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幕間 アヤツヒ
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響遊は、まっさきに教室を飛び出した。
他のクラスメイトが上良栄治の暴走を始める前に動き出せたのは、幸運があったからではない。
一度、上良栄治から暴行を受けていたというのもあったが、もっと決定的だったのは、忠告されていたからだ。
中水美衣奈から、上良栄治がいつもと違う様子を見せたら逃げ出して2組から人を連れてきて欲しいと。
ただ、響遊は人を呼ぶつもりなどさらさらなかった。
あんなのは、同じ生徒に助けを求めてどうにかなるものではない。
上良栄治は、鉈を手に教室へと入って来た。
その目的は殺人以外ありえない。
もはや銃で武装した警察でなければ上良栄治を止めることなど出来ないだろう。
「に、2組……!」
2組には響遊の友人もいる。
今すぐにでも逃げるべきだと伝えるつもりであった。
しかし――。
「あ……?」
駆けだそうとした瞬間、廊下でうずくまっている警察官の巨体が視界の中に飛び込んで来る。
彼は確かに先ほどまで1組の教室で監視の任についていた警察官であった。
それがなぜこんなところで、と疑問に思いつつも響遊は近づいて行く。
「あ、あの……どうかされまし――ひっ」
小山のような背中に声をかけたところで、むせかえるほど濃密な血臭が響遊の鼻をつく。
警察官の首筋には半ばまで切れ込みが入っており、傷口からはとめどなく血液があふれだして床に血だまりを作っている。
うずくまっていたのは、血が流れ出てしまったが故に意識を失ってしまったからだ。
誰にでも分かる。
間違いなく致命傷であり、警察官の命は無いと。
そして、それをやったのは上良栄治であると。
「なんでこんな――」
混乱した響遊の足がもつれ、よろめいた瞬間、悲鳴と怒号と罵声がない交ぜになった轟音が、彼の背後から追い越し、追い抜いて行った。
ちらりと視線を向ければ、1組の教室からは大勢のクラスメイトたちが我先にと逃げ出していく。
響遊は想像するしかなかったが、その予想通り上良栄治が海星という女性警官を殺害したのだ。
1組の生徒たちは、それに怯えて逃走を始めたのだった。
「――くっ」
もはや一刻の猶予もないと判断したのか、響遊はためらいを捨てて走り出す。
無人の教室を通り過ぎ、勢いそのままに1年2組が使っている教室の扉を開け放った。
「はぁっ」
2組の生徒全員の視線が響遊に集まる。
そのことに一瞬怯んでしまい、響遊は喉を鳴らす。
ただ、コトは命に関わる。
なかなか形にならない声を置いて、響遊は腕をあげて1組を指し示した。
「どうした、響」
「か、上良、くんが……ひとを……こ、殺……した」
友人に声を掛けられたことで、なんとか言葉が意味を結ぶ。
しかし、あまりにも突飛だったせいか、友人は怪訝な顔をしているだけだった。
「だから、殺人ですっ。ひとっ――ふたりも殺されたんです! そこに警察官の死体もあります!!」
「……は?」
「逃げてくださいっ! 早くっ!」
まだ、2組の者たちには自体が飲み込めていない。
殺人という行為が、彼らには遠いところで起こる出来事であり、新聞やニュースサイトで見る事件でしかないのだ。
自分たちに降りかかる現実だと理解できず、誰一人として動こうとしなかった。
「……いやでも、警察が居るだろ? 大丈夫だろ?」
人間は、情報だけでは本質的に理解はできない。
危ないと教えられても、それを信じて行動しようとしない。
「いつここに来るか分からないんですよっ! 早く逃げてくださいっ!」
普段通りの日常が何時までも続くと根拠なく信じており、平穏を脅かそうとする情報を無意識のうちに排除してしまうのだ。
正常性バイアスと呼ばれる心理。
それに、2組全員が陥っていた。
このままでは言うことなど絶対に聞いてくれない。そう悟った響遊は、迷うことなく身をひるがえす。
今は一秒だって惜しかった。
