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3巻
3-1
しおりを挟む第一章 頼むから大人しくしていてくれ。
王宮秘密調査室――王宮内部の汚職や不正を取り締まることを目的として設立された、諜報組織。
王宮内の一室に本部を置くその組織の室長室には、足の踏み場もない程の押収品と書類の山が積まれていた――つい三日前までは。
「……今更ながらだが、何も物がないとこの部屋はこんなにも広かったのだな」
室長用の机の前で椅子に腰かけながら。
ヴァンディミオン公爵家の長子である私――レオナルド・エル・ヴァンディミオンは、誰もいない部屋で物思いに耽っていた。
目の前の机の上には暇つぶしに持ち込んだ読みかけの本が一冊のみ。
大量の報告書により本はおろか、ペン一本すら置くスペースがなかったのが嘘のようだ。
「レオナルド室長、失礼いたします」
本の続きでも読もうかと机に手を伸ばしたその時、扉の外から女性の声が響いてきた。
扉が開くと、そこには大きな眼鏡をかけて前髪を七三になでつけた、いかにも真面目そうな金髪の女性が立っている。
彼女は軽く会釈をした後、私に歩み寄ってきて言った。
「報告書をお持ちいたしました」
王宮秘密調査室の女性用の制服である、深い紺色のスーツを着た彼女の名はエピファー。
伯爵家の三女である彼女は、王立貴族学院に在籍していた頃は座学では常に主席で、才女として名が通っている有名なご令嬢だった。
学院を卒業した後は王都の図書館で司書として働いていたようで、そこを王宮秘密調査室の人事部にスカウトされ、今は私の秘書官を務めてもらっている。
事務能力に長けたすばらしく優秀な女性で、彼女が秘書官になってから、実務的にも精神的にも私の負担は大きく軽減されていた。
願わくば私が王宮秘密調査室の室長という常に胃を痛める立場でいる限り、彼女にはずっと隣で支えていてほしいものだ。切実に。
「ありがとう。今確認しよう」
「内容を読み上げなくてもよろしいのですか?」
「問題ない。丁度暇だったのでな。君の手を煩わせるまでもないだろう」
それでは、と答えたエピファーが報告書の紙を私の手に渡す。
そして、おもむろに胸ポケットから取り出した手のひらサイズの小瓶を机の上に置いた。
「……エピファー」
「なんでしょう」
「気を利かせてくれたのだろうが、それはもう必要ない。薬箱に戻してきてくれ」
机に置かれた一本の小瓶をトントンと指で叩く。
飲むのが習慣となっていたため、すっかり忘れていた。事件もすべて解決し精神的な重圧から解放された今の私には、最早その小瓶は必要ないのだということを。
「――らしくないぞ、レオ。それは最早、お前を構成する要素の一つになっているというのに」
入り口のドアの方から突然聞こえてきた含み笑いを堪えているその声に、私はため息をつきながら答えた。
「室長室に入る時は一声おかけ下さいといつも言っているでしょう……ジュリアス様」
そこには王族がまとう白の燕尾服を着た金髪の方が、口元に笑みを浮かべて立っていた。
パリスタン王国第一王子、ジュリアス・フォン・パリスタン様――幼き頃よりあらゆる分野の武芸、学問において優秀な成績を収め、一七歳という若さですでに国政に携わる仕事を任されている、才気あふれるお方だ。
天才という言葉は、まさにこの方のためにあると言っても過言ではないだろう。
ただこの方には一つだけ、私が思わず顔を覆ってしまうような欠点があって――
「それと胃薬は好き好んで飲んでいたわけではなく、精神的な重圧で痛む胃痛を和らげるために止むを得ずに飲んでいたのです。誤解なきようにお願いします」
「酒飲みのバイキングもかくやの見事な飲みっぷりであったのにな。もう見られないとは残念でならん。フッ」
このように他人が苦悩する様や困る姿を見て喜ぶという、困った趣味をお持ちなのだ。
赤の他人、それも悪人が苦しむ反応を見て喜ぶというのであれば、まだ多少は理解できよう。
しかしこの方の趣味は身内に対しても容赦なく適用されるのだ。
今この瞬間も私が苦虫を嚙み潰したような表情をするのを心待ちにしているのだろう。
だが今の私は過去の私とは違う。
「期待に応えられず申し訳ございません」
