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第四話「戸口」
「戸口」(14)
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目的の達成には、代償がともなう。
「ばかめ! 雌伏のときは終わったわ!」
とんでもない大音声をはなって、染夜優葉は玄関から外へ飛びだした。
「もう待てん! 俺は行く! 先に征く! さらばだ、ばか姉!」
スグハが身にまとうのは、入学の決まった美須賀大付属高校の制服だ。
朝のホームルームまであと五分弱。内臓を吐き戻す覚悟で走ればなんとかなる。
「待ってぇ~! 見捨てないでぇ~!」
敷居につまづきながらリビングを飛びだしてきたのは、こちらも制服姿の女子高生だった。ずれたメガネを直す顔は、とても情けない。頭のネジが多くゆるんでいる証拠に、口には食パンをくわえたままだ。
この家には結局、まだ父と母は帰ってきていない。それでも、染夜の姉弟ふたりはそこそこうまくやっている。
「ったくもう。そんなだから、彼女のひとりもできないのよ」
ぷんすかしながら、染夜名琴は玄関のドアノブに手をかけた。
背後から聞こえたのは、かすかに鼻が鳴らされる音だ。
振り返れば、ちいさな茶色い生き物が、ちょこんと廊下に座っている。
怒ったような顔をするそれ……毛のツンツンした子イノシシが、首に通学カバンをぶら下げているではないか。
だが、だれの? もちろん、ナコトのだ。
「なにしに学校に行くつもりだったのかな、わたし。てへ☆」
気恥ずかしげにカバンを受け取ると、ナコトはいっしょに子イノシシを抱きしめた。ふと不思議そうに首をかしげる。
「あれ? なんかお酒くさい? ま、いっか。わたしに優しくしてくれるのは、イノシシちゃんだけ。ありがとね」
背中をなでられながら、ナイアルラソテフはくすぐったそうに目を細めた。
これでいい。
あの雨の夜をさかいに、ナコトは、テフの知るナコトではなくなった。
当然だ。血まで蒸発し、灰になって散りかけたナコトを、テフが命そのものと奇跡の粋を尽くして〝組み立て直した〟のだから。
その結果、テフは今後数千年から数万年は……おそらくは今の人類がいったん滅び、また新たな種族が栄えるあたりまでの期間は、自力で宇宙の闇へ帰る力を失った。まあ、赤務市を守る結界の維持に力を傾けすぎて、とうぶんこのコンパクトな子機から出ることもできそうにない。
そして、くしくも予定どおり、ナコトは異世界に関する記憶をなくしてしまった。つまり、テフと出会う寸前のナコトに戻ったのだ。
いろいろとつじつまの合わない記憶の改ざんは〝這い寄る混沌〟の腕の見せどころ。
ここまでなるのを見過ごしたテフ自身、罪悪感がないといえば嘘になる。だとしても、ナコトが非情なハンターでいる必要はもうない。
戦いは彼女自身が終わらせ、ナコトの止まった時間はようやく動きはじめたのだ。そのためにナコトは、じゅうぶんに遠回りし、悲しくなるほど多くの試練にも耐えた。
だから今後、テフはこの姉弟を静かに見守るつもりでいる。近くで、ずっと、最後まで。
「おみやげに、抹茶アメ買ってきてあげるね」
無言の子イノシシに耳打ちしてから、ナコトはそっとそれを床におろした。門扉を開けて、明るい日差しのそそぐ道路へ出る。
つぶらな瞳で出発を見送る子イノシシへ、ナコトは笑顔で手を振った。
「いってきま~す! あ、カギ、カギ……」
ポケットをまさぐるナコトの動きが、ぴたりと止まるのをテフは見た。
まさか、いまさら家の中に忘れてきたとでも?
