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第十五話

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(男の人の唇って、あんなに柔らかいんだ)
 自分の唇に触れて、尚先生のキスを思い出す。
 男の人からキスをされたことは初めてで、今思い出しただけでも顔が熱くなる。
 以前付き合っていた彼とはキスはおろか、セックスだってしたことがなかった。
 唯一したキスといえば、ギクシャクしていた仲を戻したくてした私からのキスだ。
 だけど、それが決定打となり、辛辣な言葉を浴びせられながら別れることになった。
 私の脳内妄想恋愛機で何度もイケメンとキスシーンを妄想していたけど、実際は全然違った。
 前にフジコが言っていたとおり、ぬくもりがあるキスは思っていた以上にドキドキして、気持ちが良かった。それも、もっとしたいと思ったほどだ。
「うわわああ!!!」
 思わず叫んでしまい、慌てて口を押さえる。
 何考えているのよ、私ったら。ドキドキしたまでは良いとしても、気持ちがよかっただなんて。それももっとしたいなんて。
 頭を抱えて恥ずかしさを紛らわせるが、唇はまだ尚先生のぬくもりを覚えていた。
 ああ、もう。私は一体どうすればいいんだろう。
 声にならない叫び声を上げていると、何やら私を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、タマちゃん。どうしたんだよ?」
「え? 翔くん」
「さっきから一人で奇声を発したり、挙動不審になったり。俺が何度呼んでも気が付きもしねぇで」
「ご、ごめんね。ちょっと考え事をしてたの」
 今、マンションの隣にある一軒家。但馬家にお邪魔していたのに、すっかりとそのことを忘れて昨日のことを思い返していたようだ。
 慌てて繕う私を見て、翔くんは不審顔である。目の前にいる真奈美さんは、何やら意味ありげな表情を浮かべている。
 何となく居たたまれなくなって、先ほど真奈美さんが出してくれた紅茶を手に取る。
 慌てて紅茶に口をつける私を、ジッと見つめる翔くんの視線が痛い。
 その視線に気が付かない振りをする私に、翔くんは顔を歪める。
「昨日、尚にぃから電話があったんだけど」
「へ!?」
 思わず上擦る返事を聞いて、翔くんは大きくため息をついた。
「やっぱり、あのとき尚にぃと一緒にいたんだな。タマちゃん」
「えっと、その……」
 再び尚先生とのキスを思い出してしまい、顔が熱くなる。それを見ていた翔くんはより顔を歪めた。
「電話の内容、傍で聞いていたんだろう? あんな宣戦布告なんてしてきて」
「う、うん……」
「まさか、尚にぃになんかされたのかよ!」
 青ざめる翔くんに、私は慌てて取り繕う。何もなかったと言う私の顔をジッと見ていたと思ったら、勢いよく立ち上がった。
「しょ、翔くん!?」
「一発殴ってくるわ」
「ちょっと待って、翔くん。尚先生は何も」
 恐ろしいほど怖い形相をした翔くんを引き留めようとしたが、睨み付けられてしまった。
 今までに見たことがないほど、翔くんは怒っている。
 今まで口を挟まなかった真奈美さんは「翔、待ちなさい」と静かに言った。
 だが、それがまた翔くんの怒りを増幅させたようで、彼は真奈美さんを睨み付ける。
「うるせぇ、母ちゃん」
「うるせぇだと? このバカ息子が! そんなんだからガキだって言われるんだ」
「っ!」
 真奈美さんは、翔くんより背が低い。だが今は彼より小さい真奈美さんの方が威圧的に見える。
 それは翔くんもわかっているのか、バツが悪そうな表情を浮かべた。
「アンタは欲しいモノを手にするために何をした!? 中途半端に思いを寄せていたって振り向いてもらえないぞ。そんなに世の中甘くない!」
「……」
「現に、翔の気持ちは届いていない。それが証拠だろう? 違うか、バカ息子」
「バカ、バカうるせぇんだよ!」
