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第二章 愛を乞う王子

第三十七話

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 随分と長い夢を見ていた気がする。市は、薄らとまぶたを開いた。頭がぼんやりとして、痛い。ここはどこだろう。自分はどうしたのだったか。きょろりと瞳を動かせば、そこにはエイサフが居た。深い海のような青い瞳と目が合い、市の体が強ばる。そうだ。自分は、晧月の後を追って自害したのだ。それなのに、どうして。見開いた瞳から、涙が滲む。

 ーーどうして、私は生きているのだろう。

 舌を噛み切った筈なのに、何故か、何事もなかったかのように治っている。

 「姫……!目覚めたか……!」

 エイサフの嬉しそうな顔など、見たくもない。市は視線を落とし、無言を貫いた。だがエイサフは、市の態度を気にすることなく、彼女の頬に馴れ馴れしく触れてくる。頬を包み込む、憎い男の手が煩わしい。いつまで、触っている気だ。触るな。離せ。離せ!

 パシッ

 乾いた音が響いた。市が、エイサフの手を払い除けたのだ。彼女は、エイサフの腰に差してある短剣に手を伸ばして奪い取ると、鞘から剣を抜いて、自分の首に当てた。たったそれだけの動きでも、市の体から汗が滲む。エイサフは、子猫のように自分を睨み付けてくる市を見て、微笑んだ。

 「私の前で……そなたはいつも、死のうとする」

 エイサフは動かない。市の前で突っ立ったまま、事の成り行きを見守っているかのようだ。

 「止めぬのか?」

 動じないエイサフに対して、市は怪訝な眼差しを向けた。すると彼は皮肉にも、不思議そうに首を傾ける。

 「止めて欲しいのか?」

 「まさか!邪魔が入らず死ねるなら、それでよい!」

 潔い市の姿はあっぱれなもの。彼女は何の躊躇もなく、自らの首に短剣を突き刺した。血が吹き出て、喉から着物を真っ赤に染める。

 ーーこれで、私は……晧月様の元へ逝けるのだ……。

 目を閉じた。しかし、一向に意識が無くならない。心臓も動き、呼吸もしている。体の機能は正常に動いている。ただ、剣が刺さった喉が、痛く熱かった。

 「……っ!?」

 あまりの痛みに、手足が痺れる。彼女は目を見開いた。喉が、痛くて堪らない。自らの肉を貫いた金属が、筋肉を、血管を、細胞すらをも傷付ける。

 「……ど……っどう、なって……っ!?」

 ーー何故、死なぬ!?

 市は、今起きている事が、信じられなかった。部屋に飾られた鏡に映る自分の姿は、喉に短剣が突き刺さり、血が吹き出している。それなのに、意識はしっかりとあり、なかなか死ねない。肉を断つ痛みのみが、彼女を襲うのだ。市はとうとう、ベッドに倒れ込んだ。痛い。焼けるように痛い。しかし、意識はある。苦しい。何故、死ねないのか。

 「……ひっ!?」

 ズリュ、という音が響いた。市の首の筋肉が、モゾモゾと蠢く。それはまるで、体の異物を押し出そうとしているかのようだった。冷や汗と自らの血で、体がびっしょりと濡れる。痛みから涙が零れる。

 ーー何なのだ……!これは一体、何なのだ……っ!?

 「痛い……っいた、い……!!」

 苦痛に歪む彼女の顔を、エイサフは薄ら寒い笑みを浮かべて見下ろしていた。市の筋肉が、動く度に、突き刺さった短剣を押し出している。血塗れの深い傷口から、銀色に光る美しい剣が、産み落とされるかのような、そんな光景。その上では、美しく愛しい姫の顔が、苦痛に歪んでいる。黒い瞳は涙で濡れ、眉間にシワが寄り、可哀想なのに、もっと見ていたい。それは、彼女があまりにも、女神のように綺麗だからなのか。それとも、エイサフの中にひっそりと生まれた加虐心からなのか。

 カラン

 首から押し出された剣が、床に転がった。市の喉にポッカリと空いた穴は、蒸気を上げながら、徐々に塞がっていく。ぐったりとベッドに倒れる彼女の、血に濡れた首を拭えば、そこには綺麗な白い肌があった。傷口など、何も無い。先程まで、そこに短剣が刺さっていたことなんて、信じられないほど、シミ一つない綺麗な肌。

 「……素晴らしい」

 これが、禁じられた魔術の力なのだ。エイサフは、興奮から頬が上気した。姫君の血が薄まった、シュッタイト帝国の魔術師の力では、市の部屋に魔術をかけるので精一杯らしいが、部屋に監禁しておけばいいだけのこと。この部屋にいる限り、魔術の対象である市は、不死身の体を手に入れるのだ。しかも、痛みを味わいながらの、再生であるため、市の体にしっかりと思い知らせてやれる。いくら、強い心を持っていても、人間の体は痛みに弱い。死んだら、楽になれるのに、死ねないのだ。それはどんなに、辛いだろう。

 「死ねない体とは、どんな気持ちだ?」

 エイサフは、自然と口角が上がっていた。市の乱れた前髪をよければ、泣き出しそうな彼女の顔が現れる。果実のような唇を噛み締めて、悔しそうな瞳が睨み付けてくる。その瞳には、涙の膜がはっていた。エイサフは、笑みを深めた。愛しい女の幸せそうな笑顔も見たいが、この苦痛に歪んだ顔もいい。自分のせいで、こんな顔になったのであれば、もっと苦しめてしまいたくなる。きっと彼女のこの顔を、晧月は見た事などないだろう。

 笑い声が零れた。市の体は今や、エイサフの思い通りに出来るのだと再認識した。不死身になった事で、彼女は自害など出来なくなる。市をこの部屋に監禁し、いずれは、己を愛してもらえばいい。体さえ暴けば、心はおのずと後からついてくる。なんせ、女という生き物は、体を交えた男に情を抱くという。それならば、市を抱く回数だけ、自分への愛も深めて貰えるのだ。

 屈折した彼の思考は、とんでもない方向へと向かっていた。彼は、それが正しいと信じていた。彼の市への想いは本物であったし、市もその愛をやがて理解し、返してくれるだろうと信じて疑わない。彼は、愛に飢えていた。まさに、愛に飢える獣であった。
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