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第一話

真夜中の回診

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私がかつて、中小企業でOLをしていた時の話です。

当時の会社は、目が回るほどの忙しさで、私は残業と休日出勤を重ねていました。

そんな生活が3ヶ月も続いた頃、私は頭の中が真っ白になり、仕事をしようにも、何も考えられなくなってしまったのです。

経験のない人には、理解しづらいと思いますが、日本語の文字の羅列を見ても、目には見えているにもかかわらず、それが言葉として認識できず、意味がわからなくなってしまったのです。

たとえるなら、自分が知らない外国語の文章を、ながめている時と似ているでしょうか。

こうして、仕事ができなくなった私は、休職を取り、初めての、精神科を受診することになりました。

私の症状を聞いた医師は、鬱病(うつびょう)と診断し、抗うつ薬を処方してくれました。

自宅で療養、といっても、ただ横になっているだけなのですが、こうしている間にも、他の人達は着々と進歩しているのだと思うと、私は置いていかれているのだという不安感に押しつぶされ、不安から逃れるためにオーバードーズをしてしまいました……



ーー



気がつくと、病院の白い天井が目に写っています。腕にさされた注射針は、点滴につながれ、ベッドに寝かせられている自分に気づきました。

私が目を覚まして、ベッドの上で体をもぞもぞ動かしはじめたのに気づいた看護師さんが、そばまで来て、オーバードーズをした私が、意識不明の状態で、救急車でこの病院に運びこまれたのよ、と話してくれました。

おそらく、オーバードーズした後の、からになった薬のシートをたくさん散らかしたまま、意識不明になっている私に、母が気づいて、救急車を呼んだのでしょう。

こうして入院になった私は、家や会社から
完全に隔離され、自分勝手なことのできない状態に置かれ、治療に専念するしかなくなりました。



脳がとても疲れていたのと、薬が効いていたのでしょう、10日間くらいは昼も夜も眠り続けていました。食事の時間だけ看護師さんに起こされて、食べました。

深くなったり浅くなったりする眠りのなかで、私は夢かうつつか不思議な音を聞いていました。

コツッ、ズッ、コツッ、 コツッ、ズッ、コツッ、……

その音は近くに来たり、遠ざかったりしながら、繰り返し聞こえていましたが、この時は、疲れた脳が発しているノイズなのだと思っていました。

眠り続けた期間が過ぎると、少しずつ、昼間に起きていられる時間ができてきました。

そんな時には、私は、病棟の真ん中にある談話スペースに行くようになりました。

そこは大きな楕円形のテーブルのまわりを椅子やソファーが囲み、テレビも置いてあり、おしゃべりしたり、テレビを見たり、本やマンガを読んだりして、自由に過ごせるスペースです。

大人になっても、ぼっち傾向の性格で、他の患者さん達とおしゃべりするのを苦手に感じていた私は、そこで、マンガを読んで過ごしていたのですが、ある時、年配の患者さんがふたりで話していることが、耳に入ってきました。

「前の院長先生が亡くなられてから、どれくらいたったかのう?」
「う~ん、かれこれ10年くらいは、たったんじゃなかろうか。」
「わたしは、具合が悪かった時に、前の院長先生にやさしく言葉をかけてもらったことが忘れられんのじゃ。」
「うん、今の院長先生もやさしいが、前の院長先生には、ほんまにお世話になったよの。」
「ガンにかかられて、ガンが足に転移して、片足を切断されて、義足になっても、杖をついて回診に来られよったよの。あのお姿は忘れられんの。」


そうなんだ…そんな院長先生がいたんだ…
この病院は、ひとつの医師の家系を中心に設立され運営されていることは知っていたけど、私の担当医でもある、現在の院長先生のお父さんは、そのような先生だったんだ…

ふたりの患者さん達の話から、前の院長先生が、年配の患者さんたちの心の中に生き続けておられることを知りました。


そんなある日の、夜のことです。

その頃には、救急車で運びこまれた時の、ナースステーションのすぐそばの部屋から、ベッドが3つある少し離れた部屋に、移動していたのですが、就寝時間になると、みんな自分のベッドに入って、カーテンをひきめぐらして眠ります。

30分前に、睡眠薬を看護師さんから渡されてのんでいることもあって、これまでは夢を見ることもなく、朝までぐっすり眠れていました。

ところがこの夜、私は夢なのか本当なのかわからない、不思議な体験をしました。

夜中に、ふと目が覚めて、暗がりの中で横になっていると、カーテンが不意に揺れ、そのあたりから声が聞こえました。

「あなたは真面目な性格だから、仕事を自分の責任でやり遂げなくてはという思いが強すぎて、鬱病を発症したのですよ。これからは、物事を無理なく、ほどほどにする、という生き方も身につけなければいけませんよ。自分を大切にしなさい。」

その声は、深く、やさしい奥行きのある年配の男性の声でした。

朝になって再び目覚め、夜中に聞いた声は、夢だったのかな、何だったのかなと、ベッドに腰掛けて考えていると、隣のベッドの渡辺さんが、笑顔で話しかけてきました。

「ゆうべ、あなたのところへ古先生(ふるせんせい·前の院長先生のもうひとつの呼び名)が来られたみたいでしたね。」

「えっ、渡辺さんも、夜中に声を聞かれたんですか?」

渡辺さんは、うなずきながら、
「新しい患者さんが入院してくると、古先生は必ずと言っていいほど見に来られますから。お亡くなりになっても、病院のことを気にかけておられるのでしょう。」

(えっ、えっ、ええええっ!
それって、前の院長先生の幽霊がおられるっていうこと?)

驚きで声がでない私に、あいまいな笑顔を残して、渡辺さんは洗面所に行ってしまいました。

昨夜、聞いた声に、こわさは感じませんでしたが、このような体験は、私にとっては生まれて初めてのことだったので、驚きのあまり、しばらく動けなくなりました。

(渡辺さんの話のようすでは、前の院長先生の幽霊がでるというのは、知っている人にとっては、当たり前のことみたいになっているの?そんなことってあるものなの?)

私の頭の中は、ぐるぐると混乱していましたが、やがて、ひとつの結論に達し、決心しました。

(昨夜、夜中に聞いた声が、本当に前の院長先生の声なのかどうか、あいまいなままにしたくない。前の院長先生の幽霊が本当にいるのかどうか、確かめよう。)

私は、頭が疲れやすいくせに、気になったことは、とことん追求しないと、気がすまない性格なのです。



ーー



その夜から、私は就寝時間にベッドに入っても、眠らずに夜中まで起きていてみようと意識して、がんばり始めました。

でも、就寝時間の前に、睡眠薬を服用しているせいで、いつの間にか眠ってしまっています。朝、目が覚めて、

(あ~っ!昨夜も起きていられなかった!)

という日が続いた後、私は起きているために、あることをするしかないと思いました。

「朝食後」「昼食後」「夕食後」「寝る前」に飲む薬は、決まった時間に、水を入れた自分のコップを持って、ナースステーションに行き、看護師さんから患者へ、ひとりずつ、その人に処方された薬を渡されて、看護師さんの目の前で飲み干すことになっています。「寝る前」の時、睡眠薬を飲まないようにできないかと私は考えたわけです。

その日も、「寝る前」の薬を飲む時間が来ました。患者はナースステーションの前に一列にならび、自分の薬を受け取っては、その場で飲み干して、自分の部屋へ帰ります。

私の順番が来ました。私は看護師さんから、いくつかの錠剤が入った透明な袋を受け取ると、錠剤を口に入れる時に、舌の上ではなく舌の下に入れました。そうして少し水を飲んで、口を閉じたまま、部屋に帰りました。

自分のベッドに入ってカーテンを引き、その中で、舌の下から錠剤をティッシュペーパーに吐き出しました。睡眠薬をふくんだ錠剤が出てきました。

(しめしめ、これで今夜は起きていられるぞ…)

ベッドに横になった私は、夜がふけるのを待ちました。




廊下の非常灯がドアの下のすき間から、もれて入ってくるだけの暗闇の中、どれくらい時間が過ぎたでしょうか。

私はかすかな音を、遠くに聞きました。

コツッ、ズッ、コツッ、 コツッ、ズッ、コツッ、……

音は、病室の外の廊下から聞こえてきます。

(あれっ、この音って…)

そう、私が入院したてで眠り続けていた時に、眠りの合間に聞いていた音でした。

私の頭の中で、ふたつのことがらが、バチッとつながりました。

ひとつ、前の院長先生は、片足を切断されて義足と杖を使って歩いておられたこと。

ふたつ、前の院長先生は、新しく入院してきた患者のところへ、現れること。


私が入院して眠ってばかりだった時から、前の院長先生は様子を見に来られていたんだ…

私の心の中は、気にかけていただいて、ありがたい、うれしい、という気持ちでいっぱいになりました。

そう思っている間にも、足音は時々止まりながら、この病室に近づいて来ます。

いよいよこの病室の前で足音が止まり、扉が開く音がしました。

ベッドのまわりにカーテンをめぐらせているので、ベッドの外は見えませんが、足音はドアのところで止まり、様子をうかがっている気配がしました。

今日は、足音は病室の中には入って来ずに、やがてドアが閉まり、足音が遠のいてゆきはじめました。

私は、気にかけていただいて、声をかけていただいたお礼の気持ちを伝えたくて、カーテンの間から、そっと床に降り、ドアに向かいました。


そうっとドアを開け、廊下に出た私は、白衣に杖をついた、後ろ姿を見ました。

「先生、私が入院してから、いつも診ていただき、心配していただいて、ありがとうございます。」

私は後ろ姿に声をかけました。

先生の歩みが止まり、杖で支えられた体が、私のほうへ振り返りました。

今の院長先生に似た、やさしい笑顔が、私の目に写りました。

相手は幽霊なのだというこわさやおそれの気持ちは、私の心に、まったく湧いてきませんでした。

「ああ、あなたね、溝口さんでしたかね、あなたは、あと一週間くらいで退院できますよ。自分を大切にね。」


薄暗い非常灯に照らされた空間で、この世とあの世の、中間におられるのだろう先生の姿は、少しずつ空間に解けてゆくように薄くなり、やがて、すっかり消えました。



桜が咲くのが待ち遠しい、おぼろ月夜の夜の出来事でした……




(了)
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