38 / 70
第二章 愛を乞う王子
第三十七話
しおりを挟む随分と長い夢を見ていた気がする。市は、薄らとまぶたを開いた。頭がぼんやりとして、痛い。ここはどこだろう。自分はどうしたのだったか。きょろりと瞳を動かせば、そこにはエイサフが居た。深い海のような青い瞳と目が合い、市の体が強ばる。そうだ。自分は、晧月の後を追って自害したのだ。それなのに、どうして。見開いた瞳から、涙が滲む。
ーーどうして、私は生きているのだろう。
舌を噛み切った筈なのに、何故か、何事もなかったかのように治っている。
「姫……!目覚めたか……!」
エイサフの嬉しそうな顔など、見たくもない。市は視線を落とし、無言を貫いた。だがエイサフは、市の態度を気にすることなく、彼女の頬に馴れ馴れしく触れてくる。頬を包み込む、憎い男の手が煩わしい。いつまで、触っている気だ。触るな。離せ。離せ!
パシッ
乾いた音が響いた。市が、エイサフの手を払い除けたのだ。彼女は、エイサフの腰に差してある短剣に手を伸ばして奪い取ると、鞘から剣を抜いて、自分の首に当てた。たったそれだけの動きでも、市の体から汗が滲む。エイサフは、子猫のように自分を睨み付けてくる市を見て、微笑んだ。
「私の前で……そなたはいつも、死のうとする」
エイサフは動かない。市の前で突っ立ったまま、事の成り行きを見守っているかのようだ。
「止めぬのか?」
動じないエイサフに対して、市は怪訝な眼差しを向けた。すると彼は皮肉にも、不思議そうに首を傾ける。
「止めて欲しいのか?」
「まさか!邪魔が入らず死ねるなら、それでよい!」
潔い市の姿はあっぱれなもの。彼女は何の躊躇もなく、自らの首に短剣を突き刺した。血が吹き出て、喉から着物を真っ赤に染める。
ーーこれで、私は……晧月様の元へ逝けるのだ……。
目を閉じた。しかし、一向に意識が無くならない。心臓も動き、呼吸もしている。体の機能は正常に動いている。ただ、剣が刺さった喉が、痛く熱かった。
「……っ!?」
あまりの痛みに、手足が痺れる。彼女は目を見開いた。喉が、痛くて堪らない。自らの肉を貫いた金属が、筋肉を、血管を、細胞すらをも傷付ける。
「……ど……っどう、なって……っ!?」
ーー何故、死なぬ!?
市は、今起きている事が、信じられなかった。部屋に飾られた鏡に映る自分の姿は、喉に短剣が突き刺さり、血が吹き出している。それなのに、意識はしっかりとあり、なかなか死ねない。肉を断つ痛みのみが、彼女を襲うのだ。市はとうとう、ベッドに倒れ込んだ。痛い。焼けるように痛い。しかし、意識はある。苦しい。何故、死ねないのか。
「……ひっ!?」
ズリュ、という音が響いた。市の首の筋肉が、モゾモゾと蠢く。それはまるで、体の異物を押し出そうとしているかのようだった。冷や汗と自らの血で、体がびっしょりと濡れる。痛みから涙が零れる。
ーー何なのだ……!これは一体、何なのだ……っ!?
「痛い……っいた、い……!!」
苦痛に歪む彼女の顔を、エイサフは薄ら寒い笑みを浮かべて見下ろしていた。市の筋肉が、動く度に、突き刺さった短剣を押し出している。血塗れの深い傷口から、銀色に光る美しい剣が、産み落とされるかのような、そんな光景。その上では、美しく愛しい姫の顔が、苦痛に歪んでいる。黒い瞳は涙で濡れ、眉間にシワが寄り、可哀想なのに、もっと見ていたい。それは、彼女があまりにも、女神のように綺麗だからなのか。それとも、エイサフの中にひっそりと生まれた加虐心からなのか。
カラン
首から押し出された剣が、床に転がった。市の喉にポッカリと空いた穴は、蒸気を上げながら、徐々に塞がっていく。ぐったりとベッドに倒れる彼女の、血に濡れた首を拭えば、そこには綺麗な白い肌があった。傷口など、何も無い。先程まで、そこに短剣が刺さっていたことなんて、信じられないほど、シミ一つない綺麗な肌。
「……素晴らしい」
これが、禁じられた魔術の力なのだ。エイサフは、興奮から頬が上気した。姫君の血が薄まった、シュッタイト帝国の魔術師の力では、市の部屋に魔術をかけるので精一杯らしいが、部屋に監禁しておけばいいだけのこと。この部屋にいる限り、魔術の対象である市は、不死身の体を手に入れるのだ。しかも、痛みを味わいながらの、再生であるため、市の体にしっかりと思い知らせてやれる。いくら、強い心を持っていても、人間の体は痛みに弱い。死んだら、楽になれるのに、死ねないのだ。それはどんなに、辛いだろう。
「死ねない体とは、どんな気持ちだ?」
エイサフは、自然と口角が上がっていた。市の乱れた前髪をよければ、泣き出しそうな彼女の顔が現れる。果実のような唇を噛み締めて、悔しそうな瞳が睨み付けてくる。その瞳には、涙の膜がはっていた。エイサフは、笑みを深めた。愛しい女の幸せそうな笑顔も見たいが、この苦痛に歪んだ顔もいい。自分のせいで、こんな顔になったのであれば、もっと苦しめてしまいたくなる。きっと彼女のこの顔を、晧月は見た事などないだろう。
笑い声が零れた。市の体は今や、エイサフの思い通りに出来るのだと再認識した。不死身になった事で、彼女は自害など出来なくなる。市をこの部屋に監禁し、いずれは、己を愛してもらえばいい。体さえ暴けば、心はおのずと後からついてくる。なんせ、女という生き物は、体を交えた男に情を抱くという。それならば、市を抱く回数だけ、自分への愛も深めて貰えるのだ。
屈折した彼の思考は、とんでもない方向へと向かっていた。彼は、それが正しいと信じていた。彼の市への想いは本物であったし、市もその愛をやがて理解し、返してくれるだろうと信じて疑わない。彼は、愛に飢えていた。まさに、愛に飢える獣であった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
181
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる