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14 水蓮

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「主上っ、孝龍様!」
「………ッ、あか……ね?」
「大丈夫ですか?随分とうなされておいででした。」
「そうか。……すまない、朱寧も眠れないな。」


 日に日に暑さが厳しくなっていく。
 香り袋をお渡ししたあとも、孝龍様は時折ひどくうなされていらした。
 そして脂汗をかきながら、いつも同じ名前を口になさる。


 ──水蓮って、どなたなんだろう?お聞きするのは、やっぱりよくないのかな?


「朱寧はいつもあの香り袋を身につけているのか?そなたからは、優しい香りがするな……。」


 孝龍様がなんだか縋るように僕を抱き寄せた。


「僕にはこの『花の香』は思い出の香りなんです。」
「思い出?」
「はい。亡くなった母が、好きだった香りで……。」


 孝龍様の腕の中、僕は母さまへと思いを馳せる。


「母は僕が十歳の時に亡くなりました。でも、この香りのおかげで母の面影が薄れることはなくて……。贈り物の中に『花の香』を見つけた時は、懐かしくて嬉しかったんですよ?」


 僕が話している間も、孝龍様の手はずっと、柔らかな愛情を乗せて髪を撫でて下さっていた。


「孝龍様?」
「ん?なんだい、朱寧?」
「その……、孝龍様を苦しめている悪夢のこと、お聞きしたらいけませんか?」
「朱寧……。」
「孝龍様の抱えているもの、僕にもわけて下さい。僕は貴方様の番です。孝龍様が辛そうになさっていると、僕も苦しいから……。」


 切なげに口元を緩めた孝龍様のとける香りが、僕の額や瞼、鼻先へと注がれていく。
 最後に唇を淡く啄むと、孝龍様は「水蓮」のことを語り始めたのだった。





 ◇◇◇





 先帝の皇后であられた孝龍様の母君様は、あまり知られていない事実ではあるが、もう一人お子をなしておられた。
 それが、水蓮様だ。
 賤だった水蓮様は、難産の末生まれた公主のため体が弱く、療養が必要であると言う理由で皇族が行う祝いの儀式などを一切行わなかったため、その存在は宮廷に近しい立場の人間にしか知られなかったんだ。
 水蓮様はそのまま、皇后様の居所である澄華殿ちょうかでんの奥でひっそりと隠され育てられていたらしい。


 やがて孝龍様が十歳、水蓮様が三歳の時、皇后様が身罷られる。
 まだ幼かった水蓮様の存在を知り、当時の涼華殿・藤華妃様が引き取り育てて下さったんだそうだ。


「藤華妃様?」


 ──もしかして、あの藤の花は……。


「あの藤の庭の抜け道は、私がこっそり水蓮に会いに行けるようにと藤華妃が作らせたのだ。」
「何故、抜け道から?」
「……水蓮の存在が隠されていたこともあるが、水蓮が賤だったから、秀の私とは会うことを禁じられていたんだ。」
「そんな、まだ小さいのに。」


 僕の言葉に切なげに瞳を揺らし、孝龍様はまた話し出す。


 藤華妃様は当時十七歳ながら先帝の寵愛を受け、皇子を儲ければすぐにでも次の皇后になるだろうと言われるお方だった。
 それでも愛情深く、先の皇后の子で皇族の賤として狙われやすい水蓮様を守っていらしたそうだ。


 事件が起きたのは、先帝が病で急逝された約五年前。
 先帝の国葬や孝龍様の即位の儀と宮廷が混乱している中、十五歳で初めての発情を迎えたばかりの水蓮様が、何者かに襲われ凌辱されてしまう。
 かろうじて番にはされなかったものの、水蓮様は子を宿してしまったんだ。

 そして時を同じくして、藤華妃様も亡き先帝のお子を身籠っておられた。
 お二人の懐妊は極秘にされ、やがてそれぞれに出産の時を迎える。

 先に出産された藤華妃様の公主ひめは、産まれてから十日ほどで亡くなってしまった。
 それから程なくして、水蓮様も難産の末、公主をお産みになる。



「水蓮が産んだ子は、母の内侍頭だった者の実家に養子に出す予定だったんだ。水蓮も心身共に、とても子を育てられる状態ではなかったからな……。だが、藤華妃様がその子を引き取りたいと申し出てこられた。」


 恩のある藤華妃様の願い。
 孝龍様は公主を藤華妃様の子として託され、水蓮様はひっそりと奥宮に移られて、再びその存在を隠されることとなる。


 そして、三年前のあの事件──。
 当時まだ涼華殿に残られていた藤華妃様と幼い公主は、毒入りの水を飲み、その犠牲となって命を落とされたのだ。



「私は、何も出来なかった。結局、水蓮を犯した者も、毒を入れた真犯人もわからぬままだ……。」


 そのあまりにも苦しそうなお顔に、僕はたまらず孝龍様の頭を包み抱き寄せる。


「ずっと……お一人で苦しまれて来たのですか?たった一人で背負われて……!こんなむごい心の傷を……!」
「……朱寧、ありがとう。聞くのも辛かっただろう?」
「孝龍様……。」


 ──こんな時まで、僕を気遣って下さるの?


「せめて……、せめて、ここにいるときだけでも、我慢などなさらないで下さい。痛みも辛さも抱え過ぎたら毒です!」
「……そんな情けない男で、朱寧は、幻滅しないかい?」


 そう言って、自嘲するかのように、孝龍様は小さく笑った。


「孝龍様は、僕が貴方様をお慕いする気持ちがその程度だと思われるのですか?」
「朱寧……。そうだな、すまない。」
「孝龍様?本当はまだ何か、抱えていらっしゃるのでしょう?」
「朱寧、何故?」
「だって、話し方に迷われていたから……。」
「……そうか。……そなたには、お見通しか……。」


 孝龍様が話されないということは、今はまだ聞いてはいけないということだ。
 でも、抱えておられるのは、決して楽ではないはず……。


「今、何か僕に出来ることはありますか?」


 体を離し彼の瞳を見つめれば、そこには帝という自分を脱ぎ捨てた孝龍様がいらした。
 孝龍様の手が僅かに震えている。
 まるで僕の体温を確かめるようにその指先で頬に触れ、それから両手で大きくそこを包みこむと、孝龍様は泣きそうになりながら口を開かれた。


「無事に子を産んでくれ、朱寧。ずっと私の側で……笑って……。」
「はい、孝龍様……。絶対に離れません。僕はもう、お側を離れては生きていけないんですから……。」


 吐息を交わすように、誓うように、孝龍様に口づける。


 せめて僕の隣では安らいで欲しい。
 その夜は僕が孝龍様を抱きしめて、寝息が穏やかになるまでずっと、艶やかな御髪おぐしを撫でいつくしんでいたのだった。



 そして、発情が来ないまま迎えた葉月──。

 つわりはまだひどく、夏の暑さもあって辛かったけれど、孝龍様のお子がお腹にいる喜びは何ものにも変え難かった。



 もうすでに、敵が動いていたとは知る由もなく……。
 








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