最後にひとつだけお願いしてもよろしいでしょうか

鳳ナナ

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リンドブルグ編

6-1

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 私――スカーレット・エル・ヴァンディミオンがまだ幼かった頃。
 家庭教師だったグラハール先生に尋ねたことがあります。
 ロマンシア大陸から海を隔てた北に存在するという魔なる者達が住まう大地――魔大陸とは一体いかなる場所なのですか? と。
 グラハール先生は私の問いに少しだけ間を置いた後、こう仰いました。
「黒ずんだ大地は荒れ果て隆起し、空には暗雲が立ち込めて陽の光は閉ざされ、空気には濃い魔力の瘴気が漂う、およそ人間族が住める環境とはかけ離れた人外の魔境――でしたか」
 私の目の前には正に、グラハール先生が仰っていた通りの光景が広がっていました。
 貴族として生きていれば絶対に見ることがなかったであろう、本やお話の中でしか知らなかったその景色に、私は思わず声を漏らします。
「なんという禍々しい光景でしょう。あまりの恐ろしさに震えが止まりませんわ」
 ああ、もったいない。もしこの場にティーセットがあったならば、この景色を肴にティータイムに勤しみたいくらいに恐ろしいですわ。
「――ちょっとスカーレット!」
 背後から甲高い女の声が響いてきました。
 私が振り返るとそこには以前私の婚約者だった元パリスタン王国第二王子カイル様の恋人――桃髪のクソ女ことテレネッツァさんが、走りやすいように裾を破ったドレス姿で、必死の形相をしながらそこら中を走り回っています。
「あらあら。久しぶりの自由を謳歌できてはしゃいでいるのかしら。のんきだこと」
「これのどこがはしゃいでいるように見えるっていうのよ!? 早く助けなさい!」
 テレネッツァさんの背後に視線を向けます。
 そこには人ほどの大きさをした、全身が紫色に発光する巨大な蠍が「キシャア!」と咆哮を上げながら迫っていました。
「こんな状況で原生動物と追いかけっこだなんて、相変わらずおつむがお花畑ですわね。テレネッツァさんは」
「誰のせいでこんな状況になったと思ってるのよ! この悪役令嬢! ぎゃあああ!? 死ぬっ、死ぬぅ!」
「キシャア!」
 悪役令嬢? 自己紹介でしょうか。
 いえ、テレネッツァさんはもう貴族ではありませんでしたね。
 パルミア教をたぶらかして国家転覆を目論んだ犯罪者であり、現在進行形で刑地を脱獄中の脱獄囚ですから。それにしても――
「どうしてこうなるのよ! だから嫌だったのよ、こんな狂犬と同じ船に乗るなんて!」
 右も左も分からない魔大陸で、テレネッツァさんと二人きりのこの状況。
 一体どうしてこのようなことになったのでしょう。
「……だから私は言ったのです。船に乗る前に、でっぷりと太った悪いタヌキオヤジはとりあえず一発ブン殴って真意を吐かせるべきですと」