上良栄治が、今すぐにでも凶器を引っ提げて2組や響遊自身に襲い掛かってくるとも知れなかったから。
「この――」
言葉で言っても通じないのなら、選択肢はひとつだけ。
――事実による脅迫、だ。
「ごめんなさいっ」
死体のところにまで戻ると、落ちていた警帽を拾い上げ、謝罪しながらたっぷりと血を掬いあげてから教室にまで戻る。
響遊自身も、自分のやっていることがえげつない行為であることは理解していた。
でも、友人の命を守らねばならないという使命感を前にしては些細な問題であった。
「これでも信じないって言うんですかっ」
べっとりと、滴るほど血を含んだ悪趣味な警帽を、扉横の白い壁にべっとりと押し付け――
「ひっ」
コンクリートの上に赤黒い線が描かれ、濃密な鉄さびの臭いが漂い始める。
「早くっ!」
視覚と嗅覚。警告も足せば聴覚でも。
今、この場所は命の危険すら在り得る場所なのだと、2組の全員がようやく理解した。
ガタガタと音を立てながら、次々と立ち上がる。
悲鳴は上がらない。それどころか一言だって声が漏れることは無い。
全員が全員、口を引き結び、顔面を蒼白にして入口へと殺到する。
2組に起きたのは1組のような騒々しいパニックではなかったが、決して冷静ではなかった。
全員が生存するための最適解を、必死の逃走を導き出し、全員が一丸となってその答えに従った。
「急いで階下にっ! 急いでくださいっ!」
響遊に急かされ、十秒とかからず全員が教室を出る。
そのまま1組の教室とは真逆に位置する中央階段へと急ぐ。
響遊を一番後方に、2組全員がひとつの生物にでもなったかのようであった。
「――――っ」
先頭の生徒たちが階段をおり始めるにあたって、少しスピードが緩む。
それはほんの僅かであったが、空白の時間を生んだ。
上良栄治がまだこちらに迫っていないか、そんな恐怖を払しょくするため、響遊はひとりだけ後ろへと振り向いて廊下を確認する。
「響っ!」
中水美衣奈と崎代沙綾のふたりが、なぜか掴みあいをしながら響遊――中央階段の方へと走り寄りつつあった。
なにをしているのかといぶかしむ間もなく、中水美衣奈が響遊の名前を呼び、こっちにこいとでも言うかのように手招きをする。
その理由を問うためにというわけでもないが、響遊が足を止め――それが、彼を掬う事になった。
「うわぁぁっ!!」
「ちょっ! すべっ!!」
「やめ――っ」
一塊になっていたことが災いして、2組全員が地面ごと階段を滑り落ちていく。
体をどこかにぶつける音。
衣服が裂ける音。
肉がひしゃげる音。
骨が砕ける音。
内臓が潰れる音。
頭が割れる音。
衝突する音。
圧迫される音。
破裂する音。
そして、苦悶、絶叫、悲鳴、怨嗟、憤怒、うめき声。
様々な音が、声が、十重二十重とかさなってこだまし、交響曲のように鳴り響いた。
「…………」
響遊の体は凍り付いてしまったかのように動けなかった。
階段の下を見てしまったら、なにが起こったのかを知ってしまうから。
自分が2組のみんなに対してどれほど取り返しのつかないことをしてしまったのかを理解してしまうから。
恐ろしくて恐ろしくて――。
「待ってって言ってんだろっ!」
「なんで邪魔すんのよっ!」
中水美衣奈と崎代沙綾はいがみ合いながらも響遊の元にまで達して――絶句した。
彼女たちの目下には、地獄のような光景が広がっている。
血しぶきで彩られた壁に何本もの肉の筆で赤く塗りたくられた階段。
踊り場には手足がねじれた人間が何人も転がり、その下には押しつぶされた人間の肉と皮で出来たマットが敷かれていた。
いったい何人の生徒が命を落としただろうか。
どれだけの生徒が生きているだろうか。
分からない。
分からないが、2組の生徒総数33人全員が何らかの傷を負ったことは確かだった。
「――あの性格悪い栄治がなにも仕掛けてないわけないじゃん」
ぼそっと、中水美衣奈がこぼす。
彼女はこうなることを予期していたからこそ、崎代沙綾の邪魔をしていたのだった。
いや、予期ではない。
中水美衣奈自身が、悪魔の立てた計画に組み込まれた存在だから、事実として知っていた。
