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夢の異世界生活②
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「この世界に来て後悔したことはまだまだある。まずは家だ。生まれ変わる前に住んでいたユニットバス付のワンルームのアパートですら、この国最大の王国の王子である俺が住んでいた部屋より遥かにマシだった」
この世界では自分の身の回りの事は自分の魔法で行うことが常識だ。部屋は土属性の魔法を使って自分で加工する。用を足せば自らの水魔法で流し、掃除は風魔法で外に埃を追い出す。洗濯は自分の水魔法で洗い、風魔法で乾かす。身を清めるのも自らの魔法で行うのが当たり前だ。身なりを整え、優れた装飾の部屋に住むことは卓越した魔法を使えるという証であり、王族といえどそれを他人に委ねることは一切ない。従者が行うことと言えば皆が共用する場所の掃除や、食事などの魔法だけではどうしようもないものだ。
元々侍女だったノートはあてがわれた部屋をそのまま利用していた。いや、俺がこの国の言葉がしゃべれなくなったせいで第一王位継承権を剥奪され、元々の部屋に移らされたのだ。この国では第一王位継承者とその母が正当な王族としての扱いを受け、特別な部屋に住むことを許される。俺が生まれ、第一王位継承者の母となったノートは正当なる王位継承者の母が代々住まう正室に住んでいた。そして、俺が生まれるまで正室に住んでいたキャンバス達の母は側室部屋に移された。さぞ憎かったことだろう。そんなこともあり、俺が三歳になるまでは他の母たちには相当辛く当たられていたようだ。俺が言葉をしゃべれなくなり王位継承権が四位になると同時に元々の部屋に戻った。ノートは魔法が使えず部屋の加工ができない為、建設時のままの石造りで床は冷たくゴツゴツしている。裸足で部屋の中を歩き回るなんてとてもじゃないができない。侍女の分際で王の側室となっても、魔法が使えず疎まれていた彼女に変わって部屋を綺麗に加工してくれる人間は城内に一人も居なかった。
ノートは魔法が使えない。俺もまだ魔法の勉強をしていなかった頃は王家の人間と言えど生活は粗末なもので、手で洗うしかない布団は硬く、じめっとしてかび臭い布だ。薄暗い部屋には小さな火を灯してあるだけ。身を清めるのも城内の一階を流れる川に水を汲みに行った水で布を絞り、拭いていた。なにより俺が最も落胆したのはトイレだ。当然のことながら水道がない。魔法が使えない子供の頃は用を足すたび、汲んで来た水を流していた。王族として生まれながら蔑まれ、憐みの目に晒され、さらに過去の恵まれた暮らしの記憶を持っている俺にとっては屈辱と後悔の日々でしかなかった。
この国は驚くほど美しい。ノートと一緒に暮らしていた北側の部屋の小さな四角い窓から見える景色は俺の一番のお気に入りだ。東西を険しい岩山で挟まれその岩山の山頂には薄っすらと雪が残っている。まるで天然の要塞の様なその山は簡単に外部からの侵入を許さない。両方の山の間には小高い丘があり、広大な草原と遠くの方に深い森が広がっている。空と森と草原と岩山のコントラストが実に見事だ。日によって違う表情を見せるその景色はまるで美しい絵画のよう昼間でも太陽の光が届かない仄暗い部屋に彩を与えてくれた。
南側にある正室の大きな窓からは日中はずっと光が差し込み、見下すと城下町が一望できる。北西の森からの清流が町の中に流れ込み、その川の流れを目で追って行くと丸い入江に行き着く。そして、そのまま雄大な海が水平線まで広がっている。その美しさはまるで幻想世界に入り込んだような錯覚すら覚えるほどだ。しかし、実際は違う。この国は北から南に向かってなだらかな勾配になっていて同時に西から東へと勾配になっている。北西の森から流れて来る川は、この街の北西端に存在する王城の中を経由して町に流れ込む。城内ではその川の流れを本流の川と分流させて作った汚水用の下水路の二股に分けている。王城から南に向かって流れ出す綺麗な本流は城を出て街の西側を南の入江に向かって真っ直ぐに流れている。一方、王城から東側に流れ出す汚水路は、王城内で出た汚物と共にそのまま東側の川に流される。
