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1巻
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1
「え……? そんな! 私、辞退の電話なんてしていません。何かの手違いではないですか?」
雪のように白く透明感がある肌は、私、三枝美雪にとって自慢できる特徴の一つだと思っている。だが、その肌は今、青白くなっているだろう。
もう一つのチャームポイントである黒く艶やかな髪を肩先で揺らし、新入社員らしく濃紺のリクルートスーツ姿で立ちつくした私は目の前の現実に泣きそうになった。
現在、私がいるシャルールドリンク株式会社本社ビルでは入社式が行われている。
私も入社式に参加予定だった。それなのに――
ギュッとバッグの取っ手を力強く握りしめて、崩れ落ちそうな足を踏ん張る。
昨年秋には内定通知をもらい、間違いなく内定承諾書にサインをして捺印の上、送付した。
きちんと会社の方で受理されたからこそ、そのあとも人事担当者から連絡があったし、二月に行われた入社前研修にも参加できた。
研修時に渡されていた課題に取り組み、今日提出しつつ入社式という流れだったはず。
もちろん、課題はすべて済ませてあるので今すぐにでも提出はできる。
それなのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。
唖然としたまま動けずにいる私を見て、困ったように受付の女性が首を捻った。
「そう言われましても……」
人事部の女性が困惑めいた表情を浮かべる。彼女の手には名簿があり、それには今日めでたく入社式を迎えた社員の名前がズラリと並んでいた。その名簿には私の名前が記載されているのだが、黒のボールペンで横線が引かれているのだ。出席しない人物、すなわち入社辞退した人物として。
気を緩めれば、すぐに涙が零れ落ちそうになっていることに気がつき必死に堪えたその瞬間、重厚な扉の向こうから、大きな拍手の音がした。
すでにホールでは、入社式が始まっている。
本来なら、皆と同じように私も社長の挨拶を聞いているはずだった。それなのに、どうしてこんなことになっているのか。一緒に研修を行った同期は、ホールの中。そして、私だけがホールの外だ。たった一つの扉が、とてつもなく重く高い壁のように見える。
ホールの扉を見つめていると、人事部課長だという男性がやってきた。どうやら、受付の女性が連絡を取ってくれたようだ。
「三枝美雪さんですね。人事部課長の平山と言います」
「三枝です。お世話になっています」
研修で一度、平山さんを見たことがあったはず。私は、慌てて頭を下げる。
すると、平山さんは硬い表情でロビーの隅にあるソファーを指差す。
「……ちょっと、そこでお話ししましょうか」
「はい」
私にとって絶望的な状況なのだと悟る。
だが、簡単に引き下がれない。こちらとしては、未来がかかっているのだ。
コクンと喉を鳴らしたあと、彼に誘導されてソファーに座る。平山さんは私の向かいに座って深刻そうな表情で見つめてきた。
「まず、これまでの経緯を説明させていただきます」
「は、はい」
青ざめている私を見て、彼は憐れんだ目をしている。向こうにとっても不測の事態なのだろう。
再びバッグの持ち手をギュッと握りしめていると、彼は重苦しい雰囲気で口を開いた。
「三枝さんには、弊社の試験に合格された旨を電話と書類にて通知し、そのあと三枝さんから内定承諾書を郵送にて提出していただいたことで、弊社に入社していただく運びになっておりました」
「はい」
その通りだ。間違いない。返事をすると、彼も同意を得たことを確認して頷いた。
「そのあと、内定式、入社前研修などもこなされておりましたことは、こちらももちろん把握しております。ですが……」
平山さんは、テーブルに書類を二枚置く。
一枚はメールをプリントアウトしたもの、そしてもう一枚はワープロソフトで作成されたと思われる書類だ。それには、入社辞退届と書かれている。
「まず、弊社に三週間ほど前。三枝さんの携帯電話から連絡がございました。私は出張のため本社におらず、部下の女性が入社辞退の電話を受けました。女性からの電話だったことで、部下は三枝さんからの電話だと判断したようです」
こちらをご覧ください、とメールをプリントアウトしたものを差し出してくる。
「このメールは三枝さんからの電話があったあと、弊社の人事部に送られてきたメールです。こちらにも電話でお話ししてくださった内容と同じ文面が書かれており、送信者アドレスは三枝さんが弊社に提出してくださったアドレスと一致しております」
差し出された紙を確認すると、送信者アドレスは確かに私が常に使っているアドレスからのもので間違いなかった。唖然としていると、平山さんはもう一枚書類を差し出してくる。
入社辞退届と書かれた書類だ。
硬直したまま書類を食い入るように見ていると、彼は困惑めいた表情のまま静かに口を開く。
「電話を受けたときに部下が話し合いの場を設けたいと申し出たのですが、すぐに入院しなければならなくなったと言われまして、弊社に来ていただくことは叶わず……。しかし、なりすましの可能性も考えられたので、ご自宅に書面を送らせていただきました」
「え……」
そんな書類など見たことがない。呆然としている私に、彼は困ったように眉尻を下げる。
「ですが、残念ながら連絡が来ませんでした。その後も三枝さんの携帯電話に何度か連絡をさせていただきましたが、着信拒否になっていて繋がらず……。これ以上、無理を言うことはできないと判断して届け出を受理する運びとなりました」
会社としては、やれるべきことをすべてやってくれた。その上で、私は入社困難であると判断したはずだ。平山さんは、依然困惑めいた表情で口を開く。
「こうして三枝さんが辞退をしていないとおっしゃっている以上、こちらとしてももう一度精査しなくてはならない問題だと思います。ですが……現在の弊社の方針といたしましては、一度辞退を受理した以上取り下げはできないことになっております」
「……」
「私としてもなんとかしてあげたいのですが……。申し訳ありません」
私の愕然としている顔を見て、誰かに嵌められたのではと悟ったのだろう。平山さんは、苦渋の顔で頭を下げてきた。
