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第四話「棺桶」

「棺桶」(2)

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 命重装キスラニ……ピーター・マーティンの場合は。

 運動神経は抜群で頭脳も明晰な彼は、ひたむきに寡黙で真面目だった。容姿の端麗さとあいまって、その愚直さはまた多くの異性にもてはやされる。

 だれかの役に立ちたい。経済や政治のことをより熟知して、草葉の陰から世間の支えとなる。貧富の格差にメスを入れ、人々を不幸から救いたい。それを念頭に勉学に励んだピーターが、有名な学院を主席クラスで卒業するのは当然だった。

 学生生活を有終の美で飾るなり、ピーターは大手の銀行に社員として引き抜かれることになる。法律に精通したピーターには、聖なる法務部の席が与えられた。ここまでが、ピーターという勇者の道のりである。

 そう、ここまでだ。じきにピーターは、社会の現実と裏の顔を目の当たりにした。

 出る杭は打たれる。

 銀行の過去の取引を綿密に精査していたとき、ピーターはそれを見つけた。とある土地を銀行が強引に、それも法外な手口で買収した履歴がある。明らかに不正だ。

 先祖代々受け継がれてきたその場所を、もとの所有者はそれは大切に守っていた。そのため所有者は、かたくなに土地の売り渡しを拒んだと記録されている。だが結果的に、所有者は謎の〝事故死〟を遂げることになった。どう考えてもこれは、銀行ないし当行を仲介に挟んだ大きな組織の差し金としか思えない。銀行の仲介を経て、土地は無事に政府直下の奇妙な組織の持ち物になった。

 日本の赤務あかむ市に位置するその土地の名称は〝美樽びたる山〟という。

 最重要機密トップシークレットとして入念に隠された雇い主の名前は……

 特集情報捜査執行局とくしゅじょうほうそうさしっこうきょく〝ファイア〟

 ピーターが調べれば調べるほど、組織ファイアが暗躍したであろう悪事は湯水のごとく出るわ出るわ。犯罪そのものの手法で奪われた美樽びたる山の内外では、いまもまだ謎めいた魔的な開発が続いているではないか。

 じぶんの働く銀行が悪事の片棒を担いだ。それはピーターの正義の心という燃料に、火を注いで灼熱させるのに十分な役割を果たす。

 おびただしい証拠の資料の数々を、ピーターはたちまち法務部の部長のデスクへ叩きつけた。この事実は世論の明るみへさらし、後ろ暗い政府の闇と戦わねばならない。

 だが組織ファイアの名を聞いた法務部責任者の反応は、ピーターの想像からかけ離れていた。あからさまに血色を悪くした顔を静かに振り、壮年の上司はピーターをこう宥めたのだ。

「それ以上の深入りはやめておけ。ピーター、きみ自身のためにも」

「どういうことですか!?」

「マウンテン・美樽ビタルの旧所有者は、悪の黒魔術師の血統だったのだ」

「ブ、黒魔術ブラックマジック?」

「あの貴重な地域に関係したものは、それだけでナイアルラソテフの結界に抗う呪力を得る。とうてい理解できないだろうし、許せない気持ちも十分に察するよ。しかしきみには厳命する、本件の調査の打ち切りを」

「!?」

「すべて忘れて、いつもの通常業務に戻るんだ。いまならまだ私の範疇で、きみという優秀な社員を浄火ファイアから守ることができる。簡単だろう。わかったね?」

 部長の発した単語を、ピーターはほとんど理解できなかった。わかったのは、血の昇ったじぶんの脳裏で決定的ななにかが切れたことだけだ。組織ファイアとやらを極度に恐れる隠蔽体質の銀行は、残念ながらピーターや市民の味方ではなかったらしい。

 定時きっかりに退社したピーターは、そのまま名うての報道局へ車を走らせた。

 信号待ちの交差点で急に、ピーターを包囲したのは無数の特殊車両だ。けたたましく警告灯を旋回させる真っ黒な車の群れは、政府の派遣物と見て間違いない。腕を捻りあげられて自車のボンネットにキスさせられながら、ピーターは怒鳴った。

「なんだおまえは!?」

「ソーマ・クライト。政府の捜査官だ」

「私がなにをした!?」

「殺人だ」

「!?」

 胸のバッジにフィア・ドールと記した別の捜査官は、政府車両の山の向こうでだれかとひそひそ囁きあっている。ときおりピーターを盗み見る法務部部長の顔は、どこまでも哀しげだった。

