ちが回復してゆけるか見守ってやる必要があるんじゃないだろうか?」
「そうね…」
~~~
トオルは体調が回復するまで学校を休んでいいよ、ということになったが、
母親に、
「生活のリズムは崩さないように、朝は起きて、いっしょに朝ごはんを食べましょう。」
と言われ、あまり食欲もないが、朝食のテーブルについた。
父親は、通勤に時間がかかるため、すでに家を出ており、母親と妹の結香とテーブルを囲む。
結香もトオルに気をつかっていて、べちゃべちゃ話しかけてはこない。結香の小学校のほうでは、いじめは起こっていないらしく、結香は小学校になじんでいけているようだ。
結香が出かけて、母親が食器を片付けだすと、トオルは別室に入る。
スマホを見ると、以前の中学校の友だちから、のんきなメッセージが届いていた。
トオルは、いじめを受けて、学校を休んでいることを伝える気にはなれず、適当な返事を返しておいた。
タブレットで好きなものを見たり、ゲームをしたり、音楽を聞いて過ごす。
学校から解放され、自分の好きな世界に浸れることはありがたかった。
しかし、ある日、ある物を見てしまった時から…
~~~
マンションの窓から景色を見ていて、ふと、下のほうにも目がいった。
マンションから歩道に接して、小さい交差点があり、信号がかわるたびに、タテヨコに自動車が行き来する。
その交差点の中に、一枚のポリ袋が落ちていた。
買い物を詰めて持つための、普通の白いポリ袋。しかし、今やそれは役目を失い、
交差点の中で、あちらへこちらへと、ふわりふわり、あてどもなく漂っている。
自動車が通る度に、その風圧で移動するが、いずれはどれかの自動車に、ひかれてしまうかもしれない。
トオルにはそのポリ袋が、いまの自分の姿と重なって感じられた。
中学校で、人から、あっちへこづかれ、こっちへこづかれし、行き場を失っている自分。
やがて、だれかにひかれて、本来の姿を失ってしまうかもしれない自分。
トオルは急に恐ろしくなり、布団につっぷして泣いた。
それからだ。そのポリ袋が、トオルが眠っている間の夢に出てくるようになったのは…
夢の中で、トオルは歩道から暗い交差点を見ている。
自動車が通る度に、白いポリ袋があちこちへ漂う。
トオルは、ポリ袋を交差点から救い出したいと思い、自動車が来ない隙を狙って、交差点の中へ入った。
ポリ袋に近づき、拾いあげる。
ホッとした瞬間、まばゆいヘッドライトがトオルを照らした。
自動車がすぐそこまで来ている。
ぶつかるのはまぬがれられない…
「ウワアーッ!!!」
トオルは大声を上げた。
ハッ、と気づけば、布団の上だった…
トオルの大声に、目を覚ました母親が、トオルが寝ている部屋のドアを細く開け、声をかけた。
「どうしたの?大丈夫?」
~~~
「お薬を飲めば、少しは気分が良くなるらしいのよ。」
ネットで調べたのか、朝食の席で母親がトオルに話しかけた。
夢の中で叫んだ日から、いっそう落ち込んでいるように見えるトオルを心配してのことだ。
ちなみに、トオルは夢の中の出来事を母親に話したので、例のポリ袋は、母親が拾いにゆき捨てた。
薬に効果があるのかないのかトオルにはわからなかったが、このままマンションにひきこもっていても何の前進もないのはわかる。
トオルは母親といっしょに、マンションからそう遠くないところにあるメンタルクリニックに行ってみることにした。
間口の狭いビルの4階にある、クリニックの中に入って、受付の女性に、母親が初診であることを告げると、クリニックに来た理由や病状を記入する紙を渡された。
トオルと母親とで話し合いながら、転校してきた中学校でいじめにあったことから、学校へ行けなくなったこと、自分がポリ袋のように思えて気持ちが沈んでいること、問診表に書ける限りぎっしり、母親が書き込んでくれた。
問診表を受付に渡し、他の患者さん達と共に待合室のソファーで待っていると、看護師が近づいてきて、先に母親だけ診察室に入るように言われ、トオルは待合室に残された。
20分くらいして母親が出てくると、入れ替わりにトオルが入るよう、うながされた。
スライド式のドアを横に引き、診察室に入り、医師の前の、グレーの丸椅子に座った。
髪の毛がバーコード状にはげている、メガネをかけて年配で気難しそうな感じの医師が、体は机に向けたまま、首だけひねってトオルを見据えた。
(あっ、またこの目だ…)
トオルがクラスの連中と、対峙したときに感じた目。目の底から冷たいものを発する目。
医師はそのまましゃべり出す。
「お母さんから詳しい事情は聞いたがね、君は、病気ではなくて、甘えだね。」
医師の言葉は、針になって、トオルの体を指しつらぬく。
(甘え…)
トオルは痛みに耐え、おし黙る。
医師は続けた。
「軽い安定剤と睡眠薬をだしておこう。自分がどうすべきか、よく考えなさい。」
母親と一緒に薬局で薬を受け取り、帰り道を並んで歩いた。
トオルから話を切り出した。
「お母さん、僕はさっきの先生から、甘えている、と言われた。僕は、甘えで学校に行けないんだろうか?」
「お母さんは甘えだとは思わないわ。お母さんが、トオルがクラスの人達からされたのと、同じ体験をしたら、お母さんも、怖くて学校に行けなくなると思うもの。ただ、今日の先生は、トオルが心の病気にかかっているわけではないと言いたかったのではないかしら?」
母親はいつも優しくて、トオルに理解を示してくれる。そのことには感謝しているが、今日の医師の言葉に対しては、トオルの心の中に、怒りとムカつきが渦まいて、それを表す言葉も見つからず、トオルはただくちびるを噛んだ。
~~~
バフッ!!!
トオルは怒りが押さえられなくなると、枕やクッションを、部屋の壁に投げつけるようになった。
無気力になって、ただただボーっとしている日があるかと思えば、怒りが湧いて、物にあたり散らす日がある。
そんなトオルのようすを見て、母親は最近、「不登校の親の会」のようなところに入ったらしい。電話でそのようなところの人らしき人と話しているのを聞いたし、そのようなところからの郵便物が届き始めたりしていた。
トオルが不登校になってから、半年が過ぎた。季節はふたたび春をむかえ、トオルの気持ちを置いてきぼりにしたままで、残酷なほど時は着実に流れる。
母親は、午後に時たま、買物以外の外出をするようになった。
「今日は帰るのが夕方になるから、おやつは冷蔵庫に菓子パンがあるから、お腹がすいたら食べてね。結香にもあげてね。」
トオルに言い残し、マンションのドアをパタンと閉める。
「不登校の親の会」の集まりだろうとトオルは思う。けれども母親は、トオルの心に負担をかけまいとしてのことだろう、出かける先のことは何も言わない。
そのことが、自分のせいで、母親に迷惑をかけているのだろうと、トオルを情けない気持ちにさせる。
学校には行けず、家にいても情けなく、以前の学校の友だちにはプライドが邪魔をして本当のことを伝えることができず、トオルはまるで、身動きが出来ない小さな檻に閉じ込められているようだった。
~~~
数日後の夕食時。
その日は珍しく、父親が定時で帰っていて、久しぶりに家族4人でテーブルを囲むことになった。
母親は、ホットプレートをテーブル中央に置き、
「今夜は焼き肉パーティよ。」
と、準備を始めた。
食べ盛りのトオルは、ひきこもっているとはいえ、久しぶりに、うれしいな、という感情が湧いた。父親も結香も同じように感じたらしい。母親を手伝って、肉と野菜を並べ、大皿にサラダを盛り、父親と母親には冷えたビール、トオルと結香はウーロン茶をもらって、自分の席に着いた。
肉と野菜が焼けるはしから、それぞれが取り分けて食べ、父親と母親には、ほどよくビールがまわり、舌もお腹も満足して、みんなで幸せにひたっていた時……母親がレジャーの話のように切りだした。
「トオル、ドライブに行かない?山の若葉がきれいな季節だし。」
「そうだよトオル。たまには外に出て、自然に触れないと。気分が良くなるよ。」
「お母さんね、知り合いの奥さんから、この近くにある素敵な場所を教えてもらったの。車で一時間くらいのところ。お母さんもとても行ってみたいの。」
母親と父親が申し合わせたように、すすめてくるものだから、トオルは、
「その場所って、不登校と関係のあるところなの?」
と、やや不安をいだきながら、尋ねた。
母親は、テへッ、やっぱり聞かれたわね、というような笑顔を浮かべ、
「病院ではあるんだけどね。前に行ったクリニックみたいにお薬を出す病院ではないの。先生とお話をしながら、心を楽にしてゆけるところなんですって。」
(ああ、たぶん、カウンセリングとかいうやつ…)
トオルは前に、クリニックで嫌な目にあってから、病院とか精神科医という人に、期待を抱かなくなっていたが、母親がトオルのために、いっしょうけんめい持って来てくれた情報だ。トオルの気持ちとしては、自分のためというよりも、母親の優しさに応えるために、行くだけいってみようかと思い、
「うん。まあ、行ってみるよ。」
と返事した。
~~~
「あ、見えて来た。トオル、あれが病院のようね。」
母親が運転するレンタカーが、登り坂のカーブを曲がったところで、母親が声を上げた。
助手席のシートに身体を沈めているトオルは、陰鬱な気分でフロントガラスの先を眺める。
新緑の山すそに抱かれるように、白い横長の長方形の建物が見えた。
ふたりは、今、母親の「知り合いの奥さんが教えてくれた素敵な病院」へと向かっている。
トオルは病院が近づいてくるにつれ、ゆううつさと緊張とが入り交じった気持ちが強くなってきたが、母親のほうは期待を感じる気持ちが強いらしい。こんなことを話しだした。
「今日、お会いする先生はね、日本各地のいろんな病院で、ひっぱりだこの先生だから、ここの病院に来られるのは金曜日だけなんですって。だから、この病院の患者さん達には、Dr.Friday、って呼ばれているんですって。」
(ドクター・フライディ?まるで、漫画かアニメの登場人物みたいな呼び名だな。)
トオルが思ううちにも、車はどんどん走り、まだ建物が遠くに見えるうちから、病院の敷地内に入ったらしい。道の両側は、雑木林から、きれいに刈り込まれたツツジに変わった。
赤や白やピンク色のツツジの花々が、競うように咲き誇っている様子は、まさに、今の季節でないと見られない。トオルは久しぶりに目にする花々に、緊張している心持ちの中にも、なんて美しいんだろう、と感じた。母親が知り合った奥さんが、この病院のことを「素敵」と言ったのは、うそや大げさではなかったんだな、とわかった。
母親は車の速度を落として、ツツジの花見をしながら、ゆるやかなカーブのある坂道を登った。やがて車は、大きな門柱のあいだを通って平たい場所に出た。
病院の建物の横に、10台ほどは停められる、駐車場の白線の枠があった。
たまにしか運転しない母親が、ハンドルを何度も切り返して、四苦八苦しながらようやく白線の中に車を入れた。
トオルは助手席から降り、ドアを閉めながら、病院の玄関口を見たとたん、
(えっ!)
と驚いた。
玄関口の上に掲げられていた病院名が、
「とちの実病院」。
地名でも人名でもなく、
「とちの実病院」。
(マジかよ~。とちの実病院でドクター・フライディの診察を受ける?アニメの世界じゃん…)
トオルはそう思いながらも、自分がアニメの世界に踏み込んで行くようで、少し、楽しさみたいな気持ちもわいてきた。
母親に、
「行きましょう。」
と、うながされ、トオルは母親から一歩遅れてついて行くかたちで、病院内に入った。
院内に入ると、この建物が、外からの見た目よりずっと古いことがわかった。
外壁はきれいに塗装し直してあるが、室内はほぼ木造だ。テレビで見たことのある、昔の小学校に似ていて、木材で貼られた床は、歩くとわずかにミシミシ音がする。ドアや窓枠も、木材のままだ。
この建物の年齢は、おそらく、トオルの年齢より3~4倍はするだろう。トオルは懐かしくも新しさを感じさせる室内に、ホッとする空気を感じた。
待合室の白いソファーには誰も座っていない。トオルが不思議そうな表情をしたのを見たのだろう、母親が、
「トオル、ここはね、完全予約制なの。午後の診察は2時からで、今日はトオルが午後の一番だから、他の患者さんはまだいないのよ。」
と、母親が説明した。
2時まであと十数分ある。
母親と並んでソファーに座っていると、母親が、
「トオルが学校に行けなくなった理由と、今の家での生活のことは、お母さんから先生に、手紙で伝えてあるから、呼び出しがあったらトオルが一人で先生に、会ってきなさいね。」
「えっ、お母さんは先生に会わないの?」
「ええ。先生からお母さんに電話でお返事があってね。これまでの事情はわかったから、初診の日にはトオル君一人で診察室に入っていただいていいですよ。と言われたから。早くからトオルに伝えたら、トオルが緊張して苦しくなるんじゃないかな、と、お母さん思って。でも大丈夫よ。とっても優しい先生だから。今日は先生とお知り合いになるだけで充分だから。緊張しないで、気楽にお会いして来なさい。」
トオルはそう聞かされて、緊張するなと言われても、以前に行ったクリニックの精神科医とは違って、今から会う先生は、カウンセリングとかトオルにとっては、生まれて初めてのことをするのであろうから、少し静まっていた心臓が、またドクン、ドクンと大きく脈を打ちはじめ、脈に合わせて緊張感が高まって来る。
これから2時までの10分ほどの待ち時間はトオルにとって、最も苦しく、また最も待ち遠しいという、混乱した待ち時間となった。
いよいよ運命の、呼び出し声が聞こえた。
「山崎トオル様、診察室にお入りくださ~い。」
トオルは自分にエイッ!と心の中でかけ声をかけ、立ち上がって診察室へと向かった。
~~~
看護師さんが、ドアノブを手前に引いて開けてくれたドアから、トオルは診察室に入った。
部屋の向こうの壁、入り口の正面にあたる
ところが、ちょうど窓になっていて、そこから午後の光が、部屋いっぱいに差し込み、明るく照らしだされている。
窓枠のそばの壁に横向きに、もたれかかるように、白衣の人物が立っていた。
逆光に浮かび上がる横顔のシルエットは、とても繊細で、胸の前で組んだ両腕、すその長い白衣に包まれた体の線は、すっきりと細い。
(女性の…先生?)
トオルは思った。
しかし、横顔から響いてきたその人の声は、以外に感じるほどの低音だった。
「山崎トオルくん、はじめまして。私が医師の鈴木です。」
(やっぱり男性の先生?)
