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1巻

1-3

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 実家の瀬戸家が純和風とすれば、桐生家は洋風スタイルである。
 ローズガーデンのアーチをくぐり、どこかのホテルかと見間違えるほど洒落しゃれた屋敷に車が横付けされた。
 上総くんにうながされて車を降りると、すぐさま昔馴染なじみの家政婦さんが飛び出してくる。
 久しぶりに桐生家に顔を出した私を見て歓迎をしてくれたかと思うと、さらに上総くんの母親である真美子さんまで嬉しそうに駆けつけてくれた。

「あらぁ、珍しい組み合わせね」
「こんにちは。突然お邪魔してしまいまして、スミマセン」
「何を言っているのよ、伊緒里ちゃんは。貴女あなたなら、いつでも大歓迎よ」

 フフッとキレイにほほ笑む真美子さん。相変わらずの美しさに、思わず感嘆のため息がこぼれる。
 ウェーブのかかった栗色くりいろの髪は、彼女のつやをより際立たせた。
 鮮やかな真っ赤な口紅に負けない魅力が彼女にはある。
 身体にフィットしたマキシ丈のワンピースを着こなす抜群のプロポーションだ。
 真美子さんは五十代後半のはずなのに、どうしてこんなに美しさを保てるのだろうか。
 こんな素敵な女性になりたい。そう心から私が思っている女性の一人でもある。
 ウットリと真美子さんに魅入みいっていると、彼女はニヤニヤとどこか楽しげに笑った。

「いつもいがみ合っている二人が、こうして肩を並べて我が家にいるなんて。何年ぶりかしらね。感慨深いわぁ」

 シャンデリアや大きな絵画がいくつもあり、この時期には使われていないまきストーブがある広々とした応接間だ。そこに案内された私と上総くんを見て、真美子さんはとても嬉しそうにしている。
 しかし、残念ながら友情を深めたわけではなく、仲が良くなったというのでもない。
 ここに来ることになった経緯を、私からはなんとなく話しにくい。
 どうしても上総くんからされたキスを思い出してしまうせいだ。
 挙動不審な私にあきれた様子で、上総くんが小さく息を吐き出した。

「俺から説明する。伊緒里に婚約者がいるってことと、そいつとの結婚に乗り気じゃないということは母さん知っているだろう?」
「それはもちろん知っているわよ。だから、この前上総にどうにかならないかしらねって相談したでしょ?」
「ああ。それで――」

 彼は、先ほどホテルであった出来事を順を追って真美子さんに話していく。
 すると、最初こそ神妙な顔をして聞いていた真美子さんが、段々と目を輝かせ始めた。

「やだ! ちょっと、素敵じゃない」
「え? どこが素敵なんですか!?」

 黙っていた私は、すかさず口を挟んだ。
 廣渡さんにされたセクハラまがいの言動を素敵だとはどう見積もっても言えないと思う。
 憤慨ふんがいする私に、真美子さんはあわてた様子で首を横に振った。

「伊緒里ちゃんの婚約者が素敵って言っているわけじゃなくて。うちの息子が、窮地きゅうちに追い込まれた伊緒里ちゃんを助けたんでしょ?」
「えっと……まぁ、はい」

 頬を真っ赤に染めて興奮気味にめ寄ってくる彼女に驚き、私は返事をする。そこで彼女は立ち上がり指を組んでターンを決めた。

「ああ! なんて素敵なのぉぉぉ! ドラマや映画の世界じゃなーい!」

 クルクルとターンをしながら、ついに感涙にむせび始めたではないか。あわてる私に、上総くんが「聞き流せ」と言ってくる。
 だが、その言葉が真美子さんの耳に入ってしまった。

「何か言ったかしら?」

 威圧的な態度の彼女に、上総くんはそっぽを向いて無言をつらぬく。
 母親に逆らうと後々大変なことになるとわかっているのだ。さすがは息子である。
 無視を決め込む彼を鼻であしらい、真美子さんはもだえ始めた。

