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1巻
1-1
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プロローグ
「上総くん、相変わらず意地悪ね。そこを通してもらえますか?」
「ああ、悪い、悪い。伊緒里嬢。あんまりに小さすぎて見えなかった」
そう言って、目の前のフェロモン漂うオリエンタルな美貌の青年、桐生上総くんはやっと身体を半分ずらしてくれた。
彼は私、瀬戸伊緒里の行く手をずっと阻んでいたのだ。
何度もすり抜けようと試みたが、そのたびに身体をうまくずらされて前に進めなかった。
それもそのはず。彼と私の身長差は二十センチ以上。
百五十八センチの私、そして百八十センチの上総くんでは体格差がありすぎだ。
私より断然足が長く、尚且つ男らしい体躯の持ち主に、小柄な私が勝てるわけがない。
年齢差は五つ。年でも負けている。
そんな私たちは幼なじみという間柄だ。
昔は仲が良く、私を妹みたいにかわいがってくれた上総くんだったが、ここ数年、私に対して意地悪になっている気がする。
なので彼の横を通るときに軽く足を踏むと、上総くんはすぐに口角をクイッと上げて、意味深な笑みを浮かべた。その笑みが意地の悪いものだったので、私は顔を歪める。
だが、彼は不機嫌な私を気にもしていない。
「相変わらず、じゃじゃ馬なお嬢様だな、伊緒里は。余所では模範生みたいに猫を被っているのに、今日はどこかに置いてきたのか? 探しに行ってやろうか?」
「上総くんだって、相変わらず頑丈な猫を被っているわよね。うまく化けていて感心するわ!」
会えば減らず口を叩かれるため、つい私も叩き返してしまう。売り言葉に買い言葉がエスカレートしていくのだ。
上総くんと顔を合わせれば、こんなふうに言い争いになるとわかっていた。
だから、ここ最近は会わないようにしていたのだが、『今夜だけは顔を出してほしいの。上総が仕事で日本を離れることになったのよ。壮行会ではないけど、頑張れって笑顔で送り出してあげたくて。でも、私と主人だけじゃ寂しいじゃない? だから、伊緒里ちゃんも参加してくれない? 伊緒里ちゃんの大学卒業のお祝いもしたいし。ね?』と彼の母親に頼み込まれて、このレストランに来たのだ。
そして食事後、『しばらく会えなくなるんだし、二人でお話でもしたら?』となぜか個室に残された。私たち二人しかいないから、彼も遠慮がない。
やっぱり、来ない方が私のためにも、彼のためにも良かったのかもしれない。私は深くため息をつきたくなった。
昔はこうじゃなかったのに、どうしてこんなふうになってしまったのか。
『私ね、うちのお兄様も好きだけど。上総くんの方が大好き』
小さな頃の私は、血の繋がりのある実兄以上になつくほど、上総くんが好きだった。
彼と初めて会ったのは、何かのパーティーだったと思う。
上総くんの家は大手貿易会社を経営していて、私の父は代議士だ。そのパーティーには互いに家族で参加していた。
仲良く遊ぶ二人を見て母親同士も顔見知りになり、いつの頃からか頻繁にお互いの家を行き来する間柄になったのだ。
とにかく幼い私は、上総くんに会えると聞けば、会うまでの日数を指折り数えていたほど。
それが、彼が大学生になった頃から突然距離を置かれるようになってしまった。
なぜなのか、その理由を彼に聞いてはいない。
ただ単に私が気に入らなくなったのかもしれなかった。
そんな彼に、昔のように優しくしてほしいと縋るつもりは毛頭ない。
嫌いなら嫌いで結構。私たちは、赤の他人だ。
今夜が終われば、彼とは当分会わないはず。彼が日本に戻ってくるのは、何年先かわからないらしいからだ。
「向こうでも、その腹黒さを発揮してせいぜい頑張って?」
「それは、お気遣いありがとう。俺の心配をするより、自分の心配をしたらどうだ?」
「え?」
「婚約すると、母さんから聞いたぞ。婚約者に愛想を尽かされないようにしろよ」
「余計なお世話っ!」
ニヤリと笑って悪態をついた上総くんは、その後、ヒラヒラと手を振って私の前から去っていく。
「言い逃げなんて、卑怯よ!!」
ググッと拳を握りしめて彼の背中に言葉をぶつけたあと、私もレストランを出た。
とりあえず、義理は果たせたはずだ。お役御免でいいだろう。
「もう、当分、会うことはないもんねーだ」
そう小さく呟いて、胸の痛みには気づかないフリをする。
当分どころか、もう、彼と会う機会はない。
そう思っていた。
二年後に予期せぬ形で再会を果たすまでは――
1
「嵌められた……?」
憤りに顔を歪めて、私は己のうかつさに頭を抱えた。
都内にある外資系ホテルのロビーに足を踏み入れたところで、婚約者の姿を見つけてしまったのだ。慌てて物陰に隠れて息を潜める。
幸いロビーには多国籍の客が数多く行き交っている。
ピアノの生演奏が響くシックで高級感溢れる素敵な空間に、鬼気迫る表情の女が一人。もちろん、私のことだ。
今日の私は、ベージュのフレアワンピースを着ていた。五分袖で、ウエスト部分にリボンをあしらった清楚なイメージのものだ。
そのワンピースのスカートが物陰から出ないよう、裾を押さえて隠す。
(どうして、あの男がここにいるのよ!)
