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菊花の香り
第二話
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「香さま、お待たせいたしました」
かわいらしい声を聞いて、私は少しだけ緊張を解した。
朗らかな口調に、人柄の良さを感じる。
私は、安堵しながら小さく息を吐き出した。
すると、そんな私に三の姫は朗らかに笑う。
「今日は無理を言って、お香の指南をお願いしてしまいましたね。お越しいたがきありがとうございます」
「いえ、とんでもないことでございます。しかし、私のような若輩者でよかったのかと……それを心配しております」
私は謙遜ではなく、本心を正直に話した。
確かに、香の名手と誉れ高い父様の指導を受けてきた私は、それなりにお香の知識は入っていることだろう。
しかし、宮家の姫様に指南するほどの腕があるかと言えば、とても思えない。
この屋敷に着いてからも、肩身の狭い思いをしているのはそのためだ。
頭を下げる私の頭上から、コロコロと軽やかな笑い声が聞こえてきた。
御簾ごしなので顔の表情はわからないが、三の姫の柔らかい雰囲気を感じる。
「顔をお上げになって、香さま」
「三の姫……さま」
「そんなに謙遜なさることではないでしょう。貴女の噂は、今や都に知れ渡っておりますことよ」
「とんでもないことでございます」
恥ずかしさに顔が赤くなったのを扇で隠すと、三の姫は茶目っ気たっぷりに笑った。
「今上に献上された、あのお香。実は私、ひとつ頂きましたのよ」
少し前。父様に言われてお香の調合をしたのだが、それを今上に献上したと聞いたとき、卒倒してしまうかと思った。
そんなこと寝耳に水だった私は、父様にかなり怒ったことは記憶に新しい。
今上に献上するなら、それ相当な物を用意したかったのに。思い出しただけでも怒りが込みあげてくる。
そんな私に、父様は涙目で訴えてきた。
『だって、今上にどうしても香姫が作ったお香を焚いてみたいと所望されたのだぞ? それも普段使いの物がよいと仰せになられた。この父が断れると思うか?』
と泣きながら言う父様を見て、大きなため息を零したものだ。
そのときのお香を三の姫は言っているのだろう。
今上と三の姫は、親戚関係。それも伯父と姪という間柄だ。
なにかの折りに、今上から私が作ったお香を貰ってもおかしくないだろう。
「香さまが練られたお香を焚いたのですけど、本当に素晴らしくて。ぜひとも香さまにご指南いただきたいと思って、父上に無理を言ったのです」
「まぁ……」
父様よりこの話を受けたときは「何か裏がある?」と疑っていたが、三の姫の言葉を聞いてそれは誤解だったのだと思い直す。
嬉しくて頬を赤らめた私に、三の姫は意地悪な口調で言う。
「お香のこととは別に、香さまは違うお噂もあるお方。ぜひともお会いしたいと思っていたのですわ」
あのことだ。すぐに私は三の姫が言いたいことがわかった。
だが、この件については居たたまれない。私は扇で顔を隠して俯く。
クスクスと御簾越しから楽し気な笑い声が聞こえる。そのたびに、私が小さく身体をすぼめていると、コホンと咳払いが聞こえた。
さきほど三の姫を先導してきた女房だ。その女房は三の姫を窘める。
「姫さま。そのように香姫さまをからかうのはお行儀の悪いことですわよ」
年増の女房がメッと窘めると、さすがの三の姫も口を噤んだ。
「香さま、ごめんなさい。悪気はないのよ」
「はぁ……」
「ただ、そうやってかわいらしい仕草をされるから……つい、ね?」
同調を求められたが、私はにわかに笑うしかできなかった。
三の姫がパチンと扇を閉める音が聞こえる。そして近くにいる女房に声をかけた。
「ねぇ、清美。御簾をあげてちょうだい。もっと近くで香さまとお話したいわ」
「姫さま」
困ったような声で女房が三の姫を窘める。
だが、それに負けていないのは三の姫だ。
「だって、こんなにかわいらしい方ともっと間近でお話したいと思うのはしかたのないことよ」
ほら早く、と促す三の姫に大きくため息をついたあと、清美は御簾をあげた。
その瞬間、思わず息を呑んだ。
噂どおり、三の姫はとても美しい人だった。
思わず見惚れている私に、三の姫はいたずらっ子のようにほほ笑んだ。
「そんなに見つめないで。恥ずかしくなってしまうわ」
「申し訳ありません。三の姫さまが、お噂どおりステキな方だったので見惚れてしまいました」
扇を持つ指を落ち着きなく動かしていると、いきなり三の姫に抱きつかれた。
突然のことに声も出ない。
ただ、目を白黒させて三の姫の顔を見るしかできなかった。
ある種、放心状態の私を皆で見つめたあと、清美が叫ぶ。
「姫さま! 香姫さまが困っておいでです。すぐにお離れになってくださいまし」
清美の声でハッとした。
突然思いもよらぬ出来事が自分に襲ってきたので、一瞬意識が飛んでしまっていたようだ。
三の姫に抱き着かれ慌てる私をよそに、三の姫は「いやよ」と首を振り、ますますギュッと私に抱きついてきた。
宮家の姫なのだから、もっと深窓の姫君だと思うのが普通だろう。
だが、三の姫はどうやらそんな世間体など気にしていない様子だ。
三の姫は少しだけ腕の力を緩め、私の顔をまっすぐに見つめてきた。
「こんなにかわいい方なのに、どうして縁談をすべて蹴っておいでなの?」