「あー、もう! 私もその場所にいたかったわぁ。誰か録画してくれていないかしら。防犯カメラをチェックさせてもらうとか?」

 勘弁してくれ、と頭を抱える上総くんを見て、私も大いにあわてる。
 真美子さんは、やると言ったら本当に実行に移す人だ。
 どうやって彼女をあきらめさせるか。私は必死に考えつつ、上総くんに視線を向けた。
 彼も母親の暴走をどう止めようか考えている様子だ。
 だが、残念なことに真美子さんを止めるすべは見つからない。
 この桐生家の陰のボスである彼女は、大企業の社長である上総くんのお父様であっても止められないのだ。それを、小さい頃からかわいがってもらっている私はよく知っている。
  無理やり止めようとすると、墓穴を掘る可能性が高い。
 一番彼女に知られたくないのは、上総くんに強引にキスをされたことだ。
 日頃より、『そんな婚約者、さっさと切っちゃって、うちのバカ息子にしない?』と本気なのか冗談なのかわからないことを言っている真美子さんの耳に入ったら……恐ろしい未来がやってくる。
 ここは静かに彼女の熱が冷めるのを待つのが得策だ。
 しかし、そこで上総くんの秘書、井江田さんが笑いながら応接間に入ってきた。
 私が頭を下げると、にこやかにほほ笑んで指で丸を作る。どうやら廣渡さんの件をうまく処理してくれたらしい。
 ホッとしたのもつかの間、彼はとんでもないことを言い出したのだ。

「ハハハ、奥様。私はその場にいたのですが、残念ながら動画を撮り忘れておりました」
「あら、井江田くん。そんな素敵なシーンは、しっかり撮っておいてくれなくちゃ」
「申し訳ありません。ですが、私はいいモノを見てしまいましたよ」

 ニヤリと笑う井江田さん。その様子を見て、上総くんはあわてた様子で立ち上がった。
 だが、井江田さんが満面の笑みで言い放つ。

「上総さんが、伊緒里さんにキスをしているところを」
「まぁぁぁぁぁ!!」

 私と上総くんの顔を交互に見て、歓喜の声を上げる真美子さん。
 上総くんは「好きにしてくれ」とばかりに肩を落とし、一方の私は恥ずかしさのあまり彼女から顔をそむけた。
 一番知られたくない、知られてはマズイことが真美子さんの耳に入ってしまった。
 井江田さんに恨みごとを言いたいところではあるが、廣渡さんとの後処理をしてくれた手前、文句をつけられない。
 ただ、羞恥しゅうちに耐えていると、真美子さんが突然ポンと手をたたいた。

「ほら、やっぱり。上総と伊緒里ちゃんが結婚しちゃえばいいのよ」
「は? 何言っているんだ!」

 大声で反論する上総くんに、彼女は冷ややかな目を向ける。

「貴方こそ何を言っているのかしら、このバカ息子は。結婚前の女性に手を出しておいて、よくもまぁ平気な顔をしていたわね」
「っ……手を出したなんて人聞きの悪い、手助けしただけだ」
「ふーん、手助けねぇ。アンタの口をもってすれば、キスしなくたって伊緒里ちゃんの窮地きゅうちを救えたんじゃないかしら?」
「っ!」

 確かに、真美子さんの言うこともわかる。
 上総くんは昔から聡明で、口も達者だ。だからこそ、大企業の第一線で活躍できている。
 彼にかかれば、あの場面でもっと違う手が打てたはずだ。
 けれど、上総くんはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「うるさい。あのセクハラ男がむかついたからひと泡ふかせてやろうと思っただけだ。伊緒里のためじゃない」

 キッパリと言い切る彼は、なんだかちょっと頬が赤い気がする。
 恐らく、廣渡さんのセクハラぶりは、上総くんにとっても目に余るものだったのだ。
 昔は仲が良かった私のことを、彼なりに考えてくれた結果なのだと思う。