私をからかい反応を楽しもうとするジュリアス様を軽くあしらう余裕すらある。
これもすべては、大仕事を終えた後の達成感と充実感がなせる技だろう。
「なんだ、つまらん反応をするようになったな。余程心に余裕があると見える。そんなに手持ち無沙汰ならば、なにか仕事の一つでも持ってくるか?」
「また心にもないご冗談を。我々が暇を持て余しているというのは、この国にとっては良いことではありませんか」
王宮秘密調査室の役目は国を脅かす悪人や勢力を調査し、場合によっては排除することだ。
私達が慌ただしく動いているということは、それだけ国内の情勢が荒れているということに他ならない。だからこうして暇を持て余し、他愛のない軽口を叩ける今の状況こそが最良なのだ。
仕事をしたいからといって事件を願うなどもってのほかである。
「それともジュリアス様は、一人また一人と隣の同僚が疲労と眠気により倒れていく、あの地獄のような日々が恋しいとでもいうのですか?」
「冗談を言うな。ほぼ不眠不休の身体を治療薬で無理矢理動かし、一連の騒動の事後処理で忙殺されたこの二ヶ月間で、寿命が十年縮んだと言われても私は驚かんぞ。創世神話によれば、世界を七日で作った神ですら最後の一日は休息日にしたというのに。あんな死と隣り合わせの超過労働など二度とごめんだ」
ジュリアス様をしてしかめ面でそう言わせるほどに、ここ二ヶ月の王宮秘密調査室の忙しさは常軌を逸していた。
なにしろ国教であり、王国議会にまで影響を及ぼしていた宗教組織であるパルミア教を、我ら主導の下、たった二ヶ月間で跡形もなくなるまで徹底的に断罪したのだ。
いくら王宮秘密調査室に優秀な人材が集まっているとはいえ、明らかにこなせる仕事の限界を超えていただろう。
「離脱者が一人も出なかったことが奇跡だ。私が雇われる立場であれば、報告の書類で足の踏み場がなくなった調査室の部屋を目の当たりした、最初の三日で辞表を叩きつけている」
「次期国王になられるジュリアス様が率先して、休む間もなく目にくまを作って働いているというのに、我々が先に弱音を吐くわけにもいかないでしょう」
「涙が出る程の忠誠心だな。一人でも弱音を吐く者がいたら休息を与えるつもりでいたというのに、死者のように死んだ目で働き続けるお前達の姿を見て私が先に休めるはずがあるまい」
「それだけ、王宮秘密調査室にはこの国を良くしたいという志が高い者達が集っていたということでしょう。それに迅速に事を為すことの重要性は、皆理解しておりましたから」
組織的な悪事を弾劾する場合、期間が長引けば長引く程に、証拠を隠滅され逃れる者が増える。
特に規模が大きかった今回の場合はより迅速に事を運ぶ必要があった。
その結果、パルミア教のほとんどの悪事は逃さず暴くことができたので、今となっては無理を推して働いた甲斐もあったと皆も思っていることだろう。
「過分な働きに釣り合いが取れるように報いなければならない私の身にもなれ。献身的で優秀すぎる部下を持つというのも考えものだな、まったく」
「皆十分すぎるほどの恩賞を頂きましたよ。また大半の者は休暇もしっかりと取っております。どうかご心配なさらずに」
「あたり前だ。この期に及んでまだ勤勉にも労働意欲を発揮している者がいれば、無理矢理にでも実家に帰らせていた。貴女のことを言っているのだぞ、エピファー」
「申し訳ございません、ジュリアス様。私はレオナルド様の秘書官。レオナルド様がここで業務をこなしている以上、休むわけにはまいりません」
目を伏せ、しれっとそう告げるエピファーを見てジュリアス様はお手上げのポーズで肩をすくめた。
「この融通が効かん真面目が過ぎる気質は、一体誰に似たのだろうな。部下は上司の右に倣うというが、お前はどう思う、レオよ」
「私には実家に帰れと言われないのですか?」
「逆に聞くが帰れと言って帰るのか?」
「帰りませんよ。何かあった時に備えて、権限を持つ責任者が一人は必要ですから」
「予想通りの回答と言っておこう。言うだけ無駄だと分かりきっていることを、私がわざわざ言う必要がどこにある?」
「ご明察、恐れ入ります」
苦笑を浮かべて答える私に、ジュリアス様はやれやれとため息をつく。呆れておられるのだろう。
