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5 偽りの君
しおりを挟む体調が元に戻り、僕は毎朝薬湯を飲むようになった。
聞けば、発情が起きないようにする薬らしい。
まだ発情を起こしたことのない未熟な体で飲むと、子を宿せなくなるから、今まで僕には出されなかったのだそうだ。
「主上のお渡りがあるまでは、お飲み下さいますように。」
そう言っているのは典侍。後宮で尚侍に次ぐ立場の副女官長に当たる女官だ。
皇后と、後宮に渡られる主上のお世話が主な役割だけれど、皇后不在の今の後宮では、妃嬪の身の回りのこともある程度担っている。
彼女の説明によれば、主上以外の方との間違いを防ぐため、後宮にいる賤は薬で発情を抑制され、同時に男子の場合は子種も失くされる。
今の後宮に出入りを許されるのは、秀も賤以外の男子も主上だけではあるけれど、昔からのしきたりであり、万が一に備えてのことだ。
使われている薬剤が高価なものばかりで、宮廷や財のある家でしか飲まれていない貴重な薬なんだという。
僕が薬湯を飲み終わると、雀玲はその器を盆にのせて御簾の中から出た。
器が空になっているのを見届け、典侍はまた僕へと向き直る。
「時に蓉妃様。涼華殿に男子の内侍はお連れですか?」
ふいに投げ掛けられた典侍のその問いに、僕は御簾の中で思わず息を呑んだ。
「いいえ。蓉妃様にお仕えしておりますのは、ここに控える者だけにございます。」
雀玲が僕の代わりに落ち着き払って答えると、典侍は穏やかに微笑みながらもしっかりと雀玲を見据えている。
「なるほど。ではこの五名の中に『しず』という者はおられるか?」
「……っ!?」
──な…んで……?どうして典侍がその名前を知って……!?
手のひらに、じっとりと嫌な汗が滲んできて、僕は息が上手く吸えなくなってきた。
──どうしよう!左中将様が後宮に来たことがバレたの!?
僕が焦りに苦しくなっている中、察しのいい雀玲は『しず』の正体に気付いたらしい。
「典侍殿がどちらでその名を聞かれたのかは存じませんが、涼華殿に『しず』という者はおりません。」
「左様か……。不躾に、大変失礼致しました、涼華殿様。」
二人の間にピンと緊張の糸が張り詰める。
相手の思惑を読み合う中、先に空気を変えたのは雀玲の方だった。
「申し訳ございませんが、蓉妃様はお疲れのご様子。そろそろお休み頂きたいのですが……。」
「これは、重ね重ねご無礼を。明日より薬湯は薬司の者がお届けに上がります。必ず毎朝にお飲み下さいますよう。それでは、これにて失礼致します。」
典侍は礼の後、去り際に雀玲を一瞥し部屋を後にした。
雀玲がそっと御簾を上げる。
「朱寧様。先日の者に寧と名乗られたのですか?」
「う、うん……。」
雀玲はいつになく真剣な眼差しで、重々しく口を開いた。
「朱寧様、ここは後宮です。どんなことで足元をすくわれるかわかりません。典侍は名前まで調べ探りを入れてきました。」
「雀玲……僕……。」
「蓉妃様。どうか私に全てお話下さい。そしてあの者のことは、お忘れ下さいますように。」
雀玲の強い口調に、僕は何も言い返せなかった。
わかっている。僕には左中将様をお慕いすることなど許されない。
僕が間違いを犯せば、朱雀の民にまで害が及ぶのだから。
僕は結局賤として、与えられた鳥籠の中で生きるしかないんだ。
「それに蓉妃様。今の宮廷におられるのは宰相中将様です。近衛府は深緑色の袍のはず。」
「じゃ、じゃあ、あの方は偽りを?」
「おそらく。」
──そっか……。左中将様じゃ、ないんだ……。
「薄紫の袍は、どなたが着る色なの?」
「それは……。」
「雀玲?」
「……薄紫は、やんごとなき血筋の方々に許された色です。」
──それは、皇族の皆様ってことだよね?でも……。
「ですが、現在の宮廷で直系の男子は主上お一人のはず。その色を纏う方はいらっしゃらないのです。」
「………あの方に関わることが、どれ程危険なのかは……よくわかったよ……。」
僕だって身分も名前も偽った。
あの方が左中将でないなら……さしずめ僕には、藤の君様といったところかな……。
