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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 私にだって、可愛げくらいありますわ?
「レオお兄様。私、温泉旅行に行きたいと思っていますの」
「で、今度は誰を殴りに行く気だ、我が妹スカーレットよ」
古い紙の匂いが香る、ヴァンディミオン公爵邸の書斎でのこと。
椅子に座ってティーカップを傾けていたお兄様――レオナルド・エル・ヴァンディミオンは、私が告げた休暇の予定に難色を示されました。
「お兄様ったら、またそんなに眉間に皺をお寄せになって……。私はただ、この休暇を利用して温泉旅行に行きたいと申しているだけですわ。それなのにお兄様ときたら、まるで私が新しい獲物を見つけた肉食獣であるかのような言い方をなさるのですね。そんなに自分の妹が信用ならないのですか?」
そう言いながら顔を伏せ、よよと泣き真似をしてみます。
そしてダメ押しに、小動物のような上目遣いで一言。
「私、悲しいです」
しかし、そんな小細工がお兄様に通用するわけもありません。ティーカップをテーブルに置いた彼は、ため息をつきながら口を開きました。
「見え透いた嘘を……。売られていく仔牛のような目で、憐憫の情を誘っても無駄だ。そういったやり口には、昔から散々騙されてきたからな」
お兄様は半目で私を睨むと、自首をうながすように語りかけてきます。
「怒らないから、正直にどこへなにをしに行くのか言いなさい。うしろめたいことがないなら言えるだろう? まあ、あるからこそ誤魔化しているのだろうが……」
はなから嘘と決めてかかる、この態度。まったくもって解せませんわ。
まあ、旅行に出かけたい理由は温泉に行く以外にもあるのですが……うしろめたいことなど、神に誓ってこれっぽっちしかありません。
「レオお兄様は、仔牛を売った経験がおありなのですか? ダメですよ、そんなことをなさっては」
「仔牛が可哀相だとでも言いたいのか?」
「いいえ。牛は乳からお肉、皮や内臓にいたるまで、まったく無駄のない家畜です。ちゃんと大きくなるまで育てて、余すことなく絞り取らねばもったいないではありませんか」
人差し指を立てて語る私の様子を見て、お兄様が呆れたようにつぶやきます。
「……お前はもう少し、可愛げというものを覚えたほうがよいと思うぞ。なにかというと口より先に手を出すし……」
まあ、ひどい。私にだって、可愛げくらいありますわ。
口より先に拳が出るのも、ちょっとした愛嬌というものです。
そのせいで物騒な事件に巻き込まれたこともございますが、それも乙女の愛嬌ゆえのこと。私に非は一切ありません。
いえ、そもそも最初から私に非など、まったくなかったと言ってもよいのではないでしょうか。
――あれは二ヶ月前のこと。
ヴァンディミオン公爵家の一人娘である私は、婚約者だったパリスタン王国第二王子のカイル様に、舞踏会で婚約破棄を言い渡されました。
そればかりか彼は、男爵令嬢テレネッツァさんと結婚すると、その場で宣言なさったのです。
バカで自己中心的なカイル様に、幼い頃から散々嫌がらせを受けてきた私。この宣言がきっかけで、長年溜め込んできた鬱憤をとうとう爆発させることになりました。
テレネッツァさんとカイル様はもちろん、その場にいた第二王子派の貴族達の顔面を片っ端から殴り飛ばし、舞踏会を血に染めたのです。
どうしてそんなことが貴族の令嬢である私にできたのか、ですって?
