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朝食
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「公爵様、おはようございます。」
私は既に席に着いている公爵様に挨拶をすると、促されるながまま彼の向かいの席に着いた。
結局あの後眠ることは出来ず、起床の時間になるとアイリスが部屋へとやってきて身支度を整えてくれた。そして朝食の用意ができているからと案内されて今に至る。
カチャカチャと食器の音だけが響く静かな食事。
けれど決して居心地は悪くない。
ただお互いに、会話を欲しないだけ。
それにしても…昨日食事を摂らなかったせいか、今日の朝食は明らかに意図して軽いものになっていた。軽いサラダとスープにフルーツゼリー。正直とてもありがたい。料理長には後でお礼を言うと共に、昼食もこのメニューが良いと伝えておこうかしら。
「婚姻の儀は半月後に行う。」
「まぁ。分かりましたわ。」
半月後というは些か早すぎるのではないだろうかと思ったが、招くのは家族のみで簡潔に行うつもりなのだろう。それにしても半月後というのは早すぎるが、もう既に場所や日取りは決まっているのだろうか。私も婚姻の儀にこだわりはないので構わないが。
しかし…。
「よろしいのですか。私との婚姻を早めてしまって。」
自分から婚約を迫っておいて言うのもあれだが、こんな女との婚姻で本当に良いのだろうか。私はできる限り公爵様の望む公爵夫人であろうとするが、もしかしたら他に愛する人ができるかもしれないというのに。
「構わない。」
まるで心の中を見透かした上で、全てを切り捨てるかのようなはっきりとした冷たい声でそう言われた。やはり色恋沙汰に興味はないのだろうと思いながら、勿体ないなと思ってしまう。
愛があなたを幸せにしてくれるかも知れないのに、なんて。勿論、人はそう変われることは無いと知っているけれど。
「それと、今日からシーザーの元で公爵夫人としての仕事をこなして貰う。この屋敷の物は公爵夫人になるお前の物だ。金銭も好きに使え。」
「…ありがとうございます。ご期待に添えるよう頑張りますわ。」
私もあなたも、最初から期待なんてしていないだろうに。
それでもこんなに早くから仕事を任せられるということは信頼されているのか、将又ここに来たばかりの部外者にも仕事を任せなければ行けないほど忙しいのか。…どちらも違う気がするが、私は言われたことをこなせばいい。
「愛人は作っても構わない。」
自分に愛を求められるくらいなら、他の人間と愛しあって欲しいのかしら。
公爵様の表情にはなんの色もなく、私のことなどどうでも良いということは嫌でも伝わってきた。
「畏まりました。全て公爵様の仰せのままに。」
私は空になった食器を前に、向かいに座る公爵様に微笑みかけた。
公爵様は一瞬悲しそうな顔をしたような気がしたが恐らく気のせいだろう。
「フィオラ様。ご主人様は本日王宮にて用があるため、私が執務室へご案内致します。」
「ありがとうございます、シーザー。」
シーザーは相変わらず無表情だったが、私が微笑みかけると少しだけ口角を上げてくれた気がした。
嗚呼、もし愛人を作るならシーザーが良いかもしれない。公爵様に信頼もされているだろうから、例え愛人関係になってもおかしな噂は流れないはずだ。そして公爵様を安心させることも出来る。
「ねぇシーザー。あなたには今妻や愛する人はいますか?」
私の質問の意図が分からないようで、公爵様もシーザーもこちらの真意を見抜こうと凝視してくる。どうやらシーザーの方が公爵様よりも顔に出やすいらしい。
「いえ…そのようなものはいません。」
「そうですか。もしよろしければ、私と愛人関係になりませんか?」
ガチャンと食器がぶつかる音がした。視線を向ければ、公爵様がただのナイフで皿ごとステーキを真っ二つにしていた。どうやら私と公爵様で朝食のメニューが違うらしい。興味が無いせいかもしれないが、全く気が付かなかった。
そして心做しが公爵様の表情が暗い。怒っているのだろうか。なぜ…どうして?
