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第五話
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「ああ、タイムアウトだ。これから楠先生のところに行く約束だった」
「楠先生ですか!」
円香の声が思わず躍る。
楠平三、ミステリー界の大御所だ。
何を隠そう円香は楠が書くミステリー小説の大ファンである。
デビュー当時、堂上に好きな作家は誰か聞かれたときに、迷うことなく上げた名前だ。
そのことを覚えていたのだろう。堂上はフッと優しげに笑った。
「木佐ちゃんは、楠先生の大ファンだったな」
「はい! もしかして続編が出るのですか?」
ずっと待ち焦がれていた楠平三の新作だ。
思わず円香もテンションがアップしてしまう。
ワクワクした様子の円香に、堂上は自分の唇に人差し指を押しつけた。
「内緒だ」
「え!?」
眉を顰める円香に、堂上はニヤリと意地悪に笑う。
「木佐ちゃんが俺に口説かれてくれたら、楠先生に会わせてやるよ」
「け、結構です!」
「おい、少しは考えろよ」
クツクツ笑いながら堂上は、再び円香の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
それを避けようとした円香だったが、横から伸びてきた手が堂上の手を払いのける。
もちろん、堂上の手を払いのけたのは相宮の手だった。
「木佐先生に失礼ですよ?」
「……」
「木佐先生を子供扱いするようなマネは、慎むべきじゃないですか?」
円香の前に相宮が立つ。その行動は、円香を堂上から守るようにも感じ、円香は胸がキュンと高鳴った。
「まぁ……そうですね。相宮さんの言う通りだ」
堂上は深く頷いたあと、相宮の裏にいる円香を覗きこんだ。
「木佐ちゃん」
「は、はい?」
「言っておくけどな、子供扱いはしてないから。していたら、口説こうとしねぇよ」
「っ!」
思わず叫んでしまいそうになった円香は、慌てて自分の口を手で塞ぐ。
その様子を見た堂上は満足そうに、ニッと笑う。
「さて、そろそろ行くな」
「えっと、はい。あ、資料ありがとうございます」
慌てて頭を下げると円香を見て、堂上は苦笑した。
「七原にめちゃくちゃ怒られるな、きっと。今日は編集部に戻りたくねぇなぁ」
じゃあな、と円香に言ったあと、相宮を見て堂上は挑発的な視線を送った。
「木佐ちゃんは立派な大人な女性ですから。相宮さんに限って悪い大人のようなことをしないと信じていますから」
「ご忠告どうもありがとうございます」
相宮の声が刺々しい。それは堂上にもわかったのだろう。肩を竦めた。
「いえ、では。また」
それだけ言うと、堂上は扉を開けて出て行った。
カツカツという革靴の足音が静かになったあと、相宮は振り返り円香を見下ろす。
感情が読めない無表情な相宮を見て、円香は立ちすくむ。
「木佐先生」
「は、はい!」
飛び上がるように返事をする円香に、相宮は真剣な面持ちで言う。
「確認します。堂上さんは今、木佐先生の担当ではないですよね? 私は七原さんだと記憶しておりますが」
腰を折り、円香の顔を覗き込む相宮の目はとにかくまっすぐだ。
円香は慌てて何度も頷く。
「デビュー当時は堂上さんでしたが、今は七原さんです。間違いないです」
「そうですよね。私もそう記憶しています」
ジッと鋭い視線で円香を見つめる相宮は、ジリジリと距離を縮めてくる。
円香もゆっくりと後ずさりをしたが、すぐに行き止まりになる。壁が円香の逃げ道を塞いだのだ。
「あの男は危ない。とにかく気をつけなさい。極力会わない方がいい」
「会わない方がいいと言われましても……」
七原の上司でもある堂上だ。
今回のように七原の代わりに仕事をする可能性だってある。
この前のように円香自身がA出版に出向くこともあるのだ。
堂上と会わないなんて約束はできないし、仕事としてなら堂上に会う必要はある。
そう円香が相宮に言うと、彼は顔を歪めた。
相宮がとても心配してくれることはわかった。だからこそ、これ以上は心配をさせたくない。
円香は深刻になりすぎないように笑みを浮かべ、何でもない様子を貫く。
「堂上さん、何か意味不明なこと言っていましたけど。どの女性にも言っているだろうし、私をからかって遊んでいるだけですから心配無用ですよ」
「……」
「それに私はA出版から本を何冊も出していただいています。今だってA出版の仕事をしていることは知っていますよね?」
