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1巻
1-2
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直後、私はショックのあまり気絶しそうになりました。
私に婚約者がいるとは聞いておりました。
そしてそのお方が、この国の第二王子だということも。
私とて公爵家の娘。家が決めた相手と政略結婚することには、なんのためらいもございません。
たとえお相手の見た目に多少難があろうとも。性格的に気難しい方であろうとも。鉄の心をもってこらえましょう。
そもそもこの政略結婚を受け入れるべく、狂犬姫と呼ばれていた自分と決別し、夜会にも出席したのですから。
ですが、お父様。これはちょっとあんまりな仕打ちなのではないですか?
第二王子のカイル様が、挨拶もろくにできない、常識のないクソガキだったなんて、私は一言も聞いておりませんでしたよ?
「隠れても無駄だ! お前は今日から一生俺の付き人だからな、バカ者め!」
――こうして、私の地獄の日々は始まりました。
私が夜会に出席するたび、カイル様が執拗に付き纏ってくるようになったのです。
それも、ただ付き纏ってくるだけではありません。
時には人前で私のことを悪し様に罵倒してきたり。
また時には、お前の銀髪が気に食わないと髪を引っ張ってきたり。
ありとあらゆる地味な嫌がらせをしてくるようになったのです。
流石に目に余ったのか、注意してくれようとした大人もいました。けれど、『自分に逆らうとどうなるかわかっているのか』とカイル様が恫喝する始末。
結果、誰もが彼の行いを見て見ぬフリするように……
もちろん、お父様には婚約を白紙に戻してほしいと、何度も何度も懇願いたしました。
本来であれば、いち公爵家が王族との婚姻を白紙に戻すなど、恐れ多くて口にもできないことです。しかし、私に限ってはそれを口にできる、ある理由があったのですが――
お父様は、『王家との婚約故、それだけはできない』と、絶対に首を縦に振ってくれません。
その頃になると、夜会に出るのも嫌でした。けれど夜会を欠席すれば、カイル様は家まで押しかけてきそうです。それだけは絶対に阻止したくて、なんとか出席し続けました。
そんな辛い日々も一年、二年と続いていけば段々と慣れていくもの。
いつしか私は、カイル様にどんな悪口を言われようが、暴力を振るわれようが、まったく動じない鋼鉄の精神を身につけておりました。
やがて、なにをしても無反応な私に飽きたのか、カイル様は夜会に出席しなくなり、顔を合わせる機会は徐々に減っていったのです。しばしの間、私の怒りのゲージは増えることがありませんでした。
けれど時が流れて十五歳となり、学院に入学したところ――再び怒りに耐える日々が幕を開けました。
入学式の日の朝。
臙脂色の制服に身を包んだ私は、ふと壁にかけてある地図に目をやりました。
数多の創造神が塵芥から作ったと言われている、大陸ロマンシア。
この大陸には、大きな力と領土を持つ四つの大国が存在しています。
東の帝国ヴァンキッシュ。
西の神聖皇国エルドランド。
南の連合王国リンドブルグ。
北の公国ファルコニア。
これらの国々は、隣接する国とたびたび戦争を起こしては、領土を巡って血みどろの争いを繰り返してきました。
そんな中、四方をこの四大国に囲まれているにもかかわらず、滅ぼされずに残っている国があります。それが私の生まれ育った国、パリスタン王国でございました。
我が国は四大国のうち三国と同盟を結んでおり、外交政策はそれなりにうまくいっています。
これで内政も安定していれば我が国の将来も安泰と言えるのでしょうが……
パリスタン王国の内部は、王位を巡る争いで非常に乱れております。
王国には年を同じくする二人の王子がおり、正妃の息子である第一王子が次期国王になる予定でした。
ですが、不正を決して許さない第一王子の姿勢に、一部の悪徳貴族達は自分達の権益が脅かされると感じたらしく、愚かな第二王子を次期国王に祭り上げようとしたのです。
王位継承権を持つ二人の王子が十五歳になると、それまで水面下で行われていた争いが、当人そっちのけで激化し始めました。
そのおかげで、王宮内の勢力図は第一王子派と第二王子派で真っ二つに分かれることに。
それは王立貴族学院においても同じでした。
これから三年間、大変な毎日になるでしょうが、精々頑張ってご自分の派閥をまとめて下さいね、王子様方。と、私は完全に他人事のように思っておりました。
ところが、学院へ向かう馬車に乗った私に、お父様は厳しいお顔でおっしゃったのです。
「スカーレット。学院内においても、婚約者としてしっかりとカイル様を支えるのだぞ」
その瞬間、私の学院生活は終わりを告げました。
なんですかね、お父様は私にストレスで自殺でもさせたいのでしょうか。
昔からカイル様のことに関しては労いの言葉ひとつかけていただいたことがないのですが、私ってもしかしてお父様に嫌われていますか?