「俺は王宮へ向かう。」
「行ってらっしゃいませ。くれぐれもお気を付けて。」
公爵様は席を立つと、こちらを見ようともせずさっさと部屋を出ていってしまった。
何がいけなかったのだろうか。私は彼の望むことをしたのに。また間違えてしまったのだろうか。
「フィオラ様…。」
明らかに動揺したシーザーの声で我に返り、彼の方へ向く。
「冗談ですよシーザー。けれどなぜ公爵様がお怒りになっているのかは分かりませんね。可愛らしいお方。」
本当に分からない。やはり私には愛が理解できない。そんな自分が惨めでクスクスと笑ってしまう。シーザーは静かにため息を吐きながら「あなたもお人が悪い。」と呟いていた。何故?
──この屋敷に来てからは分からないことだらけだわ。
料理長の元へ感謝の意と昼食のお願いをしてから私専用の執務室に案内される。しばらく使われていなかったという執務室だが、こちらも私の部屋同様にホコリひとつない清潔な状態が保たれていた。
そこで大まかに仕事の説明をされたが、侯爵家でもある程度の仕事はこなしてきたため大抵の仕事は特に問題なく覚えることが出来た。そのため新しく覚える仕事も少なく、今日は説明のみの予定だったらしいが1日早めて早速仕事を始めさせてもらった。
◆◇◆
「私と愛人関係になりませんか?」
彼女のその言葉が自分ではない人間に向けられてるのを目にした瞬間、俺の中には暴風のような怒りが吹き荒れた。
どうやら俺は妻を溺愛し屋敷に閉じ込める程強い嫉妬心と独占欲を持った父の血も引いているらしい。
自分のこの感情が分からない。なぜ怒っているか。
自分に愛を向けられても返し方が分からない。ただ迷惑なだけ。ならば最初から愛人を作るのも、俺に迷惑をかけない限り好きにすれば良いと思ったのだ。だから自分からそのことを伝えたというのに…。
きっとあの聡明なフィオラの事だ。俺の考えも理解した上で俺の右腕であるシーザーに声をかけたのだろう。確かに1番合理的だ。
けれど何故だか気に入らない。
「随分と婚約者に翻弄されているようだな。」
目の前で玉座に座る陛下は俺と3つしか変わらない。しかしその姿には既に王としての威厳があり、表情からも己の能力に対する自信が伺える。
確かにこの陛下は先代が崩御してから最年少で王の位に就き、数々の政策を打ち出して実行していく様に賢王との呼び声も高い。そして容姿も優れているため、自分の娘と繋がりを持たせようとする薄汚い豚共も後を絶たない。彼には性格の合う王妃がいると言うのに。
「『博愛の百合姫』だろう。私も1度王妃主催の夜会で見たことがある。利口で美しい二つ名通りの女だったな。」
心底楽しそうに笑う陛下は相変わらず趣味が悪い。世間では賢王などと呼ばれていても、実際は他人が困る様を見るのが好きな根っからの嗜虐思考の男だ。
「お前が困っているのなら側室として彼女を迎え入れても良いぞ。」
「それは結構です。」
俺は自然と陛下を見上げる目元にシワがよってしまう。この男の傍にフィオラを置けば、彼女がどんな目に会うか分からない。
今まで他人にこんな感情を抱いたことは無い。
他人なんてどうでもいい。それなのに、朝腕の中にいた彼女は今手放してしまえば儚く散ってしまいそうな程脆かった。最期まで己の欲望を貫いた母とは違うのに、何故だか死ぬ前の母の顔がチラついてしまう。彼女を失う不安感は、自分が守らねばならないという使命感を俺に抱かせた。
「ふふ、あの『暗紅の白銀狼』が肩入れするとは。どうやら余程のいい女らしいな。面白い。」
端正な顔を意地悪く歪める陛下には良い思い出がない。俺と彼女を引き離そうと俺に遠方の仕事を頼む気だろうか。
正直今は困る。自分でしてしまった発言だが、俺がいない間にシーザーとフィオラの仲が深まっては困る。
──この感情はなんだ?