心の中で盛大に叫びながら、ロビーから少し離れたラウンジを見回した。
今日はこれから子供の頃からかわいがってもらっている緑川ご夫妻と食事をする予定で、このホテルのラウンジで落ち合う約束をしている。
だが、その相手はおらず、代わりにこの世の中で一番会いたくない婚約者がいたのだ。
着流しに羽織を纏ったその彼は、和風男子とでも言うのだろうか。雅な雰囲気でコーヒーを飲み、周りの女性たちの視線をほしいままにしている。
だが、是非とも忠告させていただきたい、と私は眉間に皺を寄せた。
(そこで頬を赤く染めている女性の皆様方。騙されてはいけません。その男、とんでもないやつですよ!)
そんなことを胸中で叫びながら、私は疑い深くその男を監視し続ける。
身を小さくして柱の陰に隠れると、携帯電話を鞄から取り出した。
電話をかける相手は決まっている。私に嘘をついた人間だ。
呼び出し音を聞きつつ、どうしてこんな事態になってしまったのかとさらに眉を寄せた。
瀬戸伊緒里、二十四歳。世間ではお嬢様学校と言われている女子大を卒業後、都内の企業で働いているごく普通のOLだ。
容姿は、平均並みだと自分では評価しているが、動物に例えるとタヌキ顔らしい。
よく言えば愛嬌があるのだろうが、年齢より幼く見られるのは不満だ。
ショートボブの黒髪で、自分では大和撫子風だと思っている。
性格は……少々堅物で所謂委員長タイプだとよく言われるが、これといって特記すべき点はない。
ただ、実家の瀬戸家は先祖代々、政治家を輩出していて、そのせいか古きを重んじる家だ。
私の父も国会議員を務めているし、兄も政治家の道を歩もうとしている。
そんな堅苦しい家の空気が嫌で、私は就職を機に家を出ていた。
そうして手に入れた気ままな一人暮らし生活だが、あとどれくらい堪能できるのだろうか。
現在の危機的状況を目の当たりにし、残り僅かなのだろうとヒシヒシと肌で感じてしまう。
なぜなら、自由に過ごせるのは婚約者と結婚するまで。それが、独立が認められた際の条件なのだ。
父は堅物で融通が利かない人。
しっかり愛情を注がれているのはわかっているが、押しつけ感が半端ない。とにかく私に対して心配性なのである。
だから自分が厳選した物だけを、与えようとするのだ。婚約者は、その典型だった。
吹き抜けの広々としたラウンジを柱の陰から見つめ、私はため息をつく。
未だに繋がらない電話に苛立ちを覚え、「お父様、早く出て!」と念じた。
緑川ご夫妻との約束は父を通してされたものだ。私は父に騙されたのだろう。
数回の呼び出し音のあと、ようやく電話の主が出た。私は声を抑えつつ、この状況を訴える。
「お父様、これはどういうことですか? 今日は緑川のおじ様とおば様がお見えになるというからホテルに足を運んだのに」
勢い余って声が段々大きくなっていると気がつき、慌ててトーンを落とす。
けれど、イライラがピークに達している私の耳に飛び込んできたのは、このあり得ない状況を作った犯人――父ではなかった。
『伊緒里お嬢さん、いかがされましたか? 先生は今、党の本部で会議の真っ最中です』
電話に出たのは、秘書の坂本さんだ。
父が国政デビューしたときからの秘書で、父の腹心の部下である。
父の言うことは絶対である彼は、恐らく今日のこの件にも一枚噛んでいるはずだ。
ギリリと歯ぎしりをしたいのをグッと堪え、私は坂本さんに抗議をする。
「なら、お父様じゃなくてもいいです。坂本さんは知っていたのでしょう?」
『なんのことでしょう?』
なんとも白々しい。携帯電話を持つ私の手にグッと力が入り、怒りのあまり震えた。
口の端をヒクつかせながら、電話口の坂本さんに問う。
「緑川のおじ様とおば様が、私に会いたいとおっしゃっているとお父様から聞いたので、今日ホテルでお食事をする約束だったのです」
『そうだったのですか? それで、どうなさったのですか? 緑川先生はお見えになっていませんか?』
本当に白々しい。よくもまぁ、この状況でしらを切れるものだ。面の皮が厚いというのは坂本さんのような人を言うのだろう。
父と同じ年齢の彼は、本当に曲者である。これ以上会話を続けたところで、事態はどうにもならない。私は、盛大にため息を零した。
恐らく、私がこうして電話で抗議してくるのは、彼らからしたら想定内。
私の気持ちを無視してでも、婚約者に会わせようとしているに違いない。
『緑川先生がいらっしゃらないのなら、その場にいる方とお食事をしてきてください』
何も言わなくなった私に対し、坂本さんは業務連絡みたいに淡々と告げる。
『伊緒里お嬢さん。貴女が就職する際に取り決めた約束を思い出してください。貴女が働きたい、一人暮らしをしたいと言い出したとき、先生はちゃんと条件をつけましたよね?』
「……っ」
『貴女は先生との約束を守るべきです。ここ最近、仕事が忙しいという理由で婚約者である廣渡氏からのお誘いを全て断っていたそうじゃないですか。それでは、廣渡家から文句が出るでしょうし、瀬戸家も面子が立ちません』
おわかりですね、と坂本さんは諭す口調で静かに言う。その言葉の端々に「異論は認めません」との感情が見えた。
『瀬戸家の掟。お忘れではありませんよね? 貴女は先生に交換条件を提示してきたのですから。先生が貴女の願いを叶えてくださっているということをお忘れなきよう』
