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第87話 音の表情
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二カ月という長い時間を過ぎても私とグラジオスの関係はギクシャクしたままだった。
仲直りが出来ないわけじゃない。感情的には許すとか許さないとかどうでもいい。
私が、仲直りしたくなかったのだ。
だって私の目的がグラジオスから距離を取る事だったから。
「やあ、キララ。約束通り遊びに来たよ」
そう言って相変わらず心臓に悪い笑顔を振りまいているのは帝国からやって来たルドルフさまだ。
遊びに、なんて軽く言うけれど、帝国からアルザルド王国まで実に一ヶ月以上の時間がかかる。そんな労力を割いてまで来て下さったのにはきちんと理由があった。
何台もの馬車を使って運ばれてきた楽器のパーツが、今まさに目の前で組み立てられている。
謁見の間というある種荘厳な雰囲気を持った場所にその楽器は見事なまでにマッチしていた。
その楽器の正体は……。
「君の要望通り、チェンバロを元に改良して作った楽器、ピアノフォルテだよ。ついに納得のいく出来になったから持って来たんだ」
「ふぁい」
ピッカピカのニスが塗られた美しい木目を持つ大屋根(いわゆる蓋)。足一つ一つにも美しい彫刻が施されており、職人のこだわりが見える。
八十八鍵ある鍵盤も白と黒の美しいコントラストを見せていて、その形は私の理想通りの代物だった。
「キララキララ。意識は保っているかい?」
「ふぁい。らいじょうぶです」
ルドルフ様から何か言われているが、私の目は目の前のピアノにくぎ付けだ。
調律の為か、何人かがピアノの鍵盤をたたいて音を確認しているが、音自体はもうぜんっぜん問題ない。完璧だ。
後は微調整を待つだけなのだが、これがとても長い。
私はもう歯がゆくて歯がゆくてつま先をトントンと床に叩きつけながら作業が終わるのをひたすら待っていた。
「……駄目みたいだね」
「大丈夫です」
「…………」
あ、そこ半音ズレてるっ。音がブレてるちょい締めて……締め過ぎだってば!
ああ、もう……まだるっこしい。
はやく終われ~、はやく終われ~。
「グラジオス陛下も目が輝いているね。私よりもピアノが届いた事の方が嬉しそうだ」
「い、いえ、そんな事はありませんよ。それから私は王ではありませんので」
「おやおや」
グラジオスとルドルフさまが隣で何事か話しているが、正直どうでもよかった。大事な外交とやらは二人に任せておけばいいのだ。
私はこっち! ピアノがいいっ!!
ああもう、早く弾きたい弾きたい弾きたい弾きたい!
そうこうしているうちに、調律師らしき人が満足そうにうなずいた。
「いいですかっ!? 調律終わったみたいなので弾いてもっ?」
顔はルドルフさまの方へ向けていたが、視線はピアノから離さない。
私の心は既に準備万端で、体の方も引き絞られた矢のごとく了承を貰えれば何時でもピアノへ向かって突進する準備が出来ていた。
「それは一応キララとグラジオスへ……殿へのお土産だからね。私じゃなくてグラジオス殿に聞くと良いよ」
「いいっ!? グラジオスっ!? いいよね? 良いって言わなくても弾いちゃうよ?」
「ああ、存分に弾け」
「ありがとー!!」
了解が出た瞬間私はピアノへと走り寄っていた。
夢にまで見たピアノが目の前にある。
その事実だけで私の頬は緩みっぱなしだった。
私は手始めにつるつるとした鍵盤に触れてみる。そして音の出ない位ゆっくりと鍵盤を押す。
ゆっくりゆっくりと沈んだ鍵盤が内部の機構を動かし、ハンマーが内部の鋼線をゆっくり叩く。当然、音はしない。
実に最高だ。
ピアノの元になったチェンバロは、弦に爪を引っかけて弾く事で音を鳴らす。
その構造上、どれだけゆっくり鍵盤を押しても必ず音が出る。しかもほぼ一定の音が。
ピアノは違う。ハンマーで内部の鋼線を叩く仕掛けであるため、音の強弱などより複雑な表現が出来るのだ。これがピアノフォルテという名前の由来になった。
そしてこのピアノは私の要求を完璧に満たしている。
ああ、もう最高だ。
私の心は勘当に打ち震えていた。
手始めに私はグーパーグーパーと指を動かして久しぶりのピアノ演奏に備える。
本当に久しぶり過ぎて、きちんと演奏できるか少し心配になるが、期待感の前には障害にもならない。
大丈夫なはずだ。一応オルガンなんかで指そのものは動くはず。
表情を付けられるかは……指が覚えていてくれる事を信じるだけだ。
そして私はピアノの前に座って、深呼吸を一つ。肘は気持ち広げて手首をしっかりと支え、指は少し脱力させて垂らす。
――いくよっ。
――This game――
ピアノの独奏によるイントロが始まる。
始めは小さく、だんだん大きく。うねる波のように音に表情を付けて、私は奏でていく。
深く深く沈む時があったかと思えばその逆、綺羅星のように高くきらめかせる。時に独奏を、時に合奏を、たった一つの楽器が生み出していく。
ああそうだ。この多彩な表現こそがピアノの真骨頂。
楽器の中で王様と言われている所以なのだ。
でも私はこれだけじゃない。これで終わりじゃない。
ピアノは手を使って演奏する物なのだから、まだ口が空いている。
私は――歌える!