------

 ヴァンキッシュ帝国との同盟締結を祝う祝祭から一か月後。
 良く晴れた朝方の空の下、旅支度を整えた私とナナカはヴァンディミオン邸の中庭を歩いていました。
「遠出するっていうのに随分荷物が少なくないか?」
 執事姿のナナカが手に持った旅行バッグに視線を落として不思議そうにつぶやきます。
 ナナカの疑問も無理はありません。
 普通公爵家といった上級貴族の娘が他国へ出かけるとなれば、旅行バッグどころか馬車が何台も必要となるでしょうから。
「必要な物資はすべて、お昼頃に合流するジュリアス様がご用意してくれるとのことですので」
「人員も経費も全部王家持ち……まあそれも当然か。失われたスカーレットの“クロノワの加護”を取り戻すためだしな」
 声を潜めて言うナナカに頷きます。
 ヴァンキッシュ帝国での戦いの際、始祖竜の姿になったルクを倒すため、私は神の寵愛を否定しダンテロードなる正体不明の殿方によって与えられた魔の力に頼りました。
 その結果、クロノワ様の手で加護を剥奪されてしまった私は力を取り戻すべく、すべての原因であるダンテロードことダンテ様に会いに行くことを決意します。しかし――
「道中、王家の支援が見込めるのはとてもありがたいことですわ。でも――」
 魔の者であるダンテ様が住まう魔大陸に渡るためには、ロマンシア大陸一の国土を持つ強国リンドブルグが所有する武装船団を借りる以外に方法がありませんでした。
「リンドブルグといえばあらゆる国からの干渉を受けず、また干渉しない完全なる中立を保っている国として有名です。そんな国に対して、パリスタン王国の後ろ盾が果たして有効な交渉手段に成り得るでしょうか。それに――」
 祝祭の時、私はリンドブルグから来たという刺客“蠍”に襲われております。
 まったく身に覚えのない殺意を向けられたわけですが、それがもし個人や一組織の感情によるものでなく、表向きは中立を謳っている国による何らかの策謀なのだとすれば――
「……一筋縄ではいかないわね。少なくとも船を借り受けるのは難しくなるでしょう」
 首元を手で押さえて気だるくつぶやく私に、ナナカも表情を硬くします。
「場合によっては、リンドブルグのお偉い様が宙を舞うことになるやもしれません。私の拳によって」
「いや結局それか……!」
 そんな世間話をしながら門の外まで歩いて行くと、そこには一台の馬車がありました。
 ヴァンディミオン家の家紋が入った立派な馬車です。
 そして馬車の前には待ちくたびれたかのように退屈そうな顔で足をぶらぶらさせている、一人の赤毛の少年の姿がありました。
 彼は私に気が付くと、嬉しそうに満面の笑みを浮かべながらこちらに走ってきます。
「――マスター!」
 頭に二本の角を生やした赤毛の少年――竜人族のレックスは、私の前で急ブレーキをかけたかのように立ち止まりました。
「わざわざお見送りに来てくれたのですか?」
 微笑みながらそう問うと、レックスは先程とは一転してどこか思いつめた不安そうな表情で私を見上げます。
 いつも元気なレックスらしくないその表情に心当たりがあった私は、苦笑を浮かべながら言いました。
「そんな辛そうなお顔をしないでくださいな。なるべく早く帰ってきますから」
「だって……一週間でも長いのに何か月も会えないかもしれないなんて、寂し過ぎてボク死んじゃうよ!」
 よしよしと頭を撫でてあげると、涙目の上目使いでレックスが私に抱きついてきます。
 そんなレックスの姿を見て、私の隣にいたナナカが呆れた表情でため息をつきました。
「あのな……スカーレットがリンドブルグに行こうとしているのは、魔大陸に渡ってお前の低地病を治療する方法を探すためでもあるんだぞ」
「分かってるよ! でも寂しいものは寂しいんだい!」
 低地病――飛竜が地上に長く留まれないように種族全体にかけられた呪いともいえる病。
 その病気によって私達と一緒にいられなくなってしまったレックスは、今は生まれ故郷である高山地帯のヴァンキッシュ帝国で暮らしていました。
 ここに来ることができるのは病を抑制できる範囲の週に一日だけ。
 そのことを寂しいと思うレックスの気持ちはとても良く分かります。
 一緒に過ごした時間こそ長くはないものの、家族同然に思っていたレックスと離れて暮らすことが寂しい気持ちは私も同じですから。
「約束しますわ。今度私達が帰ってきた時には、きっと一緒に暮らせるようにいたします。もう二度と、貴方に寂しい思いはさせません。だから――」
 抱きしめたレックスの背中を、ポンポンと優しく手の平で撫でます。
「私が迎えに行くまで、良い子で待っていて下さいね?」
「……うーっ!」
 その言葉にレックスは嬉しそうに身体を震わせた後、私を見上げて満面の笑顔で言いました。
「分かった! 約束だからねっ!」
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