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重たい瞼を開けてどこか見慣れた天井が視界に入った時、私が最初に思ったのは
嗚呼、死んでいないのね。
という落胆でした。
全てから解放されて自由になれたと思ったのに、神様はなんて残酷なのでしょう。
「リリア様!?お目覚めですか!…嗚呼、本当に良かったです…。」
傍にいたメイドはそう言って立ち上がると、焦った様子で部屋を出ていきました。
まだ私の手には彼女の温もりが残っています。
実家で私に仕えてくれていたそのメイドは、ずっと手を握ってくれていたのでしょう。
彼女は誰にでも分け隔てなく優しいから。
しかし彼女がここにいるということは…つまりこの見慣れた天井も実家のもの。
私が実家にいるということは、これまでの努力は全て無駄だったようです。
暫くすると、先程のメイド、そしてお父様と弟がやってきました。
「リリア!嗚呼、本当に無事でよかった…。」
「姉様!ご無事で何よりです。」
「ッと…ま…。」
ご心配お掛けして申し訳ありません。
そう言葉を発しようとしましたが、私の喉から出てきたのは掠れた声だけでした。
どうやらかなり長い期間眠っていたようです。
お父様には無理に話さなくてよいと言われましたが、私はメイドが用意した水差しで喉を潤すと静かに言葉を紡ぎました。
「ごめんなさいお父様。私、お父様の娘として職務を全うすることが出来ませんでしたわ。」
「いい、いいんだリリア。こちらこそ、お前の苦しみに気づいてやれずに済まなかった。」
お父様は苦しげにそう言って、私の手を力強く握って下さいました。
きっと本当に申し訳ないと思い詰めているのでしょう。
お母様は私と弟が幼い頃に流行病で亡くなりました。
だからその分お父様は多忙なのですけれど、それでも私達に深い愛情を注いで下さった優しい方です。
「いいえ、お父様は悪くありません。全ては不出来な私が悪いのです。」
きっと私と彼の離婚も時間の問題です。となれば出戻りの娘など我が家の恥。
私は家族のために修道院に行かねばなりません。
「姉様は何も悪くないのです。修道院になど行かせませんよ。」
もう一人前の男性と言っても過言ではない弟は、枕に腰かける私を優しく抱擁してくれます。
お母様がおらず、お父様も多忙であまり会えない分、私と弟は空いた心を満たすように傍におりました。
そのせいでしょうか?
弟には私の考えることが手に取るようにわかるようです。…まぁ逆も然りなのですが。
「国王陛下は公爵との婚姻を継続するか否か、その判断はリリアの意思に委ねると仰られた。
…リリア、お前はどうしたい?」
私は…勿論。
「離婚…したいですわ。」
彼を私から解放する機会を逃すはずがありません。
お父様はほっとした表情をしていましたが、弟には私の考えることが筒抜けなのでしょう。なんとも微妙な表情をしていました。
それから私は数日のリハビリ期間を経て、彼との面会日がやってきました。
その日には国王陛下と隣国のアラン陛下もいらっしゃる様で、我が家の使用人達は少々慌てておりましたね。
「皆様、本日は態々お越し頂き有難う御座います。」
「気にするな。リリア令嬢が無事で何よりだ。」
私の挨拶に答えたアラン陛下の言葉にその場は一瞬凍り付きましたが、陛下はまるで気にしないという風に話を切り出しました。
この場にいるのは私と弟にアラン陛下と国王陛下、そして彼です。
「それで、そなたはこやつと離婚するのか?」
アラン陛下の視線の先にいる彼…公爵様に向けると、彼と視線が合ってしまいました。
いけない。
体に染み付いた習慣というのは恐ろしいもので、私は反射的に彼から視線を逸らしました。
「…彼女と…リリアと、少し二人きりで話す許可を頂けませんか。」
久しぶりに聞いた彼の声に、私の壊れた筈の心は震えました。
嗚呼、なんて浅ましいのでしょう。
壊れたはずの心は、過去に愛した彼の声を聞いただけで喜んでいます。
隣に座る弟や国王陛下が何やら言っておりましたが、私の耳には周囲の声など入ってきませんでした。
そして私と彼以外の全員が退室し、応接室の扉が閉まった音で私の意識は引き戻されました。