町は綺麗に区画整理され、西から第六階位と第五階位が住む上流区、第四階位と第三階位が住む中流区、魔法が使えない人々が住む下流区と巨大な二枚の壁で区切られている。それぞれの壁にはいくつか門があり、そこからしか行き来できず、許可がなければ上の区には入れない。
町を流れる川はほぼ一定の間隔で西から東へと横切る形で流れる綺麗な用水路と、同様に汚水路が引かれ、その二つの水路をまたぐ形で家が建てられている。要は家の中を用水路と汚水路が流れている状態だ。さらに、西側から流れる用水路と汚水路が合流した下流区にある東側の川は常に汚物だらけの悪臭漂う大きな汚川と化していて、南東に行くほど水量は増し、臭く汚い。雨が多く振ると下流区の南側では川が氾濫し、死者が出ることも珍しくない。魔力が高い者はその水路に土魔法で蓋をできるが、魔力が弱い者はそれすらできない。下流区は別名、”無蓋”とも呼ばれ、その土地に魔力が高い人間が近寄ることはまずない。生活インフラすらまともに保証されていない見捨てられた町となっている。下流区は西側を壁に、東側を岩山に囲まれていて逃げ出す事すらできない。唯一外に出られるのは汚川で、町を南東に抜けるとそびえ立つ岩山の洞窟を通り、そのまま岩山の反対側の崖から海へ放水される。汚水まみれのこの海は肥溜めの様な状態で、常時悪臭を放ち誰も近寄らない。仮にこの町から抜け出そうと小川と共に洞窟を抜けても魔力の無い人間は絶対の死が待っているだけだ。
魔力が高い者ほど王宮に近い北西の区画の綺麗な水が利用出来て、魔力が低い者ほど南東の地区の汚い水を利用して生活している。それなのに、ある程度魔力が高い者は自分自身で水を生成できる為、そもそも生活用水は利用しないのだ。逆に魔法が使えない者ほど不衛生な環境での生活を強いられる為、汚れた生活用水に頼り、街中から流れつく汚物の匂いの中で生活している。その為、疫病なども多い。本来なら魔力が弱い者ほどよい生活環境を与え、魔法が使えるものは魔法で補って協力し合えば皆が幸せになれるのかもしれない。だが、魔力の強さが全てのこの世界ではそのまま生活環境に左右される。しかも、魔力の弱いものから強いものが生まれることは基本的にはあり得ない。生まれた直後にその後の人生が確定するのだ。夢を持つことも努力することも許されない。まさに親ガチャだ……。
「僕は魔力がとりわけ高く、王子でもあったので生活環境はこの国では最高水準だ。でも、王家の人間としては最低の生活環境の中で育った。トイレ同様、当然のことながら部屋には風呂はおろかシャワーすらない。この世界では魔法で作った水球で体を清めるのが普通で、湯船につかってゆっくり温まるという文化がそもそもない」
中々お湯に変わらない古びたシャワーやカビの生えたタイルに囲まれた小さい湯船が懐かしかった。あの狭くぼろいワンルームのアパートが本当に恋しかった。
「次に食事。兎に角まずい。僕はソロキャンのベテランでジビエの経験もあったから正直どんな環境でも生きていけると思っていたけど、結局のところ、味付けには市販の化学調味料に助けられていたんだ」
この世界では基本的に味付けは塩と複数の香辛料、酢や果実酒のようなものを利用しているようだが現代科学と長年研究を重ねて作られた化学調味料には遠く及ばない。しかも、狩猟は主に魔法で首を切断するというスタイルだ。大人しい草食動物だけではなく肉食動物も狩られることも多い。調理法もまだまだ発展途上なこともあり獣臭い。そして、食材の多くは見たことも聞いたこともないものばかりだ。現在の日本の様に目でも香りでも味わうという概念がない。身体に悪そうな濃い味のインスタント食品の味が恋しかった。今にして思えば多国籍の料理を安い金額で食べることのできる前世はそれだけでも生きる価値があったんだと実感する。
「そして、衣類。基本的には麻のような植物から作られたものだ。寒い季節にはその上に生物の毛皮を用いたものを着る。ちょうどいい温度を調整することなんてできない」
もちろん魔法で火や水を生成することである程度は調整出来るがそんなに器用にできるものではない。ひどく熱い日には蒸れるし、寒い日には命の危険すら感じる程手足が芯から冷える。サイズもちょうど良いものではないので荒い布地は心地よい肌触りに慣れたデリケートなお肌を容赦なく傷つける。眠っている時でも背中がゾワゾワして眠れないこともある。魔法が使えなかった頃は洗濯してもうまく乾かず直ぐにかび臭くなる。いや、それ以前に洗う度に服が傷んであっという間にくたびれていく。化学繊維で作られた身体にぴったりと馴染むスベスベのあったかインナーが恋しかった。