「次の王家主催のパーティーにて、レイバン・ホワイウェル公爵と現フィオラ・ナールイス侯爵令嬢は公爵夫妻として参加しろ。これは王命だ。」
次の王家主催のパーティーは…1ヶ月後だ。つまりその頃には俺達は夫妻となっている。人が多い社交界は俺に敵意を持った人間もいるため、1人の時ですら参加したくないというのに。自らの弱点となりうる存在を連れて晒せというのか。
王命には逆らえないが、流石に王を見る目に鋭さが増す。
「勿論リスクもあるだろう。しかしお前は彼女をあの屋敷から出す気もないだろう。少しくらいの息抜きは必要だ。」
フィオラは息抜きを求める程俺との生活に関心があるようには思えないが、確かに俺は彼女をあの屋敷から出すつもりは無い。
母を溺愛していた父が、母に身の危険が及ばぬようにと建てた城。敷地を囲む塀は人間も動物も越えられぬほど高く、塀の周りには人が渡ることは出来ない程長い堀がある。
入口は正面のみ。そして屋敷に使える全ての人間は、俺と父の訓練により武術を体得している。何があろうとも主人を守れるようにと。
敷地の周辺にもトラップが仕掛けられているため、屋敷まで辿り着くのは困難だろう。
陛下は俺の考えを見抜いた上で、フィオラとパーティーに出席しろと言っている。
不本意だが仕方がない。彼女には帰ってから伝えなければ。
「…畏まりました。」
「まあ精々彼女をその気にさせれるように精進することだ。」
その言い草ではまるで俺が一方的に愛情を抱いているかのようだ。
「…まさか。自分の恋心に気づいていないのか?」
陛下は他人の心を読むことに長けている。だからこそ人が1番嫌がることも理解し、差し向けてくるのだが。
──恋心?
そんなものを抱いた記憶はない。今まで恋をしたことは無いためどんなものかは分からないが、こんなにも歪んだものなのだろうか。
「今まで女を嫌ってきたお前が、侯爵令嬢と半月後に婚姻の上屋敷に幽閉…。これは私からしてみれば大きな変化のように感じるが、違うか?」
違くない。確かにそうだ。
さっさと夫婦になってしまおうと婚姻の儀も早め、婚約が決まった当日には屋敷に連れて帰った。
それらの全ての行為は彼女の境遇を哀れんだ俺の僅かな良心だとばかり思っていた。
暗殺対象である家主は殺しても何も知らないその妻や子供は見逃すように。
けれど彼女を思うのはそんな気持ちではない。
彼女を自分だけのものにして、あの儚い姿を檻に閉じ込めて俺一人に愛を囁いて欲しいという歪んだ感情。
俺の自己中心的な欲望。こんなにも醜い本性を見ても、彼女は今まで通りに人形のままでいられるのだろうか。
──やはり俺には両親の血が流れている。
王との謁見後、俺は王命に従い麻薬の売買を行っている男爵家の人間を皆殺しにした。取扱が禁止されている麻薬を製造し、自分の領へ流していたのだ。
人をいくら殺しても何も感じない。それどころか薄汚い返り血を浴びて憤りすら感じる。恐怖からくる悲鳴も命乞いも煩わしいだけだ。
こんなことをしていないで、彼女と話し合うべきことがあるのに。
結局俺が屋敷に戻ってきたのは日が沈み辺りが暗闇に包まれてからだった。
◇◆◇
「おかえりなさいませ。公爵様。」
仕事に没頭し過ぎてしまい、気がついたら日が沈んでいた。
アイリスから公爵様が帰ってきたとの報告を受け、私とシーザーはホールにて出迎える。
──本当に狼のよう。
姿を現した彼は、その白銀の髪までも返り血で染まっていた。どうやら彼が王専属で犯罪者の暗殺を行っているという噂は本当らしい。
髪から覗く金色の瞳は、いつもよりも鋭さを増した獰猛な狼のようだ。
公爵様は腰に差していた剣をシーザーに手渡すと、私のことを一瞥して自室へと向かった。
「後で話がある。」
「かしこまりましたわ。」
私は穏やかな笑みを貼り付けたまま背を向けて去っていく公爵様を見つめていた。
