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第11話

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「牧野さん、本当によく頑張りましたね!」
「私のリハビリに関わって下さった、皆さんのおかげです。半年間、ありがとうございました。」
「何か少しでも不安なことがあったら、遠慮なくご連絡下さいね。奥さんも。」
「はい。今後とも、よろしくお願いします。」


 春のあの日──。
 柊が菜々と一緒に珍しく外食をした帰り道。
 信号待ちをしていた交差点で、車同士の衝突事故があった。
 その衝撃で一台が歩道へと突っ込んできたのだ。
 本当に一瞬の出来事だった。柊に突き飛ばされ倒れ込んだ菜々が次に見たのは、頭から血を流す最愛の人の姿……。

 菜々の体にあった打撲や擦過傷が薄い跡だけになっていく。
 それなのに、柊だけは、ベッドに横たわり眠り続けていた。


 菜々が自身の体の異変に気づき、新しい命が宿っていると知った日──。
 柊もまた、彼女の元へと戻って来てくれた。
 それは『奇跡』だったらしい……。


 だが、現実は物語のように万事ハッピーエンドとはいかなかった。
 頭に受けた怪我の影響で、柊は左半身が動かせなくなっていたのだ。
 それでも、柊の瞳には絶望も、ほんの少しの落胆すら浮かばなかった。


「菜々、大丈夫だよ。俺さ、不思議とまた『奇跡』が起こる気がするんだ……。俺、絶対、この腕で自分の子供を抱きたい。だから、諦めないよ。」
「柊……。うんっ。私も、信じる!」


 リハビリは想像以上にキツく、柊も何度か心が折れそうになった。
 それでも、日に日に大きくなっていく菜々のお腹を見て、彼はまた前を向く。


 ──ハルのあの温もりを、また抱きしめるんだ……。菜々とハルと三人で、手を繋いで歩きたい……!


 柊はもう、一人で立ち向かおうとはしなかった。
 菜々に辛さを吐露することもあったし、情けなくイライラする姿を見せてしまったりもしながら、二人で支え合い、『奇跡』へとたどり着いたのだった。


「予定日まで、一ヶ月だな……。準備は大丈夫だよな?」
「うん。入院の荷物も用意したし。ここまで来たら、あとは産むだけだよ、うん。」
「菜々、また逞しくなったな。」
「えー?そう?」


 左腕にはまだ軽い麻痺が残っている。だが柊は今、菜々の隣を自分の足でしっかりと歩いていた。
 用意した抱っこ紐を柊に見せながら、「これでどんどん抱っこしてもらうから」と明るく笑ってくれる菜々がいる。
 また戻ってこれた本当の居場所。家族のこぢんまりとした家には、希望が満ちていた。


「左が不自由でも、右手で、手も繋げるしな。」
「そうそう。っていうか柊ってば、いつの間にそんなに子供好きになったの?」
「えっ?……さぁ……寝てる間かな?」
「何?それ?」
「ハハッ。なんだろうな?」


 三週間後──。
 秋晴れの朝。予定日より数日早く、菜々の陣痛が始まった。
 八時間の安産と言われ、菜々が「これで?」と苦笑する。
 大きな声で泣く我が子。名前はもう決まっていた。


「さぁ、お父さんも初めての抱っこしてみよう。」


 柊の事情を知る助産師が、彼を椅子に座らせ膝の上にクッションを置いてくれる。
 そうして手渡された、驚くほどに柔くて小さい確かな温もり。


「よく頑張ったな……ハル……。」


 産着からのぞく首元に、縦に並んだほくろを見つけると、柊は自分の首にかけている修復した結婚指輪にそっと触れてから、小さな小さな声で囁いた。


「……おかえり……。」





 さくら荘での不思議な日々……。
 それは色褪せることなく、柊の中に残り続けていた。

 やがて再び巡ってきた春──。
 陽の予防接種の帰り道だった。


「見て、柊。こんなところに公園あったんだね。桜に囲まれてて綺麗……。ほら、陽、見てごらん。桜だよ。ピンクで綺麗だねぇ。」
「……っ!ここ……ここだ……。」
「えっ?何?どうしたの?柊!」


 柊の足がフラフラと公園へ向かい出す。
 そこは間違いなく、あの陽だまりの約束をした場所……。


「ハルとの約束、俺、ちゃんと守れたんだな……。」


 そっと呟いた柊は、後ろにいる陽を抱いた菜々へと振り返ると、彼女の腕の中できょとんとする陽のおでこに自分のおでこをくっつけて、嬉しそうに笑った。


「パパ、ちゃんと約束守ったからな、ハル。」
「もう、何?二人だけでズルい。」
「ハハッ、悪い悪い。俺、親子三人で桜を見に来たかったんだ。それが叶ったなぁって……。」
「……柊……。本当、綺麗だね……。」
「ああ。そうだな……。菜々。」
「ん?」
「あの時、俺を待っててくれて、ありがとな。」
「………うん……。」


 堪えきれず泣き出した菜々を、柊は右腕で穏やかに抱き寄せる。
 温もりを分かち合う三人の間をサッとすり抜ける風が、約束を祝福するようにピンクの花びらを空へ舞わせた。
 その風を追うように見つめた先で、柊の瞳に写ったのは白髪の一人の男性。
 小さな通りを挟んだ公園の向かいにある寺の墓地へと向かうその人は、花束と小さなケーキの箱を持っていた。

 確信があったわけではなかった。
 それでも、柊は迷わず歩き出す。
 菜々は、顔つきを変えた柊を見て、その場から彼の背中を見つめていた。



「あの、突然スミマセン。」
「はい?私ですか?」
「はい、あの……失礼ですが、都築夏彦さんでしょうか?」


 突然見知らぬ人間から自分の名前を言われ、その人は訝しげに柊を見つめてくる。


「私は都築紅葉さんにお世話になった者です。」
「……紅葉、に?」


 柊は力強く頷くと、静かに彼女の言葉を口にした。


「紅葉さんからです。……どうか幸せに生きて……と。大切に大切に、今を積み重ねてから、会いに来て欲しいと……そう、言っていました。」
「──っ!?い、一体、君は……!?」
「あ、それから……。」


 ケーキの箱を見やってからニッコリと言った柊の次の言葉に目を見開いた夏彦は、それから全てを悟ったように笑い、そっと涙を溢す。
 向こうから陽の泣き声が聞こえ、柊は夏彦に一礼すると満たされた気持ちで踵を返した。


『たまにはチーズケーキじゃなくて、ショートケーキがいいそうですよ。』


「次はショートケーキにするよ。今日はチーズケーキで我慢してくれ、紅葉……。」



 満開の桜がそよ風に舞う──。


 この日、さくら荘での日々を手離した柊。
 それでも大切な陽だまりの約束だけは、彼の中で残り続ける……。
 柊と菜々と陽……三人で、手を繋ぎながら……。











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