この世界における権力者は皆もれなく高い魔力を持っていて全ての事を魔法を駆使して行う。だから、科学や機械という概念がそもそもない。魔法で十分豊かな暮らしができているからだ。魔力の低い者たちが不便であろうが関係ないのだ。いや、むしろそんなものができてしまえば高い魔力を持つ者のアイデンティティーが崩壊しかねない。この世界では恐らくこの先も科学文明が発達することは無い。
「この環境の悪さが身にしみてわかるのも記憶を持って生まれてしまった弊害だ。地獄だった……。清潔で、安全で、食べたい時にササっと食べたいものを食べ、温かいお風呂に浸かり、眠りたい時に好きなだけ眠る。贅沢さえしなければ必要な物は大抵手に入る。欲がなくなるほどに娯楽に溢れたあの世界を経験していた僕にとってこの世界は地獄そのものだった……」
エンマに頼んだ通り俺はこの国最大の人間の王国の王子として特別恵まれた才能を持って生まれた。……けど、現代人の一般家庭の生活よりはるかに不便で不快で不自由なものだった。 さらに、言語を学んで初めて分かったことだが、俺が生まれた人間最大の国であるこの国は、人間の支配している地域は実はそんの小さな土地しかなかった。この世界での人間の立場は極めて低かったのだ。まるで身を隠す様にひっそりと小さな島国で暮らしていたのだ。
この世界には大きく分けると三つの種族が存在する。空を支配する有翼人種、地底を支配する地底人種、そして、地上を支配する亜人種だ。僕たちはそんな亜人種の中の一種らしいがその中でも能力値は極めて低い。それでも小さいながら王国を持ち、生きながらえていられるのは、要するに取るに足らないからだ。アマゾンの奥地で小さな文明を築いている部族を温かく見守るかのように俺たちは支配する者たちに放置してもらっているだけの存在。だからこそ、この国では強い魔力を何より重視する。彼ら支配者の気が替わって襲撃されればひとたまりもなく壊滅してしまうからだ。
「どうして僕は人間が最も優れた種族だと思い込んでいたんだろう。人間だけが魔法が使えるのならまだしも、皆が魔法を使えるならより優れた身体能力や特殊な能力を持つ種族の方が強いに決まっている! ファンタジー世界らしいと言えばその通りだけど、僕が思い描いていた異世界転生とはまるで違う! 違い過ぎたんだ……。どこのどいつだよ。多種族と争いながらも協力し合える世界を考えた奴は! 同じ人間同士でも肌の色が違うだけで、宗教が違うだけで殺し合うのに……」
そう言って俺は一旦話を区切った。疲労で虚ろな兄たちは俺の話がまともに聞こえていないようだ。いや、聞こえていたとしても意味が解らないだろう。そろそろ限界か? いい頃合いだろう。僕は椅子から立ち上がった。
「大丈夫? ちょっと話をし過ぎたね。一旦口枷を外してあげるからお水を飲んで」
そう言うと三人同時に外せるように細工してあった口布を外した。その瞬間、三人は口に詰めてあった血混じりの石を嗚咽を漏らしながら吐き出し、刹那に魔法の詠唱を始めた。
「――♈♐♌……」
「――♒♎♊……」
「……♓♏♋……」
目論見通り三人は魔法の詠唱を始めた。
「炎と風。それと水か。それぞれ得意な属性の魔法だね」
この国では生まれてすぐに魔力のレベルを測る。方法は簡単で特殊な文字で記された魔導書を開くだけ。この世界の魔導書は自分の魔力以上の物を開くことができない。第二階位の魔力のしかない者には第三階位の魔導書は開くことができないのだ。
魔法を勉強するにはまず十二種類ある文字の意味を一つ一つを覚え、それを組み合わせて正しい配列に並べる。いわゆるルーン文字のようなものだ。この国ではそのまま十二字と呼ばれている。初めて聞いた時は『そのままやん!』と懐かしい関西弁で突っ込んだものだ。十二字は組み合わせ数が増えると意味が替わるので、組み合わせた数の分だけ意味と読み方を理解する必要がある。
第三階位であれば三つの文字を組み合わせの魔法を学ぶ。文字を三つ以上正しく組み合わせ、理解し、イメージする。そして正しい詠唱で音声にすることで魔法となるのだ。つまり、第一階位と第二階位の魔導書しか開けない者はそもそも魔法が使えない。そして、先ほどから魔法を詠唱している三人はそろって第六位階位の魔法を詠唱している。俺たちの国では実質最高位の魔法だ。中でもキャンバスは別格で、生まれながらに第七階位の魔導書を開けた超エリートだ。それだけにプライドが異常に高い。この国が始まって以来、第七階位の魔導書が開けたものはキャンバスを含めわずか六名しかおらず、いずれも偉大な魔導士として歴史に名を遺している。
