木蓮荘

立夏 よう

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東京1

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私はすべての用意や始末を終え、こっそりと、誰にも見られないように家を出て、少し離れた人力車乗り場まで歩きそこから駅まで運んでもらった。着物は普段のものではなく粗末なものにし、履物にも気を使い持ち物も少なく目立たないようにして、日暮里までの切符を買って海岸線を走る汽車に乗りこんだ。そこまでやり遂げて、ほっと一息つく。でもまだだめだ、人目につかないように、誰にも注目されないように。誰かに万一気づかれたら追手がくるかもしれないのだから。

私はちゃんと生きてみたかったのだ。だから鬼になった。人の人生を奪ってしまった。許されない酷いことをしたと思う。
彼女は「はい」と言うしかなかった。私は彼女に選ばせるという形だけはとっていた。何度も「いい?」と問うた。そうすることで私はちゃんと彼女に選ばせたと思いたかったけどそうじゃないことも気づいていた。いとには「嫌です」という選択肢はなかった。そういう彼女の立場を利用したのだ。「大野いと」という一人の人間をこの世から消し去ってしまった。その罪の重さはずっと消えない。私が家から抜け出したいという欲を抱いたために、彼女は姿を消すのだ。母にも弟たちにも二度と会えない。そんな立場に追いやってしまった。その罪を犯した罰はずっと受けなければならない。そして何より私に課せられる罰は、私自身が彼女に二度と会えないことだ。野崎綾の身代わりとして「大野いと」をあの家に置いてきてしまったのだから。
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