トオルは戸惑いを感じながら、鈴木医師の言葉を聞いた。
「あなたのお母さんから、あなたは人の視線と目を合わせることに、苦痛を感じているようだ、と聞いています。ですから今日は、私はあなたと目を合わせないようにしますから、安心してください。まあ、その椅子に、お座りなさい。」
鈴木医師にそう言われ、トオルは自分の前に置いてある、椅子に歩み寄って腰かけた。
背もたれと肘掛けの部分が丸みをおびた曲線で、やわらかくて手触りのよい布が張られた木製の椅子だった。
鈴木医師は続けた。
「転校で、とても辛い経験をしたのですね。私もあなたの気持ちはわかるように思います。私の父も転勤の多い仕事で、私も何度か転校をしましたから。」
トオルの視野は、窓からの白い光に満たされて、そこへ鈴木医師の低い声が響いてくる。
「誰でも生きてゆく途中で、辛くて立ち止まってしまうことはあります。もしあなたが、今の状態の自分を、情けないとか、弱いとか思って、自分を責めているんだとしたら、そのように思う必要はどこにもないですよ。」
鈴木医師の言葉は、トオルのモヤモヤとして、いままで言葉にできなかった気持ちに、スッ、スッ、と入ってきて、トオルの心を代わりに表現してくれているように感じた。
「あなたは今、本来のあなたを見失っているように私には感じられます。私と一緒に、本来のあなたを探してみましょう。」
鈴木医師の言葉と共に、トオルの視界は、ますますまばゆい白い光に満たされ、いっぱいに広がっていった…
トオルがハッと気づくと、壁も窓も椅子も、診察室そのものも消えて、ただただ白い光に満ちている果てもないような空間に、鈴木医師と二人だけでいる。
鈴木医師が話しかけてくる。
「ほら、あれを見てください。」
鈴木医師が右腕をさしだしたほうに、トオルが顔を向けると、そこには、ラグビーボールほどの大きさの白い卵が何十個も、ギザギザの線を描きながら、トオルの足元まで並んでいる。
卵たちは全部、何かが孵化して出ていった後らしく、ヒビが入って殻が割れ、脱け殻だけをさらしている。
鈴木医師の声が響く。
「むこうの、卵の列の始まりのほうを見ていてください。」
鈴木医師が、そちらへ手のひらを向けて、スッと腕を動かすと、卵のひとつの殻の上に、残像のような映像が浮かび上がった。
(あれは…)
大きなランドセルを背負った、小さなトオルが、両手のひらを重ねて、そっと、何かを大切そうに、包み込んでいるのだった。
(あれは…小学生になって田んぼの間の道を歩いて通学するようになってから、稲の葉の上にいた小さなアマガエルを見つけて、初めて自分の手で捕まえた時の僕だ…)
「そう、あのアマガエルに初めて触れた時、あなたは、小さな生き物の美しさに、すばらしく魅了されましたね。」
(ああ、そうだ。あの鮮やかな黄緑色、キロキロした大きな両目、小さな鼻の穴に大きな口、よくできている吸盤のついたよっつの足…あの時は、アマガエルの姿に見とれてしまって、遅刻しそうになったっけ…)
「次は、もう少し成長した頃のあなたを見てみましょう。」
さっきの卵より少しトオルに近づいた殻の上に、また映像が浮かび上がった。
トオルと父親が、以前の家の近くの川で、タモ網を使って川魚を捕っている。
(あれは…小学4年生の夏休み、僕が宿題の自由研究で、川に住む魚を調べたいと言ったら、ひとりで川に入るのはあぶないからと、お父さんが一緒に行ってくれて、二人で魚を捕った…)
少し大きくなったトオルが、タモ網が川底につくようにしっかり持っているところへ、お父さんが川底の石を両手で持ち上げると、石の下に隠れていた魚がびっくりして網に飛び込んできたところをすくい上げた…捕れた魚は、お父さんのデジカメで素早く撮影してから、逃がしてやった…
(小さな魚だけではなく、カニやエビもいて楽しかった…デジカメからプリントした写真をもとに、川の魚や生物の生態を、図鑑で調べるのも面白かった…)
「ではさらに、現在に近づいたところにいるあなたを見てみましょう。」
鈴木医師が、さらに近くの殻に手をかざすと、川土手の道を、楽しそうに自転車で走るトオルの姿が浮かび上がった。
「小学6年生になったあなたは、体力もつき、お父さんと魚を捕った川を下ってゆくとどんなところに行き着くのかと、好奇心にかられ、日曜日にひとりで自転車に乗って、川に沿って下ってゆきましたね。そして岩場のあいだに砂浜が広がる、海岸までたどり着き、満足しました。」
(そうだった…あれからそれほど月日がたったわけではないのに、すっかり忘れてしまっていた…)
「あなたは海でも小さな生き物たちに興味をひかれ、岩にくっついているフジツボや、岩の割れ目にたくさんひっついた小さな巻き貝や、岩の上をすばしこく走り回るフナムシを見て、かれらの不思議な姿かたちに興味をひかれました。」
「こうして見てくると、あなたは小さな生き物の、小さな命とふれあうのが大好きで、小さな生き物を大切に思う、敏感な感受性を持っています。それはすばらしい長所です。」
「けれども今現在のあなたは、そうした自分の長所を見失っていたのではないでしょうか?」
鈴木医師に指摘され、トオルは自分の胸に手を当てて、小さな生き物が自分に与えてくれる大きな感動を思い出していた。
(そうだ、僕は小さくて不思議な生き物たちのことを、もっともっと知りたい。同じ地球に生きる、小さな命と交流したいんだ…)
トオルは鈴木医師の言葉によって、本来の自分を取り戻した。
「では今度は、こちら側を見てみましょう。」
鈴木医師が左腕をさしだしたほうに顔を向けたトオルは、そこに広がる光景に驚愕した。
!!!!!!!!!
そこには、右にも左にも真正面にも、真っ白な、割れていないきれいな卵たちが、地平線まで延々と、無限にあるかのように、びっしりと並んでいた!
「こちらはあなたの、未来の卵です。未来の可能性がつまっている卵です。」
鈴木医師が説明した。
「先生、僕の…僕の未来には、こんなにたくさんの、可能性があるんですか?」
トオルはおずおずとたずねた。
「そうですよ。あなたはどの卵でも選んで割ることができます。今現在のあなたは、過去の経験と未来の可能性とのはざまで立ち止まっているだけです。」
そして鈴木医師は、さらに言葉を続けた。
「トオルくん、あなたがこれから、あなたの未来の可能性に、足を踏み出してゆくのであれば、私は必ず、あなたのそばであなたを支えます。」
鈴木医師の言葉は、トオルにとって、神様が救いの手をさしのべてくれているように聞こえた。
鈴木医師が腕時計を見ながら言った。
「今日は時間がきたようです。来週また来ますか?」
「……はい。来ます。」
トオルは答えながら、そっと鈴木医師の目を見上げた。鈴木医師の視線はトオルのほうを向いていなかったが、その目の底にトオルが今まで会ってきたどの人にも感じたことがない、明るくて温かく、それでいて鋭い刃物のような強い光が満ちみちているのをトオルは見てとった。
そのとたん、トオルの足から一番近いところにあった未来の卵に、ピキピキとかすかな音をたてながらヒビが入り、てっぺんから静かに割れた…
~~~
診察室から出て来たトオルを見て、母親は立ち上がり、小走りに駆けよった。
「トオル、どうだった?」
「うん。鈴木先生と、来週も来ますと約束した。」
その返事を聞いた母親は、心底ほっとした表情になり、
「そう、それは良かったわ。じゃあお母さん、来週の予約と今日のお会計をしてくるわね。」
母親が受付カウンターのほうに行っている間、トオルはひとり、いましがた鈴木医師が見せてくれた、卵の世界のことを考えた。
(あの光景は、先生が僕に催眠術でもかけたのかな?それとも言葉で僕の頭の中に、あの光景を想像させたのかな?)