もちろん、中水美衣奈がそれを崎代沙綾に語ることなどないが。
「……だ、だからだったの?」
「ほかに何があると思ったの? ただ意地悪で邪魔したとでも思った?」
「…………」
崎代沙綾は何も言い返せずに黙り込む。
彼女は中水美衣奈が言っていた通り、そう思っていたからだ。
崎代沙綾は中水美衣奈を見捨ててしまった。
自分の身の安全を得るために、校長先生たちに告げ口をしてしまった。
それは、崎代沙綾たちの尺度からすると許されない行いであったはずだったから、彼女は思い込んでいたのだ。
中水美衣奈が自分を疎んじるが故に逃走の邪魔をしていると。
「トモダチのことくらい信じて欲しかったなぁ」
「ご、ごめん」
「いいけど。――で、響さぁ、どうすんの?」
「な、なにが?」
響遊の声は震えている。
その上、視線は未だ惨劇から逸らし続けていた。
「これ、アンタが原因でしょ」
「ち、違いますっ。僕は……僕は……」
響遊は2組の全員を助けたいと思っていた。
だから危険を伝えたし、彼らを急かしたのだ。
しかしそれは、致命的な罠へと2組を追いこむ猟犬の役割を果たしてしまい、こうして上良栄治の狙い通りに災禍を招いてしまった。
「2組の連中もそう思ってくれるとか甘い事考えてない? ――なあ、そんなわけないだろ」
「――――っ」
結果的にではあるが、彼らをこんな目にあわせたのは響遊である。
例え、致死性の罠を仕掛けたのが上良栄治だとしても、響遊を恨まない人間が居るだろうか。
「お前が殺したんだよ、人殺し」
ほとんどの恨みは上良栄治に向かうだろう。
しかし、間違いなく響遊にも向かうはずだ。
急がさなければ。
中央階段から逃げる様に言わなければ、と。
みんながみんな、響遊の友人ではないし、お人よしでもない。
持て余した感情の先を響遊に求めることは十分にあり得た。
「ぼくは、ぼくは人殺しじゃ――」
「なんか臭わない?」
響遊が反論しかけたところに崎代沙綾が割って入る。
「臭い?」
「なんていうかさ、プールみたいな……」
今、考えられ得る中で一番最悪の可能性が頭をよぎる。
もし、本当に人を殺したいとしたらどうするだろう。
たったひとつの罠だけで、クラス全員皆殺しにできるはずがない。
だが、複数をかけ合わせたらそれも変わってくる。
一つ目で動けなくしておいて、ふたつ目でとどめをさしたら――。
「――塩素」
塩素ガスは、日用品の組み合わせで簡単に作れる割に、とても強力な毒ガスである。
その威力は、第一次世界大戦でも使われたくらいなのだ。
致死性の罠として、威力は十二分にありすぎた。
「た、助けなきゃ……!」
「誰が?」
響遊は持ち前の真面目さからそう言ったものの、未だ傷ついた生徒たちを見ることすらも出来ていない。
そんな状態で助けるなど、出来るはずもなかった。
「私は助けるつもりないけど」
「で、でも……」
「沙綾は?」
「あそこに行くとか絶対無理」
「よね」
中水美衣奈と崎代沙綾が特別白状というわけではない。
危険が大きいというのもあるが、そもそも上良栄治という人殺しから逃げることが目的なのだ。
ここでもたついていたら、自分たちが殺される可能性もあり得た。
「ていうかさ、見捨てたらアンタがしたことバレないんじゃないの」
中水美衣奈の提案は、抗いがたい甘美さを以って響遊を誘惑する。
「響アンタさ、医者になるとか言って内申点とか気にしてなかった?」
「それは……」
危険を押してまで、助けに行く義理があるだろうか。
それよりも、今ここで見捨ててしまった方が、響遊にとっては利になるのではないだろうか。
死んでしまえば、恨まれることもない。
悪い噂が立って、内申点が下がることもない。
だいたい、殺人の起きた学校に通っていたというだけで、マイナスかもしれないのだ。
殺人に関わっていたかもしれないとなると、将来すら危ぶまれてしまう。
「見捨てた方がイイでしょ」
「…………」
響遊の返事は、ない。
答えは決まっていた。
「……ねえ響」
そんな響遊を見た中水美衣奈は、ニヤリと笑みを浮かべる。
「もうさ、3人いるんだし栄治を動けなくなるまで痛めつけた方がリスク小さくない?」
