ハルノコクハク

赤星 治

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 尾木野俊弥が目を覚ますと昨晩のニュース速報を思い出し、夢との温度差に失望感が僅かに蘇る。
『死後数日経った三上優海の遺体が発見された。犯人は交際相手』
 今朝のニュースでは二人の口論や怒声が飛び交うのを近所の住民が聞いていると報じられた。

 優海。母なる海のような大らかで優しい女性になるようにと両親が付けた名前だと、俊弥の記憶に残っている。二十代半ば頃、高校の友人同士で集まって初恋相手の話をした時に教えられた。その友人の彼女が優海の友達だった。
 高校時代の優海は陸上部の短距離走で表彰されるほどの実力者。曲がったことが嫌いで正義感のやや強い、逞しい気質の女子。不良男子生徒にも物怖じせず堂々と意見した時があった。真っ直ぐ、自分の決めた未来へ進んだ、俊弥の片想い相手だ。
 集まった友人達の間でも優海は良い面でも悪い面でも人気があった。色んな噂や憶測はあったが、確実な情報では、好意を抱いていた男子はそれなりにいたが、全て断られたという。陸上と勉学に専念したいからというものだった。
 進学理由も、青春ドラマで描かれる大学のキャンパスライフを送りたかったが、両親に浮ついた気持ちを断られるが、どうしても進学したいなら偏差値の高い大学、が条件であったからだ。熱心に部活動を励む一方で念願のために帰宅してから勉強。執念で勝ち取った大学入学であった。

 そんな優海が三十八歳の若さでこの世を去った。病死でも事故でもなく、付き合っていた相手に殺されて。

 俊弥はニュースを見て以降、静かに動揺している。それでも無理やり平常心を保ち、いつも通りに振る舞った。
「どうかした?」
 十年前に結婚した妻に心配され、五歳の娘と三歳の息子にも気を遣われてしまう。
「ん? いや、なんもないけど」
 無理やり平静を装いながらも優海が亡くなったニュースから目を離さなかった。

 本心を隠し、普通を装うのも上手くなった。社会人となってからは同僚、上司、取引先の人達に建前上の愛想良さを維持しつづけた。嘘を吐いて気を遣い、話を合わせ、怒られると何度も何度も頭を下げた。内心では腸が煮えくりかえる気持ちを抑え込み。
 高校時分よりはかなり熟練された嘘と秘密を“普通”でやり過ごし隠し通せるようになった。ただ、今回ばかりは、精神面がそうもいかなかった。
 昨晩から気持ちとは違う言葉を口にしているが記憶に曖昧だ。普通を貫いているのかどうかすらも。

 昼休みに友人周りからの連絡を受け、三上優海がどういう人生を送ったか端的な情報を得ることが出来た。

 四年制の大学へ進学した優海は卒業後にフリーターとなった。何かを目指してはいたのだろうが、正確な情報が分からないままだ。夢を持ち、目指し続けていたのか諦めたのか。予想に反した何気ないキャンパスライフを送っていたのか。
 社会人となって以降、恋人が出来るも長続きせず、四人目の彼氏と三十二歳の頃に結婚できた。その相手こそ優海を殺した男である。

 無性に動機が知りたくなる。
 どういう事情があって殺した? 何がきっかけで殺人に至った? 癪に障ることでも言われたのか?
 悩んでも仕方の無い現実。
 ドラマのように、取調室で犯人が真相を語る現場へは行けない。真実を探る行動をするまで気持ちは動かない。知る術はニュースで報じられるのを待つしかない。

 午後の仕事を終えた俊弥のスマートフォンに衝撃的な情報が入った。優海の腹には子供が出来ていたという。
 すぐさま情報源の友人へ電話して真偽を確かめる。
 情報主は友人の妻であり優海の相談相手からの又聞きだが確かなものだった。現在、ニュースではそこまでの情報が公となっていないが、後に報じられるのは時間の問題である。
 もしかしたら腹の子が原因で口論になったのかもしれない。全く別の理由が原因かもしれない。ただ、とても悲しい気持ちがこみ上げる。
 子供が妻の腹に出来た時の喜び、産まれた時の感動、愛らしい我が子との初対面。子供のためにと色々考えて多くのものを買った。
 出産から今までの感動は全てを知っている。
 優海もそれを味わいたいと思い、待ち遠しかったに違いなかっただろう。どんな名前かを考え、どんな服を着せ、何処へ行こうか。膨らむ腹を撫でて愛する気持ちを募らせていただろう。