相宮と打ち合わせをしていたのだってA出版から出す本だ。
相宮だってそのことは重々承知しているはずである。
確かに今まで堂上は担当を外れてから、顔を出すことはなかった。
それなのに、こうして円香の前に現れる状況になっている以上、円香だって堂上の行動に気をつけなくてはいけないとは思う。
気まぐれならそのうち堂上の意味深な行動も落ち着くことだろう。
円香は小さく笑った。
「大丈夫ですから。相宮さんは心配しないでください」
相宮を心配させたくはなかった。それに変な誤解もしてほしくない。
円香が好きなのは、相宮だ。間違っても堂上ではない。
報われない思いだとは承知しているが、好きな人に勘違いだけはされたくはない。
その一心で強気で言った円香だったが、それが裏目に出てしまう。
「そうですか……スミマセン。私のおせっかいでしたね」
「え?」
「木佐先生は、私からの心配など不要だとおっしゃるのですね」
それは違う。そう円香が言おうとしたのだが、相宮はそんな円香の言葉を振り切るようにリビングに戻るとカバンを持って再び玄関に現れた。
「相宮さん」
円香が声をかけたが、相宮は無視をして靴を履いた。
そして、円香を振り返る。相宮のその表情はとても冷たく、今までに見たことがないほど悲しそうだ。
円香はもう一度相宮の名前を言おうとしたが、相宮の冷たい視線をヒシヒシと身体に感じて言葉を呑み込む。
「余計なお世話をしてしまいスミマセンでした」
「ち、ちが」
「失礼します」
相宮の言葉には拒絶が含まれていた。
円香は相宮を引き留めることができず、ただただ静かに閉まった扉を見つめるだけしかできなかった。
そして後日、円香の元に七原から電話が入り、愕然とする。
『木佐先生、今度の本なんですが……違うデザイナーになることになりました』
そのあとのことはあまり覚えてはいない。
ただ、相宮が円香との仕事の手を引いたということだけははっきりとわかった。
心配してくれていたのに突っぱねた。そのことを怒っているのだろう。
七原は詳しくは言わなかったが、きっと相宮から断ってきたのだと思う。
もう一度相宮に会って話したい、謝罪したい。
そう願った円香だったが、面と向かって話す勇気は持ち合わせてはいない。
相宮と二度と仕事ができない。会うことはできない。
その現実を突きつけられ、円香は途方に暮れるしかできなかった。
「楠先生ですか!」
円香の声が思わず躍る。
楠平三、ミステリー界の大御所だ。
何を隠そう円香は楠が書くミステリー小説の大ファンである。
デビュー当時、堂上に好きな作家は誰か聞かれたときに、迷うことなく上げた名前だ。
そのことを覚えていたのだろう。堂上はフッと優しげに笑った。
「木佐ちゃんは、楠先生の大ファンだったな」
「はい! もしかして続編が出るのですか?」
ずっと待ち焦がれていた楠平三の新作だ。
思わず円香もテンションがアップしてしまう。
ワクワクした様子の円香に、堂上は自分の唇に人差し指を押しつけた。
「内緒だ」
「え!?」
眉を顰める円香に、堂上はニヤリと意地悪に笑う。
「木佐ちゃんが俺に口説かれてくれたら、楠先生に会わせてやるよ」
「け、結構です!」
「おい、少しは考えろよ」
クツクツ笑いながら堂上は、再び円香の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
それを避けようとした円香だったが、横から伸びてきた手が堂上の手を払いのける。
もちろん、堂上の手を払いのけたのは相宮の手だった。
「木佐先生に失礼ですよ?」
「……」
「木佐先生を子供扱いするようなマネは、慎むべきじゃないですか?」
円香の前に相宮が立つ。その行動は、円香を堂上から守るようにも感じ、円香は胸がキュンと高鳴った。
「まぁ……そうですね。相宮さんの言う通りだ」
堂上は深く頷いたあと、相宮の裏にいる円香を覗きこんだ。
「木佐ちゃん」
「は、はい?」
「言っておくけどな、子供扱いはしてないから。していたら、口説こうとしねぇよ」
「っ!」
思わず叫んでしまいそうになった円香は、慌てて自分の口を手で塞ぐ。
その様子を見た堂上は満足そうに、ニッと笑う。
「さて、そろそろ行くな」
「えっと、はい。あ、資料ありがとうございます」
慌てて頭を下げると円香を見て、堂上は苦笑した。
「七原にめちゃくちゃ怒られるな、きっと。今日は編集部に戻りたくねぇなぁ」