それはこの世界に加護と呼ばれる神様の奇跡が存在し、私はその力を使うことができるからです。
我が国パリスタン王国のあるロマンシア大陸では、人々は必ず、数多いる神様の誰かに祝福されて生まれてきます。
普通は自分がどの神様から祝福されたのか気づくことはありません。けれどごく稀に、授かった祝福を自覚し、神々の力を発現できる者がいるのです。
その力は、加護と呼ばれています。
加護の力は、祝福を授けてくださった神様によって様々です。
私は時を司る神クロノワ様から祝福を受けているため、時間を加速させたり停滞させたりすることができます。
また、時空神クロノワ様の加護はとても稀少なので、私はパリスタン王家の保護を受けています。
そのため、私が数多の貴族を殴り飛ばした『舞踏会血の海事件』のあとも、一切お咎めがありませんでした。
「……失礼する」
あの舞踏会のことを思い出していた私の耳に、澄んだボーイソプラノが聞こえてきて、書斎のドアが開かれました。
入ってきたのは、執事姿の黒髪の少年。彼はティーポットを載せた台車を押しながら、こちらに向かって歩いてきます。
「……おかわり、そろそろいる頃かなと思って」
「ああ、ちょうどいい頃合いだった。ありがとう、ナナカ」
お兄様が労いの言葉をかけると、無表情のまま少年がこくりとうなずきます。
黒髪で琥珀色の瞳を持つ彼は、獣人族のナナカ。
彼との出会いもまた、なかなかに衝撃的なものでした。
期せずして撲殺パーティーになってしまった舞踏会のあと、ナナカは私の命を狙う暗殺者として、目の前に現れたのです。
ですが、それは彼の意思によるものではありませんでした。
彼は悪徳貴族の奴隷だったのです。
ナナカの胸元には、絶対服従を強制する奴隷の証――奴隷紋が刻まれていました。
それゆえに、ナナカは自分の意思とは無関係に、無理矢理働かされていたというわけですね。
事情を知った私は、加護の力を使ってナナカの奴隷紋を消してあげるかわりに、私を暗殺しようとした人物を教えろと取引を持ちかけました。
そうして得た情報をもとに首謀者を追い詰め、見事ブン殴って事件は解決。そのあとお兄様が「我が家の執事として働かないか」と彼をスカウトし、いまにいたるというわけです。
もともと真面目で几帳面な性格のうえ、手先も器用なナナカは、あっという間に執事の仕事を覚えて、いまやお兄様やお父様に重宝されています。
無愛想な言葉遣いは相変わらずですけどね。うふふ。
「そうだ。ナナカ、お前からも言ってやってくれ」
「……なんの話だ?」
「我が愚妹スカーレットがなにかを企んでいるようなのだが、温泉旅行に行くなどとデタラメを言って誤魔化そうとするのだ」
「……また?」
ナナカが呆れたような目で私を見つめてきます。
またとはなんですか、またとは。
私が嘘偽りを申したことなど、一度や二度くらいしかありません。
「レオお兄様は過保護がすぎるんですわ。ねえナナカ、貴方からも言ってくださらない? 『スカーレットは裏表のないお淑やかな淑女なのだから、謀などするはずがない』って。ね?」
清らかな笑みを浮かべながら、ナナカに語りかけます。
するとナナカは、私とお兄様の間で視線を行き来させてから、ふいにお兄様のほうへ歩み寄りました。そして、私に向き直ってこう言ったのです。
「……正直に言ったほうがいい。どうせすぐバレるんだから」
自分の主張が支持されて、お兄様がうむうむとうなずきます。
ナナカの裏切り者。もう今日はよしよししてあげませんからね。
「そう恨めしそうな顔をするな。ナナカとて、お前を心配して言っているのだぞ?」
お兄様の言葉に同意するように、ナナカがうなずいています。
「……スカーレットは、放っておくとなにをするかわからない。ゴドウィン事件の時だって、僕がついていくと言わなかったら、多分一人で乗り込んでいたし」
その名前を聞いた瞬間、彼のお肉を叩いた感触を思い出して、私の拳がうずうずと震えました。
ゴドウィン・ベネ・カーマイン様――我が国の元宰相であり、ナナカを仕向けて私を暗殺しようとした張本人です。
私が舞踏会で殴った貴族の中にどうやら彼の息子がいたらしく、その復讐を果たすべくナナカに暗殺を命じたのだとか。親バカにもほどがありますね。