全てが偽り。物語の中の憧れの君にでも会ったと思えば、それで……。
「朱寧様。」
雀玲の親指が、僕の目元を拭っていく。
涙なんて、母さまが亡くなった時以来だ。
「僕、ずっと金糸雀の森にいたかった……。」
──こんな想い、知りたくなかった……。
「たまにはお泣き下さい。私の前で、我慢などしなくていいのですよ。」
「ごめんなさい、雀玲……ごめん……。僕が間違えば、皆んなが困るのに……!」
「朱寧様……。」
──何一つ、僕に選べることなんてなくて……。
「……っ、僕、なんで……生まれてきたんだろう……?」
「──っ!?」
雀玲の腕の中は、子供の頃からずっと、僕の唯一安らげる場所だった。
母さまはずっと床に臥していたから、抱き締めてもらった記憶はない。
僕の人生で僕を抱き締めてくれたのは、雀玲だけ……。そう、雀玲だけだったのに……。
僕はもう知ってしまった。雀玲以外の温もりを。
僕の秀の甘く溶ける香りも……。
僕を慈しんで見つめてくれた、あの優しい瞳に熱を孕む瞬間も……。
「……忘れなきゃ……。忘れて……。」
諦めるのは得意なはず。
僕の側には雀玲がいてくれる。
ご飯も毎日食べられて、温かい寝床がある。
──……十分だよ。
そうして懸命に自分へ言い聞かせてみても、涙は止まってくれなくて。
僕は雀玲の胸で嗚咽を堪えながら、いつの間にか眠ってしまっていたのだった。
雀玲の人ならざる力は、隠れているものを容易く見つけ出す。気配を感じる力が鋭いんだ。
僕が眠っている間に、雀玲は涼華殿に潜んでいた影の一人を牽制していた。
「どうぞ戻られ、典侍殿に言伝を。涼華殿に見張りは不要。残りの五人も連れて帰られよ。」
典侍が敵なのか味方なのか。
雀玲はまだ、見極めの途中にあるようだった──。
◇◇◇
それから数日──。
僕は館から出る気になれず、寝台に横になってばかりだった。
見かねた雀玲に無理やり着替えさせられ、陽の光の下に連れ出される。
内侍の格好で出歩くことは出来なくなってしまったけれど、雀玲が柔らかな襦裙と透き通る蝶の羽のような軽やかな披帛を選んでくれて、随分と動きやすかった。
「蓉妃様。そろそろ藤花の季節も終わります。見ておかれますか?」
「えっ?……いいの……?」
迷いながらも足を向けた藤の庭。
花房からハラハラと風に舞い散る花びらは、なんだか夢物語の終わりを告げているようで、儚くも、美しく世界を染めていた。
「雀玲。ちょっとだけ、ここで待ってて。」
いつも刺繍をしていた場所で雀玲にそう言うと、僕は一人、藤の君が花を見上げていた辺りへと歩きだす。
僕の姿がよく見える場所だったから、雀玲は何も言わずに僕を一人にしてくれた。
「……藤の君様……。」
そう呟き、あの方の真似をしてそっと薄紫へと手を伸ばしてみる。
そしてそのまま、僕が天を仰いだ時だった。
「……っ!?」
──間違いない!この蜜の甘い香り……。
何故だかわからないけれど、すぐ近くからあの方を感じ、心臓がビクンと跳ねる。
姿もない。幻覚かもしれない。……むしろ、それで良かった。
「左中将様……、どうかもう、こちらへの御運びはお止め下さいっ!私は主上のもの……。貴方様のためにも、どうか……!」
──せめてこの香りを、忘れずにいられますように……。
微かに「寧」と名を呼ばれた気がして、喜びにまた胸が跳ねる。
「さようなら。藤の君様……。」
切なる想いで別れの言葉を口にしたのに、またしても昂り熱くなっていく僕の体。
愛しさを押し殺そうとするたびに、相反するようにお胎の奥が疼く。
僕は息も絶え絶えに、その場にドサリと崩折れた。
「朱寧様っ!!」
──やっぱり、雀玲の腕の中、落ち着くな……。
「蓉妃様、お気を確かに!薬を飲んでいるのに、何故発情など!?」
「雀玲、お願い、早く部屋に……。」
「はい!」
発情というより、心の臓の発作のようだと薬師は言った。
薬湯もほとんど効かず、僕の体はどんどんと衰弱していく。
ただ、藤の君様だけを求め続けて……。
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