「……」
やはりか、と私は深くため息をついた。
かわいらしい声を聞いて、私は少しだけ緊張を解した。
朗らかな口調に、人柄の良さを感じる。
私は、安堵しながら小さく息を吐き出した。
すると、そんな私に三の姫は朗らかに笑う。
「今日は無理を言って、お香の指南をお願いしてしまいましたね。お越しいたがきありがとうございます」
「いえ、とんでもないことでございます。しかし、私のような若輩者でよかったのかと……それを心配しております」
私は謙遜ではなく、本心を正直に話した。
確かに、香の名手と誉れ高い父様の指導を受けてきた私は、それなりにお香の知識は入っていることだろう。
しかし、宮家の姫様に指南するほどの腕があるかと言えば、とても思えない。
この屋敷に着いてからも、肩身の狭い思いをしているのはそのためだ。
頭を下げる私の頭上から、コロコロと軽やかな笑い声が聞こえてきた。
御簾ごしなので顔の表情はわからないが、三の姫の柔らかい雰囲気を感じる。
「顔をお上げになって、香さま」
「三の姫……さま」
「そんなに謙遜なさることではないでしょう。貴女の噂は、今や都に知れ渡っておりますことよ」
「とんでもないことでございます」
恥ずかしさに顔が赤くなったのを扇で隠すと、三の姫は茶目っ気たっぷりに笑った。
「今上に献上された、あのお香。実は私、ひとつ頂きましたのよ」
少し前。父様に言われてお香の調合をしたのだが、それを今上に献上したと聞いたとき、卒倒してしまうかと思った。
そんなこと寝耳に水だった私は、父様にかなり怒ったことは記憶に新しい。
今上に献上するなら、それ相当な物を用意したかったのに。思い出しただけでも怒りが込みあげてくる。
そんな私に、父様は涙目で訴えてきた。
『だって、今上にどうしても香姫が作ったお香を焚いてみたいと所望されたのだぞ? それも普段使いの物がよいと仰せになられた。この父が断れると思うか?』
と泣きながら言う父様を見て、大きなため息を零したものだ。
そのときのお香を三の姫は言っているのだろう。
今上と三の姫は、親戚関係。それも伯父と姪という間柄だ。
なにかの折りに、今上から私が作ったお香を貰ってもおかしくないだろう。
「香さまが練られたお香を焚いたのですけど、本当に素晴らしくて。ぜひとも香さまにご指南いただきたいと思って、父上に無理を言ったのです」
「まぁ……」
父様よりこの話を受けたときは「何か裏がある?」と疑っていたが、三の姫の言葉を聞いてそれは誤解だったのだと思い直す。
嬉しくて頬を赤らめた私に、三の姫は意地悪な口調で言う。
「お香のこととは別に、香さまは違うお噂もあるお方。ぜひともお会いしたいと思っていたのですわ」
あのことだ。すぐに私は三の姫が言いたいことがわかった。
だが、この件については居たたまれない。私は扇で顔を隠して俯く。
クスクスと御簾越しから楽し気な笑い声が聞こえる。そのたびに、私が小さく身体をすぼめていると、コホンと咳払いが聞こえた。
さきほど三の姫を先導してきた女房だ。その女房は三の姫を窘める。
「姫さま。そのように香姫さまをからかうのはお行儀の悪いことですわよ」
年増の女房がメッと窘めると、さすがの三の姫も口を噤んだ。
「香さま、ごめんなさい。悪気はないのよ」
「はぁ……」
「ただ、そうやってかわいらしい仕草をされるから……つい、ね?」
同調を求められたが、私はにわかに笑うしかできなかった。
三の姫がパチンと扇を閉める音が聞こえる。そして近くにいる女房に声をかけた。
「ねぇ、清美。御簾をあげてちょうだい。もっと近くで香さまとお話したいわ」
「姫さま」
困ったような声で女房が三の姫を窘める。
だが、それに負けていないのは三の姫だ。
「だって、こんなにかわいらしい方ともっと間近でお話したいと思うのはしかたのないことよ」
ほら早く、と促す三の姫に大きくため息をついたあと、清美は御簾をあげた。
その瞬間、思わず息を呑んだ。
噂どおり、三の姫はとても美しい人だった。
思わず見惚れている私に、三の姫はいたずらっ子のようにほほ笑んだ。
「そんなに見つめないで。恥ずかしくなってしまうわ」
「申し訳ありません。三の姫さまが、お噂どおりステキな方だったので見惚れてしまいました」
扇を持つ指を落ち着きなく動かしていると、いきなり三の姫に抱きつかれた。
突然のことに声も出ない。
ただ、目を白黒させて三の姫の顔を見るしかできなかった。
ある種、放心状態の私を皆で見つめたあと、清美が叫ぶ。
「姫さま! 香姫さまが困っておいでです。すぐにお離れになってくださいまし」
清美の声でハッとした。
突然思いもよらぬ出来事が自分に襲ってきたので、一瞬意識が飛んでしまっていたようだ。
三の姫に抱き着かれ慌てる私をよそに、三の姫は「いやよ」と首を振り、ますますギュッと私に抱きついてきた。
宮家の姫なのだから、もっと深窓の姫君だと思うのが普通だろう。
だが、三の姫はどうやらそんな世間体など気にしていない様子だ。
三の姫は少しだけ腕の力を緩め、私の顔をまっすぐに見つめてきた。
「こんなにかわいい方なのに、どうして縁談をすべて蹴っておいでなの?」
「……」
やはりか、と私は深くため息をついた。
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