それだけ言うと、坂本さんは通話を切ってしまった。ツーツーという無機質な電子音が聞こえる。
私は小さく息を吐き出しながら、鞄に携帯電話をしまい込んだ。
彼が言っていた〝瀬戸家の掟〟とは、瀬戸家の人間が守らなければならない決まりを事細かく示したもので、その一つが『男子は政治の道に進み、女子は瀬戸家を守るために家が決めた者と結婚をする』というなんともはた迷惑で時代錯誤なものである。
兄はこの掟に則って政治の道に進んでおり、私には家が用意した男性との結婚が待っている……
本当は大学卒業と同時に結婚という話だったのを、必死に説得して期限を延ばしているのだ。
しかし、就職して二年。二十四歳になった。そろそろ我が儘は通用しなくなる。
私は婚約者の廣渡さんを見て、盛大にため息を零す。このまま逃げ去ってしまいたいが、会わずに帰るという選択肢は残されていない。
本当に逃げ帰りたい。会いたくないものは、会いたくないのである。
どうにかしてこの縁談を潰す手立てはないかと色々考えたものの妙案は生まれず、ノラリクラリと彼からの誘いを躱していたのだが……
このまま逃げ帰ったとしたら、父はさらに強引な手段に出てくるはずだ。
そうなってしまえば、私に逃げ道はない。自由もない。〝ないないづくし〟の花嫁街道まっしぐらである。
ここは一つ、少しでも結婚時期を遅らせるため、廣渡さんに会って、相手の出方を窺おう。
私は重い足取りで彼に近づき、ため息をつきたいのを我慢して愛想笑いをする。
「ごきげんよう、廣渡さん」
「ああ、伊緒里ちゃん。こんにちは、久しぶりですねぇ」
「え、ええ……スミマセン。仕事が忙しくて」
曖昧に笑ってごまかす私に、廣渡さんは大げさに肩を竦めた。
「だから、前から言っているでしょう? 伊緒里ちゃん。君は僕の妻となる身なのですから、OLなんてやっていないで、早く我が家に嫁いでくればいいのに」
「すみません……どうしても結婚前に社会に出て、自分の足で歩いてみたかったので」
「ふふ、そういうところは君らしいですね。でも、うちのママが早く結婚しなさいと待っているので、そろそろ仕事は辞めて我が邸に花嫁修業に来てください」
「っ!」
彼の言葉に、私はゾゾッと背筋が凍ってしまう。強ばる顔を無理やり動かして苦笑いを浮かべるこちらには気づかず、廣渡さんは彼の母親の話を続ける。
それに適当な相槌を打ちながらも、私は鳥肌が抑えられなかった。
婚約者の廣渡雅彦さん、華道の次期家元であり、現在二十九歳。見た目は、なかなかのイケメンである。
少々つり上がった目と薄い唇はクールに見えるし、モデルのようにスラリとしていてプロポーション抜群だ。
日常的に和服を愛用していて、それがまた、よく似合っている。さすがは、和の文化に身を置く人だ。
そんな彼は和風美男子と言えなくもない。
しかし、私はこれっぽっちも彼に魅力を感じなかった。
その理由の一つは、彼が極度のマザコンだからだ。それがどうしても生理的に受けつけられないのである。
廣渡家は瀬戸家の地盤となっている地域の名家なので、私たちの婚姻によりお互いの家を発展させていこうというのが両家の親の狙いだ。
利害関係があるため、私が断固拒否しても破談にはならない。
少しでも結婚の時期を引き延ばす道しか、残されていないのだ。
私が席についてすぐに頼んだ紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。
それほど長い時間、廣渡さんの母親自慢に相槌を打っているのだ。
「それでですね。うちのママの料理は格別で! 君にもママの味をしっかり覚えてもらいたいのですよ」
「は、はぁ……」
「そのためにも、早く我が邸に来て花嫁修業をしていただかないと。うちのママの足元にも及ばないとは思いますが、僕の妻として少しはうちのママのようにおしとやかで素敵な女性になっていただきたいですから」
永遠と続きそうなその話を制止しようと、私は頬を引き攣らせて話題を変えた。
「あ、あの。廣渡さん。今からお食事に行くと聞いておりましたが……。お時間は大丈夫ですか?」
「ああ、もうこんな時間ですか。すっかり話し込んでしまいましたね。では、行きましょう」
「……はい」
なんとか〝ママ自慢〟は阻止できたが、ここからまた苦行の時間が始まるのかと思うとウンザリだ。
だが、仕方がない。少しでも結婚時期を引き延ばすためには、廣渡さんのペースに合わせる必要がある。
会計を済ませた彼の後ろをついて行き、ゆっくりと歩を進める。そして、エレベーターホールまでやってきた。
私はエレベーターの前に立ちながら、今日何度目かわからないため息をこっそりと吐き出す。
廣渡さんが好んでいるのは和食だ。毎度彼が予約するのは、寿司や天ぷらなどの和食のお店である。
フランス料理やイタリア料理に連れていかれたことはないし、好みを聞かれたことも一度としてない。
マザコンに加え、ナルシスト、尚且つ自分本位の彼とは、死んでも結婚したくないとつい思ってしまう。
どう甘く考えても、私を愛してくれると思えない。
そんな廣渡さんはエレベーターのボタンに手を伸ばし、上の矢印ボタンを押した。
それを見て「おや?」と首を捻る。よくよく考えれば、どうして彼はエレベーターの前で立ち止まったのだろう。