演奏に加えて更に歌い出した私をルドルフさまは、グラジオスは、ハイネにエマ、そして居並ぶ貴族たちはどう思っているだろうか。
私の閉じられた瞳の中では彼らの表情を見る事は出来ない。
いや、関係ない。
私の中にある情熱をこの音楽に叩きつけるだけ。この世界を私の色に染めるだけだ。
私は全身全霊を使って『わたし』を鍵盤に叩きつけていった。
一曲ぶちかましてとりあえず衝動を満足させた私は……。
うわっ、やっば! 何てことしちゃったの私!
ゲスト無視してピアノに飛びつくとか失礼にもほどがあるでしょ!
と、我に返って真っ青になってしまった。
そうなると曲が終わったのにも関わらず何の音もしないこの世界がもう気になって気になって仕方なくなってしまう。
私は恐る恐る目を開けると……誤魔化し笑いを浮かべながら後ろへと振り向いた――瞬間。
すさまじいまでの喝采が私を待っていた。
「素晴らしいよ、キララ。ここまで扱えるなんてね」
「うむ。雲母も素晴らしいがピアノもまた素晴らしいな。ここまで音に顔を持たせられる楽器があるとは……」
「それはキララだから出来たのだよ。私の楽団員はここまで様々な顔を持たせられなかった」
口々に私を褒め称えながら二人の『殿下』が私の元に歩み寄ってくる。
二人の口からはもう褒め殺しレベルの称賛の言葉が次々に沸いてきて、私は気恥ずかしくて仕方がなかった。
「あ、あの……ルドルフさまがここまで仕上げて下さったからでして……私の手柄だけでは……」
もにょもにょと口ごもる私の目をまっすぐと覗き込んでくるルドルフさまはいたずらっぽい笑みを浮かべると、
「ではグラジオス殿、あなたがキララに教えてやってくれないかな。それに君も弾いてみたいと顔に書いてあるからちょうどいいだろう?」
そうからかわれたグラジオスは一度顔を大きな掌で拭いてから――それで書いてある欲望を消すことなんて欠片も出来なかったが――大きく頷いた。
私は内心で、この単純バカと罵倒しつつグラジオスに席を譲る。
グラジオスは小さな椅子に大きな体を押し込め、演奏を始めたのだが……。
「違う違う、違うのグラジオス。そんなベタッて感じで鍵盤を押しても駄目なの。指を回転させるように動かして弾くのっ」
やはり初めて扱う楽器だからか、だいぶ扱い方に不慣れな様だった。
「というかオルガン弾くやり方でピアノ弾いちゃダメなんだって。全然違う楽器なんだから」
「ならどうすればいい」
ちょっと不機嫌そうに唇を尖らせるグラジオスの後ろから手を出して見本を見せてみる。
グラジオスはそれに倣って指を動かすのだが、どうにも上手くいかない様だ。
業を煮やした私は、
「だから固いんだってば。もっと指を柔らかくするの。そしたら強い表現も弱い表現も自由自在でしょ」
グラジオスの手に自分の手を重ね――。
「あ……」
そこで気付いた。私が前みたいに遠慮なく手と体をくっつけてしまっていた事に。
私は慌ててグラジオスから体を放すと、そっぽを向く。
「そういう事だから。後は自分で練習して」
「…………」
グラジオスは何も言わなかった。
代わりに、ルドルフさまのふ~んという意味ありげな声が私の耳に残った。
仲直りが出来ないわけじゃない。感情的には許すとか許さないとかどうでもいい。
私が、仲直りしたくなかったのだ。
だって私の目的がグラジオスから距離を取る事だったから。
「やあ、キララ。約束通り遊びに来たよ」
そう言って相変わらず心臓に悪い笑顔を振りまいているのは帝国からやって来たルドルフさまだ。
遊びに、なんて軽く言うけれど、帝国からアルザルド王国まで実に一ヶ月以上の時間がかかる。そんな労力を割いてまで来て下さったのにはきちんと理由があった。
何台もの馬車を使って運ばれてきた楽器のパーツが、今まさに目の前で組み立てられている。
謁見の間というある種荘厳な雰囲気を持った場所にその楽器は見事なまでにマッチしていた。
その楽器の正体は……。
「君の要望通り、チェンバロを元に改良して作った楽器、ピアノフォルテだよ。ついに納得のいく出来になったから持って来たんだ」