「バカにバカと言って何が悪い。それに引き替え、多少強引さは否めないが尚は真っ向勝負している。それもすでにアドバンテージをゲットしている様子よ」
 震える拳に気が付き、ハッとして翔くんを見上げる。彼はグッと歯を食いしばったあと、ため息とともに力んでいた身体の力を抜いた。
 そのままソファーに座って俯くと、「なぁ、タマちゃん」と翔くんは小さく呟いた。
「俺のこと、どう思っているんだ?」
「翔くんのこと? どう思っているって……翔くんは翔くんだよ」
 何て答えていいのかわからず、曖昧に答えると翔くんはガックリと肩を落とした。
「やっぱりタマちゃんだよな。そうだよな」
「翔くん。何だかバカにされている気がするんだけど。私の気のせいかな?」
 ムッとして眉を顰めると、翔くんはチラリと視線を飛ばしたあと、再び肩を落とす。
「俺、タマちゃんのこと好きなんだけど」
「私も好きだよ、翔くんのこと」
「……」
「ん?」
 何か一瞬呆れたような空気が流れたような……
 小首を傾げる私に、翔くんと真奈美さんは盛大なため息をついた。
「ほら、みなさい。タマちゃんに通じていたら、とっくの昔に何かしらのアクションがあったわよ。翔を避けるとか、避けるとか、避けるとか」
「うるせぇ、母ちゃん。どうして避けるって決めつけるんだよ」
「だって、タマちゃんよ?」
「タマちゃんだよな……」
 親子で憐れんだ視線を向けるのは止めてください。
 口を尖らせ、私は翔くんに抗議する。
「翔くんが好きだっていう相手、私じゃないでしょう?」
「はぁ!? 何だよ、それ」
 眉をつり上げ私を睨む翔くんだが、私だって言いたいことがある。
 ムンと唇を強く引いたあと、腕を組んだ。
「私、翔くんが好きだって言ってくれるの嬉しいけど。わかってるよ」
「だから、どういう意味だ!」
 凄みが増す翔くんを、私はまっすぐ見つめた。
「翔くんがよく一緒にいる女の子いるでしょう?」
「ああ? 優奈のことか? アイツは幼馴染みで」
「彼女なんでしょ?」
 間髪入れずに言った私を、翔くんは初め目を見開いて見ていた。
 しかし、すぐに大声で否定してきた。
「何を言ってんだ、タマちゃん」
「何もそんなに慌てなくてもいいのに。いいのよ、わかってる。私に好きだって言っているのは家族愛みたいなものでしょう?」
 口をあんぐりと開けて呆然としている翔くん。その傍らで、哀れな視線を向けているのは真奈美さんだ。
 何かおかしなことを言っただろうか。はて、と首を傾げる。
 放心状態の翔くんを横目に、真奈美さんは苦笑した。
「どうしてそう思ったの? タマちゃん。さすがにたまにはドキッとすることはなかったわけ? 翔はタマちゃんに好意を見せていたわよ?」
「えっと……正直言うとありました。だけど、一年前ぐらいかなぁ……ああ、私の勘違いだったんだとわかりまして」
「何かあったの?」
「え……いや、あの、そのぉ」
 これはさすがに真奈美さんに言うのはマズイ気がする。
  翔くんの幼馴染みである優奈ちゃんと翔くんのキスシーンを見てしまったとは言いづらい。
 視線を泳がせる私を見て、翔くんは何か思い当たったようだ。
「まさか……」
「そのまさかですよ、翔くん。ダメよ、彼女がいるのに他の女にあんまり優しくしちゃ」
「……あれはアイツから強引にしてきただけだ。俺が好きなのはタマちゃんだけだ」
「翔くん」
 翔くんは私の顔をジッと見つけて、絞り出すように言った。
「でも、そのとき優奈とデキてるって片付けられたってことは。俺はタマちゃんにとってそこまでの存在だったということだよな」
 翔くんは天井を煽いだあと、真摯な視線を私に投げてきた。
「タマちゃんの頭の中は今、尚にぃのことでいっぱいなんだろ?」
「っ!」
 まさかここで尚先生のことを聞かれるとは思わなかった。その途端、昨日のキスが頭を過ぎる。
 翔くんをまっすぐに見ることができなくて、ソッと視線を逸らす。だけど、真っ赤な頬はバレバレだと思う。
 少しの沈黙のあと、翔くんは小さく呟いた。
「……わかった」
「え?」