トオルにはわからなかったが、ただひとつ確かなのは、診察室に入る前の自分より、出て来た今の自分のほうが、ずっと前向きな心持ちになれていることだった。
~~~
「焦げ臭いッ!」
マンションのドアを開けるなり、母親が小さく叫び声を上げて、キッチンに駆け込んだ。
トオルも母親に続いてキッチンに入ると、そこにはニッコリと笑みをうかべた結香が立っていた。
「トオル兄ちゃん、お誕生日おめでとう!
わたし、バースデーケーキを作ったよ。」
テーブルの上に、大きなホットケーキを2枚重ねて、間にジャムをはさんだものがお皿にのっていた。そばには焼くのに使ったホットプレートが出ていた。
ホットケーキをひっくり返すタイミングが
遅れたのだろう、焦げているところがあった。
母親があわてて言った。
「あっ、今日はトオルの14歳の誕生日だったわね!ごめんなさいトオル、お母さん、今日、病院に行くことで頭がいっぱいで、うっかり忘れていたわ!」
トオルもあせって言った。
「気にしなくていいよ、お母さん。僕も自分のことなのに、すっかり忘れてたもん。」
「でも結香は、覚えていてくれたのね!」
「結香ありがとう。」「ありがとう。」
トオルと母親は声を揃えて、結香に感謝した。
結香はすこし得意そうな笑顔になった。
トオルは思った。
(結香は、僕が学校に行っていないことについて、何にも話したことはなかったけど、結香なりに、心配してくれていたんだ。去年まで僕の誕生日を家族で祝っていたのに、今年は僕自身を含めて忘れているようだから、結香はケーキを手作りしてくれたのだろう。)
「僕、お腹がすいたよ。バースデーケーキを食べようよ!」
トオルが言うと、
「じゃあ、お母さんが切り分けるわ。」
と、母親が言い、
「お母さん、お父さんのぶんは残しておいてね。」
と、結香が言う。
母親はケーキをきっちり4等分し、ひと切れは違うお皿に取って、
「お父さんのぶんね。」
と、結香に言いながら、ラップをかけた。
3人はケーキを置いたテーブルを囲み、それぞれのマグカップに、コーヒー牛乳を注ぎわけた。
トオルは結香が初めてひとりで、トオルのために焼いてくれた、ほのかに甘いケーキをほおばりながら、この経験は初めてのことだと気づいた。
トオルの頭の中に、鈴木医師が見せてくれた未来の卵がもうひとつ、ひび割れてゆき、殻が破れ、そこから結香の優しい笑顔が立ちのぼってくる映像が現れた。
トオルは、トオルを大切に思ってくれる家族と、そのおかげで出会えた鈴木医師のことを考えると、思わず、喜びの涙がこぼれだした。
「トオル兄ちゃん、泣いてるの?」
結香が心配そうに聞く。
「結香のケーキが美味しくて、感動しているんだよ。」
トオルは答えた。
もう日が暮れかけて、明かりを灯したマンションの部屋の窓は、久しぶりに訪れた、家族の幸福なひとときを、ビルが並ぶ街の景色のなかに、いつまでも、照らしだしているようだった…。
(了)
(第二話、第三話へ続きます。続いてお楽しみください。)
「お父さんが勤めている会社の、この県の支社は、今月で廃止されることになった。来月からは東京の本社に勤める。会社が住宅手当は出してくれるそうだから、家族みんなで東京に引っ越してほしい。」
「ええええええっ~!」
母親が、驚きの声をあげた。
兄で中学一年生のトオルは目を見開いてポカンとし、妹で小学四年生の結香(ゆか)は、お箸を口に入れたまま、固まった。
トオル達家族は、西日本のM県に住んでいる。父親も母親も、実家はM県内にあり、ふたりは、この地で知り合って恋愛し、結婚して家庭を作った。
父親も母親も、トオルも結香も、この地での生活が続いてゆくものと信じていた。
それが突然、ひっくり返ることになったのである。
「会社の業績が悪くてね、利益のでていないところの支社は、整理されるんだ。お父さんの同僚の中には、リストラになった人もいる。お父さんは、まだ雇ってもらえるだけありがたいことだと思う。」
母親が、おずおずと尋ねた。
「この県内の、同じ業種の他社に、転職することはできないの?」
父親が、にがりきった表情で答えた。
「今は、この業界全体が不況なんだ。募集をしている他社なんてないよ……」
父親の言葉を聞き、3人はだまりこくった。
この日の後も、トオルと結香は、東京へ行くという実感が持てずにいたが、数日の間に、母親が大量のダンボール箱に荷物を詰めはじめ、引っ越しの準備を始めたのを目の前にすると、「この地を離れるんだ」という覚悟のようなものを感じてきた。
トオル達が住んでいたのは、M県の中でも都市部ではなく、豊かな自然にあふれているところで、自然とふれあいながら、トオルは育ってきた。
小学校に入学。小学校まで1キロ。徒歩。
数人の友達とわいわい言いながら、田んぼの間の道を通学した。カエルを見つけたり、セミを見つけたりするのがトオル達の楽しみだった。
中学校に入学。中学校まで3キロ。自転車通学。
自転車でさっそうと風を切りながら、移り変わる四季の中で、トオルは成長してきた。
その生活が一変してしまうのだ。
友達とのあわただしい別れの挨拶。
「転校してもずっと友達だよ。」「LINEでいつでもやり取りできるよ。」「東京へ行って、面白いものがあったら教えてくれよ。」
みんな温かい言葉をかけてくれた。
あわただしい別れと引っ越しの後、トオル達の一家は、都心からは離れているが、以前とは全く違う環境の、ビルが立ち並ぶなかにある、小ぶりなマンションの一室に収まった。
転校初日。
まだこちらの中学校の制服が届いていないので、トオルは以前の中学校の制服で登校した。思い返せば、このことが、こちらの中学の生徒の目には、奇妙に写ってしまったのかもしれない。
先生の机の横にクラスの皆と向かいあって立つように担任の先生に言われ、担任の先生がトオルのことを転校生と紹介した。
先生が話している間、クラスの皆を見回したトオルは、おかしな感じを受けた。
(男子も女子も、目の底が冷たい……)
担任の先生から、トオルから皆に、一言あいさつを言うようにと言われ、トオルは言った。
「M県から来た山崎トオルです。よろしくお願いします。」
そしてトオルは自分の席に着いた。
いじめは翌日から始まった。
朝、トオルが教室に入ると、自分の机の中に、鼻をかんだ後のティッシュが、いくつも詰め込まれていた。
トオルは誰かの軽いいたずらだろうと思い、教室の後ろから、ゴミ入れを持ってきて捨てた。
その翌日。
今度は机の上に、チョークでぐるぐると、なぐり書きがされていた。
明らかに、悪意のある行為だ。
それでもトオルは、自分のティッシュペーパーを取り出し、きれいにふいて席に着いた。
そのまた翌日。
今度は、トオルの机と椅子が、教室の列からはずされ、教室のいちばん後ろに離されて置かれていた。
トオルは机と椅子を、元あった場所に、ひとりで運んで戻し、着席した。
その様子を、他の生徒は冷たい目でニヤニヤ笑いながら眺めていた。
こんなことが続くうちに、トオルの心身に異変が現れてきた。
声がうまく出なくなったのだ。
隣の席の生徒に話かけようと思っても、自分の口から出てくるのは、
「あっ、あの…あの…」
というふうで、いつまで待っても話が始まらないので、声をかけられた生徒も、何のことかわからず、そのうちそっぽを向かれてしまう。
そうした状態のなか、ことは起こった。
英語の授業で、先生がトオルに、英文の読みをするよう当てたのだ。
トオルは英語が不得意なわけではない。以前の学校では、中一相当にはできていた。
しかし、今は、声がうまく出ない。
それでもトオルは立ち上がり、指示されたところを読もうとした。
「Ca…キャ…Can…ユ…スピ…ッ……」
クラスのなかに、クスクス笑う声が広がっている。女子生徒は教科書に顔をうずめて笑いを隠し、男子生徒は吹き出しそうになる口を、片手でふさいでいる。
そんな状況のなかで、英語の先生の言葉がギロチンのように落とされた。
「きみには英語のセンスがないねえ。」
ドッ!!!
堰を切ったように、教室は、トオルをバカにした笑い声であふれた。
立っているトオルに向けられる、あざけりをたたえた、目…目…目…
その視線は針のように、トオルの体を指しつらぬく。
人の視線が、物理的な痛みを伴うものだということを、トオルは初めて体験した。
翌日からトオルにあだ名がついた。
「キャッキャッキャッ、田舎っモンキー。」
廊下ですれ違う生徒が、トオルに向かって
そう呼びかける。この上ないあざわらいの表情で。
(田舎者のサルということか…)
それを聞いた女子生徒たちが、2、3人集まってはクックッ、とわらう。
トオルはとうとう学校に行けなくなった。
朝、母親が、トオルを起こしに来た時、頭が痛い、体が動かないと訴え、布団にもぐり込んだ。
翌日も…その翌日も…
「学校で、何かあったの?」
母親はやさしく聞いてくれた。
トオルは心に蓋をして、押さえていたガマンの感情が、涙とともに、ドッとあふれ、いじめを受けていたことを、一気に話した。
「そんな、ひどいことをされていたなんて…」
母親も、悲しみと困惑の表情を、涙とともに浮かべた。
その夜、母親と父親で、トオルのことについて話し合っているのを、トオルは隣の部屋の壁に耳をつけて聞いていた。
母親が提案した。
「いまの中学校より、通うのは遠くなるけれど、隣の学区の中学校に転校するのはどうかしら?」
父親がこたえた。
「そこでも同じようなことが起こったらどうする?今の子ども達は、学区を越えてLINEでつながりあっていると聞くぞ。」
「ではどうすれば…」
「トオルは勉強は好きな子だから、学校を少々休んでも、勉強はいずれ塾ででも取り戻せると思う。それより大切なのは、あの子の心の傷を癒すことだと思う。」
「しばらく休ませるのがいいってこと?」
「簡単に、結論がでるようなことではないからね。しばらく休ませて、トオルの気持ちが回復してゆけるか見守ってやる必要があるんじゃないだろうか?」
「そうね…」
~~~
トオルは体調が回復するまで学校を休んでいいよ、ということになったが、
母親に、
「生活のリズムは崩さないように、朝は起きて、いっしょに朝ごはんを食べましょう。」
と言われ、あまり食欲もないが、朝食のテーブルについた。
父親は、通勤に時間がかかるため、すでに家を出ており、母親と妹の結香とテーブルを囲む。
結香もトオルに気をつかっていて、べちゃべちゃ話しかけてはこない。結香の小学校のほうでは、いじめは起こっていないらしく、結香は小学校になじんでいけているようだ。
結香が出かけて、母親が食器を片付けだすと、トオルは別室に入る。
スマホを見ると、以前の中学校の友だちから、のんきなメッセージが届いていた。
トオルは、いじめを受けて、学校を休んでいることを伝える気にはなれず、適当な返事を返しておいた。
タブレットで好きなものを見たり、ゲームをしたり、音楽を聞いて過ごす。
学校から解放され、自分の好きな世界に浸れることはありがたかった。
しかし、ある日、ある物を見てしまった時から…
~~~
マンションの窓から景色を見ていて、ふと、下のほうにも目がいった。
マンションから歩道に接して、小さい交差点があり、信号がかわるたびに、タテヨコに自動車が行き来する。
その交差点の中に、一枚のポリ袋が落ちていた。
買い物を詰めて持つための、普通の白いポリ袋。しかし、今やそれは役目を失い、
交差点の中で、あちらへこちらへと、ふわりふわり、あてどもなく漂っている。
自動車が通る度に、その風圧で移動するが、いずれはどれかの自動車に、ひかれてしまうかもしれない。
トオルにはそのポリ袋が、いまの自分の姿と重なって感じられた。
中学校で、人から、あっちへこづかれ、こっちへこづかれし、行き場を失っている自分。
やがて、だれかにひかれて、本来の姿を失ってしまうかもしれない自分。
トオルは急に恐ろしくなり、布団につっぷして泣いた。
それからだ。そのポリ袋が、トオルが眠っている間の夢に出てくるようになったのは…
夢の中で、トオルは歩道から暗い交差点を見ている。
自動車が通る度に、白いポリ袋があちこちへ漂う。
トオルは、ポリ袋を交差点から救い出したいと思い、自動車が来ない隙を狙って、交差点の中へ入った。
ポリ袋に近づき、拾いあげる。
ホッとした瞬間、まばゆいヘッドライトがトオルを照らした。
自動車がすぐそこまで来ている。
ぶつかるのはまぬがれられない…
「ウワアーッ!!!」
トオルは大声を上げた。
ハッ、と気づけば、布団の上だった…
トオルの大声に、目を覚ました母親が、トオルが寝ている部屋のドアを細く開け、声をかけた。
「どうしたの?大丈夫?」
~~~
「お薬を飲めば、少しは気分が良くなるらしいのよ。」
ネットで調べたのか、朝食の席で母親がトオルに話しかけた。
夢の中で叫んだ日から、いっそう落ち込んでいるように見えるトオルを心配してのことだ。
ちなみに、トオルは夢の中の出来事を母親に話したので、例のポリ袋は、母親が拾いにゆき捨てた。
薬に効果があるのかないのかトオルにはわからなかったが、このままマンションにひきこもっていても何の前進もないのはわかる。
トオルは母親といっしょに、マンションからそう遠くないところにあるメンタルクリニックに行ってみることにした。
間口の狭いビルの4階にある、クリニックの中に入って、受付の女性に、母親が初診であることを告げると、クリニックに来た理由や病状を記入する紙を渡された。
トオルと母親とで話し合いながら、転校してきた中学校でいじめにあったことから、学校へ行けなくなったこと、自分がポリ袋のように思えて気持ちが沈んでいること、問診表に書ける限りぎっしり、母親が書き込んでくれた。
問診表を受付に渡し、他の患者さん達と共に待合室のソファーで待っていると、看護師が近づいてきて、先に母親だけ診察室に入るように言われ、トオルは待合室に残された。
20分くらいして母親が出てくると、入れ替わりにトオルが入るよう、うながされた。
スライド式のドアを横に引き、診察室に入り、医師の前の、グレーの丸椅子に座った。
髪の毛がバーコード状にはげている、メガネをかけて年配で気難しそうな感じの医師が、体は机に向けたまま、首だけひねってトオルを見据えた。
(あっ、またこの目だ…)
トオルがクラスの連中と、対峙したときに感じた目。目の底から冷たいものを発する目。
医師はそのまましゃべり出す。
「お母さんから詳しい事情は聞いたがね、君は、病気ではなくて、甘えだね。」
医師の言葉は、針になって、トオルの体を指しつらぬく。
(甘え…)
トオルは痛みに耐え、おし黙る。
医師は続けた。
「軽い安定剤と睡眠薬をだしておこう。自分がどうすべきか、よく考えなさい。」
母親と一緒に薬局で薬を受け取り、帰り道を並んで歩いた。
トオルから話を切り出した。
「お母さん、僕はさっきの先生から、甘えている、と言われた。僕は、甘えで学校に行けないんだろうか?」
「お母さんは甘えだとは思わないわ。お母さんが、トオルがクラスの人達からされたのと、同じ体験をしたら、お母さんも、怖くて学校に行けなくなると思うもの。ただ、今日の先生は、トオルが心の病気にかかっているわけではないと言いたかったのではないかしら?」
母親はいつも優しくて、トオルに理解を示してくれる。そのことには感謝しているが、今日の医師の言葉に対しては、トオルの心の中に、怒りとムカつきが渦まいて、それを表す言葉も見つからず、トオルはただくちびるを噛んだ。
~~~
バフッ!!!