このホテルにある和食店は、今いる一階の割烹料理店一店舗のみ。エレベーターに乗る必要はないはずだ。
まさか、今日は最上階のフランス料理店にでも行くのだろうか。
私はなんとなく嫌な予感がして、廣渡さんに声をかけてみる。
「あ、あの……廣渡さん?」
「なんですか?」
「今日は和食のお店に行かれないのですか? 和食のお店はこのフロアにあるはずです」
割烹料理店の案内板を指差す私に、彼はフフフと意味深に笑った。
「今日は部屋を取ってあります。そこに料理を運ばせてあるので行きましょう」
「え……?」
まさかの返答に目を丸くしていると、廣渡さんが私の肩を抱き寄せる。
今まで彼が私に触れたことなんて一度もなかった。この行為に驚きを隠せない。
ますます目を丸くする私に、廣渡さんが大げさに驚く。
「何を驚くことがあるのですか?」
「だ、だって……!」
彼と婚約関係になったのは、二年前だ。その後、極力会わないように努力していたとはいえ、何度か食事をしている。
しかし、その食事の間、彼は自分と母親の自慢話ばかりで、私には興味がなさそうだったのだ。
私の身体に触れたのも、今日が初めて。
なぜ、彼はいきなりこんな暴挙に出てきたのか。
意味がわからず硬直していると、彼はクツクツと肩を震わせて笑った。
「僕たちは婚約者同士ですよ? それも二年も関係が続いています」
「……ええ」
不本意ではあるが、廣渡さんの言う通りだ。
素直に頷いた私を見て、彼は満足げな様子になる。
「君のお父様も、そして僕のママも、僕たちが結婚するのを待ち望んでいる」
「は、はぁ……」
その認識も間違ってはいないだろう。だが、嫌な予感しかしない。
後ずさりしたくても肩を抱かれていてできないでいると、廣渡さんは真面目な表情で私の顔を覗き込んできた。
「瀬戸家の掟、僕も色々と聞いているのですが、一つ確かめたいことがあるのです」
「確かめたい……こと?」
ますます嫌な予感しかしない。
私が頬を引き攣らせながら聞くと、彼は満面の笑みを浮かべた。その笑みが気持ち悪すぎて、及び腰になる。
怯える私に、廣渡さんは手で口を隠し肩を震わせて笑い出した。
「ええ。伊緒里ちゃんのお家、結婚するまでは処女じゃないとダメだという決まりがあるのでしょう?」
「っ!」
「そうなのでしょう? 伊緒里ちゃん」
廣渡さんが言う〝瀬戸家の掟〟は存在している。
〝結婚をする前の女子の性交渉は固く禁ずる〟というのだ。
しかし、私は別にその掟があるから処女を守ってきたわけではない。残念ながら、そういう機会が今まで一度もなかっただけだ。
家の監視下で生活していたので恋人を作ることは不可能だった。男性と話す機会のなかった私が恋をするなんて無理に決まっている。
もちろん、純潔を散らすなどさらに困難だ。
口を閉ざしていると、廣渡さんはフフッと意味ありげに笑った。
「君は処女で間違いないはずだ。そうだよね? もし、違っていたら君はお父様に叱られる。勘当されるかな? 格式高い家のご令嬢は、ひと味違いますねぇ」
厭らしい視線を向ける彼が言っていることは事実だ。
ようやく社会人となり、男性と話せる環境に飛び込んだのに、そのときには家が用意した婚約者がいた。
それを無視して恋人を作るなど、私にはできない。恋人の存在を父が耳にしたら……その男性に色々な制裁を加えるだろう。
他人に話せば「何をそんなバカなことを」と失笑されてしまうかもしれないが、うちの家はやるだろう。
それが、瀬戸家だ。
それに、もし私が他に恋人を作ってこの婚約を破談にした場合、痛手を負うのはうちの家族だ。
古くさい考えを押しつけてくる父や母、そして兄だが、私にとっては大事な家族。
こちらから破談にはできない。
未だに何も言わない私をジッと見つめていた廣渡さんだったが、腰を屈めて私の耳元で囁く。
「でも、本当ですか?」
「え?」
意味がわからず反応した私の肩を、彼は引き寄せる。
そして、とんでもないことを言い出したのだ。
「伊緒里ちゃんは、本当に処女なのですか?」
「は……!?」
ストレートすぎる問いに、思わず声を上げた。
そんな私を見て、廣渡さんは真剣な面持ちでより強く私の肩を抱き寄せる。
彼から香るのはお香だろうか。和の香りは嫌いではないが、廣渡さんの香りだと思うと嫌いになりそうだ。
慌てて彼の腕から逃げようとしたのだが、グイッと力強く戻された。
「っゃあ!」
「伊緒里ちゃんは、僕のお嫁さんになるのですよ? これぐらいで恥ずかしがっていてどうするのですか?」
恥ずかしがっているのではない。嫌がっているのだ。
だが、自分を嫌うはずがないと思い込んでいるナルシストに、私の気持ちなど伝わるわけがない。
嫌悪感と一緒に恐怖も押し寄せてくる。震えている私に、廣渡さんは小さく笑い出す。
「ママがね」
「え?」
「確かめてこいって言うのですよ。伊緒里ちゃんが処女かどうか」
「は……?」
何を言い出したのか、この男は。
今までも充分理解不可能なことを言ってはいたが、さらに不可解な言葉が飛んできた。
唇を戦慄かせている私に気がついていないのか、彼はクスクスと楽しげに笑う。
「僕にはね。こんなに初心で男に免疫がなさそうな伊緒里ちゃんを見れば、処女だって丸わかりではあるのですけどね」
そうだ、そうだ。その通りだ。私は必死に何度も首を縦に振る。
