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第三章 奪還

第四十八話

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 己の血が、ドクドクと脈打つのを感じる。エイサフは、軽く息を吐いた。好敵手と言われてきた自分が、このように薬に頼っていたと知り、晧月は軽蔑しただろう。だが、こうでもしなければ奴に勝てる見込みなどない。それどころか、シュッタイト帝国は、ヘンタドリム大陸で一番姫君の血が薄い国だ。我が父がした所業は、到底褒められたものではないが、事実、国に貢献した結果となっている。捕らえた姫君を監禁し、その血を輸血することにより、魔術師を増やした。姫君の血とは、あらゆる能力を授け、あらゆる生物を癒す貴重な血なのだ。捕らえた姫君のおかで、シュッタイト帝国は渼帝国と渡り合えている。そう……父は国のために、正しいことをしたのだ。

 エイサフの瞳が、チラリと市を見下げた。国の繁栄ためにも、市を手放す訳にはいかない。彼女の不安げに揺れる瞳と目が合い、胸がギュッと締め付けられた。目が合うだけで、こんなにも嬉しい。好きだという気持ちが溢れ出すのだ。彼女のしっとりとした黒髪や、黒曜石の瞳。可憐な顔。華奢な体。その全てが、エイサフを酔わせ、狂わせる。そうだ。何より唯一愛した女を、憎たらしい男になどくれてやるものか。

 「今度こそ、死ねぃ晧月!」

 エイサフが剣を振り上げ、右足を踏み出した。姫君の血を体に取り込んだことにより、上がった身体能力。それは、エイサフの剣術のスピードや、刀の重みさえも、高めた。青い髪が靡き、力強い一撃が晧月を襲う。晧月は、そんな彼の刃を躱して、自らもエイサフに打ち込んだ。キィン、キィンと金属音が鳴り響く中、市は晧月に言われた通りに目を閉じることも無く、二人の戦いを眺めていた。互いに闘志をむき出しにして、剣を交える姿は勇ましく、兄である信長の姿を思い出す。

 ーー目を背けてはならぬ。男の戦いを見届けるのも……おなごの務め。ただ、晧月様が勝つ事を信じて、見守るのじゃ。

 市は、血生臭い戦場を知らない。だが、死体を見慣れていない訳では無い。信長を怒らせた家臣の死体や、武将達が持ち帰って来た生首を見た事がある。その生首に化粧を施している女達の仕事を覗いたりもした。もちろん、血は苦手ではあるし、死体を好んで見たいとも思わない。だが、目の前で戦う二人の男達から、目を背けて終わるのを待つのは、あまりに失礼な気がした。市を助けに来てくれた晧月の戦いから、目を逸らしたくない。

 ーー青の若君は、あの怪しげな薬を飲んでからというもの……動きが変わった……。

 晧月と同等のスピードで、エイサフの剣が動いている。晧月は彼の剣を躱し、打ち込むも、その攻撃はなかなか当たらない。まさに、互角だった。互いが互いに、攻撃するも当らず躱されている。そのため晧月もエイサフも、苛立ちを隠せない様子で、互いの剣術が荒々しい動きに変わる。激しく鳴り響く金属音が、大きくなり、晧月の剣の刀身にピキリとヒビが入った。それを見逃すエイサフではない。

 「……貰った!」

 勝利を確信した彼の剣も、しかし、晧月のものと同様にヒビ割れた。ビキビキ……と互いの剣のヒビが大きくなり、刃こぼれを起こす。

 「な……っ」

 ついには、晧月の剣とエイサフの剣は、同時に真っ二つに割れてしまった。カランと落ちてしまった剣が、虚しく室内に音を響かせる。晧月は黙ったままソレを見つめ、やがて笑みを浮かべると、先の無くなった剣をポイッと放り投げた。

 「お互いに、獲物が使い物にならなくなっちゃったね」

 何やら楽しげな声音。眉を顰めるエイサフに、晧月は右肩を引き、左肩を前に出して足を開く。右手を曲げ、両手を真っ直ぐに伸ばした構えは、体術の構えのようであった。

 「どうだい?ここはひとまず、拳と拳で語り合おうじゃないか。俺は手刀でも、お前の首を落とせるんだ」

 不敵に告げた晧月に、エイサフもフッと微笑した。右手に持っていた剣を投げ捨てて、両拳を握り、構える。

 「いいだろう。殴り殺してやるのも、貴様をいたぶってやれそうで楽しそうだ」

 エイサフの挑発を、晧月はまた鼻で笑う。無言で睨み合う二人は、同時に足を踏み込んだ。



 狭い部屋の中に、血生臭い匂いが充満していた。ベッドに寝かされた老人の体は、鞭で打たれてボロボロである。

 「……どうしよう」

 久実は、泣きそうな顔でレイムホップを見つめた。先程、兵士がレイムホップを連れてやって来たのだが、その姿に言葉が出なかった。着ていた服は真っ赤に濡れ、肌にはミミズばれのような傷が無数にある。エイサフに呼ばれて行った彼は、きっと拷問されたのだ。久実は、唖然としながらレイムホップをベッドに寝かせ、今に至る。