さらにこのゴドウィン様、法で禁止された奴隷売買に手を出したり、汚職をもみ消したりと、悪逆の限りを尽くしていたのです。私が公衆の面前で婚約破棄されたのも、この方が裏で糸を引いていたせいでした。
世のため人のため、こんな所業を見過ごすわけにはまいりません。
そうして私は、鬱憤を晴らすのにちょうどいいサンドバッグ――ではなく、パリスタン王国にはびこる巨悪の権化を打ち倒すと決意したのでした。
「まったく、私の傍にはただでさえ手に負えないお方がいるというのに……お前にまで好き勝手に動かれては身が持たん」
「まあお兄様、心外ですわ。私はあの腹黒い金髪のお方のように、まわりくどい真似などいたしません。やるならば正々堂々、まっすぐ顔面に、ですわ」
「そもそもやるなと言って――っ! うっ、胃痛が……ナナカ、胃薬をくれ」
顔を歪めてお腹を押さえるお兄様。そんな彼に胃薬を手渡しながら、ナナカが小首を傾げました。
「……ところで、なぜさっきから二人とも、あの人の名前を伏せているんだ? 腹黒い金髪のお方って、第一王子のジュリア……むぐ」
しーっ、とナナカの唇に人差し指を当てて、お口をチャックさせます。
「めっ、ですわよ、ナナカ。聞いたことがあるでしょう、夜中に口笛を吹くと悪魔がやってくるという言い伝えを。あのお方もそれと同様です」
うかつに名前を口走ろうものなら、どこからか聞きつけて「私の陰口で盛り上がっているうつけ者がいるらしいな?」などと言いながら現れかねません。
「あのお方は地獄耳なのです。なにもしなくとも勝手に現れるというのに、名前など口にしては、召喚魔法で呼び寄せるようなものですよ。二人で家を抜け出した時のことを忘れましたか?」
あれは、いざゴドウィン様を成敗せんと王都に向かおうとした時。家を出た私とナナカの前に、あのお方は待っていましたとばかりに現れました。
名前を呼んではいけない金髪のお方――そう、パリスタン王国第一王子ジュリアス・フォン・パリスタン様です。
ジュリアス様は、私達がゴドウィン様をブン殴ろうとしていることを知り、「面白そうだから自分も一枚噛ませろ」と言い出しました。
「……でも、ジュリアスがいなかったら、あんなに早くゴドウィンに辿り着くことはできなかった。だから、そんなに目の敵にしたら可哀相……って、頭を撫でるな」
首を傾げながらブツブツと話すナナカが可愛かったので、とりあえず頭を撫でておきます。
そう。業腹なことですが、ジュリアス様はとても優秀でいらっしゃいました。
ゴドウィン様が主催していた奴隷オークションの情報をあっさりと手に入れたり、警備隊を指揮して彼を追い詰めたり――もしジュリアス様の協力がなければ、ゴドウィン様をブン殴るどころか、相見えることすらできなかったかもしれません。
本来であれば感謝すべきで、憎まれ口を叩くなどもってのほか。けれどあのお方は、私を散々からかった挙げ句、「貴女は最愛の玩具だ」などと言って乙女の気持ちを弄んだのです。それを考えれば、この程度の扱いで十分でしょう。
「どうしたスカーレット、突然黙り込んで。それに少し顔が赤くなっているようだが、風邪でも引いたのか?」
「……なんでもありませんわ。久しぶりに動いたので、ちょっと体温が上がっただけです」
心配そうにこちらを見るお兄様に、大丈夫だと言うように微笑みを向けました。
体調が万全でないのは事実ですので、嘘は言っておりません。
なにしろゴドウィン様を成敗するために潜入した奴隷オークションの会場では、悪徳貴族のみなさまやら邪魔をする兵士やらを、加護の力全開でブン殴りましたからね。
流石の私も体力、精神力ともに尽き果てて、それから一ヶ月は部屋から出ることすらできませんでした。あれから二ヶ月経ったいまでも、完全に回復しているとは言い切れません。
たくさんのお肉を殴ってストレス発散できたので、私としましては大満足でしたが。
「お兄様のほうこそ、体調はいかがですの? ここのところ本当にお忙しくされていたではありませんか」
奴隷オークションで悪徳貴族達が一斉に捕らえられた結果、パリスタン王国では大規模な人事革命が起こりました。
