【完結】藤華の君 あかねの香

水樹風

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18 冷宮

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 石段を慎重に降りていく。
 ひんやりと湿った空気。前を歩く葵が持つ小さな明かりがなければ、そこは本当の闇だった。


 僕が孝龍様から呼び出されたのは、長月に入ってすぐのこと。
 奥宮にある冷宮への入口とされている場所は偽物で、本当の入口は主上に仕えるごく一部……本当に信頼された人間にしか知らされていないそうだ。
 本来葵は後宮の諜者である撫菜の部下なので、冷宮の警備も担ってきた。


「もう少しでございます、蓉妃様。足元にお気をつけ下さい。」
「わかった。」


 幼い頃から森の悪路を歩き慣れているとはいえ、今の僕は豪華な襦裙姿だ。
 躓かないように気をつけ雀玲の手を取りながら、ゆっくりと進んで行く。
 やがて周りが見えないせいでどこまでも続くように思えた通路の先、僕たちは葵の言葉通りすぐに出口にたどり着いた。


「ん?出口?」
「はい。この先で主上がお待ちでございます。雀玲殿にもお許しが出ておりますので、どうぞ共にお進み下さい。」
「そう。わかった。」


 僕の返事で、目の前の扉が開かれる。
 そして突然射し込んだ陽光に、僕の視界は真っ白になった。


 ──え……?ここは外なの?地下に下りたはずじゃ……。


「蓉妃、大丈夫かい?」
「主上?」


 まだ眩しくて目が眩む中、大きな手が僕を導き優しく肩を抱き寄せて下さる。


「主上、ここは?」


 そしてゆっくりと視界に色が戻り始めると、僕の目には、小さな池のある品のいい庭と、こぢんまりとした館が映っていた。


「元々ここは、何代か前の帝が身分の低い愛妾を囲うために作ったらしい。まぁ、冷宮という名の隠れ家だ。」
「隠れ家……。」


 確かによくよく考えてみれば、罪人となった者を後宮で地下牢に入れておくのは不自然だ。
 その違和感に安易に気付けないほど、『冷宮』は後宮の禁忌として根付いてしまっている。
 実際、歴史書の中にはある華妃が罪を犯し、一つの部屋に幽閉されたまま生涯を終えたという記述があるため、冷宮という言葉の響きと相まって、この帝の寵愛を得るためだけの小さな世界では、やんごとなき方々の思惑通りに話が広まったのだろう。


 ──もし本当の『冷宮』に気付ける者がいたとしても、それは賢く、口をつぐむべきが正解だとわかる者……ということか……。
 

 つくづく、この宮廷という場所は一筋縄ではいかないところなのだと、僕は隠れて小さく嘆息したのだった。



 この日、孝龍様は冷宮に氷翠殿も伴っていらした。
 他に蔵人を二人連れていらして、一人は確か穂積と言ったか……。以前、夏至の宴の時に見かけた蔵人頭だったはず。
 もう一人は、僕と同じ位の年頃で、随分と愛らしい顔立ちの男子だった。


 ──孝龍様の側仕えに、こんなに見目のいい男子がいるなんて知らなかった……。なんだか、僕……。


 今、孝龍様の腕の中にいるのは間違いなく僕なのに、妙な不安感と苛立ちがあって、無性に胸の辺りが気持ち悪い。


「ん?どうしたのだ、蓉妃?そんなに難しい顔をして。美しい顔が台無しだぞ?」
「い、いえ……。なんでもありません、主上。」


 慌てて笑顔を浮かべ彼を見上げたのに、横から氷翠殿が茶々を入れてきた。


「相変わらず、主上は心の機微の解らぬ方ですね。」
「何?」
「ひ、氷翠殿……。一体何を申され……。」
「早く水蓮様を紹介して差し上げないと、最愛の君が嫉妬に駆られてしまいますよ?」


 ──へ?し、嫉妬……?


「ほう?蓉妃はまた、随分と可愛らしいことを。」


 孝龍様はそう言うと艶美な微笑みで目をすがめ、僕のこめかみに甘い吐息を近づけて来る。
 こんな大勢の前で口づけを落とされたら、心臓が悲鳴をあげると、僕は必死で平静を装い口を開いた。

 
「お、主上?やはりここに、水蓮様がいらっしゃるのですか?」
「ん?ああ、そうだ。蓉妃の目の前にいるぞ。」
「え?目の前って……?」


 そして戸惑う僕の前に進み出たのは、あの愛らしい蔵人だったのだ。


「私が『水蓮』にございます、蓉妃様。」
「………………。」


 ──……えっ?……えぇぇっ!?男……?


