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1 婚約破棄

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「アンネリーゼ・フォン・ヴォルバルト! 私は今この場で、そなたとの婚約を破棄する!」

 アンネリーゼは目の前で仁王立ちする二つ歳下の婚約者、このツェラー王国の王太子エルマーが告げた言葉を聞くと、密やかに彼の後方の玉座に座る女王へと視線を移した。

(あぁ……間に合わなかった……!)

 ただやるせなさを瞳の色に乗せる……それが女王として見せられる精一杯なのだと思うと、凛と佇む彼女を見るアンネリーゼは胸が締めつけられ苦しくてたまらなかった。

 エルマーは何も言わない彼女を睨むように見据えている。
 そして、女王の誕生日の夜会で婚約破棄などと言い出した王太子を出席者の有力貴族たちがどう見ているかなど気にもとめず、また声を張り上げた。

「そなたのような可愛げのない女など、私の妃に相応しくない! 私に最も相応しいのはここにいるコリンナだ。そなたは即刻この国から出ていけ!」

 エルマーの隣には、まるで娼婦の如くなまめかしいドレスを纏い、ピッタリと体を擦り寄せるオイゲン男爵令嬢の姿がある。
 彼女は随分と前から明らかに王太子狙いで、積極的に動いていた。恐らく豪商である男爵家に都合のいいように彼を使おうとでも思ったのだろう。
 はじめはアンネリーゼも女王もその程度の認識だった。だからこそ、さして問題にしていなかったのだ。
 エルマーなら上手くあしらって、すぐに退けるだろうと……。

(ダメだわ。こんな公の場で行動を起こされたら、陛下も庇いきれない……)

 婚約を破棄されこの国を出たとしても、アンネリーゼには何の問題もない。
 むしろ問題を抱えることになるのは、ツェラーとエルマーのほうなのだ。

(これ以上、彼に事を大きくさせるわけにはいかないわね)

 アンネリーゼはまたそっと玉座の女王と視線を交わし、凛と彼を見据える。

「婚約破棄と国外退去、確かに承りました」

 アンネリーゼの優美なカーテシーに、大広間には感嘆が波紋のように広がっていった。
 彼女はエルマーの横を静かに通りすぎると、女王の前に立ち、再びカーテシーをする。

「女王陛下のお祝いの宴でのご無礼、心よりお詫び申し上げます。御前を失礼致しますこと、お許し頂けますでしょうか?」
「許します。そなたは自室で休みなさい」
「はい。本日はお誕生日おめでとうございます、陛下」
「ありがとう、リーゼ」

 アンネリーゼは振り返り、広間の貴族たちに美しい微笑みを見せると毅然とその場をあとにした。
 
(元のあなたに戻してあげられなかった!ごめんなさい、エルマー)



 ◇◇◇



 アンネリーゼはツェラーの西側と国境を接する大国、ヴォルバルト王国の王女。
 国と国との政略結婚のため、一年ほど前からこの国で妃教育を受けていた。

 スラリとした長身。背中の中程まであるあでやかなストレートの黒髪と夜空のようなブルーブラックの瞳。長いまつ毛に縁取られたアーモンドアイは知的に輝き、彼女の美しさを彩っている。
 母国にいた頃から完璧な淑女としての立ち居振る舞いはもちろん、その面倒見の良さも相まって、アンネリーゼは令嬢たちの憧れの的だった。
 そしていつの間にか性別を超えて愛される存在となり、社交界では『黒薔薇の君』と呼ばれるようになる。

 ツェラーでも『黒薔薇の君』の魅力はあっという間に広がった。
 アンネリーゼは男装の麗人というわけではないのだが、令嬢方には憧れを通り越して恋心に近いものを感じられてしまうらしい。

 アンネリーゼのその魅力は決して生まれ持ったものだけではない。
 彼女は大国の王女として、幼い頃から厳しい英才教育を受けてきた。そして血の滲むような努力を重ね、礼儀作法やダンスといった淑女の嗜みだけでなく、政治経済や剣術、馬術まで自分のものにしてきたのだ。

 エルマーも子供の頃は内向的だったが剣の才能を見出されたことで自信をつけ、王子として自分を厳しく律し努力を重ねてきた人間だった。
 彼の武の才能を活かし、息子の側で共に国を動かしていける伴侶をと願い、女王はアンネリーゼを選んだのだ。

 エルマーとの婚約から一年──。
 彼を愛していたかと聞かれれば、アンネリーゼには「まだ」としか言えなかった。
 それでも、お互いを思いやり、ツェラーの未来を真剣に語り合える……寄り添える関係だったのに……。

「……エルマー……」


 波乱の夜会から一夜明け、アンネリーゼは女王の私室を訪れた。

「リーゼ、昨晩はあなたに恥をかかせてしまってごめんなさいね」
「いえ、そんな……。結局、私は何もできなくて……」
「何を言うの。私の出産のために、妃教育などという名目で一年も早くこちらに来てくれて。まさか王配であるロバートまで同じ時期に病に臥せるなどと……国外に漏れたら大変なことになるところでした」

 女王は十八歳でエルマーを産んだあと、ずっと子宝に恵まれなかったのだが、五カ月前無事にエルマーと二十歳違いの第二王子を出産した。

「ロバート殿下も、お元気になられて何よりです」

 女王は席を立ちアンネリーゼの隣りに座ると、彼女の両手をその手で包み、優しく見つめた。

「この一年の間に、あなたの素晴らしい采配のおかげで我が国は多くの利を得ることができました。本来なら王太子であるエルマーがすべきことだったのに……。隣国の王女であるあなたがこの国の民に尽くしてくれたこと、決して忘れません」
「陛下……」
「エルマーのことは……。こうなった以上、もうどうしようもないけれど……。あなたは母国に戻って、どうか幸せになって。私はもうリーゼの母のつもりよ。母の助けが必要になることがあったら、遠慮などせずに私を頼りなさいね」

 エルマーは、婚約者というよりも弟……家族だった。普段私情を見せることのできない女王の一筋の涙を見ながら、アンネリーゼはふとそう思う。
 このツェラーでは、女王も密かな代理政務を手伝ってくれた重臣たちも皆立派な人格者で、尊敬すべき人たちだった。
 
「どうかこれからも、母と呼んでちょうだい」
「はい、お母様……。どうかお元気で……」


 そして十日後──。
 アンネリーゼは国境を越え、母国ヴォルバルトへと足を踏み入れる。
 そこに王女の護衛のため、騎士団を率いて来ていたのは……。

「アンネリーゼ王女殿下、王命に従いお迎えに参上致しました」
「お役目ご苦労です、フォン・ケルナー」

 目の前に跪き騎士の礼を執る団長に、アンネリーゼは左手を差し出した。
 王族への忠誠の証に、その手の甲に形だけのキスを落とすと、彼はスッと立ち上がりアンネリーゼを引き寄せて高々と抱き上げる。

「おかえり! アン!」
「ただいま、レオン!」

 それは彼女をただ一人『アン』と呼ぶ幼馴染、レオンハルト・フォン・ケルナーとの再会だった──。

 




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