 止血するために、布を巻いてみたものの、こんなのでいいのかわからない。久実は医者ではない。レイムホップの意識は戻らず、薄く開いた唇からはか細い呼吸音が響いている。これは、まさに虫の息というやつだろうか。そう考えて、ゾッとした。つい昨日まで、不安ながらも一緒に今日まで乗り越えて来た老人が、死ぬかもしれない。それは、平成を生きた久実にとって、耐え難いことだった。

 「ねぇ!ちょっと!お医者さんを呼んでもらえないかしら!」

 ドアを叩いて、外にいる兵士に呼びかけるも、久実の声は無視されてしまう。

 「ちょっと!聞いてるの?人が死にそうなのよ!助けて!!」

 叫んでも無駄とでもいうように、返事は返って来ない。

 「どうしたらいいのよ……っ」

 むせかえる血の匂いに、頭がクラクラする。惨い傷跡も、見慣れない。血にも慣れない。久実は、思わず泣きそうになった。心細くて、不安で、心臓がドクドクと鳴る。レイムホップが、このまま死んでしまったらどうしよう。そんな不安で一杯だった。

 「失礼致します」

 突然ドアが開き、冷静なほど冷たい声音が降ってきた。

 「あなたは……!」

 久実は、驚きに目を見開く。そこには、菫色の髪を三つ編みに結った女……ラビアが立っていた。

 固まる久実を横目に、ラビアは包帯と薬のようなものを置いていく。

 「私には、これしか出来ません……申し訳ございません」

 「な……」

 あっさりと出ていこうとするラビアに、久実は慌てて彼女の細腕を掴んだ。

 「ちょっと待ってよ!市は無事なの!?」

 久実は、一緒に攫われた市の事がずっと気がかりであった。裏切り者のラビアを攻める言葉よりも、市を案じる言葉が先に出た。久実の憔悴し切った様子に、ラビアは小さく唇を開く。

 「イチ様は……」

 ラビアの頭には、弱り切った市の姿があった。ガリガリに痩せ細ってしまった市は、生きる希望すらない様子でベッドに横たわっているのだ。青い顔で、自殺ばかりを繰り返す。いつ心を壊してしまうのか、毎日が不安だった。ラビアの目頭が熱くなる。だが、自分に泣く資格などないのだ。裏切ってしまったのは、自分だ。

 「失礼致します!」

 久実の腕を振りほどいて、ラビアは走り去って行った。「あっ」と声を上げ、呼び止めようとするも、無情にも扉は締まり、鍵をかけられる音が聞こえてくる。

 「何なのよ……」

 無事なのかどうか、安否を知りたかったのに。ラビアのあの様子では、市は酷い目に合っているのでは?久実は、レイムホップの背中に薬を塗り付けた。どういうつもりかは知らないが、ラビアの持ってきた薬と包帯は、レイムホップのためらしい。一瞬、劇薬では?と疑うも、ラビアの様子を見る限り、それは無さそうだった。何故なら、彼女の顔が罪悪感で一杯だったからだ。

 ーーあんな顔をするくらいなら、市のことを裏切るんじゃないわよ……。

 包帯を巻きながら、ため息を吐く。すると、またもやドアが開く気配を感じ、振り向いた。

 「ラビアなの?」

 きっと、市のことを知らせに戻って来てくれたのだろう。そう思ったのに、そこには二人の兵士が立っていた。

 「どうやら、賊が城に侵入したとかで、下の階が慌ただしいんだ。この機会を逃すまいと、姫君を味わってみようと思ってな」

 兵士の一人が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて、久実に近付く。

 「な、何よアンタ達!?こっちに、来ないで!!」

 思わず後ずさった久実の体を、もう一人の兵士が羽交い締めにした。もがこうとするも、久実の小さな体では屈強な男を相手に適うはずもない。

 「おい、相棒。姫君と契れば、俺がシュッタイト帝国の王になれたりしてな」

 「馬鹿言え。だが、姫君の持つ力は絶大らしいからな……それに、こんなにいい女なんだ。据え膳食わぬは男の恥って奴よ」

 「へっへっへっ……おっと、涎が出ちまう。女なんて、何ヶ月ぶりだ?」

 芋虫のような指が、久実のまろい頬を這うように撫で上げた。

 「ひっ……」 

 嫌悪感に体が縮こまる。だが、そんな久実の反応を、男達は良いように解釈したようだった。

 「可愛い女だ。なぁに、俺達に任せてくれれば、悪い様にはしねぇさ」

 服を掴まれて、脱がされそうになり、身を捩る。だが、久実の体を拘束する男が、暴れることを許さない。

 「いやっ!離してー!」

 「嫌よ嫌よも好きのうちってなぁ」

 臭い息が、久実の鼻先を擽る。黄ばんだ歯を剥き出しに笑う兵士が、おぞましい。風呂に入っていないのか、据えた匂いを漂わせ、垢により黒ずんだ手が体を撫で回し始めた。爪の中は、泥や垢により黒いものが詰まっているのが見える。久実の肌が粟立った。こんな男に、犯されてしまうのか。決して、処女ではない。あちらの世界では、結婚もしていたし子供もいた。だからといって、こんな風に強姦されることを、耐えられそうにもない。

 「誰か……!」

 久実は願った。助けに来てと。誰でもいいから、助けてくれと。しかし、何故か脳裏に浮かんだのは、赤い髪に赤い瞳をした、ナルシストで頭の軽い王子の姿だった。
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