だがこれが私の性分であるのだから、致し方ない。
自分でも損をする性格だと分かってはいるのだが。
「ところで今日はどうされたのですか。来ると言っていた日にはまだ三日程早いですが」
「激務で荒んだ心を癒すためにお前の妹君――スカーレットの動向を聞こうと思ってな」
「……!」
もしやとは思ってはいたが、やはり目当てはスカーレットのことだったのか。
本気なのか戯れなのかは不明だが、ジュリアス様はことあるごとにスカーレット――ヴァンディミオン公爵家の一人娘であり、我が妹のスカーレット・エル・ヴァンディミオンを気にかけていた。
我が国の第二王子だったカイル様との婚約破棄を経て、現在婚約者不在である妹の嫁ぎ先を憂う兄としては、ジュリアス様のお気持ちは本気であって欲しいし、二人が婚約するとでもなれば、私も大手を振って祝福したいと思う。
だが、例えジュリアス様が本気だったとしても、あのお方がそう簡単に想い人に対して本心を明かすとは思えない。
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子供のように意地を張らずに、互いに素直になってほしいものだ。
「スカーレットなら、数日前にアグニ山にハイキングに行くと手紙が届きましたが」
パリスタンの東部には、東の帝国ヴァンキッシュとの国境線をまたぐように山岳地帯が広がっている。その中でも一際高く険しく、聖職者達の修行などにも使われているのがアグニ山だ。
わざわざそんな危険そうな場所をハイキングの目的地に選ぶ辺り、わざと私の胃を痛めつけようとしているのかと疑いたくなるが、本人いわくその方が登り甲斐があり楽しいとのことで、笑顔でそう言われた私が両手で顔を覆ったのは言うまでもない。
「ハイキングとはまた、まるで令嬢らしからぬ趣味を。一体何を企んでいるのやら」
「毎年この時期になると二、三週間ほどかけて登っています。最初は止めていたのですが、宮廷や舞踏会で暴力沙汰を起こすよりかは、健全に外で身体を動かしている方が遥かにマシなので……」
ため息交じりにそう言うと、ジュリアス様は顎に手をあてて「ふむ」とうなずいた。
「惜しいな。もう少し王都から近くにいたなら、ハイキングとは名ばかりの暴虐的な何かをこの目で見られたものを」
「脅すようなことを言うのはやめていただきたい! ハイキングはハイキングです! そう自分に言い聞かせて、かろうじて心の均衡を保っているのですから!」
「涙ぐましい努力をご苦労と言っておこう――待て。今アグニ山、と言ったか?」
「言いましたが、それが何か……?」
ジュリアス様が机に置かれた報告書を手に取る。
どうしたというのだろう。あの報告書に書かれているのは王国議会で議題に上がったことについての経過報告のはずだ。私と違い議会に直接出席していたジュリアス様なら、すでに知っていることしか書かれていないはずだが。
「報告書に何か気になる点でもありましたか?」
「ここを見てみろ」
ジュリアス様が報告書を私に見せ、ある一点を指差した。
「パリスタン東部に広がる山岳地帯で、徒党を組んだ山賊による略奪行為が急増し、被害が拡大している……?」
「ゴドウィンに引き続き、パルミア教の断罪もあったのだ。王都から追放された悪人の数は百や二百ではきかん。それらが野盗に身をやつし、どこぞで徒党を組んだとしても何も不自然ではなかろう」
「山岳地帯が広がる東部はヤツらにとって格好の隠れ家というわけですか……うん? パリスタン東部?」
微かな違和感に首を傾げる。そんな私を横目にジュリアス様は淡々と説明を続けた。
「その中でも、特に険しいと言われているアグニ山周辺はヴァンキッシュとの国境も近く、軍事的緊張を避けるためにも騎士団や軍を派遣しづらい。それが分かっているからか、山賊の被害も特にアグニ山を中心に集中しているようだ」
「なんと厄介極まりない。東部に住む人々や商人達の安寧のためにも、一刻も早い対応策を講じる必要がありますね……うん? アグニ山?」
さらに首を傾げる私を見て、ジュリアス様は確信犯的にニヤリと口元をゆがめた。