「黙っていてすまなかったな、朱寧。水蓮は後宮で隠れるための名前なのだ。本当の名は史龍。私の弟だ。」
「え、お、おと……。そう、だったのですね……。」


 そう言われ改めてお顔を見れば、確かに孝龍様とよく似ていらっしゃる。
 やっぱり賤だから僕と同じくらいの背格好ではあるけれど、当たり前に男物の服を着ているからなのか、凛々しくもある方だった。


「史龍様。お美しい方ですね。」


 僕がため息交じりに呟くと、氷翠殿もフッと魅惑的な笑顔を見せ軽口を叩く。


「確かに史龍様はお美しい。そこに蓉妃様までいらっしゃる。ここは天上の楽園のようですね?主上?」


 孝龍様は慣れた様子でその台詞をあしらっていたけれど、史龍様は俯き、その透き通る頬を桃色に染めていらした。


 ──はぁぁ。なんて可愛らしい。お幾つなんだっけ?


「朱寧。歳は史龍の方が二つ上だがそなたの弟でもある。仲良くしてやってくれ。」
「はい。もちろんでございます、主上。」


 ──年上だったよ……。ビックリ。





 ◇◇◇





「兄上、少しだけ、蓉妃様と二人きりでお話ししてもよろしいですか?」
「二人でか?」
「はい。」


 今日僕が呼ばれたのは、史龍様自らが僕と話したいと望んで下さったからだった。


 あれから皆で館に入り、穂積と雀玲がお茶とお菓子を用意して下がると、孝龍様は弟君が生まれてからの経緯いきさつを詳しく教えて下さったんだ。


 先々帝の御世までは、青龍一族の中でも賤は朱雀と同じく忌み子だった。
 皇族に賤が産まれると、やはり赤子のうちに殺されていたそうだ。
 先帝の改革でその悪習はなくされたけれど、古参の貴族にはまだまだ受け入れられていない。
 先の皇后様はその古参貴族の出で、賤を産んだとわかれば、皇后様の廃位を望む者が現れる可能性があった。
 そのため先帝は、状況を改善するまで産まれたのは公主と発表し、後宮に隠して妻子を守られてきたのだ。


 そして、そんなことを教えられた後のこと。
 史龍様が、僕と二人になりたいとおっしゃった。


「私は構わぬ。朱寧は良いか?」
「はい、主上。」
「ありがとうございます、蓉妃様。あの、よろしければ庭に出ませんか?」



 再びの空の下。二人だけで、ただ穏やかに水辺に佇む。
 庭の池には僕が初めて見る綺麗な色の魚が泳いでいて、水面に映り込む緑の影と、その色彩が作り出す水の模様に陽光が輝きを与えていた。


「私の身に起こったことは、お聞きになりましたか?」
「はい。」

 
 僕はあえて、史龍様の表情を見ることはしなかった。


「蓉妃様は、賤に生まれたこと、恨んでいますか?」
「……どうでしょう?……私も忌み子として、本来なら殺される運命でした。私へのものではありませんでしたが、一つの愛情が私に生きる機会をくれた。……小さな世界で、自分は幸せだと、言い聞かせて生きてきました。」
「同じ、ですね。」


 さわさわと、水面に映る緑が揺れる……。


「蓉妃様にとって、兄上は運命の番なのですか?」
「それは……。私にとって、孝龍様が特別な方であることは間違いありません。ただ、本当に運命の番なのかは、私にも計り知れません。」
「そう、ですか……。」
「史龍様?」


 あまりにも感情が読み取れない声色に、僕はやっと隣を見た。


「私を凌辱した女人も、恐らくは運命の番でした。」
「えっ?」


 ──どういうこと?