「ふぁい」
ピッカピカのニスが塗られた美しい木目を持つ大屋根(いわゆる蓋)。足一つ一つにも美しい彫刻が施されており、職人のこだわりが見える。
八十八鍵ある鍵盤も白と黒の美しいコントラストを見せていて、その形は私の理想通りの代物だった。
「キララキララ。意識は保っているかい?」
「ふぁい。らいじょうぶです」
ルドルフ様から何か言われているが、私の目は目の前のピアノにくぎ付けだ。
調律の為か、何人かがピアノの鍵盤をたたいて音を確認しているが、音自体はもうぜんっぜん問題ない。完璧だ。
後は微調整を待つだけなのだが、これがとても長い。
私はもう歯がゆくて歯がゆくてつま先をトントンと床に叩きつけながら作業が終わるのをひたすら待っていた。
「……駄目みたいだね」
「大丈夫です」
「…………」
あ、そこ半音ズレてるっ。音がブレてるちょい締めて……締め過ぎだってば!
ああ、もう……まだるっこしい。
はやく終われ~、はやく終われ~。
「グラジオス陛下も目が輝いているね。私よりもピアノが届いた事の方が嬉しそうだ」
「い、いえ、そんな事はありませんよ。それから私は王ではありませんので」
「おやおや」
グラジオスとルドルフさまが隣で何事か話しているが、正直どうでもよかった。大事な外交とやらは二人に任せておけばいいのだ。
私はこっち! ピアノがいいっ!!
ああもう、早く弾きたい弾きたい弾きたい弾きたい!
そうこうしているうちに、調律師らしき人が満足そうにうなずいた。
「いいですかっ!? 調律終わったみたいなので弾いてもっ?」
顔はルドルフさまの方へ向けていたが、視線はピアノから離さない。
私の心は既に準備万端で、体の方も引き絞られた矢のごとく了承を貰えれば何時でもピアノへ向かって突進する準備が出来ていた。
「それは一応キララとグラジオスへ……殿へのお土産だからね。私じゃなくてグラジオス殿に聞くと良いよ」
「いいっ!? グラジオスっ!? いいよね? 良いって言わなくても弾いちゃうよ?」
「ああ、存分に弾け」
「ありがとー!!」
了解が出た瞬間私はピアノへと走り寄っていた。
夢にまで見たピアノが目の前にある。
その事実だけで私の頬は緩みっぱなしだった。
私は手始めにつるつるとした鍵盤に触れてみる。そして音の出ない位ゆっくりと鍵盤を押す。
ゆっくりゆっくりと沈んだ鍵盤が内部の機構を動かし、ハンマーが内部の鋼線をゆっくり叩く。当然、音はしない。
実に最高だ。
ピアノの元になったチェンバロは、弦に爪を引っかけて弾く事で音を鳴らす。
その構造上、どれだけゆっくり鍵盤を押しても必ず音が出る。しかもほぼ一定の音が。
ピアノは違う。ハンマーで内部の鋼線を叩く仕掛けであるため、音の強弱などより複雑な表現が出来るのだ。これがピアノフォルテという名前の由来になった。
そしてこのピアノは私の要求を完璧に満たしている。
ああ、もう最高だ。
私の心は勘当に打ち震えていた。
手始めに私はグーパーグーパーと指を動かして久しぶりのピアノ演奏に備える。
本当に久しぶり過ぎて、きちんと演奏できるか少し心配になるが、期待感の前には障害にもならない。
大丈夫なはずだ。一応オルガンなんかで指そのものは動くはず。
表情を付けられるかは……指が覚えていてくれる事を信じるだけだ。
そして私はピアノの前に座って、深呼吸を一つ。肘は気持ち広げて手首をしっかりと支え、指は少し脱力させて垂らす。
――いくよっ。
――This game――
ピアノの独奏によるイントロが始まる。
始めは小さく、だんだん大きく。うねる波のように音に表情を付けて、私は奏でていく。
深く深く沈む時があったかと思えばその逆、綺羅星のように高くきらめかせる。時に独奏を、時に合奏を、たった一つの楽器が生み出していく。
ああそうだ。この多彩な表現こそがピアノの真骨頂。
楽器の中で王様と言われている所以なのだ。
でも私はこれだけじゃない。これで終わりじゃない。
ピアノは手を使って演奏する物なのだから、まだ口が空いている。
私は――歌える!