「さらにこの報告書によれば、山賊の中には未だ捕まっていないパルミア教の異端審問官らしき姿も確認されたとある。偶然ハイキングに訪れたどこかのご令嬢が、もしこんな連中に遭遇でもしたら大変なことになるだろうな――山賊側が」
「ああっ!」
目の前が急に暗闇に覆われる。どうやら無意識に両手で顔を覆っていたらしい。
もしやスカーレットは、このことを分かっていてハイキングに向かったのだろうか。
山賊に身をやつしたパルミア教の残党を自らの手で殴りたい、その一心で。
いや、この情報が王都にいる私達よりも早くヴァンディミオン領にいたスカーレットの下へ届くはずがない。となれば単なる偶然か。それとも殴りがいのありそうな獲物の匂いを無意識に嗅ぎつけたのだろうか。
どちらにしろ分かっていることは、私の安息の日々は今この瞬間に終わりを告げたということだった。
「本来、山賊が相手であれば王宮秘密調査室の出る幕ではないが、パルミア教の残党が関わっているとなれば捨ておけん。早急に現地に向かうぞ。愚か者の山賊達が殴られて山肌に突き刺さる瞬間を見逃す前に」
いそいそと部屋から出ていくジュリアス様に続くように、私も書類を片付けて出立の準備に取り掛かる。ジュリアス様はなぜか確信していたが、まだスカーレットが山賊達と遭遇すると決まったわけでも、大暴れして物騒な二つ名が増えたわけでもないのだ。
すべてが杞憂に終わる可能性もある。私は私の為すべきことをまっとうしよう。
王宮秘密調査室の室長として。
パリスタン王国の平穏のために。
「……エピファー」
「はい、なんでしょう」
「先ほどは下げろと言ったが撤回する。その胃薬は置いていってくれ。一応、念のためだ。いや、追加で一ダース……」
第二章 拳で責任を取らせていただきます。
幼い頃から人を殴ることが好きでした。
そんな私、スカーレット・エル・ヴァンディミオンは、舞踏会の会場で第二王子のカイル様に一方的な婚約破棄をされてしまいます。
しかもクソ野郎のカイル様は新たな婚約者にどこの馬の骨とも知らぬ男爵令嬢のテレネッツァさんを立てるというではありませんか。
ブチ切れた私はカイル様とテレネッツァさんをブン殴り、ついでにその場にいた悪徳貴族の皆様もまとめて血祭にあげました。
翌日、メイドに変装して襲ってきた獣人族のナナカから、カイル様を擁立しようとしていた宰相のゴドウィン様が私の命を狙っているとの情報を聞き出します。
恥ずかしながら私、肥え太った悪党の方をブン殴るのがどんな美食を頂くよりも大好きという嗜好を持っておりまして、そんな私にとってゴドウィン様は絶好の獲物でした。
合法的にゴドウィン様に暴力を振るうため、第一王子のジュリアス様と共に悪事の証拠を集めた私は、ゴドウィン様が違法な奴隷オークションを秘密裏に開催しているとの情報を手に入れます。この機を逃さずにはいられません。
オークション当日、私はレオナルドお兄様が室長をされている秘密機関、王宮秘密調査室と共に意気揚々と会場に乗り込みました。
混乱の最中、裏で糸を引いていたらしいヴァンキッシュ帝国の第一皇子アルフレイム様をお空にブン投げて星にした私は、拳の想い人であるゴドウィン様を思う存分ブン殴ってスッキリ。
後に悪徳宰相飛翔事件と呼ばれた騒動を暴力で解決に導きました。
それから二か月後。
実家でたっぷりと休暇を堪能した私は、馬車で迎えにきたジュリアス様と共に王都の聖教区へと向かいました。
その目的は一年に一度、国をあげて行われる一大行事〝聖地巡礼〟の儀に参加するためです。
聖地巡礼の儀とはディアナ聖教主導の下で行われている、聖女ディアナ様と巡礼の一行が国内にある聖地をめぐり、魔物から国を守っている結界を張り直す儀式のことです。
例年通りであれば、儀式は今年も多くの国民の支持を受けながら何の問題もなく執り行われる予定でした。
ところが今回の聖地巡礼はこれでもかというほどに問題が目白押しで、聖女ディアナ様は聖女としての力を無くしており、ディアナ聖教と対立するパルミア教は聖地巡礼を妨害するためにしつこく襲撃してきたりと、一筋縄では行かない事ばかり。
その上さらに、女神パルミアに与えられた力で私に復讐しにきたテレネッツァさんや、巡礼の一行である聖女守護騎士団の一員であるにもかかわらず、パルミア教に寝返っていたディオスさんといったように、次々に私に殴られたい希望者の方が現れます。