けれど目の前にいる彼を見てはなりません。
私から話しかけてもなりません。
私はただ俯いて、そして皆が戻ってくるのを待ちます。
「…すまなかった。」
「いいえ、公爵様は何も悪くありません。悪いのは不出来な私なのです。」
反射的に口から零れた言葉は、自分が思っていたよりもハッキリとしていました。
けれど彼のことを見てはなりませんので、私たちの間に置かれたテーブルに視線を固定します。
「私はずっと、貴女のことを誤解していた。貴女を噂通りの女だと信じ、本当のリリアを見ようともしなかった。」
「そうですか。」
耳に入ってくる愛しかったはずの彼の声が、今は酷くつまらない音楽のように思えます。
何故でしょう。
先程彼の声を聞いた時は、壊れた心が満たされてしまうのではないかと思う程喜びを感じたのに。
嗚呼、壊れてしまっているからでしょうか。
壊れた瓶にいくら蜜を注いでも満たされないように、私の心はもう彼への愛で満たされることは無いのです。
だって直ぐに壊れた隙間から零れ落ちてしまうのですから。
…それとも、彼の言い訳じみた言葉に呆れているのでしょうか?
「どうか…こちらを見てくれないか、リリア。」
彼の命令に逆らうことも出来ず、私は淑女の笑みを浮かべて視線を上げました。
やはり私の心は凪いだままです。
もう彼への愛など残っていないことなど分かっていました。
けれどこうして実際に姿を見ても何の感情も湧かないと、何だか寂しいですね。
「やはり…貴女は美しい。それなのに私は…。」
どうして貴方がその様な悲しい顔をするのですか?
喉元まで出かかった言葉は、淑女としての矜恃で抑え込みました。
私はただ笑みを作り、一人悲観する彼の次の言葉を待ちます。
彼は暫く考える素振りをして、そしてこの重い沈黙を破る言葉を発しました。
「私はこれからも貴女と共にありたい。…ダメだろうか?」
嗚呼、死んでいないのね。
という落胆でした。
全てから解放されて自由になれたと思ったのに、神様はなんて残酷なのでしょう。
「リリア様!?お目覚めですか!…嗚呼、本当に良かったです…。」
傍にいたメイドはそう言って立ち上がると、焦った様子で部屋を出ていきました。
まだ私の手には彼女の温もりが残っています。
実家で私に仕えてくれていたそのメイドは、ずっと手を握ってくれていたのでしょう。
彼女は誰にでも分け隔てなく優しいから。
しかし彼女がここにいるということは…つまりこの見慣れた天井も実家のもの。
私が実家にいるということは、これまでの努力は全て無駄だったようです。
暫くすると、先程のメイド、そしてお父様と弟がやってきました。
「リリア!嗚呼、本当に無事でよかった…。」
「姉様!ご無事で何よりです。」
「ッと…ま…。」
ご心配お掛けして申し訳ありません。
そう言葉を発しようとしましたが、私の喉から出てきたのは掠れた声だけでした。
どうやらかなり長い期間眠っていたようです。
お父様には無理に話さなくてよいと言われましたが、私はメイドが用意した水差しで喉を潤すと静かに言葉を紡ぎました。
「ごめんなさいお父様。私、お父様の娘として職務を全うすることが出来ませんでしたわ。」
「いい、いいんだリリア。こちらこそ、お前の苦しみに気づいてやれずに済まなかった。」
お父様は苦しげにそう言って、私の手を力強く握って下さいました。
きっと本当に申し訳ないと思い詰めているのでしょう。
お母様は私と弟が幼い頃に流行病で亡くなりました。
だからその分お父様は多忙なのですけれど、それでも私達に深い愛情を注いで下さった優しい方です。
「いいえ、お父様は悪くありません。全ては不出来な私が悪いのです。」
きっと私と彼の離婚も時間の問題です。となれば出戻りの娘など我が家の恥。
私は家族のために修道院に行かねばなりません。
「姉様は何も悪くないのです。修道院になど行かせませんよ。」
もう一人前の男性と言っても過言ではない弟は、枕に腰かける私を優しく抱擁してくれます。
お母様がおらず、お父様も多忙であまり会えない分、私と弟は空いた心を満たすように傍におりました。
そのせいでしょうか?