トオルは怒りが押さえられなくなると、枕やクッションを、部屋の壁に投げつけるようになった。
無気力になって、ただただボーっとしている日があるかと思えば、怒りが湧いて、物にあたり散らす日がある。
そんなトオルのようすを見て、母親は最近、「不登校の親の会」のようなところに入ったらしい。電話でそのようなところの人らしき人と話しているのを聞いたし、そのようなところからの郵便物が届き始めたりしていた。
トオルが不登校になってから、半年が過ぎた。季節はふたたび春をむかえ、トオルの気持ちを置いてきぼりにしたままで、残酷なほど時は着実に流れる。
母親は、午後に時たま、買物以外の外出をするようになった。
「今日は帰るのが夕方になるから、おやつは冷蔵庫に菓子パンがあるから、お腹がすいたら食べてね。結香にもあげてね。」
トオルに言い残し、マンションのドアをパタンと閉める。
「不登校の親の会」の集まりだろうとトオルは思う。けれども母親は、トオルの心に負担をかけまいとしてのことだろう、出かける先のことは何も言わない。
そのことが、自分のせいで、母親に迷惑をかけているのだろうと、トオルを情けない気持ちにさせる。
学校には行けず、家にいても情けなく、以前の学校の友だちにはプライドが邪魔をして本当のことを伝えることができず、トオルはまるで、身動きが出来ない小さな檻に閉じ込められているようだった。
~~~
数日後の夕食時。
その日は珍しく、父親が定時で帰っていて、久しぶりに家族4人でテーブルを囲むことになった。
母親は、ホットプレートをテーブル中央に置き、
「今夜は焼き肉パーティよ。」
と、準備を始めた。
食べ盛りのトオルは、ひきこもっているとはいえ、久しぶりに、うれしいな、という感情が湧いた。父親も結香も同じように感じたらしい。母親を手伝って、肉と野菜を並べ、大皿にサラダを盛り、父親と母親には冷えたビール、トオルと結香はウーロン茶をもらって、自分の席に着いた。
肉と野菜が焼けるはしから、それぞれが取り分けて食べ、父親と母親には、ほどよくビールがまわり、舌もお腹も満足して、みんなで幸せにひたっていた時……母親がレジャーの話のように切りだした。
「トオル、ドライブに行かない?山の若葉がきれいな季節だし。」
「そうだよトオル。たまには外に出て、自然に触れないと。気分が良くなるよ。」
「お母さんね、知り合いの奥さんから、この近くにある素敵な場所を教えてもらったの。車で一時間くらいのところ。お母さんもとても行ってみたいの。」
母親と父親が申し合わせたように、すすめてくるものだから、トオルは、
「その場所って、不登校と関係のあるところなの?」
と、やや不安をいだきながら、尋ねた。
母親は、テへッ、やっぱり聞かれたわね、というような笑顔を浮かべ、
「病院ではあるんだけどね。前に行ったクリニックみたいにお薬を出す病院ではないの。先生とお話をしながら、心を楽にしてゆけるところなんですって。」
(ああ、たぶん、カウンセリングとかいうやつ…)
トオルは前に、クリニックで嫌な目にあってから、病院とか精神科医という人に、期待を抱かなくなっていたが、母親がトオルのために、いっしょうけんめい持って来てくれた情報だ。トオルの気持ちとしては、自分のためというよりも、母親の優しさに応えるために、行くだけいってみようかと思い、
「うん。まあ、行ってみるよ。」
と返事した。
~~~
「あ、見えて来た。トオル、あれが病院のようね。」
母親が運転するレンタカーが、登り坂のカーブを曲がったところで、母親が声を上げた。
助手席のシートに身体を沈めているトオルは、陰鬱な気分でフロントガラスの先を眺める。
新緑の山すそに抱かれるように、白い横長の長方形の建物が見えた。
ふたりは、今、母親の「知り合いの奥さんが教えてくれた素敵な病院」へと向かっている。
トオルは病院が近づいてくるにつれ、ゆううつさと緊張とが入り交じった気持ちが強くなってきたが、母親のほうは期待を感じる気持ちが強いらしい。こんなことを話しだした。
「今日、お会いする先生はね、日本各地のいろんな病院で、ひっぱりだこの先生だから、ここの病院に来られるのは金曜日だけなんですって。だから、この病院の患者さん達には、Dr.Friday、って呼ばれているんですって。」
(ドクター・フライディ?まるで、漫画かアニメの登場人物みたいな呼び名だな。)
トオルが思ううちにも、車はどんどん走り、まだ建物が遠くに見えるうちから、病院の敷地内に入ったらしい。道の両側は、雑木林から、きれいに刈り込まれたツツジに変わった。
赤や白やピンク色のツツジの花々が、競うように咲き誇っている様子は、まさに、今の季節でないと見られない。トオルは久しぶりに目にする花々に、緊張している心持ちの中にも、なんて美しいんだろう、と感じた。母親が知り合った奥さんが、この病院のことを「素敵」と言ったのは、うそや大げさではなかったんだな、とわかった。
母親は車の速度を落として、ツツジの花見をしながら、ゆるやかなカーブのある坂道を登った。やがて車は、大きな門柱のあいだを通って平たい場所に出た。
病院の建物の横に、10台ほどは停められる、駐車場の白線の枠があった。
たまにしか運転しない母親が、ハンドルを何度も切り返して、四苦八苦しながらようやく白線の中に車を入れた。
トオルは助手席から降り、ドアを閉めながら、病院の玄関口を見たとたん、
(えっ!)