国王陛下とジュリアス様は、身分や性別にかかわらず、有能で勤勉な方々を積極的に要職に起用。そのせいでジュリアス様の部下であるお兄様は、二ヶ月にも及ぶ連続勤務を余儀なくされていました。
レオお兄様は先日やっと休暇に入り、生ける屍のようなお顔でヴァンディミオン公爵領にある本邸へ帰ってきたところです。
「ああ、おいたわしいレオお兄様。どこぞの腹黒い王子様に馬車馬のごとく働かされたせいで、最愛の妹を信じる気持ちを忘れてしまったのですね」
「私が忙しく働くはめになったのには、お前にも責任の一端があるということを、当然認識しているのだろうな、愚妹よ」
そう言って私を睨むお兄様を笑顔で誤魔化しつつ、彼の座る机に歩み寄ります。
雑談はさておき、そろそろ本題に入りましょう。
「ご覧ください、レオお兄様」
私は自らの銀髪を一房手にとって、その中の黒く染まっている部分をお兄様の目の前に差し出しました。
「消耗した加護の力はほとんど回復しましたが、この部分だけどうしても銀髪に戻らないのです。せっかくお兄様に綺麗だと言っていただいた髪ですのに。私、申し訳なくて……」
加護の力は強力であるが故に、デメリットも存在します。
それは力の種類や祝福を授けてくれた神様によって様々ですが、私の場合、使いすぎると身体機能が低下したり、このように髪の色が変わってしまったりすることがありました。
大抵は時間が経てば回復するものの、奴隷オークションの一件から二ヶ月経っても、一部の髪が黒く染まったまま戻っておりません。
思えばあの舞踏会から奴隷オークションにいたるまで、通常より加護を多用したにもかかわらず、まともに休む暇がありませんでした。髪の色が戻るまで時間がかかっているのは、きっとそのためでしょう。
「私に気を使う必要などない……だが、確かにこれは心配だな」
私の黒髪交じりの銀髪を手に取り、お兄様が目を伏せます。そして思案するかのように顎に手を当てながら言いました。
「……それで、湯治に行きたいということか」
「その通りでございます。以前、我が家に遊びに来てくださった友人に相談をしたところ、霊験あらたかな温泉宿をいくつか紹介していただきまして……」
私は地図を広げ、国の東西南北に位置する温泉の場所を指し示しながら、ルートを説明します。
すると、お兄様はなにかに思い至ったらしく、探るような視線を私に向けて口を開きました。
「……そういえばお前は、いつもこの時季になると、決まってどこかへ旅行に行きたがるな」
「そうでしたかしら。レオお兄様の気のせいでは?」
「間違いない。私は一度記憶したことは絶対に忘れないからな」
とぼける私に、疑惑に満ちたお兄様の視線が突き刺さります。
とりあえず、それらしいことを言って誤魔化してみましょうか。
勘の鋭いお兄様に通用するとはとても思えませんが……
「仕方ありませんね。白状いたします。実は──」
「もしや、聖女様を殴る機会をうかがっているわけではなかろうな?」
「……はい?」
お兄様がなにやらとんでもないことをおっしゃいました。
こんな言いがかりをつけられたら、本来は即座に否定したいところです。
しかしとりあえずはお兄様の言い分を聞いてみるとしましょうか。
「昔からお前はなにかと理由をつけては、傲慢な貴族や悪人を殴りたがるだろう?」
「世のため人のため、ですわ」
「聖女様を信仰している〝ディアナ聖教〟も、国やその他各所に多額の寄付を要求しているからな。お前の言う世のため人のために殴られる対象となっても、おかしくはないだろう?」
「……なるほど。一理ありますわね」
パリスタン王国には、ふたつの大きな宗教組織が存在します。
ひとつはここ数年の間に国の権力者たちを中心に信者を増やし、国教に認定されるまでにいたったパルミア教。
そしてもうひとつが、パリスタン王国建国当初から存在するディアナ聖教です。
パルミア教は女神パルミア様を信仰しているのに対し、ディアナ聖教は魔を祓う力を持った聖女ディアナ様を信仰の対象としています。
どちらの宗教が国教と呼ぶにふさわしいかと問われれば、ディアナ聖教だと私は答えるでしょう。