(……仕方がない。キスのことは許してあげよう)

 そんなふうに思った矢先だった。真美子さんが、私のトップシークレットを口走ってしまう。

「何を言っているのよ。伊緒里ちゃんは、アンタとのキスがファーストキスだったのよ!」
「真美子さん!!」

 立ち上がって真美子さんの口を手でふさいだのだが、すでに遅い。上総くんが目を丸くして固まっている。これはバッチリ真美子さんの問題発言を聞いてしまったようだ。
 頭を抱える私を、彼は唖然あぜんとした様子で見つめた。

「瀬戸家のおきては聞いたことがあるし、あのセクハラマザコン男も言っていたから処女だとは思っていたけど……マジかよ」
「……っ」

 恥ずかしくて居たたまれなくなる。
 この場から逃げ出したいのに、真美子さんに腕を掴まれていて身動きが取れない。

「あ、あの……真美子さん。私、これで失礼」

 彼女は私をガッシリとホールドすると、妖艶ようえんな笑みを浮かべる。
 その笑みはキレイなのに、背筋が凍るほど恐ろしい。
 抵抗するのは無理だと悟る私と、未だに唖然あぜんとしている上総くんに、彼女は言い放った。

「貴方たち、このまま結婚しちゃいなさい」
「っ!」
「何を言い出すんだ! 母さん」

 驚きすぎて言葉が出ない私に代わり、上総くんが反論してくれる。だが、真美子さんは上総くんをギロリと鋭い視線でめつけた。

「清いままの伊緒里ちゃんに手を出したのは誰? マザコン婚約者じゃなくて、アンタよ、上総」
「……っ」
「今から瀬戸家に出向いて、責任を取って伊緒里ちゃんを嫁に貰いたいとお願いしていらっしゃい!!」

 般若はんにゃめんのような形相の真美子さんに、上総くんと私は猛抗議する。

「ちょっと待て、母さん。なんで伊緒里と結婚なんていう話になるんだ?」
「そうですよ、真美子さん! 私、上総くんと結婚するなんて無理です!」
「あぁ? こっちだって願い下げだ」
「私だって!」

 犬猿の仲らしいやり取りを繰り広げると、真美子さんがテーブルをダンと勢いよくたたいた。
 目を丸くして口を閉ざした私たちを、ギロリとにらけ腕組みをしてあごをしゃくる。
 一気に周りの温度が下がった。私はゴクンと生唾を呑み込む。

「じゃあ、伊緒里ちゃんはこのままマザコン男と結婚しなさい。そして、上総。アンタは見合い決定」
「な……それは、ちょっと!!」
「なんで俺まで、伊緒里のとばっちりを!!」

