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第一章 異界からの姫君

第十一話

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 滑らかな小さな手が、どんとエイサフの胸を押す。しかし、彼の頑丈な体はびくともしない。いっそう、市の腰を抱く手に力が込められた。薄い布越しに伝わる、男の体温。まるで、支配されてしまったかのような気持ちになり、不快感を覚える。彼の感触は市にとって、自分の領域を犯す侵略者だった。

 「いい加減にして下さいませ!」

 エイサフは、嫌がる市に眉を寄せた。何故、この姫は自分の思うようにいかないのか。素直に妃になると言ってくれれば、大切にするのに。恋愛慣れしない彼は、市への扱いを間違えたことに気付かない。先日は笑顔を見せてくれ……先程まで和やかだった彼女は、もういない。睨み付けてくる彼女の姿に、エイサフの胸がずきりと痛んだ。

 「何故だ。何故、そのような目で私を見る!」

 どうして、自分を拒否するのか。拒まないでくれ。好きなのだと、エイサフの心にゴオゴオと風が吹く。荒れ狂った想いは溢れ出し、制御出来そうになかった。彼は初めての恋を、自分本位に狂わせたのだ。

 「私は、そなたを好いておる!」

 突然の告白。目を見開く市の唇に、エイサフの唇が重なった。自身のものを覆う、初めての感触。それは、柔らかく、火傷しそうな程に熱い。すぐ近くで、エイサフの青い睫毛が震えている。市は自分に何が起こったのか、理解出来なかった。したくもなかった。息が苦しい。まるで、大切な物を奪われてしまったかのような、喪失感。目尻から涙の粒が、一筋流れる。

 エイサフは感情のままに、市の唇に口付けたのだ。それは相手への思いやりなど無い、強引なものだった。ギュッと目を閉じた市の頭に、晧月の顔が浮かぶ。ぼんやりと浮かんだ彼の幻影は、無表情に市を見つめている……途端に、エイサフとの口付けがおぞましく感じた。ガリッと、唇に噛み付けば、彼は反射的に顔を離す。

 「ぐっ……!」

 エイサフは、自身の唇を指で拭った。薄らと血が着いている。

 「私に、噛み付いたのか。じゃじゃ馬め」

 冷たげな瞳で市を見下げた男の頬を、彼女は力一杯、引っ叩いた。バチンという大きな音が響く。赤く頬を腫らしたエイサフに、市の眼差しがナイフのように突き刺さった。

 「無礼者!私は遊び女では、ありませぬ!」

 腹から声を出した、覇気のある怒声。姫としての凛とした立ち姿で、市は頭のティアラをエイサフに投げ付けた。

 「まことに私を好いているのであれば、無理矢理に、唇を奪う事は致しますまい!」

 ティアラの突起が、彼の白い頬に傷を付ける。エイサフは黙ったまま立ち尽くし、市を見つめた。その瞳があまりにも、悲しそうで、憐れで、切なげな色を秘めていたため、市は出かけた罵声を一旦引っ込める。だが、睨み付けることは止めなかった。

 「此度のこと、決して許しはしませぬ」

 静かに告げて、部屋を飛び出す。外にラビアが控えていたが、彼女の声は無視をした。エイサフと同じ白い肌の侍女とは、何も話したくない。きっと、彼女はエイサフの味方なのだ。だって、祖国の王子なのだから。

 ーー初めてだったのに。

 市はごしごしと唇を拭った。初めての口付けを、どうして好きでもない男に奪われなければならないのか。昔から、姫としての政略結婚は覚悟していたが、市も女だ。好いた男との口付けを、夢見ていた事もある。それなのに、あの乱暴な口付けは、侮辱された気分であった。あまりに強引なエイサフの両腕。力強い男の腕は、掴まれてしまうと、びくともしなかった。今更ながら、恐怖が襲ってくる。

 市は、城で大切にされてきた、箱入りのお姫様だ。信長の選んだ少数の男としか、関わったことがない。それに、市の傍に寄るには、信長の決めた距離感を守らなければならなかった。ほとんど侍女に囲まれて生活していた市は、平成でいう女子校育ちだと言えるだろう。そんな彼女が、男に強引に迫られるという経験をしたことがあるだろうか。否、なかった。もし、そのような輩がいれば、即座に信長が斬り捨てていただろう。

