木蓮荘

立夏 よう

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東京4

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山口先生が辞めさせられる日に渡してくれた書付を懐に大事にしまってある。そこには山口先生がうちに来る前にお世話になっていた下宿先の住所があって、どこに住むにしてもここのおかみさんと連絡はとっておくから彼女に聞けば行き先はわかるようにしておくと言ってくれた。山口先生が家の物を質にいれていたのは私の為だった。私が逃げ出す時の軍資金を用意するために相談して目立たなくて発覚しづらいものをこっそり持ち出してもらっていた。だからお金は用意はできている。ただ、先生には申し訳ないことになってしまったけど。親族は誰も頼れない。これがばれたら連れ戻されるだけだ。他に頼れる他人は誰もいない。とにかく山口先生と再会して、その先のことはそれから考える。私に何ができるだろう。読み書きはできるけどまともに働いたこともないのに。住み込みの女中仕事ができるだろうか。先生のようにちゃんとした女学校を出ているわけではないから家庭教師のような仕事はできないし、身元がちゃんと証明できないから普通の仕事は難しいかもしれない。ただ当面は困らないだけのお金はある。それだけが支えだった。

いとは大丈夫だろうか。身代わりは気づかれるだろうか。父は、私が消えてどこぞの娘とすり替わっていることに気づいたとしても何もしないだろうと私は踏んでいた。母の自殺は父にとっては相当な痛手で、父が殺したという噂は今でも消えてないくらいだったのだから更に娘が失踪したなど、縁談がここまで進んでる今となって表沙汰にして得することはなにもない。兄は父の言いなりだ。他の親戚にしても気づくことはまずないだろう。もともと私は当分の間誰にも会ってないに等しいのだから。ただ、たきさんは気づくかもしれないし、不安なのはたきさんがどうするかだ。いとの親族にはお見舞金としてかなりのお金を用意していとに預けてある。それをどうしようといとが自由にすればいい。それ以上のことは考えても仕方ないことだ。もし万が一知られたら、いとには全てを告白してかまわないと言ってあるし、わたしの告白文も渡してあるからいとには迷惑がかからないと思いたい。いや、迷惑がかからないわけはないのだけどそれでもいとが罪になることだけはないように準備はしていたつもりなのだ。

今朝、いとが部屋にこっそり忍んで来てくれた。目が真っ赤で泣き腫らしたような顔で、胸が痛んだ。こんなことやめましょうと言えれば、全て終われたのに。いとは私にとても腹を立ててもいたのだと思う。こんな勝手なことを押し付けてと。だから私達の最後は想像していたよりずっと険悪なものだった。残念だなんて言えない。いとの怒りはいとのせいじゃなくて私のせいだから。残念というより、ただ、辛かった。辛いなんて言える立場ではないのだけど。いとは何か言いたくてたまらないという顔をしていた。おそらく、私への怒りを、非難が口先まででかかってそれを押し留めていたのだろう、そんな顔だった。いとに恨まれ、いとに嫌われ、それでも生きていくんだ。後悔はもはや役に立たないのだから。

激しく揺れる狭い二等車両でまとまらないままにいろいろなことを思い浮かべる。これからの不安をしまいこんで過去のことばかり考えてしまう。本当は不安なのだ。いろんなことが。
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