話とは、一体なんのことだろうか。
公爵様が来るまでの間に入浴をして自室で読書をする。
公爵家の書斎には侯爵家の倍以上もの書物が置かれていた。侯爵家にある本は全て読み切ったが、こちらにはまだまだ私の知らない本が大量にある。幸い時間も余るほどあるため、今後の私の生活には困らないだろう。
シーザーは自由に持って行っていいというので、面白そうな本を何冊か自室へと持ち帰った。哲学や政治、歴史の本も好きだが、1番好きなのは小説。
この世界の誰かの頭の中で出来上がった物語。個性を持った登場人物、それぞれが持つ心情、非現実的な展開。
感情が分からなかった私に生きる術を教えてくれたのは本だった。どんな言葉によって他人は喜び、悲しみ、憤るのか。どのような過程で愛や感情が生まれるのか。どのような仕草が好ましいのか。様々な物語に出てくる登場人物を知ることによって、大体の状況では最適な反応ができるようになった。
知識を学ぶことは辛くない。
けれどどれだけ学び、実践してもあの日心を埋めつくしたあたたかさをもう一度感じることは出来なかった。
──やはりあれが、愛だったのかもしれない。
今更確かめる術はないけども。
きっと私が居なくなっても、侯爵家はいつも通りに回っているのだろう。長らく私が両親の仕事に手を出していたせいで2人は本来の仕事量に戸惑っているかもしれない。あの父専属の執事も元気だろうか。父が仕事に慣れるまでは負担が増えるだろう。
アリスもきっと、私のことは気にもとめていない。アリスにとって私は愛のない冷たい人なのだから。実際その通りなのだけれど。
もうあの家の事も、私には関係ない。
数時間ぶりに自室に戻ると窓には格子が嵌められていた。きっと今朝のような事が起きないようにと公爵様が指示したのだろう。
「はいるぞ。」
「どうぞ。」
ノックの音と共に公爵様が入ってきた。
今朝と同じラフな格好に、綺麗になった白銀の髪はまだ少し濡れているようだった。
私は彼をソファへと促し、テーブルを挟んで向かい合って座る。
その一挙手一投足までもが絵画のように美しい。
きっと色恋ものの物語に出てくる女性なら、赤面をしてため息を零し、その姿に目が釘漬けになるのだろう。しかしこの女性の反応は創作物特有の過度な表現ではないことを私は知っている。今までも多くの社交界でその反応を見てきた。
「それで…お話とは、どうされたのでしょうか。」
しかし私の心は驚く程に動じない。いつも通り、穏やかな笑みを浮かべて公爵様の目的を探る。
アイリスは紅茶を入れたカップをテーブルに置くと、お辞儀をして部屋を出ていった。
2人だけの部屋が静寂に包まれると、公爵様はほんのりと赤みを帯びた秀麗な唇を開いた。
「…お前の望みはなんだ。」
望んだところで、何も返ってはこないのだ。
私はそれを理解している。
「私はなにも望んではいませんわ。」
突然どうしてそんなことを聞きに来たのだろうか。
公爵様に何かをせがんだりはしないし、最大限負担はかけないようにするつもりだ。
そういう意味を込めて、私はニコリと微笑んだ。
公爵様は少しだけ眉を顰めたように思えたが、すぐに感情の読めない表情に戻った。
「今この部屋にいるのは俺たちだけだ。猫を被らなくて良い。」
小細工はするな。
そう言っているように聞こえた。つまりは最適解が欲しいのではなく、私の気持ちが伴った言葉が欲しいと。
──そんなことを言われたのは初めてだ。
「…分かりました。」
じわり、と心の中にぬるい感覚が薄い膜のように広がる感覚がする。
私は少しだけため息を零すと、ゆっくりと重たい口を開いた。今まで自分のことを口に出す機会がなかったせいか、なんだか気が引けてしまう。しかし公爵様の冷たいけれどどこか優しさを感じる瞳は、私の言葉を待っていた。
「私は本当になにも望んではおりませんわ。全てを受け入れています。」
この言葉を誰かに言うのは二度目だ。
