【完結】藤華の君 あかねの香

水樹風

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2 後宮の主

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 涼華殿での暮らしもひと月が過ぎようとしている。
 この後宮でも僕の扱いは相当ひどい。……らしいのだけれど、僕にはこの上なく快適な暮らしだ。


 後宮に上がってから数日──。
 皇后不在の今の後宮で、最も位の高い妃嬪である雪華殿せっかでん橘華きっか妃様にお目通りがかなってご挨拶に行った。
 僕はまだ顔を見せることが出来ないから、薄い紗が顔半分を覆うように付いている特別な髪飾りをして、口元を団扇で隠して涼華殿を出る。


 四族の中で、今最も有力なのは北の玄武一族。
 橘華妃様はその強力な後盾と、美貌を武器に、入宮からわずか数ヶ月で『華妃』に登りつめたお方だ。
 だから、すごく緊張して行ったんだけれど、何故かすごく優しかった。


「後宮がこのように寂しくなってしばらく経つ。奥宮には何人か主上のお情けを頂いた者が残っているようだが、妃の位を許されたのは私と蓉妃だけだ。何かあれば遠慮なく申されよ。」


 僕は素直に感謝して雪華殿を後にしたんだけれど、雀玲が言うには、もう僕の入宮前から僕が主上の寵愛を受けないように手回し万全の状態なんだって。


「まず第一に、四殿の一つである涼華殿に内侍が一人も配置されていない時点で異常です。」
「ああ……うん。」


 この広い涼華殿の使用人は、下女が数人いるだけで、内侍に至っては雀玲一人。
 でも雀玲は全部見越していたみたいで、慌てもせずに紙の人型に術をかけ、涼華殿の内侍を作り上げてくれていて、皆んな雀玲同様、僕が実家から連れてきたことになっている。
 まぁ、本来は、自分付きの内侍はある程度の人数を伴って入宮するものなんだけれど、あの父が手配をしてくれるはずもなく……。


「尚侍も玄武一族の出ですし、後宮の者は皆、雪華殿様の配下と思っていた方がいいでしょうね。」
「うぅ……、後宮……怖い……。」
「まぁ、でも。蓉妃様が男で賤だとわかって、雪華殿様はもう眼中にないご様子でしたし……。貴方様のお望み通り、涼華殿で静かに過ごしていれば、主上のお渡りなどなく平和に暮らせると思いますよ。」
「ホントに?よかったぁ。」


 元々主上の寵愛など全く望んでいない僕は、ホッとして胸に手を当てた。


 実際のところ、厨房に用意されている食材など、とても妃嬪のための物とは思えない粗末な品らしいけれど、僕は毎日食べ物を探しに行かなくても食事が出来るだけで十分だし……。
 生まれて初めて、甘いお菓子まで食べられた。


「そんなに喜んでいただけるのなら、私がいつでもお作りしますよ。」


 雀玲のその言葉に子供みたいにはしゃいでしまったりして。
 それに、衣装を仕立てるための生地も質素な無地の反物が届いたんだけれど、実は僕にはそれが何より嬉しかったんだ。


「うわぁ、雀玲。これで好きなだけ刺繍が出来るね。」


 金糸雀の森では、綿を育て木綿糸を紡いだり、養蚕で絹糸を得たりして、それを金糸雀の羽で染め刺繍をしていた。
 金糸雀の羽は不思議なことに様々に色を変えて糸を染めてくれ、唯一無二のものになる。
 僕が刺繍した物を雀玲が売りに行き、生活に必要な物と交換してきてくれたおかげで、母さまが死んで僅かな支援すら断たれた後も、僕はあの深い森の中、困らずに生きてこれたんだ。

 森を出る時、手元に残っていた糸は全て持って来た。
 当分の間は困らない量がある。


「蓉妃様。あまり夢中になられて夜更しなさいませんように。よろしいですか?」
「うん。約束する!」


 これが後宮の嫌がらせだとわかっていない僕に、雀玲は不安も抱いていたみたいだけれど、僕はまだこの別世界にどこか夢見心地だったんだ。

 以前の後宮ならきっと、僕などあっという間に潰されていたんだろうな……。





 ◇◇◇





 今上帝の御世になり五年──。
 当初は後宮でも多くの妃嬪が主上の寵愛を競い合い、朱雀一族からも僕の従姉妹にあたる人が輿入れの予定だったらしい。


 ところが三年前。
 西の白虎一族が他の有力者と手を組み、まだ若い帝を殺し権力を奪い返そうと謀反を企てる。
 その計画の舞台は後宮。当時の萩華殿しゅうかでん様が帝に毒を盛ろうとしたんだ。