 ギャンギャン再び抗議を続ける私たちを、真美子さんは耳を押さえて「うるさい!」と一喝いっかつする。

「じゃあ、こういうのはどう? 上総」
「は?」
「伊緒里ちゃんとマザコン男との婚約を解消させることができたら、貴方に来ている縁談を全部白紙にしてあげる」

 真っ赤な口紅を塗っている真美子さんの口角がクイッと上がる。それを見て、上総くんは身を乗り出した。

「本当だな! 二言はないな!?」
「ええ。約束してあげるわ」

 大きくうなずく真美子さんを見て、やる気をみなぎらせている。
 私の縁談をつぶしてくれるのなら、それほどありがたいことはない。
 今日の出来事で、廣渡さんと夫婦になるのは生理的に無理だとわかった。だからどんな形であれ、婚約破棄ができる話には乗ってしまいたい。
 しかし、上総くんにはあまり頼りたくないし、関わりたくもなかった。それは、私だけではなく上総くんもだろう。
 それでも、真美子さんの挑発に乗ったということは、彼はかなりの数のお見合いを打診され、それをけむたがっているに違いない。
 彼は、所謂いわゆるハイスペックな御曹司だ。見目もよければ、頭もいい。もちろん、仕事もできるらしい。
 人当たりもいいし、彼に接したことがある人は口を揃えて「優しく聡明で素敵な人だ」と言う。
 違う顔を見せるのは私にだけなのだ。よほど私が気にくわないに違いない。
 そんな相手に婚約破棄の手伝いを頼んだら、末代まで恩を着せられそうだ。それは避けたい。
 たりさわりなく逃げよう。それがいい。そうしよう。
 私は上総くんにもう一度考え直した方がいいと言おうとした。けれど彼は真剣な面持おももちで私に言う。

「共同戦線を張るぞ、伊緒里」

 助けを求めて真美子さんに視線を向けても、当然、美魔女な彼女は意味深にほほ笑むだけ。助けてくれるつもりは毛頭なさそうだ。
 そもそもこの提案は彼女が言い出したのだから、助けてくれるはずがない。
 こうなったら開き直ろうと、私は腹を決めた。
 マザコン男との縁談を破談にしたい私。そして、見合いにウンザリな様子の上総くん。
 とにかく自由になりたいと思っている二人の意見は一致している。
 期間限定で、目的達成のためにタッグを組むのもいいかもしれない。
 私はあきらめに似た気持ちを抱きつつ、「わかったわ」と承諾の返事をしたのだった。



   2


「それで、どうして私の部屋に来る必要があるの? 理由を教えて!」

 現在、私が住む1LDKのマンションに、なぜか上総くんと彼の秘書である井江田さんがいた。
 彼ら二人にうながされるまま部屋に通してしまったのだが、どうしてこんな事態になっているのか。
 この部屋は、私がお一人様を楽しみ、仕事の疲れをやす大切な空間だ。
 ベージュを基調にナチュラルテイストの家具で統一し、私の好きなモノをギュッとめ込んでいる。
 そんな、ゆったりとした時間を満喫まんきつできるはずの部屋なのだが、今はのんびりなどしていられない。
 私は背伸びして上総くんをにらけた。
 しかし、上総くんからの反応は特になし。私はふくれっ面を引っ込められなくなる。
 桐生家を訪れたあと、利害が一致した私と上総くんは共同戦線を張ることになった。
 そこまでは納得している。だが、どうして私のマンションに二人が来る必要があるというのか。そこが理解できない。
 男性を一度も上げたことのない我が部屋に初めて入る男性が上総くんだなんて。
 思わぬ事態に戸惑とまどう。
 しかし、そんな私の気持ちなど理解していないだろう彼は暢気のんきなものだ。
 マイペースに部屋を見回し続けている。
 井江田さんはベランダに出て何かを確認したあと、私の部屋を出ていった。
 二人きりになったマンションの一室。上総くんを意識してしまい、私はドキドキが止まらない。
 挙動不審の私に比べ、上総くんはやはり気楽だ。

「伊緒里の会社からも近いし、なかなかいい所だな」
「まぁね……。って、上総くん。あんまりジロジロ見ないで!!」

 私の注意にも、彼は聞く耳を持たない。
 レースのカーテンを開き、窓を開けた。気持ちのいい風が部屋にそよいでくる。
 五月の風は、すっかり初夏めいている。
 上総くんはそのままベランダに出ると、井江田さんがしていたようにマンション周辺の風景を見つめた。