パルミア教は現在国教とされているものの、成金商人をトップにすえた、厳かな雰囲気の欠片もない宗教です。それよりも、古来よりこの地に根づいていて、民衆の支持も厚いディアナ聖教のほうがはるかに信頼できますからね。
ですが、ディアナ聖教とて完全に真っ白と言えるわけではありません。
ディアナ聖教は神ではなく人間を信仰しているうえ、先ほどお兄様が言った通り、多額の寄付金を国から受け取っているのです。
そのお金は、ディアナ聖教が国防にとって大事な役割を担っているからこそ提供されているもの。ですが、民衆はその事実を知らされていないため、昨今ではディアナ聖教のあり方に疑問を持つ人も増えており、パルミア教に改宗する方も少なくないとか。
もし私がディアナ聖教と国防の関係を詳しく知らなかったなら、彼らが宗教を利用してお金を騙し取っていると考えてもおかしくはないでしょう。
ですが……たとえ聖女様が私の拳を叩きつけたいような悪いお方だったとしても、それは絶対に不可能なのですよ、お兄様。
「毎年この時季に行われること――それは〝聖地巡礼〟だろう。もし私の心配が当たっていて、お前が〝聖地巡礼〟を機に聖女様を殴ろうなどと考えているのなら、絶対にやめておけ。あのお方の……聖女ディアナ様のお力は本物だ。実際にこの目で見た私が保証しよう」
お兄様の言う〝聖地巡礼〟とは、一年に一度、ディアナ聖教主導で行われている行事のことですね。
その内容は文字通り、聖女様を連れた一行が、東西南北それぞれの国境沿いにある聖地を巡り、とある儀式を行うというものです。
お兄様は去年、巡礼の一行に同行し、そこで直に儀式をご覧になりました。
「お兄様がそうおっしゃるのであれば、疑う余地はありませんね」
あっさりと肯定する私に、お兄様は眉間に皺を寄せて疑わしげな表情を浮かべます。
『悪徳宰相飛翔事件』以来、いままでにも増して疑り深くなっていらっしゃいますね。
大方、なんの躊躇もなく宰相様を殴った私であれば、聖女様であっても容赦なく殴るだろうと思っているのでしょう。
流石ですわ、お兄様。とてもよく私のことを理解なさっておいでです。ですがいまのところ、私が聖女様を殴る予定はございません。
「レオお兄様。聖女様は国民から愛され、国からも必要とされているお方です。表でも嫌われ、裏の顔も真っ黒だった宰相様とはまるで違います。そのようなお方を無闇に殴ろうなどとは、流石の私も考えておりませんよ。ご安心くださいませ」
落ち着いた調子で話す私に、お兄様はまだ訝しげな表情を向けています。
「それに私は本当に温泉旅行に出かけたいだけですのよ。いつもこの時季に……とおっしゃいますが、今はちょうど休暇の時季。それが聖地巡礼のタイミングと同じなのですから、お出かけしたくなる時季といつも重なってしまうだけですわ」
「……この件に関してなにひとつ、嘘偽りもやましいこともないと私に誓えるか?」
「誓いましょう」
しばし見つめ合ったあと、お兄様は深いため息をつかれます。
そして身体の力を抜いて椅子に深く腰掛けると、険のとれた穏やかな声で言いました。
「……わかった。温泉旅行を認めよう。だが、くれぐれも問題は起こさないよ──」
「ありがとうございます。では、早速出発するといたしますわ」
「……は?」
お兄様が唖然とした顔で、素っ頓狂な声を上げられます。
私はスカートを摘まんで優雅に一礼すると、微笑んで別れの言葉を口にしました。
「それではご機嫌よう、レオお兄様、ナナカ」
「ま、待て! 出発するって、いますぐに行く気か!?」
「……だいたいこうなることは読めていた。いってらっしゃい」
慌てて席から立ち上がろうとするお兄様と、諦めた顔で手を振るナナカ。そんな彼らに背を向けて、駆け足で書斎から廊下に出ます。
そのまま一足飛びに階段を駆け下りた私は、玄関から外へと飛び出しました。
本邸の中は大騒ぎになっていることでしょう。
しかし、いまの私はお兄様から外出の許可をいただいた自由の身。
何人たりとも止めることは敵いません。
だって奴隷オークションの一件以降、ほとんど家から出してもらえなかったんですもの。
少しくらい羽目を外しても、バチは当たらないでしょう?