 仕事の終了時間を迎え、俊弥は何かを喪失したまま帰路についた。
 電車内で呆然とした脳内で思い出されるのは夢で見た橋の上での告白。当時の俊弥が一歩を踏み出せず、優海の遠退く後ろ姿を見送っただけの苦く切ない記憶。
 あの時に告白していれば、もしかしたら優海が死ななかったのかもしれないと考えてしまう。だが、付き合っても別れる彼氏の一人に加えられる可能性がすぐに浮かび、無駄な妄想だと”もしも”あった未来を否定する。
 昨晩見た夢は俊弥の願望だ。接点の少ない者同士が卒業式当日に仲の良い友達みたいに言葉を交す、あり得ないシチュエーション。温かい都合の良い幻想。
 望みが叶ったのは、皮肉にも優海が亡くなったと知った後だ。


 五日後。俊弥は供養の為に優海を最後に見た橋へと訪れた。
 この五日間、日常生活に支障をきたさなかったが、どこか空虚な気持ちを残したままの日々を過ごした。通夜も葬儀もあったのか分からない。
 告白の夢。
 優海が見せたのかもしれない願望が叶った夢の場所。
 季節は梅雨明けの、暑くなり始める時期。卒業式後の当時や夢のような心地良さからかけ離れた、これから始まる猛暑の先駆けとなる蒸し暑い日。
 俊弥は橋に向かって手を合わせて祈る。供養の言葉が思いつかない。当時の優海の姿、夢の優海の姿、それらが浮かぶばかりで。
 夢と共通しているのは誰もいないことだけだ。

 優海は、相手を怒らせる程の事をしたのか?
 傷つける言葉を発して対抗する性格になったのか?
 何か大切な何かを傷つけ、ほったらかしにしたのか?
 ただ暴力的な男性を選び、不躾を正す為に口論に発展したのか?
 俊弥も今までの人生で、相手が老若男女問わず腹の立つ思いをした経験は何度もある。中には本気で殴りたいと思ったり、殺意を覚えたこともある。しかし踏みとどまった。
 優海を殺した男性は自制がきかなかったのか?
 相手を負かしたい為に、踏み入ってはならない”言い過ぎてはならない一線”を越えてしまったのか?
 それとも、相手は気性の荒い男性だったのか?

 こんな、答えを知ったところでどうにもならない。
 不意に、なぜ優海が”相手を怒らせた”前提で考えているのだろうかと疑問が浮かぶ。
 確かに殺した相手は四人目の恋人だ。ニュースの情報では口論する二人の声を聞くとある。しかしそれらが優海は”相手を怒らせる女性”として結び点けるのは強引すぎる。
 ではなぜ?
 答えは分からないままだが、なぜか言い負かした不良男子が思い出された。優海は負けず嫌いで曲がったことも嫌いなのだろう。相手が怖かろうと立ち向かう男気があるのだろう。
 俊弥の記憶が導きだした優海の虚像が、”相手を怒らせる女性”として描いているのかもしれない。

 一方的な思い込みをしたところで、当時の臆病な妄想ばかりの自分と同じままだ。
 何も出来ない。今はただ、冥福を祈るのみなのに。

 静かに目を開けた俊弥は、頭を下げて帰った。

 電車の中から茜色に染まる町の風景を眺めた。
 初恋相手が死んだ後の世界。穏やかとは程遠い死に方をした、優海がいない世界。
 いつも通りの平穏な日常の風景。平和な町の姿。

 辛い記憶を残すも時間は容赦なくいつも通りの速度で進む。いつもと変わりない日常へと。
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