と驚いた。
玄関口の上に掲げられていた病院名が、
「とちの実病院」。
地名でも人名でもなく、
「とちの実病院」。
(マジかよ~。とちの実病院でドクター・フライディの診察を受ける?アニメの世界じゃん…)
トオルはそう思いながらも、自分がアニメの世界に踏み込んで行くようで、少し、楽しさみたいな気持ちもわいてきた。
母親に、
「行きましょう。」
と、うながされ、トオルは母親から一歩遅れてついて行くかたちで、病院内に入った。
院内に入ると、この建物が、外からの見た目よりずっと古いことがわかった。
外壁はきれいに塗装し直してあるが、室内はほぼ木造だ。テレビで見たことのある、昔の小学校に似ていて、木材で貼られた床は、歩くとわずかにミシミシ音がする。ドアや窓枠も、木材のままだ。
この建物の年齢は、おそらく、トオルの年齢より3~4倍はするだろう。トオルは懐かしくも新しさを感じさせる室内に、ホッとする空気を感じた。
待合室の白いソファーには誰も座っていない。トオルが不思議そうな表情をしたのを見たのだろう、母親が、
「トオル、ここはね、完全予約制なの。午後の診察は2時からで、今日はトオルが午後の一番だから、他の患者さんはまだいないのよ。」
と、母親が説明した。
2時まであと十数分ある。
母親と並んでソファーに座っていると、母親が、
「トオルが学校に行けなくなった理由と、今の家での生活のことは、お母さんから先生に、手紙で伝えてあるから、呼び出しがあったらトオルが一人で先生に、会ってきなさいね。」
「えっ、お母さんは先生に会わないの?」
「ええ。先生からお母さんに電話でお返事があってね。これまでの事情はわかったから、初診の日にはトオル君一人で診察室に入っていただいていいですよ。と言われたから。早くからトオルに伝えたら、トオルが緊張して苦しくなるんじゃないかな、と、お母さん思って。でも大丈夫よ。とっても優しい先生だから。今日は先生とお知り合いになるだけで充分だから。緊張しないで、気楽にお会いして来なさい。」
トオルはそう聞かされて、緊張するなと言われても、以前に行ったクリニックの精神科医とは違って、今から会う先生は、カウンセリングとかトオルにとっては、生まれて初めてのことをするのであろうから、少し静まっていた心臓が、またドクン、ドクンと大きく脈を打ちはじめ、脈に合わせて緊張感が高まって来る。
これから2時までの10分ほどの待ち時間はトオルにとって、最も苦しく、また最も待ち遠しいという、混乱した待ち時間となった。
いよいよ運命の、呼び出し声が聞こえた。
「山崎トオル様、診察室にお入りくださ~い。」
トオルは自分にエイッ!と心の中でかけ声をかけ、立ち上がって診察室へと向かった。
~~~
看護師さんが、ドアノブを手前に引いて開けてくれたドアから、トオルは診察室に入った。
部屋の向こうの壁、入り口の正面にあたる
ところが、ちょうど窓になっていて、そこから午後の光が、部屋いっぱいに差し込み、明るく照らしだされている。
窓枠のそばの壁に横向きに、もたれかかるように、白衣の人物が立っていた。
逆光に浮かび上がる横顔のシルエットは、とても繊細で、胸の前で組んだ両腕、すその長い白衣に包まれた体の線は、すっきりと細い。
(女性の…先生?)
トオルは思った。
しかし、横顔から響いてきたその人の声は、以外に感じるほどの低音だった。
「山崎トオルくん、はじめまして。私が医師の鈴木です。」
(やっぱり男性の先生?)
トオルは戸惑いを感じながら、鈴木医師の言葉を聞いた。
「あなたのお母さんから、あなたは人の視線と目を合わせることに、苦痛を感じているようだ、と聞いています。ですから今日は、私はあなたと目を合わせないようにしますから、安心してください。まあ、その椅子に、お座りなさい。」
鈴木医師にそう言われ、トオルは自分の前に置いてある、椅子に歩み寄って腰かけた。
背もたれと肘掛けの部分が丸みをおびた曲線で、やわらかくて手触りのよい布が張られた木製の椅子だった。
鈴木医師は続けた。
「転校で、とても辛い経験をしたのですね。私もあなたの気持ちはわかるように思います。私の父も転勤の多い仕事で、私も何度か転校をしましたから。」
トオルの視野は、窓からの白い光に満たされて、そこへ鈴木医師の低い声が響いてくる。
「誰でも生きてゆく途中で、辛くて立ち止まってしまうことはあります。もしあなたが、今の状態の自分を、情けないとか、弱いとか思って、自分を責めているんだとしたら、そのように思う必要はどこにもないですよ。」
鈴木医師の言葉は、トオルのモヤモヤとして、いままで言葉にできなかった気持ちに、スッ、スッ、と入ってきて、トオルの心を代わりに表現してくれているように感じた。
「あなたは今、本来のあなたを見失っているように私には感じられます。私と一緒に、本来のあなたを探してみましょう。」
鈴木医師の言葉と共に、トオルの視界は、ますますまばゆい白い光に満たされ、いっぱいに広がっていった…
トオルがハッと気づくと、壁も窓も椅子も、診察室そのものも消えて、ただただ白い光に満ちている果てもないような空間に、鈴木医師と二人だけでいる。
鈴木医師が話しかけてくる。
「ほら、あれを見てください。」
鈴木医師が右腕をさしだしたほうに、トオルが顔を向けると、そこには、ラグビーボールほどの大きさの白い卵が何十個も、ギザギザの線を描きながら、トオルの足元まで並んでいる。
卵たちは全部、何かが孵化して出ていった後らしく、ヒビが入って殻が割れ、脱け殻だけをさらしている。
鈴木医師の声が響く。
「むこうの、卵の列の始まりのほうを見ていてください。」
鈴木医師が、そちらへ手のひらを向けて、スッと腕を動かすと、卵のひとつの殻の上に、残像のような映像が浮かび上がった。
(あれは…)
大きなランドセルを背負った、小さなトオルが、両手のひらを重ねて、そっと、何かを大切そうに、包み込んでいるのだった。
(あれは…小学生になって田んぼの間の道を歩いて通学するようになってから、稲の葉の上にいた小さなアマガエルを見つけて、初めて自分の手で捕まえた時の僕だ…)
「そう、あのアマガエルに初めて触れた時、あなたは、小さな生き物の美しさに、すばらしく魅了されましたね。」
(ああ、そうだ。あの鮮やかな黄緑色、キロキロした大きな両目、小さな鼻の穴に大きな口、よくできている吸盤のついたよっつの足…あの時は、アマガエルの姿に見とれてしまって、遅刻しそうになったっけ…)
「次は、もう少し成長した頃のあなたを見てみましょう。」
さっきの卵より少しトオルに近づいた殻の上に、また映像が浮かび上がった。
トオルと父親が、以前の家の近くの川で、タモ網を使って川魚を捕っている。
(あれは…小学4年生の夏休み、僕が宿題の自由研究で、川に住む魚を調べたいと言ったら、ひとりで川に入るのはあぶないからと、お父さんが一緒に行ってくれて、二人で魚を捕った…)
少し大きくなったトオルが、タモ網が川底につくようにしっかり持っているところへ、お父さんが川底の石を両手で持ち上げると、石の下に隠れていた魚がびっくりして網に飛び込んできたところをすくい上げた…捕れた魚は、お父さんのデジカメで素早く撮影してから、逃がしてやった…
(小さな魚だけではなく、カニやエビもいて楽しかった…デジカメからプリントした写真をもとに、川の魚や生物の生態を、図鑑で調べるのも面白かった…)
「ではさらに、現在に近づいたところにいるあなたを見てみましょう。」
鈴木医師が、さらに近くの殻に手をかざすと、川土手の道を、楽しそうに自転車で走るトオルの姿が浮かび上がった。
「小学6年生になったあなたは、体力もつき、お父さんと魚を捕った川を下ってゆくとどんなところに行き着くのかと、好奇心にかられ、日曜日にひとりで自転車に乗って、川に沿って下ってゆきましたね。そして岩場のあいだに砂浜が広がる、海岸までたどり着き、満足しました。」
(そうだった…あれからそれほど月日がたったわけではないのに、すっかり忘れてしまっていた…)
「あなたは海でも小さな生き物たちに興味をひかれ、岩にくっついているフジツボや、岩の割れ目にたくさんひっついた小さな巻き貝や、岩の上をすばしこく走り回るフナムシを見て、かれらの不思議な姿かたちに興味をひかれました。」
「こうして見てくると、あなたは小さな生き物の、小さな命とふれあうのが大好きで、小さな生き物を大切に思う、敏感な感受性を持っています。それはすばらしい長所です。」
「けれども今現在のあなたは、そうした自分の長所を見失っていたのではないでしょうか?」
鈴木医師に指摘され、トオルは自分の胸に手を当てて、小さな生き物が自分に与えてくれる大きな感動を思い出していた。
(そうだ、僕は小さくて不思議な生き物たちのことを、もっともっと知りたい。同じ地球に生きる、小さな命と交流したいんだ…)
トオルは鈴木医師の言葉によって、本来の自分を取り戻した。
「では今度は、こちら側を見てみましょう。」
鈴木医師が左腕をさしだしたほうに顔を向けたトオルは、そこに広がる光景に驚愕した。
!!!!!!!!!