私は既に席に着いている公爵様に挨拶をすると、促されるながまま彼の向かいの席に着いた。
結局あの後眠ることは出来ず、起床の時間になるとアイリスが部屋へとやってきて身支度を整えてくれた。そして朝食の用意ができているからと案内されて今に至る。
カチャカチャと食器の音だけが響く静かな食事。
けれど決して居心地は悪くない。
ただお互いに、会話を欲しないだけ。
それにしても…昨日食事を摂らなかったせいか、今日の朝食は明らかに意図して軽いものになっていた。軽いサラダとスープにフルーツゼリー。正直とてもありがたい。料理長には後でお礼を言うと共に、昼食もこのメニューが良いと伝えておこうかしら。
「婚姻の儀は半月後に行う。」
「まぁ。分かりましたわ。」
半月後というは些か早すぎるのではないだろうかと思ったが、招くのは家族のみで簡潔に行うつもりなのだろう。それにしても半月後というのは早すぎるが、もう既に場所や日取りは決まっているのだろうか。私も婚姻の儀にこだわりはないので構わないが。
しかし…。
「よろしいのですか。私との婚姻を早めてしまって。」
自分から婚約を迫っておいて言うのもあれだが、こんな女との婚姻で本当に良いのだろうか。私はできる限り公爵様の望む公爵夫人であろうとするが、もしかしたら他に愛する人ができるかもしれないというのに。
「構わない。」
まるで心の中を見透かした上で、全てを切り捨てるかのようなはっきりとした冷たい声でそう言われた。やはり色恋沙汰に興味はないのだろうと思いながら、勿体ないなと思ってしまう。
愛があなたを幸せにしてくれるかも知れないのに、なんて。勿論、人はそう変われることは無いと知っているけれど。
「それと、今日からシーザーの元で公爵夫人としての仕事をこなして貰う。この屋敷の物は公爵夫人になるお前の物だ。金銭も好きに使え。」
「…ありがとうございます。ご期待に添えるよう頑張りますわ。」
私もあなたも、最初から期待なんてしていないだろうに。
それでもこんなに早くから仕事を任せられるということは信頼されているのか、将又ここに来たばかりの部外者にも仕事を任せなければ行けないほど忙しいのか。…どちらも違う気がするが、私は言われたことをこなせばいい。
「愛人は作っても構わない。」
自分に愛を求められるくらいなら、他の人間と愛しあって欲しいのかしら。
公爵様の表情にはなんの色もなく、私のことなどどうでも良いということは嫌でも伝わってきた。
「畏まりました。全て公爵様の仰せのままに。」
私は空になった食器を前に、向かいに座る公爵様に微笑みかけた。
公爵様は一瞬悲しそうな顔をしたような気がしたが恐らく気のせいだろう。
「フィオラ様。ご主人様は本日王宮にて用があるため、私が執務室へご案内致します。」
「ありがとうございます、シーザー。」
シーザーは相変わらず無表情だったが、私が微笑みかけると少しだけ口角を上げてくれた気がした。
嗚呼、もし愛人を作るならシーザーが良いかもしれない。公爵様に信頼もされているだろうから、例え愛人関係になってもおかしな噂は流れないはずだ。そして公爵様を安心させることも出来る。
「ねぇシーザー。あなたには今妻や愛する人はいますか?」
私の質問の意図が分からないようで、公爵様もシーザーもこちらの真意を見抜こうと凝視してくる。どうやらシーザーの方が公爵様よりも顔に出やすいらしい。
「いえ…そのようなものはいません。」
「そうですか。もしよろしければ、私と愛人関係になりませんか?」
ガチャンと食器がぶつかる音がした。視線を向ければ、公爵様がただのナイフで皿ごとステーキを真っ二つにしていた。どうやら私と公爵様で朝食のメニューが違うらしい。興味が無いせいかもしれないが、全く気が付かなかった。
そして心做しが公爵様の表情が暗い。怒っているのだろうか。なぜ…どうして?
