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第四話「戸口」

「戸口」(9)

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 こんな雨雲がゴロゴロいう夜、外を人が歩いているはずはない。

 そう、人であれば。

 公園に入ったあたりで、子イノシシは力尽きたようにルリエから落ちた。

 なにがあったのだろう。砂場に横たわったまま、それは弱々しい息に胸を上下させている。

 ひょいと子イノシシをつまみあげると、ルリエはいぶかしげに問うた。

「ナイアルラソテフ……ぼたん鍋にしてあげましょうか? それとも、書道の筆? またずいぶんと呪力がすり減ってるわね。なかよしの飼い主はどこ?」

「喰われたよ……ハスターに」

 その名を聞いたとたん、ルリエの顔はこわばった。

「よりにもよって、宇宙の狂気の集積地みたいなあいつに……なるほどね。赤務市をカバーするあんたの結界が、こんなに薄くなってるのもそのせいでしょ?」

「ごらんのとおりさ。この子機にうつした俺の意識と、ナコトの中にある本体とのつながりも切れかかってる……しくじったぜ、俺としたことが」

 苦しそうに、テフは続けた。

「ナコトと俺を消し、ハスターは結界を破るつもりだ。やつの〝冥河の戸口ゲート・オブ・ステュクス〟に取り込まれたナコトは、じきに跡形もなく消化される。いまのところは俺が邪魔して、なんとか最悪の事態は先延ばしにしてるが……はは。なさけないが、それももう長くはもたねえ」

「それで、さいごの力をふりしぼって、あたしの前に現れたというわけね、あんた」

 だらんとぶら下がる指先のテフへ、ルリエは鼻を鳴らしてみせた。

「ごくろうさま。わるいけど、いい気味だわ」

「あと何時間かすりゃ、結界のなくなったこの街には、血にうえた幽鬼妖魔と、狂った呪力の波が押し寄せる。ここの綺麗な呪力が、どこの馬の骨かわからねえ連中にメチャクチャにされるんだぜ。そういうのがいちばん気に入らねえのはおまえだろ、クトゥルフ?」

「べつに? あたしにどうしろと?」

「力を貸してくれ……ナコトを取り戻す」

「おことわりよ」

 ルリエはあざ笑った。

「あんたたちがあたしの敵だってこと、もうお忘れ? だいたい、ナイアルラソテフのヤラしい結界が消え、深海の力を自由に振るえるなんて、あたしにすれば願ったり叶ったりだわ。あとは、ちっぽけな雑魚といっしょにハスターも蹴散らして、あらためてこの街を支配下におさめるだけ」

 テフを近くのベンチへ置き、ルリエは身をひるがえした。

「ありがとう、ナイアルラソテフ。とってもいいお知らせだったわ。あはははは!」

「強がりはよしな……知ってるぜ。おまえがまだ、凛々橋恵渡を探してること」

 ルリエの笑いはやんだ。背中越しに、ベンチのテフへささやく。

「凛々橋くんがどうなったか知ってるの? 内容によっては、ただじゃすまさない……答えなさい!」

 血を吐くように、テフはことの顛末をうちあけた。

「じぶんの命もかえりみず、ナコトは戦った。ハスターの手下から、必死に凛々橋を助けようとしたんだが……」

「そんな……」

 大きく目を見開いたまま、ルリエは立ち尽くした。

 ぬけがら同然の彼女へ、ふたたび訴えたのはテフだ。

「ハスターを止められるのは、おまえだけだ。たのむ、久灯瑠璃絵……クトゥルフ」

「たかが人間に……人間ひとりに、二度と会えなくなっただけじゃない」

 まるで自分に言い聞かせるように、ルリエは繰り返した。

「あたしは邪神。あたしは海底の暗黒。あたしは、そう、悪夢のクトゥルフ……」

 降りはじめた糸のような雨に、ルリエはかすんでいった。
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