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第一話「魚影」
「魚影」(11)
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授業の終わった美須賀大付属には、今日も平凡な放課後がおとずれていた。
ひとけのない図書室にかすかに響くのは、音楽部のつたない演奏だ。席についたエドの瞳はまた、携帯電話のテレビに落ちている。
夕方のニュースの内容は、頻発していた失踪事件の被害者が、ついに発見されたというものだった。全員が無事に保護され、傷らしい傷もないとのことだ。
警察の見解によると、被害者たちはなにやら、あやしい宗教団体のたぐいに監禁されていた線で決着がつきかけているらしい。
被害者たちの〝消えていた間〟の記憶はそろって曖昧で、事件そのものも、じきに風化して忘れ去られると思われた。
「ありがとう、久灯さん」
そうつぶやいて、エドはテレビを消した。対面の席で、悲しげにうつむいた少女がいる。
久灯瑠璃絵だ。
「あたしを許してはいけない。許されるはずがない。凛々橋くんまでだまして、人間いがいのものに変えようとしたのよ? そんなあたしを……」
「ルルイエだっけ、久灯さんの地元。このあたりじゃないみたいだけど、どこの県? きみがそこまで言うんだから、さぞ景色のいいところなんだね。こんど連れてってよ」
「凛々橋くん」
「なんだい?」
「いままであたし、この世を支配することで頭がいっぱいだった。見ているうちに、おだやかな闇を生む森は消え、呪力をはこぶ自然の風はよどんで、ふるさとの海はどんどん汚されていくんですもの。悲しかった。憎かった。許せなかった。この星を管理する責任がめぐってきたのに、それを無視する人間たちが。でも……」
はにかみながら、ルリエは続けた。
「凛々橋くん。あなたのような心優しい魂が、ときどき人間に宿ることを忘れてたわ。だからあたし、もうすこし人間の世界を見極め、見守ろうと思います。歴史という名の並び列の中で、決められた支配者の順番が来るまで」
「もう、ひとりで悩まなくていいんだよ。ぼくがついてる」
エドとルリエはじっと見つめ合った。
タイミングのいいことに、図書室には現在この男女しかいない。
湖でしたように、ルリエはまた、エドの唇に自分のそれを寄せた……
「!」
ルリエははっと目を開けた。その額にあてられたエドの指が、ルリエの動きを止めてしまっているではないか。
目を白黒させるルリエに、エドはにっこり微笑んだ。
「前は不意討ちだったね」
「あの……」
「じつはぼく、つきあってる彼女がいるんだ。だから、ダ・メ」
真っ白になって、ルリエはそのまま石になってしまった。
「じゃ、また明日!」
さわやかに手を上げると、エドは図書室をあとにした。
案の定、廊下の壁にもたれかかっていたのはメガネの彼女だ。彼女といっても、こちらはそういう関係ではない。
染夜名琴。
目をつむったまま、ナコトはぶぜんと腕組みしている。腕組み? その片腕にはギブスが巻かれ、頭の包帯と、頬の絆創膏もいたいたしい。
名目上は、交通事故に遭ったということになっているそうだ。
ためらいがちに、エドはたずねた。
「きみはその、治るのが遅いのかい? 染夜さん?」
「〝遅い〟? 〝普通〟と言ってもらいたい。わたしの場合、少々特殊でな。〝星々のもの〟と呼ばれる異世界の存在が、なかば無理矢理、不完全な形でこの体に取り憑いているのだ。正式な憑依の儀式を踏んだ人間は〝魔法少女〟とかいうふざけた概念と化し、おそるべき呪力と再生力をあわせもつらしい。それでも、わたしのこのダメージとて、おまえのようなモヤシなら千回は死んでいる。血と悲鳴、命乞いと内臓をいっぺんに吐きながら」
「こわいこと言わないでよ……」
ふたりは並んで廊下を歩きはじめた。
トーンを落として囁いたのはナコトだ。
「言ったはずだ。クトゥルフにはもう、二度と近づくなと」
「わかってるよ。だから今、お断りしてきた。きっちりきっぱり」
「それで引き下がるクトゥルフかな……いずれにせよ、いざ事が起これば、やつを仕留める準備は十分にできている」
ぶつぶつ呟くナコトの声を、エドはできるだけ聞かないようにした。つかれた顔で質問する。
「言ってはなんだけど、大勢いるの? その、きみたちのような存在」
「ああ。おとなしく人間の世界に身をひそめている存在が、約九割」
「九割? じゃあ残りの一割は?」
「人間の体や、魂をほしがってる連中だ。やつらに不足しているのは、いつも〝悪夢〟。人間の視覚では見えない者も多い。おまえもせいぜい、気をつけることだな」
さすがのエドにも、とうとう我慢の限界がきたらしい。ふと思い出したように手を打つと、可能なかぎり明るい話題へ方向をそらす。
「そういえば湖で、きみといっしょに小さな生き物がいたね。帰るとき、そのカバンの中に入ってったみたいだけど……ほら、あの子ブタだよ」
「ああ、こいつな。紹介しよう。ナイアルラソテフ、略してテフだ」
通学カバンのジッパーを、ナコトはおもむろにずらした。
ひょこりと顔をのぞかせたのは、イノシシのこどもだ。あいかわらず、ころころして愛らしい。寝起きらしく、つぶらな目は座っている。
テフはしばらく小さな鼻を嗅ぎ鳴らしていたが、突如、かっと目を剥いた。
「ブタって言ったか!? クソガキ!?」
「しゃ、喋ッ……!?」
テフの突進をもろに顔へ食らい、エドは気をうしなった。
ひとけのない図書室にかすかに響くのは、音楽部のつたない演奏だ。席についたエドの瞳はまた、携帯電話のテレビに落ちている。
夕方のニュースの内容は、頻発していた失踪事件の被害者が、ついに発見されたというものだった。全員が無事に保護され、傷らしい傷もないとのことだ。
警察の見解によると、被害者たちはなにやら、あやしい宗教団体のたぐいに監禁されていた線で決着がつきかけているらしい。
被害者たちの〝消えていた間〟の記憶はそろって曖昧で、事件そのものも、じきに風化して忘れ去られると思われた。
「ありがとう、久灯さん」
そうつぶやいて、エドはテレビを消した。対面の席で、悲しげにうつむいた少女がいる。
久灯瑠璃絵だ。
「あたしを許してはいけない。許されるはずがない。凛々橋くんまでだまして、人間いがいのものに変えようとしたのよ? そんなあたしを……」
「ルルイエだっけ、久灯さんの地元。このあたりじゃないみたいだけど、どこの県? きみがそこまで言うんだから、さぞ景色のいいところなんだね。こんど連れてってよ」
「凛々橋くん」
「なんだい?」
「いままであたし、この世を支配することで頭がいっぱいだった。見ているうちに、おだやかな闇を生む森は消え、呪力をはこぶ自然の風はよどんで、ふるさとの海はどんどん汚されていくんですもの。悲しかった。憎かった。許せなかった。この星を管理する責任がめぐってきたのに、それを無視する人間たちが。でも……」
はにかみながら、ルリエは続けた。
「凛々橋くん。あなたのような心優しい魂が、ときどき人間に宿ることを忘れてたわ。だからあたし、もうすこし人間の世界を見極め、見守ろうと思います。歴史という名の並び列の中で、決められた支配者の順番が来るまで」
「もう、ひとりで悩まなくていいんだよ。ぼくがついてる」
エドとルリエはじっと見つめ合った。
タイミングのいいことに、図書室には現在この男女しかいない。
湖でしたように、ルリエはまた、エドの唇に自分のそれを寄せた……
「!」
ルリエははっと目を開けた。その額にあてられたエドの指が、ルリエの動きを止めてしまっているではないか。
目を白黒させるルリエに、エドはにっこり微笑んだ。
「前は不意討ちだったね」
「あの……」
「じつはぼく、つきあってる彼女がいるんだ。だから、ダ・メ」
真っ白になって、ルリエはそのまま石になってしまった。
「じゃ、また明日!」
さわやかに手を上げると、エドは図書室をあとにした。
案の定、廊下の壁にもたれかかっていたのはメガネの彼女だ。彼女といっても、こちらはそういう関係ではない。
染夜名琴。
目をつむったまま、ナコトはぶぜんと腕組みしている。腕組み? その片腕にはギブスが巻かれ、頭の包帯と、頬の絆創膏もいたいたしい。
名目上は、交通事故に遭ったということになっているそうだ。
ためらいがちに、エドはたずねた。
「きみはその、治るのが遅いのかい? 染夜さん?」
「〝遅い〟? 〝普通〟と言ってもらいたい。わたしの場合、少々特殊でな。〝星々のもの〟と呼ばれる異世界の存在が、なかば無理矢理、不完全な形でこの体に取り憑いているのだ。正式な憑依の儀式を踏んだ人間は〝魔法少女〟とかいうふざけた概念と化し、おそるべき呪力と再生力をあわせもつらしい。それでも、わたしのこのダメージとて、おまえのようなモヤシなら千回は死んでいる。血と悲鳴、命乞いと内臓をいっぺんに吐きながら」
「こわいこと言わないでよ……」
ふたりは並んで廊下を歩きはじめた。
トーンを落として囁いたのはナコトだ。
「言ったはずだ。クトゥルフにはもう、二度と近づくなと」
「わかってるよ。だから今、お断りしてきた。きっちりきっぱり」
「それで引き下がるクトゥルフかな……いずれにせよ、いざ事が起これば、やつを仕留める準備は十分にできている」
ぶつぶつ呟くナコトの声を、エドはできるだけ聞かないようにした。つかれた顔で質問する。
「言ってはなんだけど、大勢いるの? その、きみたちのような存在」
「ああ。おとなしく人間の世界に身をひそめている存在が、約九割」
「九割? じゃあ残りの一割は?」
「人間の体や、魂をほしがってる連中だ。やつらに不足しているのは、いつも〝悪夢〟。人間の視覚では見えない者も多い。おまえもせいぜい、気をつけることだな」
さすがのエドにも、とうとう我慢の限界がきたらしい。ふと思い出したように手を打つと、可能なかぎり明るい話題へ方向をそらす。
「そういえば湖で、きみといっしょに小さな生き物がいたね。帰るとき、そのカバンの中に入ってったみたいだけど……ほら、あの子ブタだよ」
「ああ、こいつな。紹介しよう。ナイアルラソテフ、略してテフだ」
通学カバンのジッパーを、ナコトはおもむろにずらした。
ひょこりと顔をのぞかせたのは、イノシシのこどもだ。あいかわらず、ころころして愛らしい。寝起きらしく、つぶらな目は座っている。
テフはしばらく小さな鼻を嗅ぎ鳴らしていたが、突如、かっと目を剥いた。
「ブタって言ったか!? クソガキ!?」
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