いや、ちがう。ナコトのようすは少しおかしい。
こきざみに震えるナコトの瞳は、なぜかある一点を見据えているではないか。
すぐそこにとまった乗用車を、正確にはその車体の下に広がる影を。
ありえない。
眼だ。眼。
川に浮かぶ異物のごとく現れた〝眼〟だけが、闇の中で動いている。まばたきしている。血走っている。こっちを見ている。
それも、ひとつやふたつではない。となりの家の車庫にわだかまる暗がり、側溝のすきまから漏れる漆黒、電信柱の影、あっちにも、こっちにも……
眼、眼、眼。たくさんの眼球。
人の体から逃げだしたそれが、ひとりでに動くはずなどないのに。
いや、逃げだしたのではない。探しにきたのだ。自分だけは大丈夫と思い込んでいる魂を。悪夢をともに見る肉体を。えぐりだして、ぽっかり空洞になった眼窩を。
眼たちは突如、動いた。あるものは縦に割れ、あるものは横に裂ける。いっせいに口をあけた眼球の奥、吐きだされたのは今度は〝手〟だ。唾液にぬめり光る、小さな小さな無数の赤い手。指。爪。
ナコトは、はりさけるような悲鳴をあげ……なかった。
「テフ。ナイアルラソテフ。仕事だ」
低く凍えたナコトの呼び声に、子イノシシは思わず飛びあがった。ぼうぜんと人語で問い返す。
「ありえねえ。どういうこった? ナコト、おまえ、記憶が……まさか、そいつらの漏らす呪力に呼び覚まされたってのか?」
「いつか言ったはずだ。めざめた先も、悪夢だと」
メガネのむこう、ナコトの視線は別人のように鋭い。いや、陽炎のごとくはなたれるこの殺気こそ、通常運転と呼ぶべきか。
通学カバンをどこかへ放り投げ、まだくわえていた食パンも横に吐き捨てて、ナコトはつぶやいた。
「逃げられはしない。逃げる気もない。わたしはこの世界で踊り続ける、舞い狂う。呪われた魔笛の音色にあやつられ、心をもたない踊り手として、永遠に」
「……しゃあねえ、やるか」
言うが早いか、次の瞬間、テフは二挺の拳銃と化してナコトの両手に現れている。
闇という闇から飛来する異形の影めがけて、ナコトはすばやく構えた。
片手の拳銃は大きくうしろへ引きしぼり、もう一挺はまっすぐ前へ。
ナコトはささやいた。
「仕留めるぞ」
染夜名琴は帰ってくる……
【スウィートカース・シリーズ続編はこちら】
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/174069043
「ばかめ! 雌伏のときは終わったわ!」
とんでもない大音声をはなって、染夜優葉は玄関から外へ飛びだした。
「もう待てん! 俺は行く! 先に征く! さらばだ、ばか姉!」
スグハが身にまとうのは、入学の決まった美須賀大付属高校の制服だ。
朝のホームルームまであと五分弱。内臓を吐き戻す覚悟で走ればなんとかなる。
「待ってぇ~! 見捨てないでぇ~!」
敷居につまづきながらリビングを飛びだしてきたのは、こちらも制服姿の女子高生だった。ずれたメガネを直す顔は、とても情けない。頭のネジが多くゆるんでいる証拠に、口には食パンをくわえたままだ。
この家には結局、まだ父と母は帰ってきていない。それでも、染夜の姉弟ふたりはそこそこうまくやっている。
「ったくもう。そんなだから、彼女のひとりもできないのよ」
ぷんすかしながら、染夜名琴は玄関のドアノブに手をかけた。
背後から聞こえたのは、かすかに鼻が鳴らされる音だ。
振り返れば、ちいさな茶色い生き物が、ちょこんと廊下に座っている。
怒ったような顔をするそれ……毛のツンツンした子イノシシが、首に通学カバンをぶら下げているではないか。
だが、だれの? もちろん、ナコトのだ。
「なにしに学校に行くつもりだったのかな、わたし。てへ☆」
気恥ずかしげにカバンを受け取ると、ナコトはいっしょに子イノシシを抱きしめた。ふと不思議そうに首をかしげる。
「あれ? なんかお酒くさい? ま、いっか。わたしに優しくしてくれるのは、イノシシちゃんだけ。ありがとね」