処女か、処女じゃないか。その辺りのデリケートな部分を人様に伝えたくはない。
だが、今、しっかりと伝えておかなければおかしなことになりそうだ。それを肌で感じる。
「上総くん、相変わらず意地悪ね。そこを通してもらえますか?」
「ああ、悪い、悪い。伊緒里嬢。あんまりに小さすぎて見えなかった」
そう言って、目の前のフェロモン漂うオリエンタルな美貌の青年、桐生上総くんはやっと身体を半分ずらしてくれた。
彼は私、瀬戸伊緒里の行く手をずっと阻んでいたのだ。
何度もすり抜けようと試みたが、そのたびに身体をうまくずらされて前に進めなかった。
それもそのはず。彼と私の身長差は二十センチ以上。
百五十八センチの私、そして百八十センチの上総くんでは体格差がありすぎだ。
私より断然足が長く、尚且つ男らしい体躯の持ち主に、小柄な私が勝てるわけがない。
年齢差は五つ。年でも負けている。
そんな私たちは幼なじみという間柄だ。
昔は仲が良く、私を妹みたいにかわいがってくれた上総くんだったが、ここ数年、私に対して意地悪になっている気がする。
なので彼の横を通るときに軽く足を踏むと、上総くんはすぐに口角をクイッと上げて、意味深な笑みを浮かべた。その笑みが意地の悪いものだったので、私は顔を歪める。
だが、彼は不機嫌な私を気にもしていない。
「相変わらず、じゃじゃ馬なお嬢様だな、伊緒里は。余所では模範生みたいに猫を被っているのに、今日はどこかに置いてきたのか? 探しに行ってやろうか?」
「上総くんだって、相変わらず頑丈な猫を被っているわよね。うまく化けていて感心するわ!」
会えば減らず口を叩かれるため、つい私も叩き返してしまう。売り言葉に買い言葉がエスカレートしていくのだ。
上総くんと顔を合わせれば、こんなふうに言い争いになるとわかっていた。
だから、ここ最近は会わないようにしていたのだが、『今夜だけは顔を出してほしいの。上総が仕事で日本を離れることになったのよ。壮行会ではないけど、頑張れって笑顔で送り出してあげたくて。でも、私と主人だけじゃ寂しいじゃない? だから、伊緒里ちゃんも参加してくれない? 伊緒里ちゃんの大学卒業のお祝いもしたいし。ね?』と彼の母親に頼み込まれて、このレストランに来たのだ。
そして食事後、『しばらく会えなくなるんだし、二人でお話でもしたら?』となぜか個室に残された。私たち二人しかいないから、彼も遠慮がない。
やっぱり、来ない方が私のためにも、彼のためにも良かったのかもしれない。私は深くため息をつきたくなった。
昔はこうじゃなかったのに、どうしてこんなふうになってしまったのか。
『私ね、うちのお兄様も好きだけど。上総くんの方が大好き』
小さな頃の私は、血の繋がりのある実兄以上になつくほど、上総くんが好きだった。
彼と初めて会ったのは、何かのパーティーだったと思う。
上総くんの家は大手貿易会社を経営していて、私の父は代議士だ。そのパーティーには互いに家族で参加していた。
仲良く遊ぶ二人を見て母親同士も顔見知りになり、いつの頃からか頻繁にお互いの家を行き来する間柄になったのだ。
とにかく幼い私は、上総くんに会えると聞けば、会うまでの日数を指折り数えていたほど。
それが、彼が大学生になった頃から突然距離を置かれるようになってしまった。
なぜなのか、その理由を彼に聞いてはいない。
ただ単に私が気に入らなくなったのかもしれなかった。
そんな彼に、昔のように優しくしてほしいと縋るつもりは毛頭ない。
嫌いなら嫌いで結構。私たちは、赤の他人だ。
今夜が終われば、彼とは当分会わないはず。彼が日本に戻ってくるのは、何年先かわからないらしいからだ。
「向こうでも、その腹黒さを発揮してせいぜい頑張って?」
「それは、お気遣いありがとう。俺の心配をするより、自分の心配をしたらどうだ?」
「え?」
「婚約すると、母さんから聞いたぞ。婚約者に愛想を尽かされないようにしろよ」
「余計なお世話っ!」
ニヤリと笑って悪態をついた上総くんは、その後、ヒラヒラと手を振って私の前から去っていく。
「言い逃げなんて、卑怯よ!!」
ググッと拳を握りしめて彼の背中に言葉をぶつけたあと、私もレストランを出た。
とりあえず、義理は果たせたはずだ。お役御免でいいだろう。
「もう、当分、会うことはないもんねーだ」
そう小さく呟いて、胸の痛みには気づかないフリをする。
当分どころか、もう、彼と会う機会はない。
そう思っていた。
二年後に予期せぬ形で再会を果たすまでは――
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「嵌められた……?」
憤りに顔を歪めて、私は己のうかつさに頭を抱えた。
都内にある外資系ホテルのロビーに足を踏み入れたところで、婚約者の姿を見つけてしまったのだ。慌てて物陰に隠れて息を潜める。
幸いロビーには多国籍の客が数多く行き交っている。
ピアノの生演奏が響くシックで高級感溢れる素敵な空間に、鬼気迫る表情の女が一人。もちろん、私のことだ。
今日の私は、ベージュのフレアワンピースを着ていた。五分袖で、ウエスト部分にリボンをあしらった清楚なイメージのものだ。
そのワンピースのスカートが物陰から出ないよう、裾を押さえて隠す。
(どうして、あの男がここにいるのよ!)