 計画は事前に露見していて、主上はご無事だったものの、自害した萩華殿様の側近が、最後の悪あがきで後宮の厨房で水瓶に毒を仕込み、多くの妃嬪や内侍、下働きの者までが亡くなった。
 罪もない多くの者、ましてや年端も行かない子供まで巻き添えになったことで、主上のお怒りは凄まじく、謀反の関係者を徹底的に粛清して血の雨を降らせたのだ。


 その後、主上は冷酷無比となり、無理難題を言われては臣下の忠を試され、いつしか暴君と囁かれるようになってしまっている……。


 これが、僕が入宮前に雀玲から教えてもらった話。


 ──でもこれって、傷付かれたのは主上のはずだよね……。


「それにしても、橘華妃様は、色々と、お考えのようですね。」


 お目通りの後、涼華殿へと戻る途中で雀玲が呟いたこの言葉の意味を、僕は後々知ることになるんだけれど、とりあえずは……。


「例の事件以来、主上の後宮へのお渡りはないんでしょう?」
「はい。そう聞き及んでおります。」


 涼華殿に戻ると、雀玲が僕にお茶とお菓子を出してくれた。
 温かいお茶で緊張に凝り固まった身体をほぐし、隣に控える雀玲を見上げる。


「本来しきたりでは、主上は陽華殿ようかでんで休まれるものですが、今は離宮を使っておられるそうですよ。」
「ふーん。……ねぇ、じゃあ僕が内侍の格好で出歩いてもバレないよね?」


 僕がお菓子をかじりながら聞くと、雀玲は呆れ気味に嘆息した。


「はぁぁ、まだそのようなことを……。」
「だって、僕の顔はまだ誰も知らないじゃない。きっと主上にお会いすることなんて、今後もないし。だったらちょっと散歩くらい……。」


 そう。周りには美しい庭が沢山あるのに、僕は部屋に閉じこもってばかりいる。
 贅沢な生活をさせてもらってはいるけれど、やっぱりちょっと窮屈で……。
 せめて少しだけでも以前みたいに、花や緑に触れていたかったんだ。


「曲がりなりにも、貴方様は妃なのですよ。もう少し自覚を……。それに、外で発情など起こされたらどうするのです!?」
「大丈夫だよ。僕、出来損ないみたいだし。十八でまだ発情が来ないなんて、かなり遅いんでしょ?」
「それは、今まで私としか一緒にいなかったからです。ここは宮廷。秀の方は珍しくないのですよ?」
「でも……。じゃあ、涼華殿の中の庭だけ。ねっ?お願い、雀玲。」
「………まったく……。必ず、私と一緒に。それだけは譲れませんよ。」


 ──じゃ、雀玲が初めて折れた……!


「ありがとう、雀玲。大好き。」


 この動きづらい長い披帛と上衣が脱げる。
 そう思ったら一気にワクワクと胸が高鳴った。
 面倒くさい行列を作らずに、身軽に外を歩き回れるんだ!


 その日から僕は、天気のいい日は身軽な内侍の格好で庭を散策したり、木陰で刺繍をするのが日課になったんだ。

 そんなある日──。


「朱寧様。お願いでございますからお戻りを。」

 
 雀玲が尚侍に呼び出されてしまい、僕を一人に出来ないから館に戻るようにと言ってきた。


「大丈夫だよ。ここから動かないから。こんな涼華殿の奥にある庭になんて、誰も来ないよ。」
「しかし……。」
「僕、あの森で育ったんだよ?心配ないから。」
「………わかりました。絶対に、ここを離れないで下さいね。」
「うん。」


 一人になった僕は、すっかりお気に入りとなった藤色の庭で、ゆったりと針を刺していたんだ。


 そこは一面見事に薄紫の花が咲き乱れる藤棚があり、柔らかな風が花房を揺らめかせている。
 本当に誰にも気付かれないような場所なのに、誰のためでもなく美しく咲き誇るその花に、僕は何故か心がざわめき惹かれてしまう……。

 そして──。


「……あっ………。」


 風に舞う花の向こう。
 そこに立つ人は花と同じ色のほうを纏い、愛しそうに花房へと手を伸ばしていたんだ。


 何故気付かなかったんだろう?
 いつからそこにいたんだろう?


 混乱しながら思わず立ち上がったものの、僕はその場から動けず、声を発することも出来なかった。


 ──な、なんで、男がここに?


 僕は随分と長い時間、彼を見つめていた気分だったけれど、実際、その人が僕に気付くまではほんの一瞬だったのだろう……。
 


 頭の高い場所でひとつに括った長く艶やかな黒髪。
 切れ長な目の涼やかな美丈夫は、僕を見つけた刹那、僅かに困った表情かおをした後、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。



 それが、僕と『藤の君』様との出会いだった──。












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