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一.

押し売り招き猫

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朝倉了二(あさくらりょうじ)は急いでいた。

電車から一番早く降りると、駅のホームの階段を、二段飛ばしで駆け上がり、線路をまたぐ通路を一目散に出口へ向かう。駅を出て近くにある福祉会館の前で、朝10時から、生活困窮者のための、無料のお弁当と食品の配布があるのだ。

世界を覆う感染症の中、人々の自由な往来も、旅行も、集まっての飲食も、酒宴も自粛か制限をされ、またたく間に社会は変わってしまった。

了二は30才の直前に派遣切りにあい、給料を得るすべを失った。了二は広告やWEBのデザインと制作を学ぶ専門学校を卒業した時、一般企業の正社員採用の枠に入れなかったため、人材派遣会社にデザインの技術職として登録し、そこから、全国的にも名が知れた、上場企業の支社に派遣されて働いていたが、感染防止のために旅行や飲食やイベントが制限されると、それらに関する広告、広報の仕事は皆無となった。仕事が取れないとなると、了二のような派遣社員は「いったんお辞めください。」と言われるところとなった。

それでも了二は最初は楽観的に考えていた。この業界での自分の能力にはかなりの自信があったし、貯金も多少ある。失業保険の給付を受けているうちに、新しい勤め先は見つかるだろう。派遣元の会社も新しい派遣先を見つけなければ会社が成り立たたないのだし、この感染症もそのうちにおさまるだろう。

しかし現実は、了二の期待を裏切った。

いつまでも終わらない感染症。それに伴い続く旅行や飲食の自粛。派遣元の会社から新しい派遣先の紹介はなく、個人で仕事を受ける副業アプリにも登録してみたが、こちらも今のところ無しのつぶて。余裕と考えていた貯金と失業保険も底が見えてきて、了二はあせった。

そんなところへ昨日「NPO法人が午前10時から、福祉会館前で無料のお弁当配布と食品配布を始めた」というニュース配信が了二のスマホに入り、ともかくこれにあずかろう、という気持ちでアパートからここまで来たのだ。

急ぐ了二の耳に、
「そこのグレーのナイキのパーカーを着た兄ちゃん !」
という声が追いかけて来たが、了二は自分に呼びかけられているとは露ほども思わず、雑踏の中をひたすら進んでいた。

とうとう声のぬしが、了二の右手首をつかんだ。

「なっ、何をするんですか!」
了二は反射的に振り向くと同時に、腕を振りはらった。

「すまん、すまん。兄ちゃんに、どうしても用があってのー。」

そこに立っていたのは、バリカン刈りの白髪頭に紺色の作務衣を着た、背の低い70代くらいのじいさんで、なぜかニヤニヤ目じりを下げながら、了二を見上げている。

じいさんは、自分の背中に回していた右手を了二の目の高さに持ってきながら、右手に握っている物を見せた。

「この子が兄ちゃんのところへ行きたいと言うたんや。」

じいさんが「この子」と呼んだのは、ちょうど手のひらに乗るほどの大きさの、磁器でできた「招き猫」だった。

「有田焼の猫やで。」

「すみませんが、僕、焼き物に興味ないんで。それに急いでるんで。」

了二はじいさんから離れようとした。
しかし、じいさんはすかさず声をかけた。

「兄ちゃん、今、金(カネ)に困っとるじゃろ?この猫を手に入れたら、金が集まってくるようになるで!」

了二は考えた。このじいさんは、詐欺師だ。誰かれかまわず声をかけては「招き猫」を高額で売りつけるに違いない。

「そんなの要らないんで。じゃ。」
了二はじいさんを振りきって逃げようとしたが、じいさんが次に発した言葉にぎくりとした。

「兄ちゃん、今から福祉会館前の食品配布に行くんやろ? それと、今、財布に千円札一枚と10円玉3枚しか入っとらんやろ?交通系ICカードはこの駅の改札を出たらチャージせんと帰りの額はもうないやろ?」

どうしてこのじいさんに、それがわかるんだ?
福祉会館前の食品配布のことは、広く報道されていることだから、当てずっぽうということもある。しかし、俺のショルダーの中の財布の中の小銭の数まで当てるのは、ほぼ不可能だ。ましてや交通系ICカードなんて、なおさらだ。このじいさん、透視能力でもあるのか?

「今言ったことは、この子がわしに教えてくれたんや。不思議やろうけど、ほんまやろ。そして、この子が兄ちゃんとこに行きたいと言いよるんや。」

そこまで言われると、了二はあらためて「招き猫」を見ざるをえなくなった。15cmほどの高さの三毛猫が、ぱっちりしたかわいい目をして、了二を見つめている。

じいさんは話を続けた。
「この猫が焼かれたのは明治時代での。有田の陶工で陶士朗(とうじろう)という男がこしらえたんや。三毛猫や黒猫や茶色の猫やら、数体しかこしらえなんだ。陶士朗は遺言状を残しとっての。この猫らは持ち主に金運をもたらすが、必ず猫自身が選んだ人に売るように。と書いてあった。そして、明治、大正、昭和、平成の間に、数十人もの持ち主の元をこの猫は渡りあるいたが、どの人も金に困らん身の上になったよ。」

了二は招き猫に、少し興味を感じてきたが、まだまだ疑いの気持ちの塊だった。

「そんなに都合のいい猫なら、おじいさん自身が持ち続けていれば、いいじゃないですか?」

「わしも儲けさせてもらようるよ。今日は有田や美濃や、九谷を持って、ここに出店して、売らしてもらようる。」

じいさんは、自分の背後にある台を指差した。

そこには、会議用テーブルひとつくらいの大きさの台の上に、さまざまな陶磁器が並べてある。骨董風の細やかな絵付けのものから、シンプルなデザインの、和モダンを感じさせるものまでいろいろあった。陶磁器については全く知らない了二も、デザインについては専門家だから、そこにある陶磁器が、プロの作り手が工夫をこらして作り上げた作品だということはわかった。それを見ると、このじいさんが、あながち詐欺師ではないような気がしてきた。

「わしの仕事は小売りや。この子ら(左手のひらで陶磁器のほうをなでるような仕草をしながら)を、最も必要としとる人に届けるのが仕事や。せやから、この猫を兄ちゃんに届けようとしてるんや。」

「そんなこと言って、高額な値段で売り付けようとするんでしょう?」
了二はストレートに尋ねた。

じいさんは猫の顔を自分の顔と向かい合わせ、口の中でごにょごにょつぶやいていたが、やがて了二の顔を見上げて、言った。

「税込860円。」

「何ですか、その半端に安い値段は?」

「この猫が言うんや。兄ちゃん今、1030円しか持ってなくて、この駅から帰りの電車賃が170円かかるから、860円しかもらえんて。」

帰りの電車賃まで見ぬかれてはしかたがない。それに、ここで860円払ったからといって、人生が詰むというほどではない。

こういうわけで、860円と引き替えに、小さな「招き猫」が了二のショルダーバックの中に収まったのだった。
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