背中をなでられながら、ナイアルラソテフはくすぐったそうに目を細めた。
これでいい。
あの雨の夜をさかいに、ナコトは、テフの知るナコトではなくなった。
当然だ。血まで蒸発し、灰になって散りかけたナコトを、テフが命そのものと奇跡の粋を尽くして〝組み立て直した〟のだから。
その結果、テフは今後数千年から数万年は……おそらくは今の人類がいったん滅び、また新たな種族が栄えるあたりまでの期間は、自力で宇宙の闇へ帰る力を失った。まあ、赤務市を守る結界の維持に力を傾けすぎて、とうぶんこのコンパクトな子機から出ることもできそうにない。
そして、くしくも予定どおり、ナコトは異世界に関する記憶をなくしてしまった。つまり、テフと出会う寸前のナコトに戻ったのだ。
いろいろとつじつまの合わない記憶の改ざんは〝這い寄る混沌〟の腕の見せどころ。
ここまでなるのを見過ごしたテフ自身、罪悪感がないといえば嘘になる。だとしても、ナコトが非情なハンターでいる必要はもうない。
戦いは彼女自身が終わらせ、ナコトの止まった時間はようやく動きはじめたのだ。そのためにナコトは、じゅうぶんに遠回りし、悲しくなるほど多くの試練にも耐えた。
だから今後、テフはこの姉弟を静かに見守るつもりでいる。近くで、ずっと、最後まで。
「おみやげに、抹茶アメ買ってきてあげるね」
無言の子イノシシに耳打ちしてから、ナコトはそっとそれを床におろした。門扉を開けて、明るい日差しのそそぐ道路へ出る。
つぶらな瞳で出発を見送る子イノシシへ、ナコトは笑顔で手を振った。
「いってきま~す! あ、カギ、カギ……」
ポケットをまさぐるナコトの動きが、ぴたりと止まるのをテフは見た。
まさか、いまさら家の中に忘れてきたとでも?
いや、ちがう。ナコトのようすは少しおかしい。
こきざみに震えるナコトの瞳は、なぜかある一点を見据えているではないか。
すぐそこにとまった乗用車を、正確にはその車体の下に広がる影を。
ありえない。
眼だ。眼。
川に浮かぶ異物のごとく現れた〝眼〟だけが、闇の中で動いている。まばたきしている。血走っている。こっちを見ている。
それも、ひとつやふたつではない。となりの家の車庫にわだかまる暗がり、側溝のすきまから漏れる漆黒、電信柱の影、あっちにも、こっちにも……
眼、眼、眼。たくさんの眼球。
人の体から逃げだしたそれが、ひとりでに動くはずなどないのに。
いや、逃げだしたのではない。探しにきたのだ。自分だけは大丈夫と思い込んでいる魂を。悪夢をともに見る肉体を。えぐりだして、ぽっかり空洞になった眼窩を。
眼たちは突如、動いた。あるものは縦に割れ、あるものは横に裂ける。いっせいに口をあけた眼球の奥、吐きだされたのは今度は〝手〟だ。唾液にぬめり光る、小さな小さな無数の赤い手。指。爪。
ナコトは、はりさけるような悲鳴をあげ……なかった。
「テフ。ナイアルラソテフ。仕事だ」
低く凍えたナコトの呼び声に、子イノシシは思わず飛びあがった。ぼうぜんと人語で問い返す。
「ありえねえ。どういうこった? ナコト、おまえ、記憶が……まさか、そいつらの漏らす呪力に呼び覚まされたってのか?」
「いつか言ったはずだ。めざめた先も、悪夢だと」
メガネのむこう、ナコトの視線は別人のように鋭い。いや、陽炎のごとくはなたれるこの殺気こそ、通常運転と呼ぶべきか。
通学カバンをどこかへ放り投げ、まだくわえていた食パンも横に吐き捨てて、ナコトはつぶやいた。
「逃げられはしない。逃げる気もない。わたしはこの世界で踊り続ける、舞い狂う。呪われた魔笛の音色にあやつられ、心をもたない踊り手として、永遠に」
「……しゃあねえ、やるか」
言うが早いか、次の瞬間、テフは二挺の拳銃と化してナコトの両手に現れている。
闇という闇から飛来する異形の影めがけて、ナコトはすばやく構えた。
片手の拳銃は大きくうしろへ引きしぼり、もう一挺はまっすぐ前へ。
ナコトはささやいた。
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