 非人道的な美樽びたる山の地上げと所有者への脅迫、および殺人の容疑者ピーター・マーティン。突拍子もない濡れ衣をいきなり着せられ、ピーターは刑務所へ囚獄されることになった。報道局へ秘密を暴露するはずが、逆に凶悪な殺人犯としてニュースをにぎわす身分になったのだ。

 裁判ではなぜか、ありもしないピーターの犯罪の証拠が続々と立件された。面白いようにピーターの変質者としての格は上がり、不利な立場に追い込まれていく。それでも〝これこそが組織ファイアの毒性だ〟という旨を叫び続けたのが災いしたらしい。まったく改心の見込めない凶悪犯として、ついにピーターには死刑が宣告された。

 長いこと特別監房に閉じ込められているうち、やがてそれは聞こえた。

 処刑人の足音だ。

 ここまで頑張ってもなにひとつ事態が動かないことは、ただひたすらに無念だった。だが仕方がない。じぶんは近寄ってはいけない世界の暗部に踏み込んでしまったのだ。祈るべきは、いつの日か別の正義が悪を断罪してくれることだけだった。

 死のう。

 無情な軋みを残して、独房の扉は開いた。

 生命の出入口にたたずんでいたのは、しかし刑務所の看守とは違う。

「ピーター・マーティンだな」

 ピーターの髪は伸び放題のざんばら、無精髭も濃くて当時の銀行員時代の活躍ぶりなど跡形もない。だが不思議な辞書を片手に提げ、部外者の青年は問うた。

「魔法少女はお好きかな?」

魔法少女マジシャンガール……ジャパニーズ・アニメに出てくるアレのことか? ならさしずめ、あなたは王女に毒リンゴを食わせる死神といったところかね?」

「正解だ。俺はダムナトス」

 そう名乗って青年は告げた。

「おまえという、瑞々しい絶望に満たされた毒リンゴを収穫にきた。どうだ。その毒、政府の悪にも盛ってみたいだろう?」

組織ファイアに一杯食わせたいのは山々だが、無理だ。できない。やつらの力は強大すぎる。おっしゃるとおり、魔法でも使えないかぎり対抗は不可能だ」

「使えるぞ、魔法なら」

「なに?」

「すこし歩こうか。久しく娑婆の空気は吸っていないはずだ。刑務所を出る道中、魔法が存在するということはたやすく知れる。燃える人形檻ウィッカーマンに放り込まれて処刑される前に、騙されたと思って俺についてきてみろ」

「そう言えば、いつもやかましい看守が気配ひとつないな。いいだろう、どうせ社会的にも物理的にも死んだも同然のこの身だ。それよりあなたは、なぜ私などに会いに来た?」

「ピーター・マーティン。おまえのことは、シャードの魔法男子ウィッカとしてだけではなく、その法律家としての手腕にも期待している」

「なにを求める、銀行員崩れのこの私に?」

「じつはひとつ、今後の住まいとする孤島を買う仲介をしてもらいたい。もちろん合法的にだ。資金なら幾らかある」

「山の件とは正反対だな。お安い御用だ。で、どこの南国のリゾート地を買う?」

 ダムナトスは答えた。

「アイランド・来楽ライラだ」


 山から顔をのぞかせた朝焼けの陽光は、来楽らいら島を明と暗に分断していた。

 陸地から海へ、なだれを打って疾走する人影がある。

 紫色、薄紅色、灰色、黄色のよっつ。

 いや、彼らを人と呼ぶには語弊があった。それぞれ鮮やかに色分けされた筋肉質の体を鎧うのは、硬い鱗と沢山のヒレだ。

 獰猛な肉食魚と人類の中間体、死魚鬼マーグルではないか。

 その島民たちにはたしかにシャードが与えられていたが、べつにそれを乱用したわけでもなんでもない。暴政の税収のように突如、シャードは被害者たちの呪力をどこかへ奪い去った。ダムナトスの奇怪な実験の悪影響であることは明らかだ。