「緑地公園に近いんだな」
「……うん」

 私もベランダに出て、彼の隣で眼下を見つめる。
 築十年、五階建てのマンションは大通りに面しており、最寄り駅からのアクセスも抜群にいい。
 大通りを挟んで向こう側には、緑豊かな公園が広がっている。なかなかの広さを誇るその公園はジョギングをする人たちもいるし、日中は子供連れのママさんたちのいこいの場にもなっているようだ。
 たくさんの桜の木が植わっており、お花見シーズンになると満開の桜を堪能たんのうできる。
 そこで花見をする人たちも多く、桜の木の下で宴会をしているのを何度か見たことがあった。
 それに、辺りを一望できる高いシンボルタワーもある。遊具の一つとして、螺旋らせん階段のついた展望台があるのだ。
 そんななかなか大きな公園なので、休みの日は他県のファミリー層も遊びにやってくると聞いていた。
 公園付近には二十四時間営業のスーパーがあるし、ドラッグストアやコンビニ、ファミレスなどの飲食店も多くのきつらねている。
 そのため、この辺りはファミリー層がとても多く、比較的安全で、一人暮らしの私にはもってこいの場所だ。
 とはいえ、OLのお給料で借りているので、狭い1LDKである。
 上総くんはその点が気になったらしく、オブラートに包まず遠慮なく聞く。

「それにしても、瀬戸家ご令嬢の部屋としては質素だな」
「質素って言わないでよ。これでも私のお城なの。自力で結構カツカツの生活しているんだから」
「へぇ」

 彼が興味深そうに私を見つめているのがわかったが、えてそちらに顔を向けずに公園を見つめたままで口を開く。

「私、本当は二年前に結婚する予定だったんだけど、どうしても独立して働いてみたくて。お父様に無理を言って家を飛び出したの。だから、家からの援助はしてもらっていません」

 就職して三年目のOLに、そんなに広くて立派なところは借りられない。そう主張すると、上総くんは目を見開いて驚いた。

「へぇ……優等生な伊緒里が珍しい。親父おやじさんの意見に刃向かったってわけか」
「優等生って。私、そんなにイイ子ちゃんじゃないし」
「そうか? 自分の意志をつらぬいたから、家に援助はしてもらわない。伊緒里は、そう思っているんだろう。そういうところが優等生だって言うんだよ。大方のお嬢様は、親のすねをかじりまくっているからな」
「上総くん?」

 驚いた。上総くんが、私をそんなふうに言ってくれるなんて思ってもいなかった。
 隣に立つ彼に視線を向ける。さわやかな風を受け、彼の黒くてキレイな髪がサラサラと揺れた。
 端整な横顔は、二年前よりもっと大人びていて男性なんだと強く意識させられる。
 ふと薄く形のいい唇に視線が向いてしまい、ホテルでの不意打ちのキスを思い出した。
 あの唇の感触がよみがえってドキドキする。私は、あわてて彼から視線をらした。
 二人の間に、初夏の色が濃くなりつつあるそよ風が通る。その風を感じながら、私はただ頬を火照ほてらせて公園を見下ろす。
 しばしの沈黙のあと、上総くんがポツリとつぶやいた。

「伊緒里は、いくつになっても伊緒里だな」
「え?」

 どういう意味だろうか。意味がわからず上総くんに向き直ると、彼は小さく笑う。だが、すぐに唇を横に引いて真剣な面持おももちになった。

「この部屋、セキュリティはまぁまぁだな」
「え……うん。実家の関係で、セキュリティだけは万全な所を選べって口うるさく言われたから。探すのは大変だったけど」

 父は国会議員だ。色々な面で注目され、好奇の目で見られることも多い。危害を加えられる可能性もある。
 娘である私も用心するに越したことはない。それは昔から耳にタコができるほど言い聞かされていたので、住居は安全面を重視して決めたのだ。
 上総くんは外の様子を見たあと、何も言わずに部屋の中に戻る。
 そのピリリとした様子に、私もあわてて後に続いた。
 部屋に戻った彼は腕組みをして、私に忠告する。