 階段を下りたところで、市はとうとう堪え切れずに、嗚咽を漏らした。しゃがみ込んだ小さな背中は、震えていた。怖かった。悔しかった。悲しかった。市は、濡れた頬を拭い、目を擦った。どうしてか、晧月に会いたいと思う。でも、エイサフに口付けられたことは、知られたくない。もし知ったら、あの銀色の瞳は市を見てくれなくなるかもしれない。どうしてか、そんな不安が胸を渦巻く。

 「お市ちゃん?」

 聞き覚えのある声に、市はぴくりと肩を跳ねさせた。目をゴシゴシと擦って振り向けば、そこには心配そうな顔をした久実が立っている。

 「お久実ちゃん……」

 「やだ、どうしたの?目が真っ赤だわ!泣いていたの?」

 市の潤んだ赤い瞳に、久実はギョッと目を剥いた。あの、気丈な市が泣くなんて、よっぽどの事があったに違いない。垂れた眉をさらに垂れさせて、久実は市の肩を抱いた。そのぬくもりに、市の強ばっていた体が解れる。50歳の女の包容力は、そんじょそこらの若造のものよりも、絶大なのだ。

 「私の部屋に来なさいな。話を聞くわ」

 「しかし、ご迷惑をおかけする訳には……」

 「泣いている子を、ほっとけるわけないでしょ!いいから、来なさい!」

 久実により、引っ張り上げられた市は、そのまま引きずられるかのようにして連行された。細い腕のどこから、そんな力が出るのか。市は大人しく彼女について行くしかなかった。



 ラビアは、訳が分からなかった。どうして市は、部屋を飛び出して行ったのか。呼びかけにも応じてくれなかった。見間違えでなければ、彼女は泣いていた。エイサフと何かあったのだろうか。二人に仕えると決めたラビアは、それを知らなければならない。

 恐る恐る部屋に入ると、エイサフが、果実酒のグラスを片手に立っていた。勢いよく中身を煽って、口元を拭う主君の、憔悴し切った顔に、ラビアは目を見開く。エイサフの頬が赤く腫れ、かすり傷もあり、唇には血が滲んでいる。

 「……王子」

 「ラビアか」

 曇ったような青い瞳が、ゆるりと向けられた。何かあった事は明白だった。ラビアはゴクリと生唾を飲み込む。

 「イチ様と、何かあったのですか?」

 エイサフは途端に無表情になった。そして、氷のように冷たくなった瞳が、ラビアの肌を刺す。

 「そなたには、関係ない」

 「いいえ、関係あります。王子はラビアの主君です。そして、イチ様はラビアのお仕えする姫君、未来のシュッタイト王妃でございます!どうぞ、お二人に仕える身であるラビアに、話して下さいませ」

 頑として譲らないラビアの様子に、エイサフは唇を噛んだ。つう、と赤い筋が顎へと伝う。彼は、どこかで自分の非を理解していた。だが、認められない。今まで、何だってこなしてきたし、何だって手に入ってきた。自分が拒みはしても、拒む者など誰も居なかった。それなのに、何故、姫は手に入らない?何故、想いを伝えても、伝わらない?どうして、姫は自分を見てくれないのか。どうして、否定するのだ。どうして。

 パリン!と、エイサフの手にあったグラスが割れた。それは彼の手を傷付け、血が滴り落ちる。エイサフは、青白い顔でそれを見つめ、手の中のガラスを握り潰した。

 「王子!お手が……っ!」

 「私に構うな」

 エイサフは血に濡れた手で、壁を殴り付ける。手の痛みなど、感じない。胸がどうしようもなく痛かった。

 ーーおお、どうしてこんなにも苦しいのだ。胸が痛い。まるで、誰かに心臓を握られているかのように……張り裂けそうだ。

 「くそ!」

 荒れ狂う情熱の波を、鎮める方法は彼にはわからない。ただ、その身は呑まれていくばかり。息苦しい恋慕の嵐に、視野が狭まっていく。彼は、聡明なる王子ではなく、一人の男として苦悩した。

 ーー恋など、知らぬ。まことに、女を喜ばせる方法など、わからぬ。

 エイサフは、がちゃんとテーブルの上にあるお皿を割った。それでも、この興奮は治まらない。もう一つ、またもう一つ、食器が粉々に壊れていく。ラビアは、呆然とした様子で、それを見ているしかなかった。

 ーーなんということ。あの冷静な王子が。氷の王子と言われたあの方が……。炎のように燃えておられる!

 昔から、冷静沈着で、自分の感情を押さえ込んできたエイサフ。彼の爆発は凄まじかった。ラビアには、今のエイサフをどうすることも出来ない。ただ、傍で見守ることしか、出来ないのだった。
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