「私は初めての発情が治まったばかりで、次の発情など起こすはずがなかったのです。けれどその者に触れられた途端、体がいうことをきかなくなってしまった……。ずっと……お慕いしている方がいるのです。その方の賤になれたらと、ただ唯一、それだけを望んで水蓮として耐えてきたのに……体は、自分を犯す秀を求めて……。」
「…………。」
「賤である自分を呪いました。そんな秀の子を産んだ自分が許せなかった。でも、公主が死んだと聞かされた時、泣き叫ぶ自分がいたんです。私は、ただ逃げて、恩のある藤華妃様も……我が子までをも見殺しにしてしまった……!」


 行き場のない悔しさとやるせなさ。
 僕の手は、ひと月前まで我が子がいた場所を押さえていた。


「蓉妃様が後宮で闘いだしたことを兄上から聞いたのです。私も、隠れるのはやめにしたい!過去に怯える忌み子ではなく、皇弟として、出来ることを探したいのです。」
「史龍様……。貴方様は、私に何をお望みですか?」
「……私を襲った者は、運命の番である私を必ず手に入れると言っていました。恐らく、今も後宮に入り込んでいると思うのです。」
「なるほど。それで、何か手掛かりは?」
「左手の手首の内側に、三つ縦に並んだほくろ。」
「それを主上には?」
「いえ。情けない話ですが、ずっと口に出来なかったのです。私はただ、あの夜を思い出さないようにと……そればかりでした。」


 忌み子として生きなければならなかった僕ら。
 僕には雀玲がいて、金糸雀の森深く、守られて生きてこれた。
 でも史龍様は……。
 黒い感情が堂々と渦巻き続けるこの後宮で、見つからないよう神経をすり減らし生きてこられたのだろう。
 ご自身を守るため、諦め逃げる道を選んできたとして、一体誰が彼を責められるだろうか?



 今、後宮の中を一番自由に動けるのは僕だ。
 史龍様は僕の義弟。僕の家族。


「私がその者を見つけて、その後は?」
「罪への処罰は主上がなさること。私は……運命を切り捨て生き方を変えたい。前に進みたいのです。……勝手、でしょうか?」
「いいえ。いいえ!」


 ──それを身勝手だと言うのなら、宮廷に生きる者、皆んながそうだ。


 このとき、僕の中にある想いが湧き上がった。
 この国の賤を守りたい。陽の光の下、当たり前に生きて欲しい。


「蓉妃様?」
「史龍様。私もあなたも賤であれ、心は自由なはず。変えましょう、生き方を。まずは私達から……。」
「……はい……!」


 その時の史龍様の無垢で美しい笑顔を、僕は決して忘れないだろう。


 それからしばらく、僕たちは時間を忘れ、お互いのことを色々話していた。


「時に史龍様。一つお聞きしてもよろしいですか?」


 すっかり気の置けない仲になり、僕は我慢出来ずに彼に問いかける。


「はい、もちろん。何でしょう?」
「その……史龍様がお慕いしていると言うのは、……もしや、氷翠殿では?」
「えっ?あ………。」


 史龍様の頬は、みるみるうちに薔薇そうびの色に染まってしまった。


 ──あぁぁ、やっぱりっ。


「あの、蓉妃様。どうかあの方には……。」
「もちろん。氷翠殿にも主上にも秘密に致します。」


 どぎまぎされている史龍様を愛でていた僕は、孝龍様が館を出てこちらへと歩いて来ていたことに気付いておらず……。


「二人とも可愛らしい顔をして。すっかり打ち解けたようだな。しかし私に秘密とは聞き捨てならないぞ。」
「孝龍様っ!?え?い、いつの間に?」
「その慌てようは、一体何事だ?朱寧?」
「い、いえ、その……。」


 不意打ちで誤魔化し方が見つからず焦っていたら、僕は更に言葉を奪われてしまったんだ。
 史龍様の前だと言うのに、甘い唇で塞がれて深く求められてしまう。


「んっ、あ…ぅ……。」


 恥ずかしくてたまらず、必死に離れようとすればするほど、孝龍様は僕の舌を絡め取り、二人だけの甘さを味わっていった。


 ──あぁ、これ、ダメ……。孝龍様の香りが直接届いて……。


 やがて体中から力が抜け、カクンと崩折れそうになった僕を抱きとめ、孝龍様はやっと唇を離して蠱惑的に濡れた口元を緩める。
 

「朱寧があまりにも楽しそうに笑っていたから、私も妬けてしまったよ。」
「こ、孝龍様!?お相手は、史龍様ですよ?」
「先程のそなたの相手も史龍だっただろう?」
「そ、それは……っ!?」


 こめかみに、頬に、鼻先に……次々と降ってくる口づけの嵐……。
 僕の羞恥心は際限なく膨らみ続け、周りを見る勇気など、微塵も持てなかったのだった。











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