他のクラスメイトが上良栄治の暴走を始める前に動き出せたのは、幸運があったからではない。
一度、上良栄治から暴行を受けていたというのもあったが、もっと決定的だったのは、忠告されていたからだ。
中水美衣奈から、上良栄治がいつもと違う様子を見せたら逃げ出して2組から人を連れてきて欲しいと。
ただ、響遊は人を呼ぶつもりなどさらさらなかった。
あんなのは、同じ生徒に助けを求めてどうにかなるものではない。
上良栄治は、鉈を手に教室へと入って来た。
その目的は殺人以外ありえない。
もはや銃で武装した警察でなければ上良栄治を止めることなど出来ないだろう。
「に、2組……!」
2組には響遊の友人もいる。
今すぐにでも逃げるべきだと伝えるつもりであった。
しかし――。
「あ……?」
駆けだそうとした瞬間、廊下でうずくまっている警察官の巨体が視界の中に飛び込んで来る。
彼は確かに先ほどまで1組の教室で監視の任についていた警察官であった。
それがなぜこんなところで、と疑問に思いつつも響遊は近づいて行く。
「あ、あの……どうかされまし――ひっ」
小山のような背中に声をかけたところで、むせかえるほど濃密な血臭が響遊の鼻をつく。
警察官の首筋には半ばまで切れ込みが入っており、傷口からはとめどなく血液があふれだして床に血だまりを作っている。
うずくまっていたのは、血が流れ出てしまったが故に意識を失ってしまったからだ。
誰にでも分かる。
間違いなく致命傷であり、警察官の命は無いと。
そして、それをやったのは上良栄治であると。
「なんでこんな――」
混乱した響遊の足がもつれ、よろめいた瞬間、悲鳴と怒号と罵声がない交ぜになった轟音が、彼の背後から追い越し、追い抜いて行った。
ちらりと視線を向ければ、1組の教室からは大勢のクラスメイトたちが我先にと逃げ出していく。
響遊は想像するしかなかったが、その予想通り上良栄治が海星という女性警官を殺害したのだ。
1組の生徒たちは、それに怯えて逃走を始めたのだった。
「――くっ」
もはや一刻の猶予もないと判断したのか、響遊はためらいを捨てて走り出す。
無人の教室を通り過ぎ、勢いそのままに1年2組が使っている教室の扉を開け放った。
「はぁっ」
2組の生徒全員の視線が響遊に集まる。
そのことに一瞬怯んでしまい、響遊は喉を鳴らす。
ただ、コトは命に関わる。
なかなか形にならない声を置いて、響遊は腕をあげて1組を指し示した。
「どうした、響」
「か、上良、くんが……ひとを……こ、殺……した」
友人に声を掛けられたことで、なんとか言葉が意味を結ぶ。
しかし、あまりにも突飛だったせいか、友人は怪訝な顔をしているだけだった。
「だから、殺人ですっ。ひとっ――ふたりも殺されたんです! そこに警察官の死体もあります!!」
「……は?」
「逃げてくださいっ! 早くっ!」
まだ、2組の者たちには自体が飲み込めていない。
殺人という行為が、彼らには遠いところで起こる出来事であり、新聞やニュースサイトで見る事件でしかないのだ。
自分たちに降りかかる現実だと理解できず、誰一人として動こうとしなかった。
「……いやでも、警察が居るだろ? 大丈夫だろ?」
人間は、情報だけでは本質的に理解はできない。
危ないと教えられても、それを信じて行動しようとしない。
「いつここに来るか分からないんですよっ! 早く逃げてくださいっ!」
普段通りの日常が何時までも続くと根拠なく信じており、平穏を脅かそうとする情報を無意識のうちに排除してしまうのだ。
正常性バイアスと呼ばれる心理。
それに、2組全員が陥っていた。
このままでは言うことなど絶対に聞いてくれない。そう悟った響遊は、迷うことなく身をひるがえす。
今は一秒だって惜しかった。
上良栄治が、今すぐにでも凶器を引っ提げて2組や響遊自身に襲い掛かってくるとも知れなかったから。
「この――」
言葉で言っても通じないのなら、選択肢はひとつだけ。
――事実による脅迫、だ。
「ごめんなさいっ」
死体のところにまで戻ると、落ちていた警帽を拾い上げ、謝罪しながらたっぷりと血を掬いあげてから教室にまで戻る。