「確かにこの部屋に関してのセキュリティは安心だが、ここまでの道のりがあやういな」
「え?」

 外を指差し、けわしい顔つきで続ける。

「最寄り駅までの道。確かに大通りに面していて人通りもある。道のりもさほど遠くはなく立地条件はいい」
「そうでしょう!」

 自信満々でうなずく私をチラリと見た上総くんだが、顔は未だにけわしいままだ。その様子に、私は眉をひそめる。
 上総くんは窓の外を見て、堅い口調で言う。

「だが、あの公園が気になる」
「え?」
「大通りで犯行に及んだあと、公園へ逃げられたらどうする?」
「どういう意味?」
「犯行のあと容易に姿を隠す場所があるのは、犯人にしてみたら都合がいいだろう。それに、この距離なら木々の間に隠れて望遠カメラを使えば、マンションを監視できてしまう」
「っ!」
「何事にも完璧なんて存在しないものだ。これからは会社の行き帰り、気をつけろよ」
「う……は、はい」

 コクコクと何度もうなずく私に、彼は「さて」と気を取り直したようにつぶやいた。そして、再び窓際に移動する。
 またベランダに出るつもりだろうか。首をかしげていると、私を手招きした。
 なんだろう、と不思議に思いながら近づいた私はなぜかいきなり腰を抱かれる。
 ホテルで自ら彼のふところに飛び込んだときよりも、密着した状態だ。彼のコロンの香りに加え、熱も、そして感触も伝わって頭が真っ白になる。

「か、か、上総……くん?」

 胸がはち切れそうなほどドキドキして苦しい。どうして突然抱きしめてきたのか問いたくて、上総くんを見上げる。
 私と目が合うと、彼はなぜか少し目を見開く。その薄い唇が何かを告げようとした。
 だが、その声は私には届かない。
 そして、上総くんはばつが悪そうな表情を浮かべた。

「さっさと、証拠写真を撮るぞ」
「へ?」

 意味がわからずまばたきを何度かしていると、上総くんの顔が段々と近づいてくる。あまりの近さに無意識に彼の頬を両手で押さえた。
 ムッとした顔になった彼だが、私だって顔をしかめたい。それでも尚、顔を近づけようとする彼に抗議する。

「ちょ、ちょっと。いきなり何をするつもりなの?」
「何って、証拠写真を」
「だから! なんのためのどんな証拠写真なのかと聞いているの!」

 説明もなく「証拠写真を撮る」などと言われて、「はい。そうですか。どうぞ!」などと返事ができるわけがない。

「説明してよ! 上総くん」

 ギャンギャンとわめくと、ようやく彼は動きを止めた。
 しかし、こちらの気持ちをさかなでするように、大きくため息をつく。

「恋人らしい様子を写真に撮ってマザコン男に送りつければ、破談に持ち込めるかもしれないだろう? だからその証拠写真だ」
「……なるほど」

 確かにその作戦は有効かもしれない。私はフムフムとあごに手を触れてうなずいた。
 廣渡さんはかなりプライドが高い人だ。自分ではなく他の男に気がある女には興味がなくなる可能性は低くない。
 それに、そんな事態が発覚すれば、彼の母親は黙っていないだろう。
 なんと言っても、婚約者である私が純潔を守っているのか確かめろと息子に命令した人だ。
 こんな身持ちの悪い女と自分のかわいい息子が婚姻関係を結ぶなんてあり得ないと、絶対に拒否するはずである。
 あちらからの婚約破棄ならば、実家にかかる迷惑も小さい。
 なかなかに有効そうな作戦だ。何度もうなずいて納得している私に、上総くんは大通りに面した緑地公園を指差す。

「ほら、あそこに井江田がいるだろう」
「あ、本当だ。井江田さんだ!」

 外を覗き込むと、公園のシンボルタワーから井江田さんが手を振っている。手にはカメラを持っているようだ。
 先ほど上総くんが危惧きぐしていたが、確かにあの場所からなら望遠カメラで盗撮できるかもしれない。改めて恐怖が込み上げ、身体が震えてしまう。
 これからはレースのカーテンは必須だな、と改めて心に誓っていると、腰に置かれていた上総くんの腕に再び力が込められた。そして、彼が私に顔を近づけてくる。


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