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第一章 異界からの姫君

第二十二話

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 市は、ハッとしてエイサフの様子を窺った。彼の白い頬が、先程と比べて青ざめて見える。

 「……青の、若君?」

 そっと、彼を呼べば、彼はゆるりと視線を市に流した。その拳は固く握られ、震えている。だが、彼は浅く息を吐くと、自分の中で揺らぐ炎を閉じ込めた。

 「どうした、姫。まるで、迷子の子供のような顔で私を見て……。その青の若君とは、私の事か?」

 淡く微笑したエイサフの顔は、窓から入る太陽の光に照らされて、白く輝く真珠のようだった。その様は、先日の嫌らしい男とはまるで違う。ずっとそのように、穏やかな王子であればよいのに……と、市は心の中で呟いた。

 「青の若君という呼び名も……そなたの考えたものなのだと思うと、愛しいものだが……私は名前で呼んで欲しい」

 「な、名前でですか……?」

 市はいきなり心の距離を詰められたように感じ、狼狽えた。彼は、こちらが溶けてしまいそうなほど、甘く熱い眼差しで見つめてくる。市は、自分の頬が溶けてしまっていないか、思わずこっそりと確認してしまった。

 「私の名前を呼んでみよ、姫……」

 「そ、それは……嫌です」

 男から熱い眼差しを、間近に感じる機会のなかった市は、逃げるように顔を背けた。この人の傍は、居心地が悪い。どうして、そんな顔で見てくるのか。市の瞳が悩ましげに、伏せられる。

 「エイサフだ、呼んでみよ」

 「嫌と言っているではありませぬか……!私はこの間の無礼を、許した訳ではありませぬ!」

 肩に触れたエイサフの手を、跳ね除ける。市はとにかく、目の前の男の前から去りたかった。初めは、兄のようだと思ったこの男……。二度目は、豹変したように、強引に迫ってきた。そして、一度も許したことの無い唇を、いとも簡単に奪っていったのだ。そして三度目は、愛しいものを見るような目で市を見る……。調子が狂う。自分にどうしろと言うのだ。

 「……あなたの考えている事が、わかりませぬ」

 「私はそなたを、愛している」

 真っ直ぐに告げられた言葉に、市は彼の瞳を見た。青い海のような瞳は、さざ波のように穏やかな色を宿している。

 「若君は、私を愛しているとおっしゃる……ですが、私は元の世界へ帰りたいのです!」

 どうしてか、市の瞳から一筋の涙が零れた。彼の気持ちに答えることは出来ない。市はエイサフを、好きではない。それに、信長の元へ帰りたいのだ。だから、そんなに切ない眼差しで、見ないで欲しい。

 市の言葉に、エイサフの眉根がギュッと寄せられた。目尻を青ざめさせ、唇を噛み締めた彼は、市の手首を掴み、引き寄せる。市の頬が、彼の広い胸板にくっつくと、彼はそのまま市の後頭部に手を寄せた。細く長い絹のような髪に、彼の大きな指が通る。

 「そなたは、帰さぬ!帰れぬのだ!」

 「な……」

 自分勝手な事をぶつけるエイサフに、市は腹立たしく彼の顔を見上げた。すると、彼の青い瞳が、焦がれるように市を映す。しかし、それはまるで、花瓶を割った子供のように、不安げなものだった。開きかけた唇を閉じて、市はじっとエイサフを見つめた。

 「頼むから、ここに居てくれ……。私の傍から、離れていくな……」

 幼子が、親に縋るような仕草。エイサフの青い瞳は、兎のように怖気付いて揺れている。彼はその整った唇を開いて、切なげに言った。

 「姫……そなたが愛しい。胸が張り裂けそうなほど、そなたを想っている……」

 「こ、困りまする……私は、兄上様の元へ帰りたいのです……」

 「兄のことは、忘れよ。私が、そなたの兄となり、そして夫となろう。私の妃になれ、姫よ……決して不自由はさせぬ」

 ついに市の体は、すっぽりと彼の大きな腕に掻き抱かれてしまった。力強い抱擁は、市の胸を潰してしまいそうだ。情熱的で、全身から市を求めているとでもいいたげな彼の両腕は、しかし小さく震えていた。

 「私は、若君の想いに答えることは出来ませぬ……」

 「それでもよい。いずれ、私を好きになる」

 「きっと、なりませぬ。あなたの気持ちは、私には重すぎまする」

 「そう思うのは、そなたが恋を知らぬからだ……!」

 恋を知らない。その言葉は、大きく市の心を揺さぶった。

 そうだ、自分は恋を知らない。戦国の世では、政略結婚が当たり前で、恋心なんて想いは邪魔なだけだ。だから、恋がどういった気持ちになるのか、わからない。エイサフはとても自分勝手だが、それも恋心ゆえだというのか……。

 市が考え込むように視線を落とした時、部屋の窓に、銀色の影が見えた。

 「ねぇ、何してるの?」

 突如として、響いた冷たい声音。いつの間に窓枠を外したのか、彼は堂々と窓から部屋に入ってくる。つんと尖った銀髪を靡かせて、月明かりのような銀の瞳を鋭く細めさせた彼……晧月は、桜色の唇を歪に吊り上げた。
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