1 / 1
「壇ノ浦」より~転生~
しおりを挟む
「安徳天皇、ご入水(じゅすい) !」
響いた声のあるじは、平 知盛 公のようであった。
それまで源氏の兵を、天皇の御船に近づけまいと、御船を取り囲む船上で、必死で食い止め戦っていた平家の武者達のあいだに、ぷつんと糸が切れた空気が漂い、平家は総崩れとなった。
ある者は源氏の兵に切られ、ある者は、自身も天皇を追うように海に飛び込み、ある者は、守るべきよすがを失い、船から船へと飛び移りながら、源氏の兵から逃げた。
二位の尼と安徳天皇のおそばにいた、女房(身分の高い人のお世話係)のひとりは、いましがた、二位の尼が孫にあたる安徳天皇を抱いて、船縁から海中に落ちてゆかれたお姿に、ただただ呆然とし、御船の上に座り込んでしまった。
(安徳帝がお生まれになったころ、京の都であれほど華やかであった平家の一門が、まだ八つになられたばかりの帝と共にこのような最後を迎えるとは…)
女房にはこの有り様が、いまだ信じられず、自分は悪い夢でも見ているのではないかと思われてくるのだった。
平家は元来、水を操ることに長けた一族である。海上での戦に強い。
都を追われ、西へ西へと落ちのびて来ても、まだ壇ノ浦で挽回の機ありと、皆、希望を失ってはいなかった。
それが、このひとときの間に…このひとときの間に…
当初は平家が有利に戦を展開したが、源氏方が武者ではない水夫や舵取りを狙って矢を射て、彼らが倒れてゆくにしたがい、平家は船団を思い通りに動かすことができなくなった。それを見て取った、当初は平家方についていた、四国や九州の他の一族たちが源氏に寝返り、平家はたちまち追いつめられたのである。
二位の尼は、このようになった時の決心をされていたらしい。安徳帝ご自身と、正統な天皇の印である三種の神器は源氏に渡すまじと、帝と神器と共に自ら海に沈まれたのだった。
ひとりの武者が、御船に飛び移り、女房の前にひざまずいた時、女房は、はっと我にかえった。
最初は源氏方の武者かとおびえたが、女房には武者の顔に覚えがあった。
武者の名前は知らねども、都から落ちのびて来る間、この武者は安徳帝とまわりの者をつかず離れず守ってきてくれた。
兜のなかの顔は、長い旅路のやつれを写していたが、生気のあるまっすぐな視線が女房の顔に注がれていた。
武者は女房に言った。
「あなたに恋しておりました。もし、来世というものがあるのであれば、私と一緒になっていただきたい。」
そう言うと、武者は鎧兜のまま女房をがっしりと抱き締めた。
「あなたを源氏の者どもの、さらしものにしたくない!」
と言い放ち、女房が「あっ!」と息をつく間もなく、武者は女房を抱き締めたまま立ち上がり、船縁を蹴って海中へと飛んだ。
女房は武者と共に沈んでゆくのを感じながら、自分の長い黒髪が、海水のなかでゆうらゆらと上へ向かって流れ、そのあいだを縫うように、小さな泡つぶが無数に立ちのぼってゆくのを見た。
意識が無くなる瞬間、
女房は、水の冷たさ恐ろしさを感じた。
武者は、愛する人々を守るため、自らがより優れた水の使い手になりたいと願った。
~~~
時は流れて、1971年。
静岡県は伊東市に「伊豆の瞳」と呼ばれる、小さな美しい湖がある。
その名は「一碧湖」(いっぺきこ)。
今日もたくさん訪れた観光客のなかに、湖畔のボート乗り場で、言い争う一組の若い男女がいた。
「ほら、湖を見てごらんよ。みんな楽しんで、ボートに乗ってるじゃないか。」
男が言うと女は、
「人は人、わたしはわたしよ。わたしはボートは嫌いなの。ひっくり返りでもしたら、おぼれてしまうじゃないの。」
と言う。
「こんなに静かな湖で、ボートがひっくり返るなんてありえないよ。僕が安全に漕ぐから乗ろうよ。水の上の景色はきれいだと思うよ。」
男が説得しようとすると、女は、
「とにかく、わたしは乗らないわ。乗りたければ、あなた一人で乗ってきて。わたしは待ってるから。」
と、どこまでも強情だ。
「ふたりで楽しみたいのだから、僕一人で乗るわけにはいかないよ。」
男はボートを諦めて、ふたりで湖畔を一周する小道を散策をすることにした。
男は不思議に思った。
(何にでも好奇心いっぱいで、積極的なこのひとが、ボートや船だけは異常なほど嫌うんだよな。なぜだろう?)
