貴方の想い、香りで解決します!~その香り、危険につき~

橘柚葉

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困惑の香り

第一話

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「あのですね……敦正様」
「なんですか? 香姫。今日も姫は可憐な花のようですね。いい香りがします」
 クンクンと至近距離で匂いを嗅ぐ敦正様に、私は拳を握りしめた。
 もちろん小刻みに震え、怒りをなんとかして抑えようと必死である。
 不埒なことをしているとはいえ、相手は宮様だ。
 今上からの覚えめでたく、なんと言っても今上から見たら甥であり、今東宮の従兄弟でもある敦正様である。
 下級貴族の姫が手を上げていいはずがない。
 そんなことしたら父様が血相を変えて飛んできて、床に頭を擦り付けんばかりの勢いで謝り倒すことになるだろう。
 謝り倒す事で収まれば万々歳。万が一敦正様の怒りが収まらなかった場合を考えただけでも恐ろしい。
 まずは宮家の権力を見せつけられることになるはずだ。
 圧力で父様、そして兄様の殿上の許可が取り消され、行く末はお家滅亡へと繋がっていくだろう。
 考えただけで背筋が凍る。
 そして、私は出家を余儀なくされていく……
 そんな最悪なシナリオが脳裏に描かれ、私は再びグッと堪えた。
 だが、ふとよからぬ事を考える。
(まぁ、それでもいいかもしれないわね。そうすれば愛欲の世界とは無縁に生きていけるのですもの)
 出家してしまえば、敦正様のとち狂った求愛を退けることは可能であろう。
 そう考えると、殴り飛ばすという案も愚案ではないように感じる。
 いや、ダメ。絶対にダメだ。
 私は素敵な殿方と結婚するのだ。幸せな家庭を想像し、思い描いてきたじゃないか。
 こんなことで、すべてを壊す必要がどこにある。
 ここは一つ、我慢。我慢の子だ。
 未だに私の髪を一房持ち、匂いを嗅いでいる敦正様を見て怒りと恥ずかしさが込みあげてくる。
 だが、私はすんでのところでグッと堪え続けていた。
 お家滅亡となってしまったら、大好きな兄様の顔に泥を塗ることと同じこと。
 それだけは絶対に避けなければならない。
 兄様には、これからどんどん出世していただきたいのだ。
 そして、頃良き日に良き方と結婚して幸せに暮らしていただきたい。
 何があってもお家滅亡だけは避けなければならないのだ。
 だが、この状況に耐えるのは至難の業である。
 私の拳は今にでも敦正様に飛んでいきそうで、お付き女房の春子は青白い顔をしてオロオロと落ち着きがない。
 春子をチラリと見ると、「絶対にダメですからね。我慢、我慢ですわよ!」と目が物語っている。
 春子に言われなくたってわかっている。
 だけど……この怒りはどう静めればよいのだろうか。
 今、私たちがいるのは少納言家だ。
 私にとってはホームのはずなのに、なぜかアウェーのように味方がいないのはいただけない。
 現在、我が家で私の気持ちを汲んでくれる人間は誰一人としていない。
 頼りの綱である兄様まで、「敦正とのこと考えてやれよ」なんて言う始末。
 降ってわいたような求婚に、皆が浮き足立っていることは間違いないだろう。
 なんとしてでも、敦正様と婚儀を! という意気込みを感じるほどだ。
 特に母様が乗り気であるというのがいただけない。
 北の方としてこの屋敷を取り仕切っている人の鶴の一声で、我が家のルールはすべて決まってしまうのだから。
 私は気持ちをなんとか静めようと、小さく息を吐き出す。そして、自分が作った練り香の香りを嗅いだ。
 ここ最近の私は、中務卿宮邸に行くことが多くなっている。
 ある日は、三の姫への指南。そして、ある日は敦正様の指南と大忙しだ。
 公には、三の姫だけに指南をしているということになっている。
 そういうことにしておかないと外聞が悪すぎるからだ。
 敦正様からは「そんなの隠さなくてもいいのに。世間に私たちが恋人同士だと見せつけてやりましょう」などと、とんでもないことを言われたが、速攻却下した。
 頼むから内密に! そう頼み込んだ私だったが、なかなか敦正様は承諾してくれなかった。
 最後には「それなら、もう指南しません」とキッパリと言い切ったことにより、敦正さまは渋々私の条件を呑んでくれたのだ。
 とはいえ、こうも頻繁に出入りしていると周りから疑われるかもしれないと不安に思っていたら、少納言家に敦正様が出向いてきてくれることも多くなった。
 もちろん敦正様は、私の兄に会うという名目で来ているのであるが、さて……どれほど世間の目を欺いてくれているのかはわからない。
 私がこんなに心配しているのに対し、敦正様はのんきなものだ。
 しかし彼は、「外聞など気にしませんよ。噂、大変結構。これで恋の敵が減ってくれれば万々歳ですね」そういって笑っている。
 私としても、悪党商法みたいな恋文が減ってくれさえすれば万々歳と言ってもいいが、より厄介な敦正様に色仕掛けされるのも困る。
 あとは恨みの文が届くようになっては、本末転倒だ。
 私に求愛の御文や、求婚をしてきた敦正様だが、香の指南をするようになってからは、結婚を仄めかすことはなくなったので、その点においては私もホッとしているのである。
 しかし、敦正様の態度は相変わらずだ。
 私は後ずさり敦正様から離れた。
 だが、少し距離ができれば彼が私ににじり寄る。
 そんな対照的な行動が敦正様の笑いのツボにはまったようで、お腹を抱えて笑いだした。
 さすがにこれには私も参ってしまった。
 それにオドオドしているのは私だけというこの状況が納得がいかない。
 私は堪忍袋の緒がブチッと切れ、バンと畳を激しく叩いた。
「敦正様! いい加減になさってください。もう私は貴方にお香を教えるのはやめにいたしますよ」
「ははは、そんなに怒らないで。でも、怒った顔も可愛いですね」
「なっ!」
 言葉をなくしていると、敦正様は私の顔を指差しほほ笑んでいる。
「あ、真っ赤になった。本当に香姫は初心で可愛い」
 クスッと妖艶に笑う敦正様を見て、私は顔をますます赤くさせた。
 拳は済んでのところで振り下ろせず、そのまま力なく拳は解かれる。
 今日も敦正様の勝ちである。
 私は真っ赤になってしまった頬を扇で隠した。
 すでに時遅しとわかっていても隠さずにはいられない。
 一か月前、敦正様にお香の指南を頼まれ、定期的にこうして練り香の作り方を教えている。
 だが、今回のように脱線することもしばしば。
 そのたびに怒り狂う私を見て、敦正様は幸せそうに楽しそうに笑う。
 それがこのお香教室の常である。
 この部屋にいることに慣れた様子の敦正様だが、私としても彼がこの場にいることに違和感を覚えなくなってきた。
 待てよ、もしかしてこれは敦正様の作戦の一つなのだろうか。
 私を懐柔させ、慣れきって油断している隙をつくという策なのかもしれない。

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