拳が踊り、舞う血しぶきの量に比例してレオお兄様の胃がきしみ行く中、結界を維持していた大聖石がテレネッツァさんの手により一つ破壊されるも、夢の中で時の神のクロノワ様にお告げを受けた私が覚醒。
パルミア教の信者達を片っ端からブン殴り、クソ女テレネッツァさんをあと一歩のところまで追い詰めます。途中ジュリアス様が魅了の力で操られ、あわやな場面もありましたが、最終的には私の拳がテレネッツァさんの顎にスカッと炸裂。
その後、パルミア教の教皇サルゴン様も捕らえられて、波乱づくめだった聖地巡礼はなんとか一件落着となりました。
さて、お次は一体どんなお肉が私に殴られてくれるのでしょう。
まだ見ぬ最高のクズを殴ることへの期待で胸の高鳴りが抑えられません。
さあ参りましょう。思う存分に暴力を振るえる新天地へ――
「――ああ、良い天気」
見上げれば雲一つない青空。
「空気がおいしいと感じたのは生まれて初めてです」
吸いこめば肺に染みわたる澄んだ空気。
「景観も素晴らしいですわ」
そして眼前に緑々と広がる豊かな自然。
「心が洗われるというのはこのことですわね」
私、スカーレット・エル・ヴァンディミオンは両手を空に上げて伸びをしました。
今日は年に一度のハイキングの日。
普段のドレス姿ではなく、動きやすいブラウスにハーフパンツを履いて準備も万端です。
「身も心も軽く今なら空へも飛んでいけそう。貴方もそう思うでしょう、ナナカ」
準備運動をしつつ問いかけると、傍らにいた黒い執事服にハーフパンツを履いた獣人族の少年――ナナカがジト目で答えました。
「屈伸をするな……スカーレットなら本当に空まで飛んでいきそうで怖い」
ふふ。ナナカったら。
いくら普段より身軽とはいえ、さすがに空までは飛んでいけませんよ。
せいぜい雲くらいまでです。
「というか、ハイキングって普通もっと程よいくらいのなだらかな丘や山道を歩いて、景色を楽しむものだと思うんだけど」
ナナカがうんざりした顔で、歩いている山道に視線を向けました。
幅広ながら傾斜はきつく、舗装されていないあるがままの自然の道は、踏みしめる度に靴裏に硬い土と石の感触を伝えてきます。
「そうですね。ですので、程よく腕、足等の筋肉に負荷がかかる傾斜とでこぼこ具合のコースを選びました」
「気のせいか? さっき道が二つに別れていた時、商隊が行った観光客向けの道を避けて、明らかに登山家向けの険しい道を選んだように見えたぞ」
「見てくださいナナカ。とても綺麗なお花。レオお兄様へのお土産に一輪摘んでいこうかしら」
「それは毒りんごの花だ! そのりんごで作ったパイのせいで、とんでもないことになったのを忘れたのか! って、前もスラム街でこんなやり取りした記憶があるぞ……」
そういえばそんなこともありましたね。
半年前、初めて出会った時のナナカは私の命を狙う暗殺者でした。
しかし、ゴドウィン様の事件や聖地巡礼で行動を共にして、今や専属の従者として一番近くで私をお世話する立場です。人生何が起こるか分からないものですね。
そんな風に感慨にふけっていると――
「おい」
ナナカが私の前に回り込んで立ちはだかります。
腰に手を当てたナナカは、フンと鼻を鳴らし「いいか」と前置きをしてから言いました。
「なんでもかんでも目に入った物に興味を持つな。山には危険な植物や生き物がたくさんいるんだからな。お前はお嬢様なんだから、そういうのは従者の僕に任せておけばいいんだ」
「まあ、ナナカったらレオお兄様のようなことを言って。私だって伊達に何年もここでハイキングをしていたわけではありませんわ。安全な物と危険な物の区別くらいはつきます。多分。大体。少しくらいは……?」
「どんどん自信なくしてるじゃないか……そもそもこれはもうハイキングじゃなくてガチガチの登山だからな。というか、ハイキングに来たとしてもその格好は軽装が過ぎるぞ。ほとんど手ぶらじゃないか。山を舐めてるだろ」
「準備を整えてきては意味がありません。山の自然の中で、その場所にある物のみで暮らさなければ楽しくないでしょう?」
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