内定辞退関係について、昨今色々とトラブルが起こっていることは耳にしている。だが、まさか自分がそんなトラブルに巻き込まれるなんて思いもしなかった。
シャルールドリンク側としても、何やらトラブルの香りがする人物をこれ以上引き留めない方針なのだろう。何を言っても無駄だということだけは理解した。
ギュッと手を握りしめて怒りと悲しみ、そして絶望を呑み込む。
ここにいても入社式に出席することはおろか、入社もできない。渋ったとしても、平山さんを困らせるだけだ。それに、三週間ほど前に辞退の連絡があったとなれば、会社に多大な迷惑をかけたはず。先程の名簿に私の名前が記載されていたのを見ると、本当にギリギリのタイミングだったのだろう。私には身に覚えのないこととはいえ、これ以上会社に迷惑をかける訳にはいかない。
よろけそうになる身体をなんとか持ち堪え、ソファーから腰を上げた。そして、平山さんに深々と頭を下げる。
「色々とご迷惑をおかけいたしました」
「いえ……。お力になれず、申し訳ありません」
彼も立ち上がり、頭を下げてくれた。
これまでのお礼を言ったあと、ロビーを抜けてビルの外へと出る。
先程まで、新しい季節の始まりだと心がウキウキしそうなほど輝いていた太陽が、この短時間で雲に隠れていた。黒く重そうな雲が光を遮り、空は今にも泣き出してしまいそう。まさに、今の私の心情を表しているかのようだ。
立っているのがやっとな状況の私は、今来た道を振り返ってビルを見上げる。
何度も、このオフィスビルには足を運んだ。
入社試験では足が震えるほど緊張したことを、今も鮮明に覚えている。
人気のある会社なので、求人倍率は相当なものだった。
だからこそ、合格通知が来たときは涙が出るほど嬉しかったのに……
今春、このオフィスビルで働くことを楽しみにしていたが、私を陥れたいと思っている人物によって踏みにじられ、その夢も儚く消えてしまった。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう……」
視界が滲み、ドラマに出てきそうな近代的で素敵なオフィスビルが霞んでしまう。
沈みきった心のままに視線を落とし、ふらふらと歩き出す。
四月に入ったとはいえ、今日は朝から底冷えしていた。太陽が隠れてしまった今、肌寒さすら感じる。スプリングコートは腕にかけてあるから羽織ればいいのだが、今の私にはそんな気力もなかった。
(これから、どうしよう)
シャルールドリンク本社ビル前には小さな噴水があり、その周りにはベンチがいくつか置かれている。レンガ敷きの広場にはパンジーとチューリップが植わっており、香しき花の香りは華やかな春を演出していた。
もう少し暖かくなれば、昼休憩にここでランチを取る社員がたくさんいることだろう。
いずれは私もこのベンチでお弁当を広げ、同期社員とお昼を一緒にしたのかもしれない。
だが、もう……そんなOL生活を送ることができなくなってしまった。
崩れるように手近なベンチに座り込む。
力が抜けて動けない。頑ななまでに、この場から動きたくないと駄々をこねてしまいそうだ。
どれぐらいベンチに座っていただろうか。
入社式はとっくの昔に終わり、スケジュール通りなら新入社員説明会が同じホールで行われているはずだ。どうして自分はそこに行けなかったのだろう。考えれば考えるほど何もかもが不安で、何もかもが億劫で。気力がとうに尽きてしまった私は、小さく呟く。
「就職活動、やり直しかぁ……。これから、どうしようか……」
今は何も考えられない。だけど、考えなくてはいけないのだろう。
わかってはいるが、今はあまりのショックでなかなか頭が働いてくれない。
「家、帰りたくないなぁ……」
弱々しい声が口から飛び出す。家に届いたはずの書類を家族、あるいは私の実家を知っている人物に握りつぶされたかもしれないと知った今、怖くて帰りたくはない。だが、私が帰ることができる場所はただ一つ。実家のみだ。
うなだれて足元を見ていると、敷き詰められたレンガに黒い斑点がポツポツとつき始めた。
え、と驚いて立ち上がれば、頬に水滴がポツリと一滴落ちる。
空を見上げると、重苦しい空は涙を流し始めた。最初こそ小ぶりだったのだが、すぐに雨脚は強くなる。通りにいた人たちは皆、雨を凌ぐように屋根のある場所へと移動していく。
色とりどりの傘が咲き始めた頃には、レンガ敷きの広場には私以外誰もいなくなってしまった。
私も早く雨宿りをしなければ、ずぶ濡れになってしまうだろう。びしょ濡れになってしまったら、タクシーはおろか、公共交通機関も使えなくなる。頭ではわかっているのだが、身体が鉛のように重くて動けない。
ただ雨に濡れて立ち尽くす私は、周りからどんなふうに映っているのだろう。
普段ならそういうことに気を回せるのだが、今は無理な話だった。
「どこかに消えてなくなってしまいたい……」
我知らず呟いた言葉に苦笑する。人間どん底に落ちると、何もかもが投げやりになるようだ。
実家は、一番近づいてはいけない危険な場所となってしまった今、帰る場所がない。だからこそ、こうして何時間もこの場に残って未練や不安と闘い今後のことを考えていたのだ。
だが……もう、どうでもよくなってきた。
身体が重く、フラフラする。先程まで鮮明に見えていた雨が、なんだか滲んで見えなくなっていく。もぬけの殻と化した私は、ようやく一歩を踏み出す。だが、それ以上は進むことはできなかった。
身体が、心が……あの家に帰るのを拒んでいる。
とはいえ逃げ出すことはできないし、『あの人』は逃げることを赦してはくれないだろう。それなら、いっそこのまま……
思考を手放そうとした瞬間、私に冷たく当たっていた雨がフッと止む。
驚いて頭上を見れば、紳士用の黒い傘が差し出されていた。
「おい、君。大丈夫か?」
「え?」
何者かによって差し出された傘に気を取られていたが、酷く慌てた声を聞いて傘の持ち主の顔を見る。
とにかく素敵な男性だ。三十代半ばぐらいだろうか。大人の色気を感じた。
背が高く、スリーピーススーツが恐ろしく似合うその男性は、ショートマッシュの髪を後ろに撫でつけるように綺麗に整えている。
透き通るような肌、高い鼻梁、魅力的な目、薄い唇。こんなに何もかもが完璧で素敵な男性がいるのかと見とれてしまうほどの容姿の持ち主。
