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策士の香り

第四話

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「君が教えてくれないか」
「は?」
 なんのことだと目を白黒させると、敦正様は余裕の笑みを浮かべた。
 それがまた私の心を逆撫でする。
 ムッと唇を結ぶ私を見て、敦正様は掴んでいた私の手の平を鼻の近くに持っていく。
「ちょ、ちょっと! 敦正様ってば! コラ、止まれ。さっさと離して!」
 ちょっと油断していた私がバカだった。彼は変態の宮、注意が常に必要な御人であった。
 慌てる私の叫び声を聞いても敦正様は手を離そうとしない。
 それどころか、兄様も、そして私のお付き女房である春子も助けようと動き出すそぶりさえも見せない。
 どうやら私は皆に見放されたようだ。
 なによこれ、ここは私の家。味方はたくさんいるはずなのに、どうして!?
 敦正様の行動はどんどんエスカレートして、私の手をさすりだした。
 これ、訴えることができるレベルだと思うんですけど!?
 とにかくここは兄様に間に入ってもらうしかないだろう。
「兄様! 敦正様を止めてください」
 必死の形相でお願いするのだが、兄様はほほ笑ましいと笑うだけだ。
 それならばと、今度は離れて控えている春子に視線を向ける。
「春子、ちょっと助けて! あなた、私のお付き女房でしょ?」
「……」
「ちょっと、春子ってば!」
 しかし、春子は首を横に振った。雇主の私に対しての態度ではない。
「春子っ!」
 憤慨する私に、春子はシレッと言い放った。
「北の方さまより、キツく言われております故に」
「母様が!?」
 なぜそこに母様の名前がでてくるのか。
 目を大きく見開いた私を見て、春子はニヤリと口角をあげた。
「少納言家、すべての女房に命令が下されております」
「命令……」
 イヤな予感しかしない。ゴクンと唾を飲み込むと、春子はコクンと大きく頷いた。
「ええ。これを機会にもう少し殿方との交流を増やして、兄離れすべきだ。心を鬼にして突き放す様に、とのご命令でございます」
「なによ、それ!」
 ついでに殿からも同じような命令が下されております、と春子はにっこりと意味ありげにほほ笑んだ。
 どうやら、現在この邸にて私の味方は誰もいないということだ。
 目の前の敦正様に、屋敷全体の人たちに私は差し出されてしまったのだ。煮るなり焼くなり好きにしろ、と。
 この絶望的な状況に目を見開くことだけしかできないでいると、敦正様はにっこりと有無を言わせない笑顔を向けてきた。
「皆さんが私たちを祝福してくださっているようですね。いつ祝言を行いましょうか?」
「しゅ、祝福なんてしてないです! 祝言!? 何をバカなことを!」
 私の理想は何度も言うが、兄様のように身体ががっしりとしていて、男気溢れる殿方だ。
 けっして、変態行為をする殿方ではない。
 大慌てで否定するのだが、相手は敦正様だ。一筋縄でいくわけがない。
「してくださっていますよ。なんせ、私はきちんと姫に求婚をしたのですから」
「あ、あんなのは無効よ。それに私は返事をしていないわ」
「ええ、熱烈な恋文を毎日送らせていただいていたのに、一通として返歌がこない。どれほど私が悲しんだか、姫にはわからないでしょう」
 さきほどまで策士な笑みを浮かべていた人物とは思えないほど、辛く悲しいと顔に浮かべる敦正様に私は怯んだ。
 いや、待て。これは間違いなく敦正様の作戦の一つに違いない。
 ここで私の心に揺さぶりをかけ、陥落まで突き進もうとする作戦なのだろう。
 ここで負けては敦正様の思うつぼ、皆の思うつぼだ。
 しかし、目の前の敦正様を見ると、罪悪感を覚える。それほどまでに悲しそうな表情をしているのだ。
 どうしよう、と思わず戸惑ってしまう。
 作戦に違いない。そうは思うのだが、敦正様の瞳が悲しく揺れる度に反論の声を弱めてしまう。
 ああ、もう。こういうときにお人好しな自分がイヤになる。
 しかし、敦正様とは結婚する気など毛頭ないのだから、彼の気持ちを跳ね除けるしかない。
 曖昧に優しさを見せれば、最後に悲しむのは敦正様であろう。
 ここは断固反対、断固拒否である。
 少しの隙を与えてしまったら、敦正様の思うが儘になってしまうだろう。
 そうなってはいけないと、私は敦正様の手を振り払った。
 スクッと勢いよく立ち上がると、私はそのまま踵を返し御簾の中に入っていく。
 皆の視線が背中に当たり、痛く感じたが、周りは敵ばかり。
 ここは一つ、強い姿勢を見せなくてはならない。
 自ら御簾を下ろし、今いる面々に対し冷たく言い放った。
「私は敦正様にはお香を教える気はございません」
「香姫」
「今、私の生徒さんは三の姫さまだけです。これ以上、生徒さんを持つことは無理でございます」
 もっともな言い分に敦正様も何も言えないであろう。
 御簾の外からは私の表情は読み取ることができない。
 だが、委縮しては負けてしまうと考えた私は、ツンと清ました。
「これ以上はお話することはございません」
 それだけ言うと、そのまま口を噤んだ。
 シンと静まり返る部屋。静かに座り、なり行きを見守る兄様に、オロオロと心配そうな春子。
 そして御簾の前まで来て、ジッと御簾の中を見ている敦正様。
 三者三様の様子を見て、私はこっそりとため息を出したくなったが、口を慌てて抑えた。
 御簾の中にいても、敦正の真剣でまっすぐな視線は突き刺さっている。
 それに恐れをなしていると、敦正様に見破られたくなかった。
 私は脇息にもたれかかり、早くこの時間が通り過ぎることを願う。
 だが、相手はなんと言っても一癖も二癖もある人だ。それも、変態の宮。手ぶらで帰る敦正様ではない。
 敦正様は、仕事が有能だということは世間に知れ渡っている。
 それには交渉術というものも含まれているのかもしれない。
 それ以上何も言おうとしない私に対し、敦正様は肩を竦めて大げさにため息をついた。
「では、お香の指南を仰ぐのは清貴にお願いすることにしましょう」
「え?」
 あまりにあっさりと承諾した敦正様を意外に思い、身体を起こし御簾越しに彼を見つめる。
 そこには穏やかに笑う敦正様と対照的に、驚きに満ちている兄様がいた。
 どうやら兄様は、このままなし崩し的にお香の指南を私に頼むと思っていたのだろう。
 私だって思っていた。
 この口のうまい敦正様のことだ。あの手この手で私を丸め込もうとするとばかり思っていた。
 だからこそ、こんなに簡単に諦めるのは意外すぎた。
 目をパチパチと瞬かせていると、敦正様はニッと口角を上げる。
「あなたの大好きな兄上を、人質として中務卿宮邸に連れていくことにしよう」
「は……?」
「そして……そうだなぁ、私の妹の婿にしようか」
 脇息を倒して勢いよく立ち上がった私と、扇を落としてあ然と立ち尽くす兄様。
 私たち兄妹を見て、敦正様は目を細め、恐ろしい笑みを浮かべた。

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