弟には私の考えることが手に取るようにわかるようです。…まぁ逆も然りなのですが。
「国王陛下は公爵との婚姻を継続するか否か、その判断はリリアの意思に委ねると仰られた。
…リリア、お前はどうしたい?」
私は…勿論。
「離婚…したいですわ。」
彼を私から解放する機会を逃すはずがありません。
お父様はほっとした表情をしていましたが、弟には私の考えることが筒抜けなのでしょう。なんとも微妙な表情をしていました。
それから私は数日のリハビリ期間を経て、彼との面会日がやってきました。
その日には国王陛下と隣国のアラン陛下もいらっしゃる様で、我が家の使用人達は少々慌てておりましたね。
「皆様、本日は態々お越し頂き有難う御座います。」
「気にするな。リリア令嬢が無事で何よりだ。」
私の挨拶に答えたアラン陛下の言葉にその場は一瞬凍り付きましたが、陛下はまるで気にしないという風に話を切り出しました。
この場にいるのは私と弟にアラン陛下と国王陛下、そして彼です。
「それで、そなたはこやつと離婚するのか?」
アラン陛下の視線の先にいる彼…公爵様に向けると、彼と視線が合ってしまいました。
いけない。
体に染み付いた習慣というのは恐ろしいもので、私は反射的に彼から視線を逸らしました。
「…彼女と…リリアと、少し二人きりで話す許可を頂けませんか。」
久しぶりに聞いた彼の声に、私の壊れた筈の心は震えました。
嗚呼、なんて浅ましいのでしょう。
壊れたはずの心は、過去に愛した彼の声を聞いただけで喜んでいます。
隣に座る弟や国王陛下が何やら言っておりましたが、私の耳には周囲の声など入ってきませんでした。
そして私と彼以外の全員が退室し、応接室の扉が閉まった音で私の意識は引き戻されました。
けれど目の前にいる彼を見てはなりません。
私から話しかけてもなりません。
私はただ俯いて、そして皆が戻ってくるのを待ちます。
「…すまなかった。」
「いいえ、公爵様は何も悪くありません。悪いのは不出来な私なのです。」
反射的に口から零れた言葉は、自分が思っていたよりもハッキリとしていました。
けれど彼のことを見てはなりませんので、私たちの間に置かれたテーブルに視線を固定します。
「私はずっと、貴女のことを誤解していた。貴女を噂通りの女だと信じ、本当のリリアを見ようともしなかった。」
「そうですか。」
耳に入ってくる愛しかったはずの彼の声が、今は酷くつまらない音楽のように思えます。
何故でしょう。
先程彼の声を聞いた時は、壊れた心が満たされてしまうのではないかと思う程喜びを感じたのに。
嗚呼、壊れてしまっているからでしょうか。
壊れた瓶にいくら蜜を注いでも満たされないように、私の心はもう彼への愛で満たされることは無いのです。
だって直ぐに壊れた隙間から零れ落ちてしまうのですから。
…それとも、彼の言い訳じみた言葉に呆れているのでしょうか?
「どうか…こちらを見てくれないか、リリア。」
彼の命令に逆らうことも出来ず、私は淑女の笑みを浮かべて視線を上げました。
やはり私の心は凪いだままです。
もう彼への愛など残っていないことなど分かっていました。
けれどこうして実際に姿を見ても何の感情も湧かないと、何だか寂しいですね。
「やはり…貴女は美しい。それなのに私は…。」
どうして貴方がその様な悲しい顔をするのですか?
喉元まで出かかった言葉は、淑女としての矜恃で抑え込みました。
私はただ笑みを作り、一人悲観する彼の次の言葉を待ちます。
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