と、そんな解放的な気分で本邸の正門をくぐり、我が家の敷地を出ますと――
そこには王家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が一台、待ち伏せするかのように停車しておりました。どうやら私の自由な時間はここまでのようです。
「すいぶんと遅かったな」
馬車の陰から出てきた金髪の殿方が、私の顔を見るなり憎まれ口を叩きます。
遅かったな、ではありません。
貴方とは王都で落ち合う予定だったはず。なのになぜわざわざここまで来たのでしょうね、このお方は。
予想するにお兄様から逃げてくる私を見たかったとか、そんな意地悪な理由でしょうけど。
まったく、相変わらずの腹黒っぷりでございますね――ジュリアス様は。
このたび旅行へ行きたいと言い出した本当の理由。それは、私が聖地巡礼に向かう一行のメンバーだからでした。
ジュリアス様は王族の代表として、今回の聖地巡礼を見届けるお立場でいらっしゃいます。そして実は私も、ディアナ聖教とは深い関わりがあり、巡礼に参加しなければならない立場。物心ついた頃より毎年巡礼の一行に同行しております。
けれど私が同行することは、聖地巡礼の関係者以外には明かせない秘密。
そのため、今年は領地でお留守番のお兄様には、温泉旅行に行くと伝えたのでした。
まあ、巡礼で訪れる先に霊験あらたかな温泉があるのは本当ですし、ついでに湯治もしたいと思っておりますので、嘘はついておりませんよ。
「淑女を待つのは殿方の務めでしょう? 大人しく王都で待つこともできないのですか?」
挑発的に微笑む私に、ジュリアス様はとびっきりの黒い笑みを浮かべて言いました。
「くくっ。貴女が淑女としての扱いを期待するような人だったとはな。面白い冗談だ」
「これでも私、公爵家の令嬢なのですけれど。まったく、相変わらず口の減らないお方ですわね」
「いい加減慣れろ。それが私の素だ」
もう慣れましたし、疑いようもありませんわ。貴方が腹黒王子だという事実はね。
「ちなみに今年は、どんな嘘をついてレオの追及を逃れてきたのだ?」
「人聞きが悪いですわね。私は嘘などついておりません。事実の通り、温泉旅行に行くと言って、ちゃんと許可をもらってきましたもの」
私の答えを聞いて、ジュリアス様がフッと鼻で笑います。
「確かに嘘ではないが、ものは言いようだな。真実を知ったレオがあとでどんな顔をするのか、いまから楽しみで仕方がないぞ。ククッ」
はい、出ました。これがこのお方の本性でございます。
人の苦悩する顔や、うろたえる顔を見るのがなによりも大好きという、サディスト腹黒王子。たまに甘い言葉をささやかれたとしても、決して騙されてはいけませんよ。私も改めて肝に銘じておきましょう。
「さて、立ち話はこれくらいにして、そろそろ王都へ出発するとしようか。私と一緒にいるところをレオに見られても面倒だろう?」
そもそも立ち話を始めたのは一体どなただったかしら?
と、無駄な応酬を重ねても疲れるだけですね。心の広い私は、ジュリアス様に「はいはいそうですね」と同意してあげます。
上手く殿方を立てるのも、淑女の役目ですからね。
「レディ、お手をどうぞ」
そう言って、ジュリアス様が芝居がかった仕草で手を差し出してきます。その手を取り、私は完璧かつ優雅な所作で馬車に乗り込みました。
さあ、まいりましょうか。
温泉旅行ならぬ、聖地巡礼の出発地点――王都グランヒルデへ。
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