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第5話

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 公爵邸での生活は、ジュリアにとって実に快適なものだった。
 実家では眠れないことを結局打ち明けられなかった彼女だが、オルコットの屋敷では、ウィリアムだけでなくレジーとメアリ、そしてジュリア付きの侍女となったマーサが事情を知っていて気遣ってくれる。

 彼女のために用意された陽当りのいい二階の角部屋は、隣に『夫婦の寝室』があり、その隣がウィリアムの私室になっていて、三つの部屋が室内ドアで行き来出来るようになっていた。


 ──私が一人にならないと眠れないって言ったから、間に一部屋作ってくださったんだ……。


 当然のことながら、夜、ウィリアムが結婚前のジュリアの部屋に来ることはないし、使用人たちも急ぎのことがない限り、彼女が呼び鈴を鳴らすまで寝室には入らないと約束してくれている。
 ベッドの天蓋に取り付けられているカーテンも透けない生地のもので、メアリやマーサがやむを得ず寝室に入ることになったとしても、ジュリアの寝顔を見ないようにと配慮されていた。


 お飾りの妻として、ウィリアムとの時間などほとんど取れないのだろうと思っていたジュリア。
 だがひとつ屋根の下に暮らし始めてみれば、彼は領主となったばかりで多忙な中、朝夕の食事の時間は必ず一緒に過ごしてくれた。

 そして、日々の出来事を笑顔で語り合ううちに、自然と彼女のなかでウィリアムの存在がかけがえのないものになっていく……。


 実は魚が少し苦手でキュウリが食べられないこと。
 午後のお茶はいつもカモミールティーなこと。
 毎朝、剣の素振りを欠かさないこと。
 レジーにはどうやら頭が上がらないらしく、たしなめられるとたまに不服そうにしていること。
 それから……ジュリアを見つめるエバーグリーンの瞳は、彼女が恥ずかしくなるほどに優しく揺らめくこと……。


 そうやってジュリアが彼を知れば知るほど、心が温かく満たされていくのとは裏腹に、段々と寂しさともどかしさが彼女の喉を締め付けて、息苦しくて堪らなくなっていった。


 ──やっぱり、私はお飾りにしかなれないのかな?……ウィリアム様の優しさを独り占め出来たらいいのになんて……勝手なことを考えちゃう……。彼の隣で、眠る勇気もないくせに……。



 複雑な想いを抱えたまま、気づけば結婚式は、明日に迫っていた──。






 ◇◇◇





 
 ウィリアムがジュリアと出会ったのは、三年と少し前のことだった。
 警備を担う国境地帯から一時的に王都に戻る途中、多くの移民孤児を受け入れたというコーリング伯爵領に立ち寄り視察することになったのだ。

 伯爵に案内され訪れた孤児院。
 子供たちの溌剌とした声が響き渡る中、子供たちと無邪気に戯れるジュリアの姿に彼の目は奪われる。
 それまでにウィリアムが出会ったどんな女性よりも、輝く笑顔。
 彼は、ひと目で恋に落ちてしまったのだった。

 王弟として、結婚し妻を迎えれば、相手が誰であろうと現状より更に政治的なしがらみに囚われることになる。
 彼はそれを避け続け、二十五歳になっても、縛られず自由なまま軍に身を置く道を選んできていた。
 だから初めてだったのだ。そんな彼が、結婚したいと思えた相手は……。

 しかし、王都に到着してすぐのことだった。
 ジュリアに婚約を申し込むため動き出そうとした彼は、彼女とフィル伯爵令息ヴィクターとの婚約を知ることになる。


 ──あれから諦めようとするたびに、魅力的なレディに羽化していく彼女を見せつけられて……。キツかったな……。


 ウィリアムは私室の窓辺でお気に入りのシングルモルトを静かに傾けながら、十六夜いざよいの月を見上げて微笑む。
 毎年夏の社交シーズン。ウィリアムも王族の一員としていくつかの夜会への出席が義務となっていた。
 そこで見るジュリアは、婚約者の隣でどんどんと美しくなっていく。
 それだけではない。そつなく社交をこなせる聡明さも、他の令嬢をサッと気遣える優しさも、両親の前でだけ見せるどこか幼い表情も、全てが愛しく彼の瞳に映り込んできた。


 ──もうジュリアへの恋心は消せそうにない。それならせめて、これを大切に抱えたままでいたい。生涯独りでいい、このままで……。


 彼女の婚約を知ってから二年──。
 やっとそう気持ちが固まった矢先のことだった。


「まさか、彼女の婚約が破談になるとはな……。」


 その話を聞いたとき、彼は喜びに打ち震えた。
 不謹慎なのは百も承知だった。それでも、その気持ちを抑えることは出来なかった。

 ウィリアムは伯爵家の婚約破棄というスキャンダルの中、徹底的に情報収集していく。
 ヴィクターの周囲では、ジュリアが伯爵夫人となって跡継ぎを産む義務を拒否し婚約者を裏切ったと、彼に同情が集まっていた。


 ──跡継ぎを産みたくない?そんな……。彼女に一体何が……?


 ウィリアムが一番に考えたのは、彼女が何か事件に巻き込まれ、男が怖くなったのではないかということだった。
 慌てて調査したが、それらしい動きは何もない。では何故?少なくとも傍目には、ジュリアとヴィクターは仲睦まじく見えていた。
 その後もわかったのは、ヴィクターは怒りのあまり彼女とろくに話もしなかったらしい、ということだけ。


 ──私ならきちんと彼女の話を聞く。まずジュリアを心配するのが当たり前だというのに……。あんな男に渡さずに済んで本当によかった……!


 婚約破棄騒動から一年。
 コーリング伯爵が社交界の視線が別に向かうまで、わざと動かずにいることは安易に想像出来た。
 そしてヴィクターの新たな婚約を聞き、今しかないと思ったウィリアムは迷わずに動いた。


 伯爵邸で久しぶりに会ったジュリアは、変わらぬ美しさだったものの以前より痩せていて、化粧で誤魔化してはいたが、目に見えて顔色が悪い。
 「まさか自分との婚約が原因だろうか?」と不安がよぎったウィリアムだったが、エスコートをして庭園を歩いていても、恥じらっているだけで彼を怖がっている様子はなかった。


 ──ジュリアに負担をかけるつもりはないことを、きちんと伝えておくべきだろうな。


 婚約が嫌ではないと言ってくれた彼女。
 彼の肩書きを考えれば、そう言わざるを得なかっただろうが、ウィリアムはそれでも堪らなく嬉しかった。そして少しでもジュリアに安心して欲しかった。
 そう思って「公爵夫人として、最低限の役目を果たしてくれればいい」と口にしたのだが、彼女はそれを聞くと何故か固まって考え込んでしまったのだ。
 内心焦ったウィリアムは、とにかくジュリアから話を聞こうと、ありのままの自分で問いかけた。


『困っていることがあるなら、私に話してみてくれないかい?』




 カランとウイスキーグラスの中で氷が揺れた。
 彼は窓の向こうに、あの日の涙を思い浮かべる。


「寝顔を見られたくないなんて……。可愛くて仕方ないに決まってるのに……。」


 柔らかく光る月と夜空に散らばる星たちに、明日の青空を思い描き、彼はそっとグラスを置いて呟いた。



「愛してる、ジュリア。明日から君は、私の妻だ……。」










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