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一章 出会いと適正
8 ハーネックの仕事
しおりを挟む視界に広がる光景は、人が込み合う昼間のバザー。
噴水近くに設けられた舞台では演奏会が行われている。
「すごい……これが、絵の中……」
賑わう人々の発する言葉、足音などの様々な雑音。
食品を扱う店から醸し出され、混ざり、鼻孔を突き抜ける食欲をそそる香り。
快晴の温かくも、秋口の清々しい風が時折吹きつける体感。
もはや絵とは思えない。
「さて、先ほどの話の続きをしようではないか」
ハーネックはモルドの両肩に手を当てて、呆然とする彼を正気に戻した。
そのまま横を通り過ぎ、モルドの前に立った。
「えっと、話って何でしたっけ?」
「ははは。驚きの初体験のあまり忘れてしまうのも無理はないか。私も初めて奇文の世界へ入った時はそう思ったよ」
必死で話の続きを思い出そうとしたが、一向に思い出せない。
「推理と分析の話だよ」
言われて、モルドは思い出した様子を表情にした。
「では続けよう。私やデビッドの様な存在は――」
いきなりの呼び捨てが気にはなったが、知っているのなら互いにそう呼び合う間柄なのかとも思い、話の続きを聞いた。
「――あらゆる事態を想定し、状況を見定めなければならない。例えばほら」
ハーネックはバザーの方を向いた。
「この賑わいがどうしたのですか?」
「これから何が分かる?」
「分かる? って、天気のいい、風が気持ちいい場所での楽しそうな祭の風景……ぐらいしか」
ハーネックは笑みを浮かべた。
「例えば、あの賑わいの中で連続殺人犯がいるかもしれない。もしかしたらあの舞台が爆発するかもしれない。眼前に写る者達が麻薬により快楽を露わにしているかもしれない。そう思えるかな?」
「な、何言ってるんですか!? 物騒で失礼ですよ!」
「だから、例えばだって。まあ、今のは礼を欠いた極論だが、我々はそういった極論も踏まえ、最悪の可能性を考慮しておかなければならない。まあ、奇文修復の前提としては、奇文が記された物事態、描いた内容に大きく作用する。作者の心理も踏まえてね」
モルドは流されるままに来たので絵の情報は頭に入っていない。
「ご、ごめんなさい。絵の情報はまるで頭に入ってないです」
ハーネックは嫌な顔一つ見せずに説明を続けた。
「まあそうなるね。分かってもらえると思うが、こういった細かい情報が奇文の中では重要視される。だから作品の情報は仕事を請け負う前にしっかり頭に入れておくにこしたことは無い」
再びモルドと向かい合った。
「……それはさておき、モルド君、少々時間が掛かってしまったが、バザーの雰囲気や、体感は入った時より良く感じたりしないかい?」
言われてみると、さっきより近くの人物の声が言葉として聞きやすい。
よく聞くと仕事の苦労話に聞こえる。
心地よい風も、いよいよ肌寒くもある。
よって、モルドは良く感じます。と答えた。
「それは良かった」
一体何がいいのか分からない。けど、なぜかハーネックが言うと安心感に包まれる。
「そういった事態は、私個人的には有利に働くからね」
「働くって、奇文修復にですか?」
なぜモルドの感覚が明確化されると好都合なのかが疑問であった。
「ところでハーネックさん」
ハーネックはしゃがんだ。
「奇文修復はしなくていいんですか? 僕の事はお気になさらず、本業に……」
ハーネックは笑顔のまま右手を地面に付けた。すると、巨大地震が突如発生した。
モルドは姿勢を崩して尻餅をつき、バザーの客たちも地震に驚く様を露わにした。しかし屋台は何処もが崩れたりしなかった。
「ハーネックさん何が起きたんですか!」
モルドは視界に映った人物に対し、感情が安堵から恐怖に変わった。ハーネックは宙に浮いた状態で手を後ろに回し、モルドに視線を落としていた。
穏やかな笑みは続いているものの、穏やかさではなく不気味さが際立った。
「何って、君が訊いた本業に精を出しているのだよ」
「本業って――」
視界に映るバザーの風景が、瞬く間に地獄絵図のように変わった。
人々は叫び、戸惑い、泣き、暴力を持ってその場を離れようとする。屋台などは地震ではなく逃げ惑う人々が崩していった。
「こんなのが奇文修復ではないでしょ!!」
モルドは修復された光景を見たことは無いが、そうであると言いきれる。
デビッドが奇文修復を終えた様子から、こんな惨事の後に表したとは到底思えないことから結びつけた。
「勿論。私は奇文修復師ではないからね」
では、なぜ絵画の中に入れるのか、奇文修復について、デビッドについて、なぜ知っているのか。
辺りの惨事も加わり、モルドの頭の中はまさに混乱し、情報がまるで整理できない。そんなこんがらがった頭の中に、ハーネックの声ははっきりと入ってきた。
「私は奇文を必要としているだけだ。そして今の君は非常にこの世界に同調しやすい体質になっている。今現在、初めて入って、周囲の騒音に気温、私が引き起こした地震までも体感している。それがどういう事か分かるかね?」
聞かれても何も答えられない。思考も虚ろで声も出せず、本当に何も出来ない。
「まだ現実世界には戻れるが、やがては取り返しのつかない事態を招くだろう」
やはり何も考えれず、反論の言葉も出ない。
「まあそれはいいとしよう。その目に焼き付けてくれたまえ、奇文を修復しない絵画の顛末を」
モルドが人々に目を向けると、空間を何かが切り裂いた。それは一つや二つでなく、次々に空間を切り裂き、ずらし、開いた。
その度に人々の悲鳴が飛び交い、血は出ないが体をずらされた者達は、木っ端みじんに散っていった。
「――やめろぉぉぉ!!!!」
ようやく叫び声を出せたが、途端に視界は暗転した。
気が付くと、美術館の絨毯の上に座り込み、周囲を見渡すとあの絵画のある個室の中に戻っていた。
来た時と違うのは、絵画に目を向けた時、驚きと同時に理解した。
巨大絵画は無数の切り傷を負い、無残に裂かれていた。
奇文修復しないという事は、作品に絶大な被害が及ぶのだと。
変わり果てた絵画へ釘づけになっていると、部屋の外からバタバタと騒がしく大勢の人が集まる音が聞こえた。
扉の方に目を向けると、そこが勢いよく開いた。
そこからはなにがなんだか思考が追いつかない。
「動くな! 大人しく手を――」
数人の者達の服装から警備兵と分かる。ただ、警備兵を指揮していたのは赤い服の管理官であった。
警備兵たちは猟銃を構え、モルドの方へ向けていた。
モルドはますます混乱していく。
銃口を向ける警備兵達。
ズタボロの巨大絵画。
何を言っているか聞き取れない管理官の言葉。
全員がモルドを睨んでいる。
自分がいったい何をした?
どうしてこうなった?
そういえばあの男性は誰だ?
え、誰かと来たっけ?
呼吸が乱れ、急に苦しくなり、視界がぼやけ、モルドは気を失って倒れた。
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