「俺は王宮へ向かう。」
「行ってらっしゃいませ。くれぐれもお気を付けて。」
公爵様は席を立つと、こちらを見ようともせずさっさと部屋を出ていってしまった。
何がいけなかったのだろうか。私は彼の望むことをしたのに。また間違えてしまったのだろうか。
「フィオラ様…。」
明らかに動揺したシーザーの声で我に返り、彼の方へ向く。
「冗談ですよシーザー。けれどなぜ公爵様がお怒りになっているのかは分かりませんね。可愛らしいお方。」
本当に分からない。やはり私には愛が理解できない。そんな自分が惨めでクスクスと笑ってしまう。シーザーは静かにため息を吐きながら「あなたもお人が悪い。」と呟いていた。何故?
──この屋敷に来てからは分からないことだらけだわ。
料理長の元へ感謝の意と昼食のお願いをしてから私専用の執務室に案内される。しばらく使われていなかったという執務室だが、こちらも私の部屋同様にホコリひとつない清潔な状態が保たれていた。
そこで大まかに仕事の説明をされたが、侯爵家でもある程度の仕事はこなしてきたため大抵の仕事は特に問題なく覚えることが出来た。そのため新しく覚える仕事も少なく、今日は説明のみの予定だったらしいが1日早めて早速仕事を始めさせてもらった。
◆◇◆
「私と愛人関係になりませんか?」
彼女のその言葉が自分ではない人間に向けられてるのを目にした瞬間、俺の中には暴風のような怒りが吹き荒れた。
どうやら俺は妻を溺愛し屋敷に閉じ込める程強い嫉妬心と独占欲を持った父の血も引いているらしい。
自分のこの感情が分からない。なぜ怒っているか。
自分に愛を向けられても返し方が分からない。ただ迷惑なだけ。ならば最初から愛人を作るのも、俺に迷惑をかけない限り好きにすれば良いと思ったのだ。だから自分からそのことを伝えたというのに…。
きっとあの聡明なフィオラの事だ。俺の考えも理解した上で俺の右腕であるシーザーに声をかけたのだろう。確かに1番合理的だ。
けれど何故だか気に入らない。
「随分と婚約者に翻弄されているようだな。」
目の前で玉座に座る陛下は俺と3つしか変わらない。しかしその姿には既に王としての威厳があり、表情からも己の能力に対する自信が伺える。
確かにこの陛下は先代が崩御してから最年少で王の位に就き、数々の政策を打ち出して実行していく様に賢王との呼び声も高い。そして容姿も優れているため、自分の娘と繋がりを持たせようとする薄汚い豚共も後を絶たない。彼には性格の合う王妃がいると言うのに。
「『博愛の百合姫』だろう。私も1度王妃主催の夜会で見たことがある。利口で美しい二つ名通りの女だったな。」
心底楽しそうに笑う陛下は相変わらず趣味が悪い。世間では賢王などと呼ばれていても、実際は他人が困る様を見るのが好きな根っからの嗜虐思考の男だ。
「お前が困っているのなら側室として彼女を迎え入れても良いぞ。」
「それは結構です。」
俺は自然と陛下を見上げる目元にシワがよってしまう。この男の傍にフィオラを置けば、彼女がどんな目に会うか分からない。
今まで他人にこんな感情を抱いたことは無い。
他人なんてどうでもいい。それなのに、朝腕の中にいた彼女は今手放してしまえば儚く散ってしまいそうな程脆かった。最期まで己の欲望を貫いた母とは違うのに、何故だか死ぬ前の母の顔がチラついてしまう。彼女を失う不安感は、自分が守らねばならないという使命感を俺に抱かせた。
「ふふ、あの『暗紅の白銀狼』が肩入れするとは。どうやら余程のいい女らしいな。面白い。」
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──この感情はなんだ?
