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疑惑の香り

第一話

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「香姫さま、よろしいでしょうか」
 敦正様からの熱い口づけに、どうしたらいいのか混乱しているときだった。
 簀子辺りから春子の声がする。
 戸惑っていた私だったが、すぐに春子に返事をした。
「どうしたの、春子。人払いはしていたはずよ?」
 敦正様の訪問時は、ここ最近ずっと人払いをしている。そのことは春子も承知していたはずだ。
 それなのに敦正様がいる今、こうして声をかけてきたということは火急な用事があるということなのだろう。
 春子に中に入るように声をかけようとしたが、すぐさま違う声にかき消される。
「香。今、敦正がいるだろう?」
「兄様!?」
 驚いて目を丸くする。目の前にいる敦正様に視線を移すと、彼も驚いている様子だ。
 どうやら敦正様も兄様が急に私たちを訪問してくるとは思っていなかったのだろう。
 兄様が急に私の部屋にやってくること自体、ほとんどない。
 兄様付きの女房から、前もってお伺いを立ててくるのが通常だ。
 それがないということは、それほど重大な何かが起きたということなのだろうか。
「春子、御簾を上げてちょうだい」
 畏まりました、という声と同時に御簾が上げられ、すぐさま兄様が入ってきた。
 前もって兄様にすぐ下がるように言われていたのだろうか。
 春子は御簾を下げると、すぐさま衣音を立てて下がっていく。
 部屋の中がシンと静まりかえったことを確認したあと、兄様は私の隣に腰を下ろす。
「敦正に報告したいことがあったのだが・・・・・・」
 兄様が異様な雰囲気を纏って口火を切った。
 それを見て、敦正様も厳しい表情へと変わる。その鋭い視線に、私はドクンと胸が高鳴ってしまう。
 変人の宮と悪評高い敦正様だが、出自だって名門宮家で高貴だ。そして、仕事もできると小耳に挟んでいる。
 まさに今の彼はデキる男。香り立つような色気の中に、男らしい空気も取り込んでいるように感じる。
 色々な顔を持つ敦正様から、目が離すことができない。そのことに自分自身も気が付いてしまった。
 普段、私に接する彼とは違う顔。その凜々しい表情に、より男性を意識せずにはいられない。
 先ほどまで敦正様が触れていた自分の唇に、血が集まるのがわかった。
 心が乱れる。どうしていいのかわからなくなってしまうじゃないか。
 今は東宮様から依頼されている香の成分を暴くこと。それが私に与えられている任務だ。
 他のことで心を乱している場合ではない。
 小さく息を吸い込んで冷静さを取り戻そうとしたが、それは叶わなかった。
 兄様の言葉に、ドクンと胸が高鳴る。
「敦正。うちの妹に無理強いはしていないか?」
「無理強い? するわけないでしょう? 私を売り込んでいるだけ。迫ってはいるけどね」
「っ!」
 ここに大嘘つきがいます。兄様ならわかってくれますよね。
 そんな気持ちを込めつつ横に座る兄様に縋るように見つめると、兄様は大きく息を吐き出した。
「敦正。私は妹とのことを応援するとは言ったが・・・・・・泣かせるようなことは許さないぞ」
 兄様の声は低い。だが、いつもの低さに輪をかけて低いような気がする。
 私と敦正様から漂う微妙な雰囲気に、兄様が気がついたのだろう。
 敦正様を睨み付ける兄様の視線が鋭くて怖い。
 普段は仲が良い二人なだけに、こんなに険悪な雰囲気でいられると私としても気が気じゃない。
 そんな兄様を見て、敦正様は手を上げた。
「わかっている。だけど、男としてこんなに魅力溢れる姫を前にして冷静でいられるヤツはいないだろうよ」
「・・・・・・」
「そんなに心配なら、香姫の傍にずっといるようにしろよ」
「よく言う。自分が私に仕事を押しつけておいてな」
 より鋭く敦正様を睨み付けた兄様だったが、フゥと大きく息を吐き出した。
「まぁ、いい。とにかく無理強いだけはするな。いいな?」
