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第四章 消えた侍女

第五十七話

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 「天使ティエンシー

 どこかくぐもった声に、市は窓の外を見た。すると案の定、晧月がひらひらと手を振って、木にしがみついている。自然と、市の頬が綻んだ。

 「また、そんな所からいらしたのですか」

 窓を開ければ、晧月が軽い身のこなしで部屋へと入ってきた。銀色の瞳が、愛情深い眼差しで市を見つめる。

 「外からの方が、君に早く会えるから」

 市の白い頬が、ぽわりと色付いた。久実達の様子を見ていられないと思った市であったが、久実が今の市達を見れば、同じ事を思っただろう。バカップルというものは、自分では気付かないものだ。

 「今日は、着物ではないんだね」

 市の格好は、水色のチャイナドレスだった。銀糸で、美しい花々が刺繍されている。彼女の豊かな黒髪は、久実の侍女である凛々が、二つのお団子に結い上げていた。晒された細いうなじが、晧月の視線により、ほんのりと桜色に染まる。そんな無防備な彼女の様子に、晧月は唇を噛み締めた。

 ーーこの子の白い肌に、歯を立てたいだなんて……こんな男の欲望を君が知れば、どう思うかな……?

 晧月の銀色に輝くまつ毛が、ふるりと揺れる。その瞳には、市の姿が映っているようで映っていない。頭の中で、淫らに髪の毛を乱した市の表情が、チラついては消えていく。わかっていた。自分は、溜まっている。要するに、欲求不満なのだ。気持ちの通じ合った女性を、襲ってしまいたくて仕方がないのだ。

 キスだけでは、物足りない。もっと求めたくて、もっと関係を進めたい。彼女の体を自分のものにしたいという男の性が、彼を悩ませた。

 今までは、宛てがわれた女を適当に抱いて、性を発散していた。だが、もうそんな事は出来ない。したいとも思わない。晧月が、抱きたいと思うのは市だけだ。

 すべすべとした彼女の頬に触れ、その暖かな温度を確かめる。その体温で、彼女は確かに生きているのだとわかる。晧月よりも小さな身体で、頼りなく華奢な手足で、彼女は生きている。それだけで、晧月はどうしようもなく、自分とは違うか弱いこの子を、守らなければと思うのだ。柔らかい唇を親指でなぞり、晧月は自身のそれをそっと近付けた。

 ハッと目を丸くした彼女が、恥ずかしそうに瞳を閉じる。互いの香りが感じられる距離に近付くと、彼等は好きな人の甘い吐息に酔いしれた。唇をくっ付ければ、胸が締め付けられるような幸せを感じる。柔らかい、自分とは違う相手の感触。温度。角度を変えて啄むと、さらに深い口付けを求めてしまう。薄らと瞳を開ければ、頬を紅潮させて固く目を閉じる市の表情が見えた。晧月は、自分の意思を無視して、熱を持ち始める男の部分に嫌気が差した。市に気付かれないように、彼はそっと下半身を彼女から離す。そのまま唇も離すと、市が物足りなさそうに見上げてくるものだから、参ってしまった。

 「そんな顔で見ないでよ……襲うよ?」

 「な」

 襲うという意味がわからないほど、市は子供ではない。彼女は途端に晧月から距離をとり、真っ赤な顔で俯いた。そんな彼女の様子を見て、晧月がクスリと笑う。ウブな彼女が、可愛くて仕方がない。市の気の強いところも、へんてこなところも、可愛いところも、全部好きだ。まさか、こんなにも好きだと思もえる女性が現れるだなんて、ここに来る時は思ってもみなかった。

 母が異界からの姫君であるため、黒髪黒目も他国の王子と比べたら見慣れている。正直、一人の女を頑張って落とさなきゃならないだなんて、面倒くさい。そう思っていた。うちは、他の国と比べて異界からの姫君の血も濃いし、焦って頑張る事も無い。女のご機嫌取りなんて、自分には向いていないし、好きじゃない。だからこそ、召喚の儀式の時に、眠りこくっていたのだ。

 それなのに……。初めは、いけ好かないエイサフが気に入った姫だから興味を持った。それが、こんなにもこの子に溺れてしまうだなんて。

 見慣れていた筈の黒髪も、彼女のものは何よりも美しく見えた。

 「……君は、俺の宝物だよ」

 「晧月様?」

 「また後でね、天使ティェンシー

 小さな頭を撫でて、部屋を出る。これ以上、彼女の傍にいると、襲ってしまいそうだった。思いもよらぬ、制御不能な男の欲望に歯噛みしながら、彼は長い廊下を早足で歩く。すると、途中で一人の侍女とすれ違った。その姿を捉えたのはほんの一瞬だが、晧月の頭には何故か侍女の姿が深く残る。

 「あの侍女……」

 浅黒い肌に、ふっくらとした頬。頭にターバンを巻いた侍女は、どこかで見た色彩の瞳を持っていた。儚げな色を宿す、菫色。あれをどこで見たのか、思い出せない……。興味のあるものしか覚えない晧月にとって、市以外の人間の瞳の色など、覚えているわけが無かった。そもそも、あんな侍女いただろうか?最近雇ったにしろ、たかが侍女に、どうしてこうも引っ掛かるのだろう。彼の心境を表すかのように、じっとりとした空気が纏わり付く。

 「雨か……」

 窓の外を、菫色の雨が、ザァザァと降っていた。
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