じゃあな、と円香に言ったあと、相宮を見て堂上は挑発的な視線を送った。
「木佐ちゃんは立派な大人な女性ですから。相宮さんに限って悪い大人のようなことをしないと信じていますから」
「ご忠告どうもありがとうございます」
相宮の声が刺々しい。それは堂上にもわかったのだろう。肩を竦めた。
「いえ、では。また」
それだけ言うと、堂上は扉を開けて出て行った。
カツカツという革靴の足音が静かになったあと、相宮は振り返り円香を見下ろす。
感情が読めない無表情な相宮を見て、円香は立ちすくむ。
「木佐先生」
「は、はい!」
飛び上がるように返事をする円香に、相宮は真剣な面持ちで言う。
「確認します。堂上さんは今、木佐先生の担当ではないですよね? 私は七原さんだと記憶しておりますが」
腰を折り、円香の顔を覗き込む相宮の目はとにかくまっすぐだ。
円香は慌てて何度も頷く。
「デビュー当時は堂上さんでしたが、今は七原さんです。間違いないです」
「そうですよね。私もそう記憶しています」
ジッと鋭い視線で円香を見つめる相宮は、ジリジリと距離を縮めてくる。
円香もゆっくりと後ずさりをしたが、すぐに行き止まりになる。壁が円香の逃げ道を塞いだのだ。
「あの男は危ない。とにかく気をつけなさい。極力会わない方がいい」
「会わない方がいいと言われましても……」
七原の上司でもある堂上だ。
今回のように七原の代わりに仕事をする可能性だってある。
この前のように円香自身がA出版に出向くこともあるのだ。
堂上と会わないなんて約束はできないし、仕事としてなら堂上に会う必要はある。
そう円香が相宮に言うと、彼は顔を歪めた。
相宮がとても心配してくれることはわかった。だからこそ、これ以上は心配をさせたくない。
円香は深刻になりすぎないように笑みを浮かべ、何でもない様子を貫く。
「堂上さん、何か意味不明なこと言っていましたけど。どの女性にも言っているだろうし、私をからかって遊んでいるだけですから心配無用ですよ」
「……」
「それに私はA出版から本を何冊も出していただいています。今だってA出版の仕事をしていることは知っていますよね?」
相宮と打ち合わせをしていたのだってA出版から出す本だ。
相宮だってそのことは重々承知しているはずである。
確かに今まで堂上は担当を外れてから、顔を出すことはなかった。
それなのに、こうして円香の前に現れる状況になっている以上、円香だって堂上の行動に気をつけなくてはいけないとは思う。
気まぐれならそのうち堂上の意味深な行動も落ち着くことだろう。
円香は小さく笑った。
「大丈夫ですから。相宮さんは心配しないでください」
相宮を心配させたくはなかった。それに変な誤解もしてほしくない。
円香が好きなのは、相宮だ。間違っても堂上ではない。
報われない思いだとは承知しているが、好きな人に勘違いだけはされたくはない。
その一心で強気で言った円香だったが、それが裏目に出てしまう。
「そうですか……スミマセン。私のおせっかいでしたね」
「え?」
「木佐先生は、私からの心配など不要だとおっしゃるのですね」
それは違う。そう円香が言おうとしたのだが、相宮はそんな円香の言葉を振り切るようにリビングに戻るとカバンを持って再び玄関に現れた。
「相宮さん」
円香が声をかけたが、相宮は無視をして靴を履いた。
そして、円香を振り返る。相宮のその表情はとても冷たく、今までに見たことがないほど悲しそうだ。
円香はもう一度相宮の名前を言おうとしたが、相宮の冷たい視線をヒシヒシと身体に感じて言葉を呑み込む。
「余計なお世話をしてしまいスミマセンでした」
「ち、ちが」
「失礼します」
相宮の言葉には拒絶が含まれていた。
円香は相宮を引き留めることができず、ただただ静かに閉まった扉を見つめるだけしかできなかった。
そして後日、円香の元に七原から電話が入り、愕然とする。
『木佐先生、今度の本なんですが……違うデザイナーになることになりました』
そのあとのことはあまり覚えてはいない。
ただ、相宮が円香との仕事の手を引いたということだけははっきりとわかった。
心配してくれていたのに突っぱねた。そのことを怒っているのだろう。
七原は詳しくは言わなかったが、きっと相宮から断ってきたのだと思う。
もう一度相宮に会って話したい、謝罪したい。
そう願った円香だったが、面と向かって話す勇気は持ち合わせてはいない。
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