「あんまり約束はしたくないけどね。了解」
 やっと空気が変わった。いつもどおりの友人らしきいい雰囲気になり、ホッと胸を撫で下ろす。
 だが、すぐに兄様の雰囲気が厳しいものに変わる。
「敦正。頼まれていた現場検証。先ほど済ませてきた」
「助かった。清貴、丹波では進展はあったか?」
 聞き慣れない話に、思わず私は食いついてしまう。
「丹波?」
 兄様は敦正様に頼まれて丹波に行っていたというのだろうか。
 首を傾げる私に、敦正様は小さく笑った。
「実はここ最近、色々な事件が起きているのですよ。今、姫に解明をお願いしている藤壺女御付き女房の事件、そして丹波の受領の事故死」
「事故死、ですか」
「ええ。検非違使は不慮の事故と扱っていましたが、そう片付けるには違和感があると東宮は思われましてね。こちらは清貴に内密に探ってもらっていたというわけです」
「・・・・・・東宮様。私たち兄弟を大いにこき使っていますね」
 本音が零れ出ると、隣に座っていた兄様から睨まれた。
 東宮様になんて言葉を、と怒りに満ちた視線を向けられてしまう。
 肩をすくめると、「確かにね」と敦正様が声を上げて笑った。
「それだけ、こちらのご子息ご息女は頼りになると東宮が思っているということです」
 名誉なことだとは思うが、そこには敦正様からのプッシュもあったよう感じる。
 ジトッとした恨みがましい目で敦正様を見つめたが、彼はニコッと満面の笑みを浮かべてスルーした。
 そういうところが、本当に狡いと思う。
 唇を尖らせていると、敦正様は目を優しげに細める。
「香姫。藤壺女御付き女房が持っていた香り袋の件、清貴にも話すつもりですから」
「え?」
 最初の話では父様にも兄様にも話さず、他言無用でと言われていた。
 それなのに兄様に今回の香り袋の件を話すということは、私では香の成分の解明までには時間がかかりそうだし、力不足だと判断したということなのだろう。
 言われなくてもわかっていたはずだ。私では、東宮様の期待に応えることができないことぐらい。
 だけど・・・・・・それでも、頑張りたかった。
 敦正様も励ましてくれたし、何より私も誰かの役に立ちたいと思っていたからだ。
 私ではダメだ、と烙印を押された気がする。いや、押されてしまったのだ。
 ギュッと手を握りしめると、そこが急に温かく感じる。
 慌ててぬくもりの感じる場所を見ると、そこには大きくて温かい手が私の手を握りしめていた。
 顔を上げると、敦正様が真摯な瞳で私を見つめている。
「何か勘違いをされていませんか? 香姫」
「勘違いって・・・・・・」
「私が藤壺女御付き女房の件を清貴に話そうと決意したことをです」
「勘違いでもなんでもないでしょう? 私には香の成分を解読するのは無理だと思ったから、兄様にも話すということですよね?」
 自分でも力不足だとわかっていたはずなのに、やっぱり悔しかった。
 だが、敦正様は妥当な判断をしたのだと思う。
 事件を早急に解決に導かなければならないからだ。
 東宮様からの命令でもあるし、未だに床に伏せている女房のためにも、きちんと真相を暴かなければならないはず。
 それには、事件の鍵を握っているであろう香り袋と料紙の香りの解読をいち早くしなければならない。
 依頼を受けたのは私だ。だが、成果がないと判断したのなら、すぐに次の手を考えるべきだ。
 東宮様も敦正様も、賢明な判断を下したのだと思う。
 兄様に捜査協力すれば、すぐにこのお香の解明も進むだろう。
 敦正様の手を振りほどこうとしたのだが、力強く握りしめられてしまった。
「放してください」
「いやですね」
 シレッと何事もなく言う敦正様に腹が立った。
 私が今、どんな気持ちでいるのか。敦正様ならわかっているはずだ。
 それなのに、どうしてそんなふうに言うのだろう。
 敦正様は顔を歪める私の手を引っ張って、その腕の中に導いた。
 兄様が彼の名前を呼んで制止させようとしていたが、敦正様は私を抱きしめる腕を緩めることはなかった。
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