心の中で盛大に叫びながら、ロビーから少し離れたラウンジを見回した。
今日はこれから子供の頃からかわいがってもらっている緑川ご夫妻と食事をする予定で、このホテルのラウンジで落ち合う約束をしている。
だが、その相手はおらず、代わりにこの世の中で一番会いたくない婚約者がいたのだ。
着流しに羽織を纏ったその彼は、和風男子とでも言うのだろうか。雅な雰囲気でコーヒーを飲み、周りの女性たちの視線をほしいままにしている。
だが、是非とも忠告させていただきたい、と私は眉間に皺を寄せた。
(そこで頬を赤く染めている女性の皆様方。騙されてはいけません。その男、とんでもないやつですよ!)
そんなことを胸中で叫びながら、私は疑い深くその男を監視し続ける。
身を小さくして柱の陰に隠れると、携帯電話を鞄から取り出した。
電話をかける相手は決まっている。私に嘘をついた人間だ。
呼び出し音を聞きつつ、どうしてこんな事態になってしまったのかとさらに眉を寄せた。
瀬戸伊緒里、二十四歳。世間ではお嬢様学校と言われている女子大を卒業後、都内の企業で働いているごく普通のOLだ。
容姿は、平均並みだと自分では評価しているが、動物に例えるとタヌキ顔らしい。
よく言えば愛嬌があるのだろうが、年齢より幼く見られるのは不満だ。
ショートボブの黒髪で、自分では大和撫子風だと思っている。
性格は……少々堅物で所謂委員長タイプだとよく言われるが、これといって特記すべき点はない。
ただ、実家の瀬戸家は先祖代々、政治家を輩出していて、そのせいか古きを重んじる家だ。
私の父も国会議員を務めているし、兄も政治家の道を歩もうとしている。
そんな堅苦しい家の空気が嫌で、私は就職を機に家を出ていた。
そうして手に入れた気ままな一人暮らし生活だが、あとどれくらい堪能できるのだろうか。
現在の危機的状況を目の当たりにし、残り僅かなのだろうとヒシヒシと肌で感じてしまう。
なぜなら、自由に過ごせるのは婚約者と結婚するまで。それが、独立が認められた際の条件なのだ。
父は堅物で融通が利かない人。
しっかり愛情を注がれているのはわかっているが、押しつけ感が半端ない。とにかく私に対して心配性なのである。
だから自分が厳選した物だけを、与えようとするのだ。婚約者は、その典型だった。
吹き抜けの広々としたラウンジを柱の陰から見つめ、私はため息をつく。
未だに繋がらない電話に苛立ちを覚え、「お父様、早く出て!」と念じた。
緑川ご夫妻との約束は父を通してされたものだ。私は父に騙されたのだろう。
数回の呼び出し音のあと、ようやく電話の主が出た。私は声を抑えつつ、この状況を訴える。
「お父様、これはどういうことですか? 今日は緑川のおじ様とおば様がお見えになるというからホテルに足を運んだのに」
勢い余って声が段々大きくなっていると気がつき、慌ててトーンを落とす。
けれど、イライラがピークに達している私の耳に飛び込んできたのは、このあり得ない状況を作った犯人――父ではなかった。
『伊緒里お嬢さん、いかがされましたか? 先生は今、党の本部で会議の真っ最中です』
電話に出たのは、秘書の坂本さんだ。
父が国政デビューしたときからの秘書で、父の腹心の部下である。
父の言うことは絶対である彼は、恐らく今日のこの件にも一枚噛んでいるはずだ。
ギリリと歯ぎしりをしたいのをグッと堪え、私は坂本さんに抗議をする。
「なら、お父様じゃなくてもいいです。坂本さんは知っていたのでしょう?」
『なんのことでしょう?』
なんとも白々しい。携帯電話を持つ私の手にグッと力が入り、怒りのあまり震えた。
口の端をヒクつかせながら、電話口の坂本さんに問う。
「緑川のおじ様とおば様が、私に会いたいとおっしゃっているとお父様から聞いたので、今日ホテルでお食事をする約束だったのです」
『そうだったのですか? それで、どうなさったのですか? 緑川先生はお見えになっていませんか?』
本当に白々しい。よくもまぁ、この状況でしらを切れるものだ。面の皮が厚いというのは坂本さんのような人を言うのだろう。
父と同じ年齢の彼は、本当に曲者である。これ以上会話を続けたところで、事態はどうにもならない。私は、盛大にため息を零した。
恐らく、私がこうして電話で抗議してくるのは、彼らからしたら想定内。
私の気持ちを無視してでも、婚約者に会わせようとしているに違いない。
『緑川先生がいらっしゃらないのなら、その場にいる方とお食事をしてきてください』
何も言わなくなった私に対し、坂本さんは業務連絡みたいに淡々と告げる。
『伊緒里お嬢さん。貴女が就職する際に取り決めた約束を思い出してください。貴女が働きたい、一人暮らしをしたいと言い出したとき、先生はちゃんと条件をつけましたよね?』
「……っ」
『貴女は先生との約束を守るべきです。ここ最近、仕事が忙しいという理由で婚約者である廣渡氏からのお誘いを全て断っていたそうじゃないですか。それでは、廣渡家から文句が出るでしょうし、瀬戸家も面子が立ちません』
おわかりですね、と坂本さんは諭す口調で静かに言う。その言葉の端々に「異論は認めません」との感情が見えた。
『瀬戸家の掟。お忘れではありませんよね? 貴女は先生に交換条件を提示してきたのですから。先生が貴女の願いを叶えてくださっているということをお忘れなきよう』
それだけ言うと、坂本さんは通話を切ってしまった。ツーツーという無機質な電子音が聞こえる。