「次の王家主催のパーティーにて、レイバン・ホワイウェル公爵と現フィオラ・ナールイス侯爵令嬢は公爵夫妻として参加しろ。これは王命だ。」
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「…畏まりました。」
「まあ精々彼女をその気にさせれるように精進することだ。」
その言い草ではまるで俺が一方的に愛情を抱いているかのようだ。
「…まさか。自分の恋心に気づいていないのか?」
陛下は他人の心を読むことに長けている。だからこそ人が1番嫌がることも理解し、差し向けてくるのだが。
──恋心?
そんなものを抱いた記憶はない。今まで恋をしたことは無いためどんなものかは分からないが、こんなにも歪んだものなのだろうか。
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違くない。確かにそうだ。
さっさと夫婦になってしまおうと婚姻の儀も早め、婚約が決まった当日には屋敷に連れて帰った。
それらの全ての行為は彼女の境遇を哀れんだ俺の僅かな良心だとばかり思っていた。
暗殺対象である家主は殺しても何も知らないその妻や子供は見逃すように。
けれど彼女を思うのはそんな気持ちではない。
彼女を自分だけのものにして、あの儚い姿を檻に閉じ込めて俺一人に愛を囁いて欲しいという歪んだ感情。
俺の自己中心的な欲望。こんなにも醜い本性を見ても、彼女は今まで通りに人形のままでいられるのだろうか。
──やはり俺には両親の血が流れている。
王との謁見後、俺は王命に従い麻薬の売買を行っている男爵家の人間を皆殺しにした。取扱が禁止されている麻薬を製造し、自分の領へ流していたのだ。
人をいくら殺しても何も感じない。それどころか薄汚い返り血を浴びて憤りすら感じる。恐怖からくる悲鳴も命乞いも煩わしいだけだ。
こんなことをしていないで、彼女と話し合うべきことがあるのに。
結局俺が屋敷に戻ってきたのは日が沈み辺りが暗闇に包まれてからだった。
◇◆◇
「おかえりなさいませ。公爵様。」
仕事に没頭し過ぎてしまい、気がついたら日が沈んでいた。
アイリスから公爵様が帰ってきたとの報告を受け、私とシーザーはホールにて出迎える。
──本当に狼のよう。
姿を現した彼は、その白銀の髪までも返り血で染まっていた。どうやら彼が王専属で犯罪者の暗殺を行っているという噂は本当らしい。
髪から覗く金色の瞳は、いつもよりも鋭さを増した獰猛な狼のようだ。
公爵様は腰に差していた剣をシーザーに手渡すと、私のことを一瞥して自室へと向かった。
「後で話がある。」
「かしこまりましたわ。」
私は穏やかな笑みを貼り付けたまま背を向けて去っていく公爵様を見つめていた。
話とは、一体なんのことだろうか。
公爵様が来るまでの間に入浴をして自室で読書をする。
公爵家の書斎には侯爵家の倍以上もの書物が置かれていた。侯爵家にある本は全て読み切ったが、こちらにはまだまだ私の知らない本が大量にある。幸い時間も余るほどあるため、今後の私の生活には困らないだろう。
シーザーは自由に持って行っていいというので、面白そうな本を何冊か自室へと持ち帰った。哲学や政治、歴史の本も好きだが、1番好きなのは小説。
この世界の誰かの頭の中で出来上がった物語。個性を持った登場人物、それぞれが持つ心情、非現実的な展開。