 呪獣の大量発生……危機的な事態だった。

 汚いよだれを散らして、死魚鬼マーグルどもは狂ったように海へ突き進んでいる。このまま逃亡を許せば、つぎに彼らが泳ぎ着くのはもっとも手近な獲物の密集地だ。

 すなわち、赤務あかむ市へ。なんの前触れもなく上陸した殺戮の生物兵器が、人々であふれる繁華街をどんな目に陥れるかは想像に難くない。いかなる算段があって、ダムナトスはこんな凶行に及んだのだろう。

 もちろんダムナトスが、有事の際の保険をかけないはずもない。

 それが姿を現したのは、砂浜へ続く最後の坂が見えてきたときだった。

 死魚鬼マーグルたちの進行方向にふと立ちふさがったのは、精悍な青年……命重装キスラニだ。駆け足に急ブレーキをかけ、死魚鬼マーグルの群れはおのおの威嚇の遠吠えをあげている。

「ウォーっ!」

「げろげろッ!」

「フィっ! フィっ!」

「おひょう! おひょひょひょう!」

 文字どおり背水の陣のはずが、キスラニは薄くほほ笑んでみせた。どこか申し訳なさげに、はかなげに。その胸もとで五芒星の輝きを揺らすのは、ネックレス状のシャードだ。

「すいませんね、皆さん。どうしても、すぐに呪力が必要だったんです。江藤詩鶴えとうしづるの牢獄を新たに立ち上げ、維持するために」

 破裂音とともに、キスラニの首から上はかき消えた。

 肉薄した紫色の死魚鬼マーグルが、いきなり馬鹿力でキスラニの顔面を殴り飛ばしたのだ。傍目にも頚椎の粉砕はまぬがれず、胴体から頭部がちぎれても不思議はない。

 だが、実際は違う。キスラニの首飾りが光るや、その背後に彼自身の〝残像〟のようなものが飛び抜けたではないか。キスラニそっくりの残影は、地面にぶつかるや呪力の破片と化して散った。死魚鬼マーグルから負った一撃を、命ごと抜け殻のように脱ぎ捨てたのだ。

 何重にも貯蔵した生命のストックを、ダメージといっしょに虚空へ受け流す。これこそがキスラニという擬似魔法少女の特殊能力だった。そして命を取り引きする技術は、これだけに留まらない。

「いまの呪力の披露は、あなた方へのせめてもの餞別です。そして、なくなった命の残弾はふたたび補充しないといけませんね」

 ゼロ距離にある紫色の死魚鬼マーグルへ、キスラニの腕は一閃した。

 死魚鬼マーグルのなにかへ指を引っかけ、素早く抜く。薙ぎ払われたキスラニの指先、ついてきたのは今度は死魚鬼マーグルそのものの残像だ。残像はじきに、キスラニの本体へ溶け込む。するとどうしたことか。

「ウ、ウオ……」

 はでな地響きを残して、紫色の死魚鬼マーグルはその場へ倒れ伏した。キスラニに命の灯火を食われ、肉体がカラの容器と化したのだ。

 こいつはまずい。危険すぎる。

 近づく不利を野生の直感で悟り、残りの死魚鬼マーグルたちは瞬時に戦法を切り替えた。魚人のエラというエラがアンテナのごとく逆立つや、強い水の呪力が充満する。幸運にもここは海の真近だ。撃ち込む水呪には事欠かない。

 死魚鬼マーグルどもの周囲に浮かんだ水泡は、次の瞬間、機関銃のごとくキスラニに襲いかかった。そのときには、キスラニは地を蹴って駆け出している。キスラニの足跡を追い、地面を砕くのは超硬度の液体の刃雨だ。いくらシャードの後押しがあるとはいえ、高速の絨毯爆撃は陸上競技の世界記録保持者でも回避しきれない。

 なので、逃げるキスラニの背後には続々と身代わりの分身が生み落とされた。縦横無尽に入り乱れる〝死んだ〟という事実の多さよ。本来のキスラニの姿を、肉食魚どもは数秒間も見失ってしまう。生命の盾が無数にあるからこそできる強行突破だ。

 そしてキスラニは逃げているのではない。逆にみるみる接敵している。何十枚もの死の抜け殻を連れ、キスラニの手はついに薄紅色の死魚鬼マーグルに触れた。

「ありがとう、その命」

 薄紅色の死魚鬼マーグルの魂を鷲掴みにしたまま、キスラニは振り向いた。盾代わりにした魚体が、真横からの水弾の掃射を浴びて震える。そのまま前進したキスラニが、つぎに反対側の腕で毒手にかけたのは灰色の死魚鬼マーグルだ。地面ぎりぎりまで身を伏せたキスラニの両手には、透けた薄紅色と灰色の生命が引き抜かれている。

 吸魂の一瞬の隙が、仇となった。

「!」

 大地を突き破ってキスラニの足首を捕らえたのは、黄色の死魚鬼マーグルの手だ。弾幕を隠れ蓑にし、いつの間にか地面に潜り込んでいたらしい。鋭い水かきを張った腕は、勢いよくキスラニを引っ張った。猛スピードで地面を掘り進み、獲物ごと波打ち際へ向かう。

 大量に吹き上がる土塊のはざまで、キスラニは眼下の腕へ何度も死の手刀を放った。だがキスラニの能力は、対象の急所から離れれば離れるほど効果も薄まる。とうに四匹めの死魚鬼マーグルの手は殺されていたはずだが、死後硬直まで計算に入れた膂力はがっちりキスラニを握って放さない。

 地面はやがて砂浜へ変わり、海辺に差し掛かった。

「これは、厄介ですね! 非常に!」

 キスラニの表情を、はじめて動揺がかすめた。

 生き残った死魚鬼マーグルは、にっくき魔法男子ウィッカをこのまま海底へ引き込むつもりでいる。ただでさえ水中は、魚人の力が最大限に発揮されるテリトリーだ。そのうえシャードがあるとて、キスラニは肺呼吸の人間にしかすぎない。海に潜った段階で、こちらの負けは確定する……万事休すだ。

 強い圧力が、陸側からキスラニを引き止めたのはそのときだった。

「なに?」

 綱引きのごとくキスラニに巻き付くのは、見覚えのある恐ろしい触手だ。反動をつけてキスラニの背後に着地すると、制服姿の乱入者は美しい声音でささやいた。

「お困りのようね。手伝うわ」

「どういう風の吹き回しです?」

 その場にひざまずくと、ルリエは死魚鬼マーグルの埋まる地面にそっと掌を置いた。

「〝石の都ルルイエ〟!」

 軋音あつおん……深い亀裂を穿って超重力に圧潰された地下で、死魚鬼マーグルはミンチになった。

「さすがは魔人魚クトゥルフの力です。助かりましたよ」

 立ち上がりながら、キスラニは全身の土埃を払った。こちらも身を起こすルリエへ、物珍しげにたずねる。

「ただ指をくわえて眺めているだけで、すぐに私は溺れ死んでいたでしょう。そのピンチを救うとは、まさかとは思いますが、久灯瑠璃絵くとうるりえ?」

「そう、そのとおり。あたしには、あなたが沈んだら困る理由があった。死魚鬼マーグルの暴走を見過ごすこともできないしね」

「ほう、ダムナトスさまの陣営に寝返るつもりですか?」

「ええ。仲間に入れて頂戴」

「何度目です、裏切りは?」

 剽軽げに肩をすくめて、ルリエは問い返した。

「歓迎してくれないのかしら?」

「いえ、大歓迎ですとも。興味本位ですが、心変わりのきっかけをお聞きしても?」

「簡単よ。あなたたちの底知れないシャードの秘技を目撃して思ったの。あたしひとりじゃとても太刀打ちできない。なら優勢な方につこうって。当然でしょ?」

 悪びれた様子ひとつなく宣誓するルリエをじっと見据え、キスラニはうなずいた。

「賢明なご判断です。さぞやダムナトスさまもお喜びになるでしょう」

「感激ついでにもうひとつ」

「?」

 朝日にきらめく海面を、ルリエは遠目にした。

「あたしの仲間が、また増えたわ」

 ぱしゃん。

「!?」

 沖合から聞こえた水音に、キスラニは反射的に振り返った。

 そこにはなにもない。ただ綺麗な海が広がっているだけだ。

 視線を戻して、キスラニはまた驚くことになった。

 おお。ルリエの姿はどこにもない。

「……もしや」

 念のため、キスラニはベルトの腰を確認した。やはりだ。そこに大事に吊るしてあったあるものは、いまや影も形もなく掠め取られている。

「魔法少女の監獄のカギを奪いましたか……死魚鬼マーグルまで巻き込んで、力ずくでしたね」

 ダムナトスの屋敷の方角へ、キスラニは急いできびすを返した。
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