この世界では自分の身の回りの事は自分の魔法で行うことが常識だ。部屋は土属性の魔法を使って自分で加工する。用を足せば自らの水魔法で流し、掃除は風魔法で外に埃を追い出す。洗濯は自分の水魔法で洗い、風魔法で乾かす。身を清めるのも自らの魔法で行うのが当たり前だ。身なりを整え、優れた装飾の部屋に住むことは卓越した魔法を使えるという証であり、王族といえどそれを他人に委ねることは一切ない。従者が行うことと言えば皆が共用する場所の掃除や、食事などの魔法だけではどうしようもないものだ。
元々侍女だったノートはあてがわれた部屋をそのまま利用していた。いや、俺がこの国の言葉がしゃべれなくなったせいで第一王位継承権を剥奪され、元々の部屋に移らされたのだ。この国では第一王位継承者とその母が正当な王族としての扱いを受け、特別な部屋に住むことを許される。俺が生まれ、第一王位継承者の母となったノートは正当なる王位継承者の母が代々住まう正室に住んでいた。そして、俺が生まれるまで正室に住んでいたキャンバス達の母は側室部屋に移された。さぞ憎かったことだろう。そんなこともあり、俺が三歳になるまでは他の母たちには相当辛く当たられていたようだ。俺が言葉をしゃべれなくなり王位継承権が四位になると同時に元々の部屋に戻った。ノートは魔法が使えず部屋の加工ができない為、建設時のままの石造りで床は冷たくゴツゴツしている。裸足で部屋の中を歩き回るなんてとてもじゃないができない。侍女の分際で王の側室となっても、魔法が使えず疎まれていた彼女に変わって部屋を綺麗に加工してくれる人間は城内に一人も居なかった。
ノートは魔法が使えない。俺もまだ魔法の勉強をしていなかった頃は王家の人間と言えど生活は粗末なもので、手で洗うしかない布団は硬く、じめっとしてかび臭い布だ。薄暗い部屋には小さな火を灯してあるだけ。身を清めるのも城内の一階を流れる川に水を汲みに行った水で布を絞り、拭いていた。なにより俺が最も落胆したのはトイレだ。当然のことながら水道がない。魔法が使えない子供の頃は用を足すたび、汲んで来た水を流していた。王族として生まれながら蔑まれ、憐みの目に晒され、さらに過去の恵まれた暮らしの記憶を持っている俺にとっては屈辱と後悔の日々でしかなかった。
この国は驚くほど美しい。ノートと一緒に暮らしていた北側の部屋の小さな四角い窓から見える景色は俺の一番のお気に入りだ。東西を険しい岩山で挟まれその岩山の山頂には薄っすらと雪が残っている。まるで天然の要塞の様なその山は簡単に外部からの侵入を許さない。両方の山の間には小高い丘があり、広大な草原と遠くの方に深い森が広がっている。空と森と草原と岩山のコントラストが実に見事だ。日によって違う表情を見せるその景色はまるで美しい絵画のよう昼間でも太陽の光が届かない仄暗い部屋に彩を与えてくれた。
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町は綺麗に区画整理され、西から第六階位と第五階位が住む上流区、第四階位と第三階位が住む中流区、魔法が使えない人々が住む下流区と巨大な二枚の壁で区切られている。それぞれの壁にはいくつか門があり、そこからしか行き来できず、許可がなければ上の区には入れない。
町を流れる川はほぼ一定の間隔で西から東へと横切る形で流れる綺麗な用水路と、同様に汚水路が引かれ、その二つの水路をまたぐ形で家が建てられている。要は家の中を用水路と汚水路が流れている状態だ。さらに、西側から流れる用水路と汚水路が合流した下流区にある東側の川は常に汚物だらけの悪臭漂う大きな汚川と化していて、南東に行くほど水量は増し、臭く汚い。雨が多く振ると下流区の南側では川が氾濫し、死者が出ることも珍しくない。魔力が高い者はその水路に土魔法で蓋をできるが、魔力が弱い者はそれすらできない。下流区は別名、”無蓋”とも呼ばれ、その土地に魔力が高い人間が近寄ることはまずない。生活インフラすらまともに保証されていない見捨てられた町となっている。下流区は西側を壁に、東側を岩山に囲まれていて逃げ出す事すらできない。唯一外に出られるのは汚川で、町を南東に抜けるとそびえ立つ岩山の洞窟を通り、そのまま岩山の反対側の崖から海へ放水される。汚水まみれのこの海は肥溜めの様な状態で、常時悪臭を放ち誰も近寄らない。仮にこの町から抜け出そうと小川と共に洞窟を抜けても魔力の無い人間は絶対の死が待っているだけだ。
