【完結】藤華の君 あかねの香

水樹風

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15 奥宮(Side 孝龍)

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 時は少し遡り文月半ば……。


 朱寧からもらった香り袋を懐から取り出し、やんわりとした香りを吸い込む。
 一昨日から、祭祀へ向けての禊のため後宮に渡れずにいる私を、朱寧そのもののような優しい香りが癒やしてくれた。


「明日の祭祀が終わればやっと会えるな。」


 細々とした文や奏上書に目を通しながら、そう穏やかに口にした僅か半刻後のこと──。


「主上、撫菜が急ぎご報告したいと参っております。」


 夕餉を終えしばしくつろいでいた私に、穂積が耳打ちしてきたのだ。


「撫菜が?朱寧に何かあったのか!?」
「いえ、奥宮で問題が……。」
「奥宮、だと?」


 先日の嫌な予感。あれが当たってしまったのだろうか?

 撫菜を呼び、念のため影に部屋の周りを調べさせる。


「主上、異常はありません。」


 穂積の報告を受け、私は撫菜に視線を移した。


「それで?」
「はい、命を受け奥宮の監視を強化していたのですが、昨夜、賤の内侍が何者かに襲われました。」
「襲われた、だと?」
「調べたところ、数日前にも二人、賤の下女が襲われていたのですが、その身分ゆえ隠していたようです。」


 未だ、賤の方がその誘い香で秀を誑かしたのだと責める者が多い。
 その者たちが恐怖で口をつぐむのもわかる。


「影を配しておきながらのこの不始末。誠に申し訳ございません!」
「詫び言は後で聞く。それで、犯人はわかったのか?」
「はい、犯人は奥宮で働いていた下女のようです。何者かの手引きで昨夜のうちに後宮を出たものと思われ、今行方を追っております。」
「待て、下女だと?」


 ──どういうことだ?賤を襲ったのなら犯人は秀ではないのか?



 水蓮の事件以来、後宮に秀を入れることを禁じた。
 それまでは妃嬪や内侍にもまれに秀の者がいたが、以前からいたものには暇を出し、新しく入る者には薬を飲ませ検査していたはず。


「撫菜、その下女が秀だったと言うのか?」
「はい。昨夜襲われた賤の男子は番にされており、間違いないかと。」
「何と言うことだ……。」
 

 番にされ捨てられれば、賤は朽ちるしかないと言うのに!


「そもそも、何故秀が後宮に入れたのだ!」
「恐れながら、秀が下女になるなどとは考えが及ばず、下女の入宮時には検査をしておりませんでした。」
「……っ!」


 確かに、普通ならば市井の平民に生まれた女人の秀でも、その才でいくらでも身を立てられる。
 下働きを選ぶなどとはまず考えない。


「逃した者がいるならば、わざと秀を下女にして奥宮に送り込んだ黒幕がいると言うことだな……。」


 ──だが、狙いはなんだ?危険を冒してまで後宮で内侍や下女を襲って何になる?


 私はしばしの無言の後、考えを巡らせながら撫菜に問うた。


「撫菜、襲われたのはどこの者だ?」
「はい。内侍は桜嬪おうひん様に仕える者、下女は淑嬪しゅくひん様の住まいに配された者と、縫司の者です。」


 今奥宮で暮らしている妃嬪は三名いる。
 皆、私が東宮であった頃に輿入れして、三年前の事件のあともそれぞれに事情があり残った者だ。


「穂積、冷宮に変わりはないな?」
「はい。冷宮におられる水蓮様は、つつがなくお過ごしでございます。」


 確信はない。だが何者かが水蓮を探し始めたのだとしたら?
 玄武は動きを見せない。雪華殿も静かなままだ。私達の読みが外れていたのだろうか?


 ──クソっ!真綿で首をジワジワと絞められているみたいだ!




 その夜から私はまた、悪夢を見るようになってしまった。
 父上は流行り病にかかり、あっという間に数日で崩御された。
 帝として強い意志で次々に改革をされ、奴婢や宦官を廃し、蔑まれる賤の在り方を変えようとなされていたのだ。
 そうでなければ水蓮は、生まれた日に殺されていたのだから……。


 まだまだ己の利権を求める貴族ばかりだ。
 保守派の最たる玄武一族は、ことあるごとに反発を繰り返した。


「父上……私は、父上のようになれますか……?」


 こんな悪夢にうなされるような弱い私が……。



『孝龍様の抱えているもの、僕にもわけて下さい。僕は貴方様の番です。孝龍様が辛そうになさっていると僕も苦しいから……。』


 華奢な体で、純粋で、儚げで……。私が守らなくてはと思っていたのに……。


『せめて……、せめて、ここにいるときだけでも、我慢などなさらないで下さい。痛みも辛さも抱え過ぎたら毒です!』
『……そんな情けない男で、朱寧は、幻滅しないかい?』
『孝龍様は、僕が貴方様をお慕いする気持ちがその程度だと思われるのですか?』


 私は一人で気負い、弱さすら認められなかったのだな。
 今は、朱寧が共にいてくれる……。


 朱寧に抱きしめられて目覚めた朝。
 陽華殿へと戻ると、穂積が父の顔で笑ってくれた。
 幼い東宮時代から、ずっと側にいるもう一人の父である彼が安堵と共に言う。


「憑き物が落ちましたね。」
「穂積……。心配をかけた。」
「心配など、しておりませんでしたよ。」



 事件後奥宮では、被害にあった男子が身籠っている可能性を考え、水面下で穂積と撫菜が上手く立ち回っていた。
 彼の主であった桜嬪が、子が宿っていることがわかった時には実家で母子共に保護して責任を持つと言う。
 彼女の実家はそう古くからある家柄というわけでもなく、貴族の中にあって賤に対しても考え方は柔軟だった。私の目があると初めからわかっていて、彼を無下には扱わないだろう。
 少しずつでいい。その者が落ち着きを取り戻し、心の傷が瘡蓋かさぶたになっていけばと願っていた矢先……。
 それは、葉月の初めのことだった。


「先の賤の男子ですが、一昨日突然の出血があり……流産致しました。」
「なんだと!?それで、その者は?無事か?」
「………今朝、自害しようと毒をあおったところを影が見つけ吐き出させましたが、間に合わず……。」
「……死んだのか?」
「はい……。」


 ──まただ……またっ!



「氷翠、下女の捜索はどうなっている?どうして何も掴めないのだ!!」


 どうしようもない怒りに震える私は、机を拳で叩きつける。


「お怒りをぶつけて気が済むのなら、いくらでも叱責下さい。」
「氷翠、そなたッ!」
「撫菜、主上は冷静になれないご様子だ。報告は私が聞く。」


 氷翠が冷ややかに私を睨みつけ、その場の空気は寒々と張り詰めていった。


「中将様。貴方様も、随分と熱くおなりですよ。」
「……っ……。」


 穂積の穏やかな声が私たちを解かし、行き過ぎた怒りに気付かせる。
 私は懐の香り袋をそっと握りしめ、呼吸を整えた。


「撫菜、続きを聞こう。」
「はい。今回の流産、どうやら自然なものではなく……。そのことで、後宮薬師が謁見を願い出ております。」
「蜻蛉が?今来ているのか?」
「はい。」
「穂積、すぐに通せ。」




 葉月──。
 じっとりと汗ばむ背中に、うるさいほどの蝉の声。

 そして……あか……鉄錆の匂い………。









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