演奏に加えて更に歌い出した私をルドルフさまは、グラジオスは、ハイネにエマ、そして居並ぶ貴族たちはどう思っているだろうか。
私の閉じられた瞳の中では彼らの表情を見る事は出来ない。
いや、関係ない。
私の中にある情熱をこの音楽に叩きつけるだけ。この世界を私の色に染めるだけだ。
私は全身全霊を使って『わたし』を鍵盤に叩きつけていった。
一曲ぶちかましてとりあえず衝動を満足させた私は……。
うわっ、やっば! 何てことしちゃったの私!
ゲスト無視してピアノに飛びつくとか失礼にもほどがあるでしょ!
と、我に返って真っ青になってしまった。
そうなると曲が終わったのにも関わらず何の音もしないこの世界がもう気になって気になって仕方なくなってしまう。
私は恐る恐る目を開けると……誤魔化し笑いを浮かべながら後ろへと振り向いた――瞬間。
すさまじいまでの喝采が私を待っていた。
「素晴らしいよ、キララ。ここまで扱えるなんてね」
「うむ。雲母も素晴らしいがピアノもまた素晴らしいな。ここまで音に顔を持たせられる楽器があるとは……」
「それはキララだから出来たのだよ。私の楽団員はここまで様々な顔を持たせられなかった」
口々に私を褒め称えながら二人の『殿下』が私の元に歩み寄ってくる。
二人の口からはもう褒め殺しレベルの称賛の言葉が次々に沸いてきて、私は気恥ずかしくて仕方がなかった。
「あ、あの……ルドルフさまがここまで仕上げて下さったからでして……私の手柄だけでは……」
もにょもにょと口ごもる私の目をまっすぐと覗き込んでくるルドルフさまはいたずらっぽい笑みを浮かべると、
「ではグラジオス殿、あなたがキララに教えてやってくれないかな。それに君も弾いてみたいと顔に書いてあるからちょうどいいだろう?」
そうからかわれたグラジオスは一度顔を大きな掌で拭いてから――それで書いてある欲望を消すことなんて欠片も出来なかったが――大きく頷いた。
私は内心で、この単純バカと罵倒しつつグラジオスに席を譲る。
グラジオスは小さな椅子に大きな体を押し込め、演奏を始めたのだが……。
「違う違う、違うのグラジオス。そんなベタッて感じで鍵盤を押しても駄目なの。指を回転させるように動かして弾くのっ」
やはり初めて扱う楽器だからか、だいぶ扱い方に不慣れな様だった。
「というかオルガン弾くやり方でピアノ弾いちゃダメなんだって。全然違う楽器なんだから」
「ならどうすればいい」
ちょっと不機嫌そうに唇を尖らせるグラジオスの後ろから手を出して見本を見せてみる。
グラジオスはそれに倣って指を動かすのだが、どうにも上手くいかない様だ。
業を煮やした私は、
「だから固いんだってば。もっと指を柔らかくするの。そしたら強い表現も弱い表現も自由自在でしょ」
グラジオスの手に自分の手を重ね――。
「あ……」
そこで気付いた。私が前みたいに遠慮なく手と体をくっつけてしまっていた事に。
私は慌ててグラジオスから体を放すと、そっぽを向く。
「そういう事だから。後は自分で練習して」
「…………」
グラジオスは何も言わなかった。
代わりに、ルドルフさまのふ~んという意味ありげな声が私の耳に残った。
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