 翔くんがガシガシと頭を掻くと、寂しそうに俯いた。
「ただタマちゃんのことはほっとけねぇから、今まで通り世話を焼いてやる」
 そう言って私の頭を撫でたあと、翔くんは顔を覗き込んできた。
「詳しくは知らねぇけどよ、タマちゃんが恋愛にトラウマ抱えてるのは薄々気が付いていた」
「っ」
 言葉をなくしていると翔くんは困ったように、だけどいつもどおり男気溢れる笑みを浮かべた。
「尚にぃに泣かされることがあったら、俺に言えよ」
 そういって私の頭を優しく触れたあと、翔くんはリビングから出て行った。
 その後ろ姿を見つめていると、真奈美さんがハァと息をついた。
「ごめんね、タマちゃん。何か色々と混乱させて」
「い、いえ」
 顔の前で手を振る私に、真奈美さんは肩を竦めた。
「翔のことは心配いらないわ。アイツはだいぶ前から自分がタマちゃんの恋愛対象になっていないことぐらい勘づいていたから。だからタマちゃんは、今まで通りにしてやって。急に態度変えると、翔のヤツ怒り狂うわよ」
 ニッと口角を上げる真奈美さんに、私は眉を下げてほほ笑むしかできない。
 すると、真奈美さんは私をギュッと抱きしめてきた。
「真奈美さん?」
「やっと抜け出す気になったかしら?」
「え……」
 驚いて目を見開く私を腕の中から解放し、真奈美さんはゆったりと笑みを浮かべる。
「妄想恋愛、する時間がないって顔をしてる」
「っ!」
 慌てて顔を隠す私に、真奈美さんはクスクスと声を出して笑う。
 こういうところ尚先生とそっくりだと思う。
 そんなことを考えてしまったら、再び私の頭の中は尚先生でいっぱいになってしまった。
  ますます慌てる私に、真奈美さんは困った表情を浮かべる。
「相手が尚だからねぇ……そりゃあタマちゃんが脳内妄想恋愛機を使う余裕もないほど強引なんでしょうけど」
「!」
 どこかで昨日のこと見ていましたか、と聞きたくなってしまう。
 昨日、お礼とお詫びで澤田家にお邪魔したはずの私は、尚先生からの甘い言葉と甘いキスに酔ってしまった。
 結局は尚先生のご両親に会うこともできず、私は尚先生に車で送ってもらったというオチつきだ。
「スミマセンね、珠美さん。実はうちの両親、今日出かけておりましてね」
 ハンドルを握る尚先生は、澄ました顔でそんなことを言ったのだ。
 さすがは尚先生。一枚も二枚も上手である。もちろん抗議もしたし、拗ねたりもした。
 だけど、始終尚先生はニコニコと穏やかにほほ笑んでいるだけ。
 最後は根負けした私が、すべてを諦めるという結果に陥ってしまった。
「今週末、仕事終わりに食事でも行きましょう」
 行きませんか、と伺いをたてず、すでに行くことが決定しているようなそぶりを見せてきた。
 これには私は大いに慌てた。
「い、い、行きません!」
 こうも流されてばかりでは、尚先生の思うツボだ。
 ここは断固として断らなければ、そう心の中で誓った五秒後。私は「わかりました」と頷くことになるのだ。
(だって、尚先生ってば行くって言わないとキスするって言うんだもの)
 あの甘くて温かくて柔らかい感覚を呼び戻されたら、今度こそ腰が抜けて歩くことが困難になる。
 それがわかっているからこそ、私は何度も首を縦に振ることになってしまったのだ。
「タマちゃん、どうしたの?」
「い、い、いえ! 何でもありません!!」
 慌てて誤魔化すが、目の前の真奈美さんには何もかもお見通しのようだ。
 ニンマリと口元を引き上げ、フフッと妖しげに笑う。
「ここら辺りで、現実に引き戻したいとは思っていたのよ。いい機会だから、尚には頑張ってもらいましょうかね」
「!」
「タマちゃんの脳内妄想恋愛機をぶっ壊す相手、それは尚なのかもしれないわね」
  そういって楽しげに紅茶を飲む真奈美さんを見て、私は力なく笑うしかできない。
 だって、すでに尚先生に脳内妄想恋愛機はぶっ壊されてしまったのだから。
 私はもう一度、力なく笑ったのだった。
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