私は小さく息を吐き出しながら、鞄に携帯電話をしまい込んだ。
彼が言っていた〝瀬戸家の掟〟とは、瀬戸家の人間が守らなければならない決まりを事細かく示したもので、その一つが『男子は政治の道に進み、女子は瀬戸家を守るために家が決めた者と結婚をする』というなんともはた迷惑で時代錯誤なものである。
兄はこの掟に則って政治の道に進んでおり、私には家が用意した男性との結婚が待っている……
本当は大学卒業と同時に結婚という話だったのを、必死に説得して期限を延ばしているのだ。
しかし、就職して二年。二十四歳になった。そろそろ我が儘は通用しなくなる。
私は婚約者の廣渡さんを見て、盛大にため息を零す。このまま逃げ去ってしまいたいが、会わずに帰るという選択肢は残されていない。
本当に逃げ帰りたい。会いたくないものは、会いたくないのである。
どうにかしてこの縁談を潰す手立てはないかと色々考えたものの妙案は生まれず、ノラリクラリと彼からの誘いを躱していたのだが……
このまま逃げ帰ったとしたら、父はさらに強引な手段に出てくるはずだ。
そうなってしまえば、私に逃げ道はない。自由もない。〝ないないづくし〟の花嫁街道まっしぐらである。
ここは一つ、少しでも結婚時期を遅らせるため、廣渡さんに会って、相手の出方を窺おう。
私は重い足取りで彼に近づき、ため息をつきたいのを我慢して愛想笑いをする。
「ごきげんよう、廣渡さん」
「ああ、伊緒里ちゃん。こんにちは、久しぶりですねぇ」
「え、ええ……スミマセン。仕事が忙しくて」
曖昧に笑ってごまかす私に、廣渡さんは大げさに肩を竦めた。
「だから、前から言っているでしょう? 伊緒里ちゃん。君は僕の妻となる身なのですから、OLなんてやっていないで、早く我が家に嫁いでくればいいのに」
「すみません……どうしても結婚前に社会に出て、自分の足で歩いてみたかったので」
「ふふ、そういうところは君らしいですね。でも、うちのママが早く結婚しなさいと待っているので、そろそろ仕事は辞めて我が邸に花嫁修業に来てください」
「っ!」
彼の言葉に、私はゾゾッと背筋が凍ってしまう。強ばる顔を無理やり動かして苦笑いを浮かべるこちらには気づかず、廣渡さんは彼の母親の話を続ける。
それに適当な相槌を打ちながらも、私は鳥肌が抑えられなかった。
婚約者の廣渡雅彦さん、華道の次期家元であり、現在二十九歳。見た目は、なかなかのイケメンである。
少々つり上がった目と薄い唇はクールに見えるし、モデルのようにスラリとしていてプロポーション抜群だ。
日常的に和服を愛用していて、それがまた、よく似合っている。さすがは、和の文化に身を置く人だ。
そんな彼は和風美男子と言えなくもない。
しかし、私はこれっぽっちも彼に魅力を感じなかった。
その理由の一つは、彼が極度のマザコンだからだ。それがどうしても生理的に受けつけられないのである。
廣渡家は瀬戸家の地盤となっている地域の名家なので、私たちの婚姻によりお互いの家を発展させていこうというのが両家の親の狙いだ。
利害関係があるため、私が断固拒否しても破談にはならない。
少しでも結婚の時期を引き延ばす道しか、残されていないのだ。
私が席についてすぐに頼んだ紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。
それほど長い時間、廣渡さんの母親自慢に相槌を打っているのだ。
「それでですね。うちのママの料理は格別で! 君にもママの味をしっかり覚えてもらいたいのですよ」
「は、はぁ……」
「そのためにも、早く我が邸に来て花嫁修業をしていただかないと。うちのママの足元にも及ばないとは思いますが、僕の妻として少しはうちのママのようにおしとやかで素敵な女性になっていただきたいですから」
永遠と続きそうなその話を制止しようと、私は頬を引き攣らせて話題を変えた。
「あ、あの。廣渡さん。今からお食事に行くと聞いておりましたが……。お時間は大丈夫ですか?」
「ああ、もうこんな時間ですか。すっかり話し込んでしまいましたね。では、行きましょう」
「……はい」
なんとか〝ママ自慢〟は阻止できたが、ここからまた苦行の時間が始まるのかと思うとウンザリだ。
だが、仕方がない。少しでも結婚時期を引き延ばすためには、廣渡さんのペースに合わせる必要がある。
会計を済ませた彼の後ろをついて行き、ゆっくりと歩を進める。そして、エレベーターホールまでやってきた。
私はエレベーターの前に立ちながら、今日何度目かわからないため息をこっそりと吐き出す。
廣渡さんが好んでいるのは和食だ。毎度彼が予約するのは、寿司や天ぷらなどの和食のお店である。
フランス料理やイタリア料理に連れていかれたことはないし、好みを聞かれたことも一度としてない。
マザコンに加え、ナルシスト、尚且つ自分本位の彼とは、死んでも結婚したくないとつい思ってしまう。
どう甘く考えても、私を愛してくれると思えない。
そんな廣渡さんはエレベーターのボタンに手を伸ばし、上の矢印ボタンを押した。
それを見て「おや?」と首を捻る。よくよく考えれば、どうして彼はエレベーターの前で立ち止まったのだろう。
このホテルにある和食店は、今いる一階の割烹料理店一店舗のみ。エレベーターに乗る必要はないはずだ。
まさか、今日は最上階のフランス料理店にでも行くのだろうか。