響遊自身も、自分のやっていることがえげつない行為であることは理解していた。
でも、友人の命を守らねばならないという使命感を前にしては些細な問題であった。
「これでも信じないって言うんですかっ」
べっとりと、滴るほど血を含んだ悪趣味な警帽を、扉横の白い壁にべっとりと押し付け――
「ひっ」
コンクリートの上に赤黒い線が描かれ、濃密な鉄さびの臭いが漂い始める。
「早くっ!」
視覚と嗅覚。警告も足せば聴覚でも。
今、この場所は命の危険すら在り得る場所なのだと、2組の全員がようやく理解した。
ガタガタと音を立てながら、次々と立ち上がる。
悲鳴は上がらない。それどころか一言だって声が漏れることは無い。
全員が全員、口を引き結び、顔面を蒼白にして入口へと殺到する。
2組に起きたのは1組のような騒々しいパニックではなかったが、決して冷静ではなかった。
全員が生存するための最適解を、必死の逃走を導き出し、全員が一丸となってその答えに従った。
「急いで階下にっ! 急いでくださいっ!」
響遊に急かされ、十秒とかからず全員が教室を出る。
そのまま1組の教室とは真逆に位置する中央階段へと急ぐ。
響遊を一番後方に、2組全員がひとつの生物にでもなったかのようであった。
「――――っ」
先頭の生徒たちが階段をおり始めるにあたって、少しスピードが緩む。
それはほんの僅かであったが、空白の時間を生んだ。
上良栄治がまだこちらに迫っていないか、そんな恐怖を払しょくするため、響遊はひとりだけ後ろへと振り向いて廊下を確認する。
「響っ!」
中水美衣奈と崎代沙綾のふたりが、なぜか掴みあいをしながら響遊――中央階段の方へと走り寄りつつあった。
なにをしているのかといぶかしむ間もなく、中水美衣奈が響遊の名前を呼び、こっちにこいとでも言うかのように手招きをする。
その理由を問うためにというわけでもないが、響遊が足を止め――それが、彼を掬う事になった。
「うわぁぁっ!!」
「ちょっ! すべっ!!」
「やめ――っ」
一塊になっていたことが災いして、2組全員が地面ごと階段を滑り落ちていく。
体をどこかにぶつける音。
衣服が裂ける音。
肉がひしゃげる音。
骨が砕ける音。
内臓が潰れる音。
頭が割れる音。
衝突する音。
圧迫される音。
破裂する音。
そして、苦悶、絶叫、悲鳴、怨嗟、憤怒、うめき声。
様々な音が、声が、十重二十重とかさなってこだまし、交響曲のように鳴り響いた。
「…………」
響遊の体は凍り付いてしまったかのように動けなかった。
階段の下を見てしまったら、なにが起こったのかを知ってしまうから。
自分が2組のみんなに対してどれほど取り返しのつかないことをしてしまったのかを理解してしまうから。
恐ろしくて恐ろしくて――。
「待ってって言ってんだろっ!」
「なんで邪魔すんのよっ!」
中水美衣奈と崎代沙綾はいがみ合いながらも響遊の元にまで達して――絶句した。
彼女たちの目下には、地獄のような光景が広がっている。
血しぶきで彩られた壁に何本もの肉の筆で赤く塗りたくられた階段。
踊り場には手足がねじれた人間が何人も転がり、その下には押しつぶされた人間の肉と皮で出来たマットが敷かれていた。
いったい何人の生徒が命を落としただろうか。
どれだけの生徒が生きているだろうか。
分からない。
分からないが、2組の生徒総数33人全員が何らかの傷を負ったことは確かだった。
「――あの性格悪い栄治がなにも仕掛けてないわけないじゃん」
ぼそっと、中水美衣奈がこぼす。
彼女はこうなることを予期していたからこそ、崎代沙綾の邪魔をしていたのだった。
いや、予期ではない。
中水美衣奈自身が、悪魔の立てた計画に組み込まれた存在だから、事実として知っていた。
もちろん、中水美衣奈がそれを崎代沙綾に語ることなどないが。
「……だ、だからだったの?」
「ほかに何があると思ったの? ただ意地悪で邪魔したとでも思った?」
「…………」
崎代沙綾は何も言い返せずに黙り込む。
彼女は中水美衣奈が言っていた通り、そう思っていたからだ。