女は小道を歩きながら、
「ねえ、この花はなんという花かしら?東京では見たことがないわ。」
と、もう次のことに関心が移っている。
春の日差しがキラキラと湖面を照らし、それは、かつての遠い日に、男が初めて女に自分の想いを打ち明けた、あの海上を照らしていた太陽と少しも変わってはいなかった。
そう、男はあの「壇ノ浦」の平家の武者、女は御船で安徳天皇につかえていた女房の生まれ変わりなのである。
今世、ふたりは東京の、ある大学に通う、学生どうしとして出会ったが、もちろん自分たちが「壇の浦」の合戦を経験したことは、すっかり忘れてしまっている。
それでも魂の奥底には、前世の記憶が潜んでいて、自分でも理由がわからぬまま、時折、恐怖や熱情に襲われるのだった。
今世は学生同士として出会い、デートを重ね、だんだん遠出をするようになってきた二人だが、恋のゆくえはどうなるのか、それは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、お釈迦様のみがご存じなのであろうか。
今はただ、遠いあの日と同じように、春の日差しがやわらかく、二人を包んでいるのだった。
(完)
響いた声のあるじは、平 知盛 公のようであった。
それまで源氏の兵を、天皇の御船に近づけまいと、御船を取り囲む船上で、必死で食い止め戦っていた平家の武者達のあいだに、ぷつんと糸が切れた空気が漂い、平家は総崩れとなった。
ある者は源氏の兵に切られ、ある者は、自身も天皇を追うように海に飛び込み、ある者は、守るべきよすがを失い、船から船へと飛び移りながら、源氏の兵から逃げた。
二位の尼と安徳天皇のおそばにいた、女房(身分の高い人のお世話係)のひとりは、いましがた、二位の尼が孫にあたる安徳天皇を抱いて、船縁から海中に落ちてゆかれたお姿に、ただただ呆然とし、御船の上に座り込んでしまった。
(安徳帝がお生まれになったころ、京の都であれほど華やかであった平家の一門が、まだ八つになられたばかりの帝と共にこのような最後を迎えるとは…)
女房にはこの有り様が、いまだ信じられず、自分は悪い夢でも見ているのではないかと思われてくるのだった。
平家は元来、水を操ることに長けた一族である。海上での戦に強い。
都を追われ、西へ西へと落ちのびて来ても、まだ壇ノ浦で挽回の機ありと、皆、希望を失ってはいなかった。
それが、このひとときの間に…このひとときの間に…
当初は平家が有利に戦を展開したが、源氏方が武者ではない水夫や舵取りを狙って矢を射て、彼らが倒れてゆくにしたがい、平家は船団を思い通りに動かすことができなくなった。それを見て取った、当初は平家方についていた、四国や九州の他の一族たちが源氏に寝返り、平家はたちまち追いつめられたのである。
二位の尼は、このようになった時の決心をされていたらしい。安徳帝ご自身と、正統な天皇の印である三種の神器は源氏に渡すまじと、帝と神器と共に自ら海に沈まれたのだった。
ひとりの武者が、御船に飛び移り、女房の前にひざまずいた時、女房は、はっと我にかえった。
最初は源氏方の武者かとおびえたが、女房には武者の顔に覚えがあった。
武者の名前は知らねども、都から落ちのびて来る間、この武者は安徳帝とまわりの者をつかず離れず守ってきてくれた。
兜のなかの顔は、長い旅路のやつれを写していたが、生気のあるまっすぐな視線が女房の顔に注がれていた。
武者は女房に言った。
「あなたに恋しておりました。もし、来世というものがあるのであれば、私と一緒になっていただきたい。」
そう言うと、武者は鎧兜のまま女房をがっしりと抱き締めた。
「あなたを源氏の者どもの、さらしものにしたくない!」
と言い放ち、女房が「あっ!」と息をつく間もなく、武者は女房を抱き締めたまま立ち上がり、船縁を蹴って海中へと飛んだ。
女房は武者と共に沈んでゆくのを感じながら、自分の長い黒髪が、海水のなかでゆうらゆらと上へ向かって流れ、そのあいだを縫うように、小さな泡つぶが無数に立ちのぼってゆくのを見た。
意識が無くなる瞬間、
女房は、水の冷たさ恐ろしさを感じた。
武者は、愛する人々を守るため、自らがより優れた水の使い手になりたいと願った。
~~~
時は流れて、1971年。
静岡県は伊東市に「伊豆の瞳」と呼ばれる、小さな美しい湖がある。
その名は「一碧湖」(いっぺきこ)。
今日もたくさん訪れた観光客のなかに、湖畔のボート乗り場で、言い争う一組の若い男女がいた。
「ほら、湖を見てごらんよ。みんな楽しんで、ボートに乗ってるじゃないか。」
男が言うと女は、
「人は人、わたしはわたしよ。わたしはボートは嫌いなの。ひっくり返りでもしたら、おぼれてしまうじゃないの。」
と言う。
「こんなに静かな湖で、ボートがひっくり返るなんてありえないよ。僕が安全に漕ぐから乗ろうよ。水の上の景色はきれいだと思うよ。」
男が説得しようとすると、女は、
「とにかく、わたしは乗らないわ。乗りたければ、あなた一人で乗ってきて。わたしは待ってるから。」
と、どこまでも強情だ。
「ふたりで楽しみたいのだから、僕一人で乗るわけにはいかないよ。」
男はボートを諦めて、ふたりで湖畔を一周する小道を散策をすることにした。
男は不思議に思った。
(何にでも好奇心いっぱいで、積極的なこのひとが、ボートや船だけは異常なほど嫌うんだよな。なぜだろう?)