私はなんとなく嫌な予感がして、廣渡さんに声をかけてみる。
「あ、あの……廣渡さん?」
「なんですか?」
「今日は和食のお店に行かれないのですか? 和食のお店はこのフロアにあるはずです」
割烹料理店の案内板を指差す私に、彼はフフフと意味深に笑った。
「今日は部屋を取ってあります。そこに料理を運ばせてあるので行きましょう」
「え……?」
まさかの返答に目を丸くしていると、廣渡さんが私の肩を抱き寄せる。
今まで彼が私に触れたことなんて一度もなかった。この行為に驚きを隠せない。
ますます目を丸くする私に、廣渡さんが大げさに驚く。
「何を驚くことがあるのですか?」
「だ、だって……!」
彼と婚約関係になったのは、二年前だ。その後、極力会わないように努力していたとはいえ、何度か食事をしている。
しかし、その食事の間、彼は自分と母親の自慢話ばかりで、私には興味がなさそうだったのだ。
私の身体に触れたのも、今日が初めて。
なぜ、彼はいきなりこんな暴挙に出てきたのか。
意味がわからず硬直していると、彼はクツクツと肩を震わせて笑った。
「僕たちは婚約者同士ですよ? それも二年も関係が続いています」
「……ええ」
不本意ではあるが、廣渡さんの言う通りだ。
素直に頷いた私を見て、彼は満足げな様子になる。
「君のお父様も、そして僕のママも、僕たちが結婚するのを待ち望んでいる」
「は、はぁ……」
その認識も間違ってはいないだろう。だが、嫌な予感しかしない。
後ずさりしたくても肩を抱かれていてできないでいると、廣渡さんは真面目な表情で私の顔を覗き込んできた。
「瀬戸家の掟、僕も色々と聞いているのですが、一つ確かめたいことがあるのです」
「確かめたい……こと?」
ますます嫌な予感しかしない。
私が頬を引き攣らせながら聞くと、彼は満面の笑みを浮かべた。その笑みが気持ち悪すぎて、及び腰になる。
怯える私に、廣渡さんは手で口を隠し肩を震わせて笑い出した。
「ええ。伊緒里ちゃんのお家、結婚するまでは処女じゃないとダメだという決まりがあるのでしょう?」
「っ!」
「そうなのでしょう? 伊緒里ちゃん」
廣渡さんが言う〝瀬戸家の掟〟は存在している。
〝結婚をする前の女子の性交渉は固く禁ずる〟というのだ。
しかし、私は別にその掟があるから処女を守ってきたわけではない。残念ながら、そういう機会が今まで一度もなかっただけだ。
家の監視下で生活していたので恋人を作ることは不可能だった。男性と話す機会のなかった私が恋をするなんて無理に決まっている。
もちろん、純潔を散らすなどさらに困難だ。
口を閉ざしていると、廣渡さんはフフッと意味ありげに笑った。
「君は処女で間違いないはずだ。そうだよね? もし、違っていたら君はお父様に叱られる。勘当されるかな? 格式高い家のご令嬢は、ひと味違いますねぇ」
厭らしい視線を向ける彼が言っていることは事実だ。
ようやく社会人となり、男性と話せる環境に飛び込んだのに、そのときには家が用意した婚約者がいた。
それを無視して恋人を作るなど、私にはできない。恋人の存在を父が耳にしたら……その男性に色々な制裁を加えるだろう。
他人に話せば「何をそんなバカなことを」と失笑されてしまうかもしれないが、うちの家はやるだろう。
それが、瀬戸家だ。
それに、もし私が他に恋人を作ってこの婚約を破談にした場合、痛手を負うのはうちの家族だ。
古くさい考えを押しつけてくる父や母、そして兄だが、私にとっては大事な家族。
こちらから破談にはできない。
未だに何も言わない私をジッと見つめていた廣渡さんだったが、腰を屈めて私の耳元で囁く。
「でも、本当ですか?」
「え?」
意味がわからず反応した私の肩を、彼は引き寄せる。
そして、とんでもないことを言い出したのだ。
「伊緒里ちゃんは、本当に処女なのですか?」
「は……!?」
ストレートすぎる問いに、思わず声を上げた。
そんな私を見て、廣渡さんは真剣な面持ちでより強く私の肩を抱き寄せる。
彼から香るのはお香だろうか。和の香りは嫌いではないが、廣渡さんの香りだと思うと嫌いになりそうだ。
慌てて彼の腕から逃げようとしたのだが、グイッと力強く戻された。
「っゃあ!」
「伊緒里ちゃんは、僕のお嫁さんになるのですよ? これぐらいで恥ずかしがっていてどうするのですか?」
恥ずかしがっているのではない。嫌がっているのだ。
だが、自分を嫌うはずがないと思い込んでいるナルシストに、私の気持ちなど伝わるわけがない。
嫌悪感と一緒に恐怖も押し寄せてくる。震えている私に、廣渡さんは小さく笑い出す。
「ママがね」
「え?」
「確かめてこいって言うのですよ。伊緒里ちゃんが処女かどうか」
「は……?」
何を言い出したのか、この男は。
今までも充分理解不可能なことを言ってはいたが、さらに不可解な言葉が飛んできた。
唇を戦慄かせている私に気がついていないのか、彼はクスクスと楽しげに笑う。
「僕にはね。こんなに初心で男に免疫がなさそうな伊緒里ちゃんを見れば、処女だって丸わかりではあるのですけどね」
そうだ、そうだ。その通りだ。私は必死に何度も首を縦に振る。
処女か、処女じゃないか。その辺りのデリケートな部分を人様に伝えたくはない。
だが、今、しっかりと伝えておかなければおかしなことになりそうだ。それを肌で感じる。
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