崎代沙綾は中水美衣奈を見捨ててしまった。
自分の身の安全を得るために、校長先生たちに告げ口をしてしまった。
それは、崎代沙綾たちの尺度からすると許されない行いであったはずだったから、彼女は思い込んでいたのだ。
中水美衣奈が自分を疎んじるが故に逃走の邪魔をしていると。
「トモダチのことくらい信じて欲しかったなぁ」
「ご、ごめん」
「いいけど。――で、響さぁ、どうすんの?」
「な、なにが?」
響遊の声は震えている。
その上、視線は未だ惨劇から逸らし続けていた。
「これ、アンタが原因でしょ」
「ち、違いますっ。僕は……僕は……」
響遊は2組の全員を助けたいと思っていた。
だから危険を伝えたし、彼らを急かしたのだ。
しかしそれは、致命的な罠へと2組を追いこむ猟犬の役割を果たしてしまい、こうして上良栄治の狙い通りに災禍を招いてしまった。
「2組の連中もそう思ってくれるとか甘い事考えてない? ――なあ、そんなわけないだろ」
「――――っ」
結果的にではあるが、彼らをこんな目にあわせたのは響遊である。
例え、致死性の罠を仕掛けたのが上良栄治だとしても、響遊を恨まない人間が居るだろうか。
「お前が殺したんだよ、人殺し」
ほとんどの恨みは上良栄治に向かうだろう。
しかし、間違いなく響遊にも向かうはずだ。
急がさなければ。
中央階段から逃げる様に言わなければ、と。
みんながみんな、響遊の友人ではないし、お人よしでもない。
持て余した感情の先を響遊に求めることは十分にあり得た。
「ぼくは、ぼくは人殺しじゃ――」
「なんか臭わない?」
響遊が反論しかけたところに崎代沙綾が割って入る。
「臭い?」
「なんていうかさ、プールみたいな……」
今、考えられ得る中で一番最悪の可能性が頭をよぎる。
もし、本当に人を殺したいとしたらどうするだろう。
たったひとつの罠だけで、クラス全員皆殺しにできるはずがない。
だが、複数をかけ合わせたらそれも変わってくる。
一つ目で動けなくしておいて、ふたつ目でとどめをさしたら――。
「――塩素」
塩素ガスは、日用品の組み合わせで簡単に作れる割に、とても強力な毒ガスである。
その威力は、第一次世界大戦でも使われたくらいなのだ。
致死性の罠として、威力は十二分にありすぎた。
「た、助けなきゃ……!」
「誰が?」
響遊は持ち前の真面目さからそう言ったものの、未だ傷ついた生徒たちを見ることすらも出来ていない。
そんな状態で助けるなど、出来るはずもなかった。
「私は助けるつもりないけど」
「で、でも……」
「沙綾は?」
「あそこに行くとか絶対無理」
「よね」
中水美衣奈と崎代沙綾が特別白状というわけではない。
危険が大きいというのもあるが、そもそも上良栄治という人殺しから逃げることが目的なのだ。
ここでもたついていたら、自分たちが殺される可能性もあり得た。
「ていうかさ、見捨てたらアンタがしたことバレないんじゃないの」
中水美衣奈の提案は、抗いがたい甘美さを以って響遊を誘惑する。
「響アンタさ、医者になるとか言って内申点とか気にしてなかった?」
「それは……」
危険を押してまで、助けに行く義理があるだろうか。
それよりも、今ここで見捨ててしまった方が、響遊にとっては利になるのではないだろうか。
死んでしまえば、恨まれることもない。
悪い噂が立って、内申点が下がることもない。
だいたい、殺人の起きた学校に通っていたというだけで、マイナスかもしれないのだ。
殺人に関わっていたかもしれないとなると、将来すら危ぶまれてしまう。
「見捨てた方がイイでしょ」
「…………」
響遊の返事は、ない。
答えは決まっていた。
「……ねえ響」
そんな響遊を見た中水美衣奈は、ニヤリと笑みを浮かべる。
「もうさ、3人いるんだし栄治を動けなくなるまで痛めつけた方がリスク小さくない?」
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
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