女は小道を歩きながら、
「ねえ、この花はなんという花かしら?東京では見たことがないわ。」
と、もう次のことに関心が移っている。
春の日差しがキラキラと湖面を照らし、それは、かつての遠い日に、男が初めて女に自分の想いを打ち明けた、あの海上を照らしていた太陽と少しも変わってはいなかった。
そう、男はあの「壇ノ浦」の平家の武者、女は御船で安徳天皇につかえていた女房の生まれ変わりなのである。
今世、ふたりは東京の、ある大学に通う、学生どうしとして出会ったが、もちろん自分たちが「壇の浦」の合戦を経験したことは、すっかり忘れてしまっている。
それでも魂の奥底には、前世の記憶が潜んでいて、自分でも理由がわからぬまま、時折、恐怖や熱情に襲われるのだった。
今世は学生同士として出会い、デートを重ね、だんだん遠出をするようになってきた二人だが、恋のゆくえはどうなるのか、それは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、お釈迦様のみがご存じなのであろうか。
今はただ、遠いあの日と同じように、春の日差しがやわらかく、二人を包んでいるのだった。
(完)
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
契神の神子
ふひと
ファンタジー
怪しい気配に導かれて神社の鳥居をくぐってみると、そこは天慶元年の平安京。
10世紀の日本である。
いきなり暴漢に絡まれ、訳も分からず逃げ惑う少年を助けたのは、一人の少女だった。
彼女は、十年前に自分と弟だけを残して滅ぼされた一族の仇を討つため、雌伏して時を待っていた。
そして、ついにその時が来たのである。
言い伝えの通り、先の世から来た少年、その彼が力になってくれる――彼女は、少年に言った。
「どうか私たちに力を貸してください」と。
そう、日常に飽きた少年はこんな展開を待っていた!
少年は、少女の願いを叶えるため現代知識という名の先読みチートで無双する!
…かと思われたが、どうも知ってる歴史と違う。
皇統は分裂してるし、「契神術」とかいう魔法みたいなものがあるし、「神子」とかいう規格外の存在が世界の調和を保っているらしい。
これでは、現代知識なんて何の役にも立たないじゃないか!
少年にチートなど無い。
あるのは突然与えられた「再臨の神子」なる大げさな肩書のみ。
こうなってしまってはまったくの無力である。
そんな彼の前に立ちはだかるのは、曲者ぞろいの平安貴族、そして平城京に本拠を置き復権を目指す上皇とその家人たち。さらには少年を転移させた人ならざる不明の存在。
皇統の分裂、神と人を結ぶ「契神術」、そして「契神の神子」。
捻じれた歴史に陰謀渦巻く平安京で少年は、どう戦い、何を見るのか。
全ては、神のまにまに――。
*小説家になろう、カクヨムでも連載しております。
ヘビイチゴを食べてヘビになった女の子の話(完結・楽しく読める挿し絵入り)
むめ
児童書・童話
シングルマザーに育てられている小学2年生の女の子、実希(みき)は、いつも母親からこごとばかり言われる。お母さんは、わたしのことが好きじゃないのかな?わたしがいなくなってもいいのかな?と思いながら過ごしていたが、母親が実希との約束を忘れたある日、とうとう実希は、がまんがはじけて、母親から「食べると毒があるかも」と言われていたヘビイチゴの実をたくさん食べてしまう。そして…
男女比1:10。男子の立場が弱い学園で美少女たちをわからせるためにヒロインと手を組んで攻略を始めてみたんだけど…チョロいんなのはどうして?
悠
ファンタジー
貞操逆転世界に転生してきた日浦大晴(ひうらたいせい)の通う学園には"独特の校風"がある。
それは——男子は女子より立場が弱い
学園で一番立場が上なのは女子5人のメンバーからなる生徒会。
拾ってくれた九空鹿波(くそらかなみ)と手を組み、まずは生徒会を攻略しようとするが……。
「既に攻略済みの女の子をさらに落とすなんて……面白いじゃない」
協力者の鹿波だけは知っている。
大晴が既に女の子を"攻略済み"だと。
勝利200%ラブコメ!?
既に攻略済みの美少女を本気で''分からせ"たら……さて、どうなるんでしょうねぇ?
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
私の代わりが見つかったから契約破棄ですか……その代わりの人……私の勘が正しければ……結界詐欺師ですよ
Ryo-k
ファンタジー
「リリーナ! 貴様との契約を破棄する!」
結界魔術師リリーナにそう仰るのは、ライオネル・ウォルツ侯爵。
「彼女は結界魔術師1級を所持している。だから貴様はもう不要だ」
とシュナ・ファールと名乗る別の女性を部屋に呼んで宣言する。
リリーナは結界魔術師2級を所持している。
ライオネルの言葉が本当なら確かにすごいことだ。
……本当なら……ね。
※完結まで執筆済み
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる