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第一話「魚影」
「魚影」(1)
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雲が月を隠したせいで、夜の美須賀湖は広い石油の海にしか見えなかった。
吹く風はやけにぬるく、なまぐさい。その悪臭は、まるで魚市場のそれだ。
湖の水面は、ときおり黒く泡立った。
水を押しのけて現れ、また水中へ没するあのぬらぬらした背中はなんだろう。ナマズ? コイ? ブラックバス?
いや、一瞬見えた魚影はそのどれよりも大きく、得体のしれない雰囲気をはなっていた。
特大のカエルが立てるようなカラコロという鳴き声で、あたりはうるさい。
湖のほとりに、人影があった。ふたつ。
「はっきり言います。あの日からあたし、その、好きになってしまったの。凛々橋くんのこと」
そう告白したのは、美須賀大学付属高校の制服を着た久灯瑠璃絵だった。
あの成績優秀、才色兼備のアイドルに、はじらうような動きがある。
そんなラッキーが舞い降りたにもかかわらず、前の少年の態度はなんだ。
少年の名前は凛々橋恵渡。ルリエの同級生である。そのうつろな瞳は、ルリエを見ているようで、その実、なにも見ていない。あまりの出来事に、夢見心地なのだろうか。
いや、そんなレベルではない。いまのエドは、魂のない抜け殻そのものに見えた。
「あたしの取り留めもない話にも、凛々橋くんはちゃんと耳をかたむけてくれた。強いだの頑丈だの言われてばかりのこんなあたしを、親身になって心配してくれた。いままで生きてきた中で、あなたみたいな男性ははじめて……真剣よ、あたしは」
ルリエのささやきを合図にしてか、湖のたてる音は急に激しくなった。
姿の見えない生物が生む水しぶきは、しだいに波を起こし、湖のほとりまで打ち寄せて、ルリエの学生靴のかかとを濡らしている。
水面のたえまない動きはといえば、まるで引き揚げられた漁網の中身そっくりだ。
もちろん湖には、船どころか泳ぐ人影ひとつない。
いや、あった。
とつぜん強さを増した生臭い風が、雲を裂いたときだ。顔をのぞかせた月の光が、つかのま照らし上げた湖に、そいつらはいた。
ルリエとエドは、ずっとそいつらに見られていたらしい。
もりあがった光のない瞳はおもいきり左右にはなれ、うぶ毛ひとつない頭はおどろくほど横幅がせまい……魚?
魚にしては大きすぎる。だいいち魚は、あんなふうに水面に顔だけをのぞかせ、またあんなふうに長々と一ヶ所にとどまって、新たなカップルの誕生をいやらしく監視したりはしない。
夜の闇と月明かり、そして水のゆらめきが生み出した偶然の幻だった。そう、幻に決まっている。水面をときおり叩く手に、あんな薄い水かきがついていて良いはずがない。
そんな半分魚、半分人間じみた影が、十、二十、もっと……奇妙にもその数は、ここ赤務市で昨今、頻発する失踪事件に巻き込まれたとおぼしき人間の数と一致していた。
「怖い? ええ、だれでもそうなって当たり前。だいじょうぶ、あたしが付いててあげるから……だから、凛々橋くん」
「…………」
あいかわらずうわの空のエドへ、ルリエはそっと手をさしだした。形のととのった細い指先は、陶磁器のように……水死体のように白く美しい。
「いっしょにいようね、ずっと」
けろけろ、ぺたぺた鳴く両生類の囁きは、いつしか叫び、吠えたける声に変わっていた。
吹く風はやけにぬるく、なまぐさい。その悪臭は、まるで魚市場のそれだ。
湖の水面は、ときおり黒く泡立った。
水を押しのけて現れ、また水中へ没するあのぬらぬらした背中はなんだろう。ナマズ? コイ? ブラックバス?
いや、一瞬見えた魚影はそのどれよりも大きく、得体のしれない雰囲気をはなっていた。
特大のカエルが立てるようなカラコロという鳴き声で、あたりはうるさい。
湖のほとりに、人影があった。ふたつ。
「はっきり言います。あの日からあたし、その、好きになってしまったの。凛々橋くんのこと」
そう告白したのは、美須賀大学付属高校の制服を着た久灯瑠璃絵だった。
あの成績優秀、才色兼備のアイドルに、はじらうような動きがある。
そんなラッキーが舞い降りたにもかかわらず、前の少年の態度はなんだ。
少年の名前は凛々橋恵渡。ルリエの同級生である。そのうつろな瞳は、ルリエを見ているようで、その実、なにも見ていない。あまりの出来事に、夢見心地なのだろうか。
いや、そんなレベルではない。いまのエドは、魂のない抜け殻そのものに見えた。
「あたしの取り留めもない話にも、凛々橋くんはちゃんと耳をかたむけてくれた。強いだの頑丈だの言われてばかりのこんなあたしを、親身になって心配してくれた。いままで生きてきた中で、あなたみたいな男性ははじめて……真剣よ、あたしは」
ルリエのささやきを合図にしてか、湖のたてる音は急に激しくなった。
姿の見えない生物が生む水しぶきは、しだいに波を起こし、湖のほとりまで打ち寄せて、ルリエの学生靴のかかとを濡らしている。
水面のたえまない動きはといえば、まるで引き揚げられた漁網の中身そっくりだ。
もちろん湖には、船どころか泳ぐ人影ひとつない。
いや、あった。
とつぜん強さを増した生臭い風が、雲を裂いたときだ。顔をのぞかせた月の光が、つかのま照らし上げた湖に、そいつらはいた。
ルリエとエドは、ずっとそいつらに見られていたらしい。
もりあがった光のない瞳はおもいきり左右にはなれ、うぶ毛ひとつない頭はおどろくほど横幅がせまい……魚?
魚にしては大きすぎる。だいいち魚は、あんなふうに水面に顔だけをのぞかせ、またあんなふうに長々と一ヶ所にとどまって、新たなカップルの誕生をいやらしく監視したりはしない。
夜の闇と月明かり、そして水のゆらめきが生み出した偶然の幻だった。そう、幻に決まっている。水面をときおり叩く手に、あんな薄い水かきがついていて良いはずがない。
そんな半分魚、半分人間じみた影が、十、二十、もっと……奇妙にもその数は、ここ赤務市で昨今、頻発する失踪事件に巻き込まれたとおぼしき人間の数と一致していた。
「怖い? ええ、だれでもそうなって当たり前。だいじょうぶ、あたしが付いててあげるから……だから、凛々橋くん」
「…………」
あいかわらずうわの空のエドへ、ルリエはそっと手をさしだした。形のととのった細い指先は、陶磁器のように……水死体のように白く美しい。
「いっしょにいようね、ずっと」
けろけろ、ぺたぺた鳴く両生類の囁きは、いつしか叫び、吠えたける声に変わっていた。
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