そこには、右にも左にも真正面にも、真っ白な、割れていないきれいな卵たちが、地平線まで延々と、無限にあるかのように、びっしりと並んでいた!
「こちらはあなたの、未来の卵です。未来の可能性がつまっている卵です。」
鈴木医師が説明した。
「先生、僕の…僕の未来には、こんなにたくさんの、可能性があるんですか?」
トオルはおずおずとたずねた。
「そうですよ。あなたはどの卵でも選んで割ることができます。今現在のあなたは、過去の経験と未来の可能性とのはざまで立ち止まっているだけです。」
そして鈴木医師は、さらに言葉を続けた。
「トオルくん、あなたがこれから、あなたの未来の可能性に、足を踏み出してゆくのであれば、私は必ず、あなたのそばであなたを支えます。」
鈴木医師の言葉は、トオルにとって、神様が救いの手をさしのべてくれているように聞こえた。
鈴木医師が腕時計を見ながら言った。
「今日は時間がきたようです。来週また来ますか?」
「……はい。来ます。」
トオルは答えながら、そっと鈴木医師の目を見上げた。鈴木医師の視線はトオルのほうを向いていなかったが、その目の底にトオルが今まで会ってきたどの人にも感じたことがない、明るくて温かく、それでいて鋭い刃物のような強い光が満ちみちているのをトオルは見てとった。
そのとたん、トオルの足から一番近いところにあった未来の卵に、ピキピキとかすかな音をたてながらヒビが入り、てっぺんから静かに割れた…
~~~
診察室から出て来たトオルを見て、母親は立ち上がり、小走りに駆けよった。
「トオル、どうだった?」
「うん。鈴木先生と、来週も来ますと約束した。」
その返事を聞いた母親は、心底ほっとした表情になり、
「そう、それは良かったわ。じゃあお母さん、来週の予約と今日のお会計をしてくるわね。」
母親が受付カウンターのほうに行っている間、トオルはひとり、いましがた鈴木医師が見せてくれた、卵の世界のことを考えた。
(あの光景は、先生が僕に催眠術でもかけたのかな?それとも言葉で僕の頭の中に、あの光景を想像させたのかな?)
トオルにはわからなかったが、ただひとつ確かなのは、診察室に入る前の自分より、出て来た今の自分のほうが、ずっと前向きな心持ちになれていることだった。
~~~
「焦げ臭いッ!」
マンションのドアを開けるなり、母親が小さく叫び声を上げて、キッチンに駆け込んだ。
トオルも母親に続いてキッチンに入ると、そこにはニッコリと笑みをうかべた結香が立っていた。
「トオル兄ちゃん、お誕生日おめでとう!
わたし、バースデーケーキを作ったよ。」
テーブルの上に、大きなホットケーキを2枚重ねて、間にジャムをはさんだものがお皿にのっていた。そばには焼くのに使ったホットプレートが出ていた。
ホットケーキをひっくり返すタイミングが
遅れたのだろう、焦げているところがあった。
母親があわてて言った。
「あっ、今日はトオルの14歳の誕生日だったわね!ごめんなさいトオル、お母さん、今日、病院に行くことで頭がいっぱいで、うっかり忘れていたわ!」
トオルもあせって言った。
「気にしなくていいよ、お母さん。僕も自分のことなのに、すっかり忘れてたもん。」
「でも結香は、覚えていてくれたのね!」
「結香ありがとう。」「ありがとう。」
トオルと母親は声を揃えて、結香に感謝した。
結香はすこし得意そうな笑顔になった。
トオルは思った。
(結香は、僕が学校に行っていないことについて、何にも話したことはなかったけど、結香なりに、心配してくれていたんだ。去年まで僕の誕生日を家族で祝っていたのに、今年は僕自身を含めて忘れているようだから、結香はケーキを手作りしてくれたのだろう。)
「僕、お腹がすいたよ。バースデーケーキを食べようよ!」
トオルが言うと、
「じゃあ、お母さんが切り分けるわ。」
と、母親が言い、
「お母さん、お父さんのぶんは残しておいてね。」
と、結香が言う。
母親はケーキをきっちり4等分し、ひと切れは違うお皿に取って、
「お父さんのぶんね。」
と、結香に言いながら、ラップをかけた。
3人はケーキを置いたテーブルを囲み、それぞれのマグカップに、コーヒー牛乳を注ぎわけた。
トオルは結香が初めてひとりで、トオルのために焼いてくれた、ほのかに甘いケーキをほおばりながら、この経験は初めてのことだと気づいた。
トオルの頭の中に、鈴木医師が見せてくれた未来の卵がもうひとつ、ひび割れてゆき、殻が破れ、そこから結香の優しい笑顔が立ちのぼってくる映像が現れた。
トオルは、トオルを大切に思ってくれる家族と、そのおかげで出会えた鈴木医師のことを考えると、思わず、喜びの涙がこぼれだした。
「トオル兄ちゃん、泣いてるの?」
結香が心配そうに聞く。
「結香のケーキが美味しくて、感動しているんだよ。」
トオルは答えた。
もう日が暮れかけて、明かりを灯したマンションの部屋の窓は、久しぶりに訪れた、家族の幸福なひとときを、ビルが並ぶ街の景色のなかに、いつまでも、照らしだしているようだった…。
(了)
(第二話、第三話へ続きます。続いてお楽しみください。)
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