そして、なにより魅力的なのは低い声。固い口調ではあるが、そこがまた素敵だった。
大人の男性。今まで接したことがない極上の男性が顔を覗き込んでいる。
身体が言うことを聞いてくれないくせに、そんなところだけはしっかりとチェックしている自分に内心で呆れかえった。
でも、それも仕方がない。綺麗なモノには、誰もが目を奪われる。
それだけ目の前にいる男性が魅力的だということだ。
こんな状況なのに、ほぅと感嘆のため息が零れてしまう。
ボーッとしたままその男性を見つめていると、彼は訝しげに眉をひそめた。
「おい! 大丈夫かと聞いている」
「は、はい」
ようやく我に返ったが、それでも頭の芯は未だに霞がかかっているようだ。
コクリと一つ頷くと、その男性は心配そうな目で見つめてくる。
「君、かなり長い時間ここにいただろう?」
「え?」
この男性は、私が放心状態でベンチに座っていたことを知っているのだろうか。驚きのあまり目を見開く。
男性は嘆息したあと、少し離れた場所にいる初老の男性に視線を向けた。
「我が主人が心配をしている」
〝主人〟と呼ばれた人物は、ロマンスグレーの素敵な紳士だ。ダブルのスーツがとても似合っている。一瞬硬直して驚いた様子を見せたが、私と視線が合うと朗らかにほほ笑んでくれた。
その柔らかい笑みは、人の心を和らげる力があるのか。頑なになっていた心が、少しだけ解れた気がした。
傘を差しかけてくれた男性も素敵な人だが、こちらの男性はまた違った魅力があるおじ様である。
〝おじさん〟ではなく、〝おじ様〟。そう呼んでしまいたくなるほど、ダンディな男性だ。
どこかの社長と言われても違和感は全くないほどのオーラを感じる。
私の父より少し年上だろうか。そのおじ様も、こちらに近づいてきた。
「お嬢さん、どうしましたか? こんなに、ずぶ濡れになって……」
「あ……」
改めて自分の格好を見て、顔を歪める。おじ様が心配して指摘してくるほど、びしょ濡れになっていた。
入社式だからと張り切って買った新品のスーツだったのに、雨に濡れて色が変わってしまっている。前髪からは、ポタリポタリと滴が落ちてきた。髪もかなり濡れてしまっているようだ。
これだけ雨が強く降っている中、傘を差さずに突っ立っていれば誰でも濡れてしまうだろう。それを指摘されて、恥ずかしくなる。
思わず視線を落とすと、おじ様は優しく声をかけてきた。
「風邪を引いてしまいますよ? ご自宅までお送りいたしましょう。車は地下駐車場に停めてありますから、移動いたしましょうか?」
優しく促してくれるおじ様だったが、顔の前で両手を振って全力で遠慮する。
「いえ、車のシートが濡れてしまったら大変ですから。お気持ちだけいただきます。ありがとうございます」
身なりがいい紳士二人だ。恐らく高級車と呼ばれるハイグレードの車に乗っていることだろう。
そんな高級車に、ずぶ濡れのまま乗る勇気はない。
シートが濡れてしまったら弁償などできない、と彼らに訴える。
フルフルと首を横に振ると、身体がふらついた。
しかし、それを悟られないようグッと足を踏ん張って堪える。これ以上、心配は掛けられない。そうやってごまかしていると、おじ様はより心配そうな目をして見つめてきた。
「でも、その格好では電車にもタクシーにも乗れないでしょう」
「……大丈夫、だと思います」
おじ様の言う通りだが、嘘をついて曖昧にほほ笑んでみせる。
実際は、歩いて帰る、しか選択肢が残されていないが、それも仕方がない。
言葉を濁してやり過ごそうとすると、おじ様は首を横に振る。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。車は革張りですから、あとで拭き取れば元通り。そうでしょう?」
おじ様は、傘を差してくれている男性に言うと、彼も頷く。
「車に乗っていきなさい。その方がいい。とにかく、早く身体を温めた方がいいだろう」
「で、でも……!」
見ず知らずの人に、そこまでしてもらうのは気が引ける。
未だに頷かない私を見て、おじ様は有無を言わせない様子でニッコリとほほ笑んだ。
「ご自宅までお送りします。さぁ、行きましょう」
強引にでも連れて行くつもりでいるおじ様を見て、ありがたくも恐縮した。
だが、今は自宅に帰れない。帰ることができない事情がある。
無言のまま首を横に振ると、それを見て紳士な二人は顔を見合わせた。
頑な過ぎる態度を取り続ける私を、なんとかして懐柔しようとしてくれる二人。その優しさが、嬉しい。心も身体もボロボロになって弱っている今、無償の愛は無条件で私の心を包んで守ってくれた。ふと力が抜け、ハラハラと涙が落ちていく。
今朝から散々なことばかりが続いている。だからこそ、こうして優しさに触れて涙腺が緩んでしまうのだ。
見ず知らずのやつれきっている女性が泣き出したら、絶対に彼らは困るはず。
わかっているのだが、涙は止まってくれなかった。
何度も目を擦るが、心が悲鳴を上げているせいだろう。止まる様子はない。
感情が高ぶっているのに、頭は靄がかかったように真っ白になっている。
自分がどんなふうに立っているのか。それさえもわからず、身体の感覚がなくなっていく。
心配そうに顔を覗き込んでくる二人の男性からの優しさを感じて、思わず苦しい思いを小声で吐露していた。
「……帰れない」
「え?」
傘を差してくれているクールそうな男性が腰を屈める。私の声が聞こえなかったのだろう。
耳を傾けてくれる彼の優しさに触れて、身体から完全に力が抜けていく。
「帰りたく……、な……い」
「どういう意味だ」
困惑の色を隠せない様子の男性。そんなときでも綺麗な顔をしていた。
(瞳……キレイ)
吸い込まれそうなほどキレイな彼の瞳に釘付けになる。
どうでもいいことを頭の中で思いながらも、熱に浮かされたように呟いた。
「私、もう……あの家には、帰ることができないの」
「あ、おい! 大丈夫か?」
彼の焦った声が聞こえる。返事をしたいのに、今の私には指一本、唇さえも動かす気力がない。
高いところから闇の中に落ちていく。そんな意識の中、身体が寒々と冷え切っていくのがわかった。
* * * *
目を開けようとしたのだが、その瞼さえも重く感じた。
首を動かすことも億劫に感じたが、ゆっくりと動かして辺りを見回す。
(ここ……は?)
ホテルの一室だろうか。映画のワンシーンにありそうな素敵な部屋を見て、自分は夢の中にいるのではないかと思うほどだ。
先程までいたのは、シャルールドリンク本社ビルの前だったはず。それがどうしてこんなところにいて、寝心地がいいベッドに寝かされているのか。
身体がだるくて考えがまとまらないが、そこでようやくあの場で倒れたのだと思い出した。
恐らくだが、倒れる直前に声をかけてくれたロマンスグレーのおじ様と、クールで堅い印象だが超絶美麗な顔をした男性が助けてくれたのだろう。体調が悪化した私を心配して、個室のある病院に担ぎ込んでくれたのかもしれない。
誰かいないかと身体を起こそうとすると、女性が慌てた様子で部屋の中に入ってきた。
「ダメよ、まだ寝てなくちゃ」
艶のあるストレートの黒髪が、肩の上でサラサラと揺れている。
とても綺麗な人だ。大人の円熟さに、同性でもドキドキしてしまう。
頬を赤らめる私を見て、彼女は眉をひそめた。
「あら、顔が赤いわね。また、熱が上がってしまったのかしら? ほら、これで熱を測ってくれる?」
女性は体温計をサイドテーブルから取り、手渡してくる。それを受け取り、ゆっくりとした動作で腋に挟んだ。数秒でピピッと電子音がしたので取り出す。
三十八度。なかなかに熱が高い。この熱のせいで身体が重いのか、と腑に落ちる。
体温計を女性に手渡すと、熱の高さを見て顔をしかめた。
「まだ、熱は下がらないわね。お医者さまも、精神的ショックと過労、ついでに冷たい雨に打たれて身体が冷えたための風邪、この三つが倒れた原因だっておっしゃっていたわ。今日は絶対にこの部屋から出ちゃダメよ」
テキパキと話す口調は、いかにもキャリアウーマンといった感じだ。
私より十歳は年上だろうか。今日は素敵な人にばかり会っている気がする。
ほぅ、と感嘆のため息をついていると、女性は慈愛溢れる笑みを浮かべて矢継ぎ早に声をかけてきた。
「体調はどう? まだ熱が高いから辛いでしょう? 他に辛いところはない? 気持ちが悪いとか、お腹が痛いとか」
「あ、えっと、身体がだるいだけです。たぶん、熱が高いせいだと思います」
「お腹はすいていない? もうお昼はとっくにすぎたわよ?」
「え……今、何時ですか?」
「今は午後二時。貴女が倒れたのは、十一時ぐらいだったらしいわ。それからずっと意識がなかったの。お医者さまはそのうち意識が戻るとおっしゃっていたけど、なかなか目を覚まさないからすごく心配したのよ」
ホッとした様子で胸を撫で下ろす彼女に、慌ててお礼を言う。
「助けていただき、本当にありがとうございました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
これ以上、迷惑は掛けられない。早々にお暇した方がいいだろう。身体はだるいが、倒れた当初に比べれば動けるようにはなってきた。再び身体を起こそうとしたのだが、それを女性に止められてしまう。
「ダメよ、寝ていなくちゃ。無理して風邪を拗らせたらどうするつもり?」
確かにその通りで口を噤むと、彼女は私を労るようにふんわりとほほ笑んだ。
「それに、助けた彼らに何も言わずに出て行くつもりなの?」
「あ」
その通りだ。これだけ迷惑をかけてしまったのだから、まずはお礼だけでも二人に言いたい。
私の動きが止まったのを見てホッとした様子の彼女は、近くにあった椅子に腰かける。
「貴女をこの家に担ぎ込んだと聞いたときは、ビックリしたなんてものじゃなかったわ。だって、こんなに若くてかわいらしい女性だとは思っていなかったから」
ふふ、と軽やかに笑うと、その女性は自己紹介をしてくれた。
「私は、矢上美和。シャルールドリンクで社長の第二秘書をしているの」
「シャルールドリンク、ですか」
「ええ、そうよ。貴女を助けたのは、シャルールドリンクの社長と第一秘書なの」
「そう、なんですね……」
「え……? そんな! 私、辞退の電話なんてしていません。何かの手違いではないですか?」
雪のように白く透明感がある肌は、私、三枝美雪にとって自慢できる特徴の一つだと思っている。だが、その肌は今、青白くなっているだろう。
もう一つのチャームポイントである黒く艶やかな髪を肩先で揺らし、新入社員らしく濃紺のリクルートスーツ姿で立ちつくした私は目の前の現実に泣きそうになった。
現在、私がいるシャルールドリンク株式会社本社ビルでは入社式が行われている。
私も入社式に参加予定だった。それなのに――
ギュッとバッグの取っ手を力強く握りしめて、崩れ落ちそうな足を踏ん張る。
昨年秋には内定通知をもらい、間違いなく内定承諾書にサインをして捺印の上、送付した。
きちんと会社の方で受理されたからこそ、そのあとも人事担当者から連絡があったし、二月に行われた入社前研修にも参加できた。
研修時に渡されていた課題に取り組み、今日提出しつつ入社式という流れだったはず。
もちろん、課題はすべて済ませてあるので今すぐにでも提出はできる。
それなのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。
唖然としたまま動けずにいる私を見て、困ったように受付の女性が首を捻った。
「そう言われましても……」
人事部の女性が困惑めいた表情を浮かべる。彼女の手には名簿があり、それには今日めでたく入社式を迎えた社員の名前がズラリと並んでいた。その名簿には私の名前が記載されているのだが、黒のボールペンで横線が引かれているのだ。出席しない人物、すなわち入社辞退した人物として。
気を緩めれば、すぐに涙が零れ落ちそうになっていることに気がつき必死に堪えたその瞬間、重厚な扉の向こうから、大きな拍手の音がした。
すでにホールでは、入社式が始まっている。
本来なら、皆と同じように私も社長の挨拶を聞いているはずだった。それなのに、どうしてこんなことになっているのか。一緒に研修を行った同期は、ホールの中。そして、私だけがホールの外だ。たった一つの扉が、とてつもなく重く高い壁のように見える。
ホールの扉を見つめていると、人事部課長だという男性がやってきた。どうやら、受付の女性が連絡を取ってくれたようだ。
「三枝美雪さんですね。人事部課長の平山と言います」
「三枝です。お世話になっています」
研修で一度、平山さんを見たことがあったはず。私は、慌てて頭を下げる。
すると、平山さんは硬い表情でロビーの隅にあるソファーを指差す。
「……ちょっと、そこでお話ししましょうか」
「はい」
私にとって絶望的な状況なのだと悟る。
だが、簡単に引き下がれない。こちらとしては、未来がかかっているのだ。
コクンと喉を鳴らしたあと、彼に誘導されてソファーに座る。平山さんは私の向かいに座って深刻そうな表情で見つめてきた。
「まず、これまでの経緯を説明させていただきます」
「は、はい」
青ざめている私を見て、彼は憐れんだ目をしている。向こうにとっても不測の事態なのだろう。
再びバッグの持ち手をギュッと握りしめていると、彼は重苦しい雰囲気で口を開いた。
「三枝さんには、弊社の試験に合格された旨を電話と書類にて通知し、そのあと三枝さんから内定承諾書を郵送にて提出していただいたことで、弊社に入社していただく運びになっておりました」
「はい」
その通りだ。間違いない。返事をすると、彼も同意を得たことを確認して頷いた。
「そのあと、内定式、入社前研修などもこなされておりましたことは、こちらももちろん把握しております。ですが……」
平山さんは、テーブルに書類を二枚置く。
一枚はメールをプリントアウトしたもの、そしてもう一枚はワープロソフトで作成されたと思われる書類だ。それには、入社辞退届と書かれている。
「まず、弊社に三週間ほど前。三枝さんの携帯電話から連絡がございました。私は出張のため本社におらず、部下の女性が入社辞退の電話を受けました。女性からの電話だったことで、部下は三枝さんからの電話だと判断したようです」
こちらをご覧ください、とメールをプリントアウトしたものを差し出してくる。
「このメールは三枝さんからの電話があったあと、弊社の人事部に送られてきたメールです。こちらにも電話でお話ししてくださった内容と同じ文面が書かれており、送信者アドレスは三枝さんが弊社に提出してくださったアドレスと一致しております」
差し出された紙を確認すると、送信者アドレスは確かに私が常に使っているアドレスからのもので間違いなかった。唖然としていると、平山さんはもう一枚書類を差し出してくる。
入社辞退届と書かれた書類だ。
硬直したまま書類を食い入るように見ていると、彼は困惑めいた表情のまま静かに口を開く。
「電話を受けたときに部下が話し合いの場を設けたいと申し出たのですが、すぐに入院しなければならなくなったと言われまして、弊社に来ていただくことは叶わず……。しかし、なりすましの可能性も考えられたので、ご自宅に書面を送らせていただきました」
「え……」
そんな書類など見たことがない。呆然としている私に、彼は困ったように眉尻を下げる。
「ですが、残念ながら連絡が来ませんでした。その後も三枝さんの携帯電話に何度か連絡をさせていただきましたが、着信拒否になっていて繋がらず……。これ以上、無理を言うことはできないと判断して届け出を受理する運びとなりました」
会社としては、やれるべきことをすべてやってくれた。その上で、私は入社困難であると判断したはずだ。平山さんは、依然困惑めいた表情で口を開く。
「こうして三枝さんが辞退をしていないとおっしゃっている以上、こちらとしてももう一度精査しなくてはならない問題だと思います。ですが……現在の弊社の方針といたしましては、一度辞退を受理した以上取り下げはできないことになっております」
「……」
「私としてもなんとかしてあげたいのですが……。申し訳ありません」
私の愕然としている顔を見て、誰かに嵌められたのではと悟ったのだろう。平山さんは、苦渋の顔で頭を下げてきた。
内定辞退関係について、昨今色々とトラブルが起こっていることは耳にしている。だが、まさか自分がそんなトラブルに巻き込まれるなんて思いもしなかった。
シャルールドリンク側としても、何やらトラブルの香りがする人物をこれ以上引き留めない方針なのだろう。何を言っても無駄だということだけは理解した。
ギュッと手を握りしめて怒りと悲しみ、そして絶望を呑み込む。
ここにいても入社式に出席することはおろか、入社もできない。渋ったとしても、平山さんを困らせるだけだ。それに、三週間ほど前に辞退の連絡があったとなれば、会社に多大な迷惑をかけたはず。先程の名簿に私の名前が記載されていたのを見ると、本当にギリギリのタイミングだったのだろう。私には身に覚えのないこととはいえ、これ以上会社に迷惑をかける訳にはいかない。
よろけそうになる身体をなんとか持ち堪え、ソファーから腰を上げた。そして、平山さんに深々と頭を下げる。
「色々とご迷惑をおかけいたしました」
「いえ……。お力になれず、申し訳ありません」
彼も立ち上がり、頭を下げてくれた。
これまでのお礼を言ったあと、ロビーを抜けてビルの外へと出る。
先程まで、新しい季節の始まりだと心がウキウキしそうなほど輝いていた太陽が、この短時間で雲に隠れていた。黒く重そうな雲が光を遮り、空は今にも泣き出してしまいそう。まさに、今の私の心情を表しているかのようだ。
立っているのがやっとな状況の私は、今来た道を振り返ってビルを見上げる。
何度も、このオフィスビルには足を運んだ。
入社試験では足が震えるほど緊張したことを、今も鮮明に覚えている。
人気のある会社なので、求人倍率は相当なものだった。
だからこそ、合格通知が来たときは涙が出るほど嬉しかったのに……
今春、このオフィスビルで働くことを楽しみにしていたが、私を陥れたいと思っている人物によって踏みにじられ、その夢も儚く消えてしまった。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう……」
視界が滲み、ドラマに出てきそうな近代的で素敵なオフィスビルが霞んでしまう。
沈みきった心のままに視線を落とし、ふらふらと歩き出す。
四月に入ったとはいえ、今日は朝から底冷えしていた。太陽が隠れてしまった今、肌寒さすら感じる。スプリングコートは腕にかけてあるから羽織ればいいのだが、今の私にはそんな気力もなかった。
(これから、どうしよう)
シャルールドリンク本社ビル前には小さな噴水があり、その周りにはベンチがいくつか置かれている。レンガ敷きの広場にはパンジーとチューリップが植わっており、香しき花の香りは華やかな春を演出していた。
もう少し暖かくなれば、昼休憩にここでランチを取る社員がたくさんいることだろう。
いずれは私もこのベンチでお弁当を広げ、同期社員とお昼を一緒にしたのかもしれない。
だが、もう……そんなOL生活を送ることができなくなってしまった。
崩れるように手近なベンチに座り込む。
力が抜けて動けない。頑ななまでに、この場から動きたくないと駄々をこねてしまいそうだ。
どれぐらいベンチに座っていただろうか。
入社式はとっくの昔に終わり、スケジュール通りなら新入社員説明会が同じホールで行われているはずだ。どうして自分はそこに行けなかったのだろう。考えれば考えるほど何もかもが不安で、何もかもが億劫で。気力がとうに尽きてしまった私は、小さく呟く。
「就職活動、やり直しかぁ……。これから、どうしようか……」
今は何も考えられない。だけど、考えなくてはいけないのだろう。
わかってはいるが、今はあまりのショックでなかなか頭が働いてくれない。
「家、帰りたくないなぁ……」
弱々しい声が口から飛び出す。家に届いたはずの書類を家族、あるいは私の実家を知っている人物に握りつぶされたかもしれないと知った今、怖くて帰りたくはない。だが、私が帰ることができる場所はただ一つ。実家のみだ。
うなだれて足元を見ていると、敷き詰められたレンガに黒い斑点がポツポツとつき始めた。
え、と驚いて立ち上がれば、頬に水滴がポツリと一滴落ちる。
空を見上げると、重苦しい空は涙を流し始めた。最初こそ小ぶりだったのだが、すぐに雨脚は強くなる。通りにいた人たちは皆、雨を凌ぐように屋根のある場所へと移動していく。
色とりどりの傘が咲き始めた頃には、レンガ敷きの広場には私以外誰もいなくなってしまった。
私も早く雨宿りをしなければ、ずぶ濡れになってしまうだろう。びしょ濡れになってしまったら、タクシーはおろか、公共交通機関も使えなくなる。頭ではわかっているのだが、身体が鉛のように重くて動けない。
ただ雨に濡れて立ち尽くす私は、周りからどんなふうに映っているのだろう。
普段ならそういうことに気を回せるのだが、今は無理な話だった。
「どこかに消えてなくなってしまいたい……」
我知らず呟いた言葉に苦笑する。人間どん底に落ちると、何もかもが投げやりになるようだ。
実家は、一番近づいてはいけない危険な場所となってしまった今、帰る場所がない。だからこそ、こうして何時間もこの場に残って未練や不安と闘い今後のことを考えていたのだ。
だが……もう、どうでもよくなってきた。
身体が重く、フラフラする。先程まで鮮明に見えていた雨が、なんだか滲んで見えなくなっていく。もぬけの殻と化した私は、ようやく一歩を踏み出す。だが、それ以上は進むことはできなかった。
身体が、心が……あの家に帰るのを拒んでいる。
とはいえ逃げ出すことはできないし、『あの人』は逃げることを赦してはくれないだろう。それなら、いっそこのまま……
思考を手放そうとした瞬間、私に冷たく当たっていた雨がフッと止む。
驚いて頭上を見れば、紳士用の黒い傘が差し出されていた。
「おい、君。大丈夫か?」
「え?」
何者かによって差し出された傘に気を取られていたが、酷く慌てた声を聞いて傘の持ち主の顔を見る。
とにかく素敵な男性だ。三十代半ばぐらいだろうか。大人の色気を感じた。
背が高く、スリーピーススーツが恐ろしく似合うその男性は、ショートマッシュの髪を後ろに撫でつけるように綺麗に整えている。
透き通るような肌、高い鼻梁、魅力的な目、薄い唇。こんなに何もかもが完璧で素敵な男性がいるのかと見とれてしまうほどの容姿の持ち主。
そして、なにより魅力的なのは低い声。固い口調ではあるが、そこがまた素敵だった。
大人の男性。今まで接したことがない極上の男性が顔を覗き込んでいる。
身体が言うことを聞いてくれないくせに、そんなところだけはしっかりとチェックしている自分に内心で呆れかえった。
でも、それも仕方がない。綺麗なモノには、誰もが目を奪われる。
それだけ目の前にいる男性が魅力的だということだ。
こんな状況なのに、ほぅと感嘆のため息が零れてしまう。
ボーッとしたままその男性を見つめていると、彼は訝しげに眉をひそめた。
「おい! 大丈夫かと聞いている」
「は、はい」
ようやく我に返ったが、それでも頭の芯は未だに霞がかかっているようだ。
コクリと一つ頷くと、その男性は心配そうな目で見つめてくる。
「君、かなり長い時間ここにいただろう?」
「え?」
この男性は、私が放心状態でベンチに座っていたことを知っているのだろうか。驚きのあまり目を見開く。
男性は嘆息したあと、少し離れた場所にいる初老の男性に視線を向けた。
「我が主人が心配をしている」
〝主人〟と呼ばれた人物は、ロマンスグレーの素敵な紳士だ。ダブルのスーツがとても似合っている。一瞬硬直して驚いた様子を見せたが、私と視線が合うと朗らかにほほ笑んでくれた。
その柔らかい笑みは、人の心を和らげる力があるのか。頑なになっていた心が、少しだけ解れた気がした。
傘を差しかけてくれた男性も素敵な人だが、こちらの男性はまた違った魅力があるおじ様である。
〝おじさん〟ではなく、〝おじ様〟。そう呼んでしまいたくなるほど、ダンディな男性だ。
どこかの社長と言われても違和感は全くないほどのオーラを感じる。
私の父より少し年上だろうか。そのおじ様も、こちらに近づいてきた。
「お嬢さん、どうしましたか? こんなに、ずぶ濡れになって……」
「あ……」
改めて自分の格好を見て、顔を歪める。おじ様が心配して指摘してくるほど、びしょ濡れになっていた。
入社式だからと張り切って買った新品のスーツだったのに、雨に濡れて色が変わってしまっている。前髪からは、ポタリポタリと滴が落ちてきた。髪もかなり濡れてしまっているようだ。
これだけ雨が強く降っている中、傘を差さずに突っ立っていれば誰でも濡れてしまうだろう。それを指摘されて、恥ずかしくなる。
思わず視線を落とすと、おじ様は優しく声をかけてきた。
「風邪を引いてしまいますよ? ご自宅までお送りいたしましょう。車は地下駐車場に停めてありますから、移動いたしましょうか?」
優しく促してくれるおじ様だったが、顔の前で両手を振って全力で遠慮する。
「いえ、車のシートが濡れてしまったら大変ですから。お気持ちだけいただきます。ありがとうございます」
身なりがいい紳士二人だ。恐らく高級車と呼ばれるハイグレードの車に乗っていることだろう。
そんな高級車に、ずぶ濡れのまま乗る勇気はない。
シートが濡れてしまったら弁償などできない、と彼らに訴える。
フルフルと首を横に振ると、身体がふらついた。
しかし、それを悟られないようグッと足を踏ん張って堪える。これ以上、心配は掛けられない。そうやってごまかしていると、おじ様はより心配そうな目をして見つめてきた。
「でも、その格好では電車にもタクシーにも乗れないでしょう」
「……大丈夫、だと思います」
おじ様の言う通りだが、嘘をついて曖昧にほほ笑んでみせる。
実際は、歩いて帰る、しか選択肢が残されていないが、それも仕方がない。
言葉を濁してやり過ごそうとすると、おじ様は首を横に振る。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。車は革張りですから、あとで拭き取れば元通り。そうでしょう?」
おじ様は、傘を差してくれている男性に言うと、彼も頷く。
「車に乗っていきなさい。その方がいい。とにかく、早く身体を温めた方がいいだろう」
「で、でも……!」
見ず知らずの人に、そこまでしてもらうのは気が引ける。
未だに頷かない私を見て、おじ様は有無を言わせない様子でニッコリとほほ笑んだ。
「ご自宅までお送りします。さぁ、行きましょう」
強引にでも連れて行くつもりでいるおじ様を見て、ありがたくも恐縮した。
だが、今は自宅に帰れない。帰ることができない事情がある。
無言のまま首を横に振ると、それを見て紳士な二人は顔を見合わせた。
頑な過ぎる態度を取り続ける私を、なんとかして懐柔しようとしてくれる二人。その優しさが、嬉しい。心も身体もボロボロになって弱っている今、無償の愛は無条件で私の心を包んで守ってくれた。ふと力が抜け、ハラハラと涙が落ちていく。
今朝から散々なことばかりが続いている。だからこそ、こうして優しさに触れて涙腺が緩んでしまうのだ。
見ず知らずのやつれきっている女性が泣き出したら、絶対に彼らは困るはず。
わかっているのだが、涙は止まってくれなかった。
何度も目を擦るが、心が悲鳴を上げているせいだろう。止まる様子はない。
感情が高ぶっているのに、頭は靄がかかったように真っ白になっている。
自分がどんなふうに立っているのか。それさえもわからず、身体の感覚がなくなっていく。
心配そうに顔を覗き込んでくる二人の男性からの優しさを感じて、思わず苦しい思いを小声で吐露していた。
「……帰れない」
「え?」
傘を差してくれているクールそうな男性が腰を屈める。私の声が聞こえなかったのだろう。
耳を傾けてくれる彼の優しさに触れて、身体から完全に力が抜けていく。
「帰りたく……、な……い」
「どういう意味だ」
困惑の色を隠せない様子の男性。そんなときでも綺麗な顔をしていた。
(瞳……キレイ)
吸い込まれそうなほどキレイな彼の瞳に釘付けになる。
どうでもいいことを頭の中で思いながらも、熱に浮かされたように呟いた。
「私、もう……あの家には、帰ることができないの」
「あ、おい! 大丈夫か?」
彼の焦った声が聞こえる。返事をしたいのに、今の私には指一本、唇さえも動かす気力がない。
高いところから闇の中に落ちていく。そんな意識の中、身体が寒々と冷え切っていくのがわかった。
* * * *
目を開けようとしたのだが、その瞼さえも重く感じた。
首を動かすことも億劫に感じたが、ゆっくりと動かして辺りを見回す。
(ここ……は?)
ホテルの一室だろうか。映画のワンシーンにありそうな素敵な部屋を見て、自分は夢の中にいるのではないかと思うほどだ。
先程までいたのは、シャルールドリンク本社ビルの前だったはず。それがどうしてこんなところにいて、寝心地がいいベッドに寝かされているのか。
身体がだるくて考えがまとまらないが、そこでようやくあの場で倒れたのだと思い出した。
恐らくだが、倒れる直前に声をかけてくれたロマンスグレーのおじ様と、クールで堅い印象だが超絶美麗な顔をした男性が助けてくれたのだろう。体調が悪化した私を心配して、個室のある病院に担ぎ込んでくれたのかもしれない。
誰かいないかと身体を起こそうとすると、女性が慌てた様子で部屋の中に入ってきた。
「ダメよ、まだ寝てなくちゃ」
艶のあるストレートの黒髪が、肩の上でサラサラと揺れている。
とても綺麗な人だ。大人の円熟さに、同性でもドキドキしてしまう。
頬を赤らめる私を見て、彼女は眉をひそめた。
「あら、顔が赤いわね。また、熱が上がってしまったのかしら? ほら、これで熱を測ってくれる?」
女性は体温計をサイドテーブルから取り、手渡してくる。それを受け取り、ゆっくりとした動作で腋に挟んだ。数秒でピピッと電子音がしたので取り出す。
三十八度。なかなかに熱が高い。この熱のせいで身体が重いのか、と腑に落ちる。
体温計を女性に手渡すと、熱の高さを見て顔をしかめた。
「まだ、熱は下がらないわね。お医者さまも、精神的ショックと過労、ついでに冷たい雨に打たれて身体が冷えたための風邪、この三つが倒れた原因だっておっしゃっていたわ。今日は絶対にこの部屋から出ちゃダメよ」
テキパキと話す口調は、いかにもキャリアウーマンといった感じだ。
私より十歳は年上だろうか。今日は素敵な人にばかり会っている気がする。
ほぅ、と感嘆のため息をついていると、女性は慈愛溢れる笑みを浮かべて矢継ぎ早に声をかけてきた。
「体調はどう? まだ熱が高いから辛いでしょう? 他に辛いところはない? 気持ちが悪いとか、お腹が痛いとか」
「あ、えっと、身体がだるいだけです。たぶん、熱が高いせいだと思います」
「お腹はすいていない? もうお昼はとっくにすぎたわよ?」
「え……今、何時ですか?」
「今は午後二時。貴女が倒れたのは、十一時ぐらいだったらしいわ。それからずっと意識がなかったの。お医者さまはそのうち意識が戻るとおっしゃっていたけど、なかなか目を覚まさないからすごく心配したのよ」
ホッとした様子で胸を撫で下ろす彼女に、慌ててお礼を言う。
「助けていただき、本当にありがとうございました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
これ以上、迷惑は掛けられない。早々にお暇した方がいいだろう。身体はだるいが、倒れた当初に比べれば動けるようにはなってきた。再び身体を起こそうとしたのだが、それを女性に止められてしまう。
「ダメよ、寝ていなくちゃ。無理して風邪を拗らせたらどうするつもり?」
確かにその通りで口を噤むと、彼女は私を労るようにふんわりとほほ笑んだ。
「それに、助けた彼らに何も言わずに出て行くつもりなの?」
「あ」
その通りだ。これだけ迷惑をかけてしまったのだから、まずはお礼だけでも二人に言いたい。
私の動きが止まったのを見てホッとした様子の彼女は、近くにあった椅子に腰かける。
「貴女をこの家に担ぎ込んだと聞いたときは、ビックリしたなんてものじゃなかったわ。だって、こんなに若くてかわいらしい女性だとは思っていなかったから」
ふふ、と軽やかに笑うと、その女性は自己紹介をしてくれた。
「私は、矢上美和。シャルールドリンクで社長の第二秘書をしているの」
「シャルールドリンク、ですか」
「ええ、そうよ。貴女を助けたのは、シャルールドリンクの社長と第一秘書なの」
「そう、なんですね……」
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