魔力が高い者ほど王宮に近い北西の区画の綺麗な水が利用出来て、魔力が低い者ほど南東の地区の汚い水を利用して生活している。それなのに、ある程度魔力が高い者は自分自身で水を生成できる為、そもそも生活用水は利用しないのだ。逆に魔法が使えない者ほど不衛生な環境での生活を強いられる為、汚れた生活用水に頼り、街中から流れつく汚物の匂いの中で生活している。その為、疫病なども多い。本来なら魔力が弱い者ほどよい生活環境を与え、魔法が使えるものは魔法で補って協力し合えば皆が幸せになれるのかもしれない。だが、魔力の強さが全てのこの世界ではそのまま生活環境に左右される。しかも、魔力の弱いものから強いものが生まれることは基本的にはあり得ない。生まれた直後にその後の人生が確定するのだ。夢を持つことも努力することも許されない。まさに親ガチャだ……。
「僕は魔力がとりわけ高く、王子でもあったので生活環境はこの国では最高水準だ。でも、王家の人間としては最低の生活環境の中で育った。トイレ同様、当然のことながら部屋には風呂はおろかシャワーすらない。この世界では魔法で作った水球で体を清めるのが普通で、湯船につかってゆっくり温まるという文化がそもそもない」
中々お湯に変わらない古びたシャワーやカビの生えたタイルに囲まれた小さい湯船が懐かしかった。あの狭くぼろいワンルームのアパートが本当に恋しかった。
「次に食事。兎に角まずい。僕はソロキャンのベテランでジビエの経験もあったから正直どんな環境でも生きていけると思っていたけど、結局のところ、味付けには市販の化学調味料に助けられていたんだ」
この世界では基本的に味付けは塩と複数の香辛料、酢や果実酒のようなものを利用しているようだが現代科学と長年研究を重ねて作られた化学調味料には遠く及ばない。しかも、狩猟は主に魔法で首を切断するというスタイルだ。大人しい草食動物だけではなく肉食動物も狩られることも多い。調理法もまだまだ発展途上なこともあり獣臭い。そして、食材の多くは見たことも聞いたこともないものばかりだ。現在の日本の様に目でも香りでも味わうという概念がない。身体に悪そうな濃い味のインスタント食品の味が恋しかった。今にして思えば多国籍の料理を安い金額で食べることのできる前世はそれだけでも生きる価値があったんだと実感する。
「そして、衣類。基本的には麻のような植物から作られたものだ。寒い季節にはその上に生物の毛皮を用いたものを着る。ちょうどいい温度を調整することなんてできない」
もちろん魔法で火や水を生成することである程度は調整出来るがそんなに器用にできるものではない。ひどく熱い日には蒸れるし、寒い日には命の危険すら感じる程手足が芯から冷える。サイズもちょうど良いものではないので荒い布地は心地よい肌触りに慣れたデリケートなお肌を容赦なく傷つける。眠っている時でも背中がゾワゾワして眠れないこともある。魔法が使えなかった頃は洗濯してもうまく乾かず直ぐにかび臭くなる。いや、それ以前に洗う度に服が傷んであっという間にくたびれていく。化学繊維で作られた身体にぴったりと馴染むスベスベのあったかインナーが恋しかった。
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――後にレナは自分の得た職業とスキルの真の力を「世界の管理者」を名乗る女性のアイリスに伝えられ、自分を見下していた人間から逆に見上げられる立場になる事を彼は知らない。
※タイトルを変更しました。(旧題:不遇職に役立たずスキルと馬鹿にされましたが、実際はそれほど悪くはありません)。書籍化に伴い、一部の話を取り下げました。また、近い内に大幅な取り下げが行われます。
※11月22日に第一巻が発売されます!!また、書籍版では主人公の名前が「レナ」→「レイト」に変更しています。
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