感情が分からなかった私に生きる術を教えてくれたのは本だった。どんな言葉によって他人は喜び、悲しみ、憤るのか。どのような過程で愛や感情が生まれるのか。どのような仕草が好ましいのか。様々な物語に出てくる登場人物を知ることによって、大体の状況では最適な反応ができるようになった。
知識を学ぶことは辛くない。
けれどどれだけ学び、実践してもあの日心を埋めつくしたあたたかさをもう一度感じることは出来なかった。
──やはりあれが、愛だったのかもしれない。
今更確かめる術はないけども。
きっと私が居なくなっても、侯爵家はいつも通りに回っているのだろう。長らく私が両親の仕事に手を出していたせいで2人は本来の仕事量に戸惑っているかもしれない。あの父専属の執事も元気だろうか。父が仕事に慣れるまでは負担が増えるだろう。
アリスもきっと、私のことは気にもとめていない。アリスにとって私は愛のない冷たい人なのだから。実際その通りなのだけれど。
もうあの家の事も、私には関係ない。
数時間ぶりに自室に戻ると窓には格子が嵌められていた。きっと今朝のような事が起きないようにと公爵様が指示したのだろう。
「はいるぞ。」
「どうぞ。」
ノックの音と共に公爵様が入ってきた。
今朝と同じラフな格好に、綺麗になった白銀の髪はまだ少し濡れているようだった。
私は彼をソファへと促し、テーブルを挟んで向かい合って座る。
その一挙手一投足までもが絵画のように美しい。
きっと色恋ものの物語に出てくる女性なら、赤面をしてため息を零し、その姿に目が釘漬けになるのだろう。しかしこの女性の反応は創作物特有の過度な表現ではないことを私は知っている。今までも多くの社交界でその反応を見てきた。
「それで…お話とは、どうされたのでしょうか。」
しかし私の心は驚く程に動じない。いつも通り、穏やかな笑みを浮かべて公爵様の目的を探る。
アイリスは紅茶を入れたカップをテーブルに置くと、お辞儀をして部屋を出ていった。
2人だけの部屋が静寂に包まれると、公爵様はほんのりと赤みを帯びた秀麗な唇を開いた。
「…お前の望みはなんだ。」
望んだところで、何も返ってはこないのだ。
私はそれを理解している。
「私はなにも望んではいませんわ。」
突然どうしてそんなことを聞きに来たのだろうか。
公爵様に何かをせがんだりはしないし、最大限負担はかけないようにするつもりだ。
そういう意味を込めて、私はニコリと微笑んだ。
公爵様は少しだけ眉を顰めたように思えたが、すぐに感情の読めない表情に戻った。
「今この部屋にいるのは俺たちだけだ。猫を被らなくて良い。」
小細工はするな。
そう言っているように聞こえた。つまりは最適解が欲しいのではなく、私の気持ちが伴った言葉が欲しいと。
──そんなことを言われたのは初めてだ。
「…分かりました。」
じわり、と心の中にぬるい感覚が薄い膜のように広がる感覚がする。
私は少しだけため息を零すと、ゆっくりと重たい口を開いた。今まで自分のことを口に出す機会がなかったせいか、なんだか気が引けてしまう。しかし公爵様の冷たいけれどどこか優しさを感じる瞳は、私の言葉を待っていた。
「私は本当になにも望んではおりませんわ。全てを受け入れています。」
この言葉を誰かに言うのは二度目だ。
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