まあ、いいでしょう。私はもう昔の私ではありません。
クソガキだった王子のいじめに六年以上も耐え抜いたおかげで、どんなことがあろうとも動じない心の強さを手に入れましたからね。学院に通う三年間ぐらい、余裕で耐えてみせますよ。
不退転の決意を抱き、青空の下、学院の正門前でカイル様と久しぶりの再会を果たした私は――
「なに? 婚約者として私を支えるよう、ヴァンディミオン公爵に命じられただと? フン、ならば今日から貴様は私の奴隷だな! 拒否は認めぬ! いいな!」
付き人から奴隷にランクダウンしておりました。
あの、やっぱり私、この方無理です。チェンジしてもらっていいでしょうか。
しかし、無表情のまま心のうちで叫んだところで、私の声は誰にも届くことはなく。
私は怒りの感情をひたすら胸のうちに溜め込んでいきました。
朝は男子寮の前でカイル様を迎え、彼の教室まで送り届け、昼はカイル様の昼食を買いにわざわざ王都の街まで使いっ走りにさせられて。
夕方もまた、カイル様のクラスまで迎えに行き、寮まで送り届ける。
大嫌いな人間に対して、そのように付き人染みた真似をするだけでも大変苦痛です。
だというのに、顔を合わせるたびに罵倒され、人前で侮辱され……そんなことを毎日繰り返された私の心は、以前にも増して冷たく凍りついていきました。
いっそのことお父様に逆らって、カイル様をボコボコにしてしまえば楽にもなれたのでしょう。
けれど、七歳の頃からずっとこのいじめに耐え抜いてきたという、私のちっぽけな自尊心が、安易な暴力に走ることを許しませんでした。
だって、いますべてを投げ出してしまったら、これまでの苦労がすべて水の泡。
こうして耐える道を選んだ私は、その鬱憤をぶつけるかのように、ひたすら学業に取り組み始めました。
幼少期から我が家の家庭教師に散々しごかれてきたおかげで、剣術も魔法も得意だった私。ですが、怒りや恨みを昇華させたエネルギーというのは凄まじいもので、気づけばありとあらゆる科目において、学年でトップの成績を誇るようになっておりました。
そうなってくると、カイル様にいじめられている可哀相な婚約者として見られていた私の評価も、次第に変わっていきます。
厄介事に巻き込まれるのはごめんだと、誰からも話しかけられず孤立していた私ですが、ぽつりぽつりと人から声をかけられるように。
やがて学院一の才女として私の名が広まる頃には、すれ違う生徒の誰もが振り向いて、尊敬の眼差しを向けながら挨拶してくるようになっておりました。
二人だけですが親しい友人もでき、いつの間にか〝氷の薔薇〟などという、いかにも深窓の令嬢めいた二つ名で呼ばれるようにも。
他人に自分のことをどう思われようが、基本的に無関心だった私。
けれど貴族としての体面を気にするお父様やお母様にとっては、それはもう大事なことだったようで、わざわざよくやったぞと手紙を送ってくるほどでございました。
さて、そんな私の地位向上を快く思わないお方がおりました。
言わずもがな、カイル様でございます。
常にバカにし続けていた奴隷の私が、いつの間にか自分以上に注目を浴びる存在になっていたのですから、面白くないのは当然でしょう。
その頃のカイル様は、いわゆる第二王子派の貴族のご子息達とつるむようになっており、彼らと遊び呆けた結果、成績はガタ落ち。
特別科から一般科に落とされそうになっていたので、成績トップの私への怒りに拍車がかかったのでしょう。
そうしてある日、事件が起こります。
それはお昼休みのこと。
授業を終えた私が、クラスメイトの方々と話をしていますと、突然乱暴にドアが開かれました。
そこに立っていたのは、制服をだらしなく着崩したカイル様と、その取り巻きである生徒が数人。
カイル様は不機嫌そうな顔でこちらに歩いてきて、私の胸ぐらを掴むと、教室中に響き渡るような大声で叫びました。
「貴様! 俺の昼食も買いに行かず、こんなところでなに油を売っている!」
そのあまりの剣幕に、昼下がりの賑やかな教室内が一気に静まり返りました。そんなに早く昼食が食べたいのなら食堂に行けばいいのに、と誰もが思ったことでしょう。
当の私はと言いますと、ああ、またいつもの癇癪が始まったかと慣れたものです。
やんわりとカイル様の手を押さえながら、普段と変わらぬ調子でこう返しました。
「わかりました。いますぐ王都に出て買ってまいります」
使いっ走りをさせられるのは面倒ではありますが、比較的楽な部類の嫌がらせです。
最初の頃は買ってきたものに対してイチャモンをつけられ、何度も買い直しをさせられたので大変でした。
けれどそれでは自分がお昼ご飯を食べられないと気づいたのか、最近は文句を言われないようになりました。
当然、お金は私持ちですが。
「貴様! なんだその態度は! 俺を待たせておきながら謝罪のひとつもなしか!?」
「申し訳ございませんでした。以後気をつけます」
淡々とした私の態度が癇に障ったのか、カイル様は目を吊り上げると、お顔を真っ赤にして怒鳴り散らしました。
「それで謝っているつもりか! バカにしおって! 来い! 仕置きしてやる!」
乱暴に私の腕を引っ張って行こうとするカイル様。すると流石に見かねたのか、何人かのクラスメイトが立ち上がります。
それを見たカイル様は、唇の端を吊り上げ、自信満々な顔でおっしゃいました。
「なんだ貴様ら。この俺に……カイル・フォン・パリスタンに逆らうというのか? 俺が誰だかわかってやっているのだろうな?」
身分を振りかざした恫喝に、立ち上がった方々が怯みます。
私は彼らに向き直ると、いつも通りの無表情で言いました。
「私なら大丈夫ですから。みなさま、どうかお気になさらずに」
「ですが、スカーレット様……」
もう一度、大丈夫と落ち着いた口調でみなさんに告げます。
カイル様はそれすら気に食わないのか「来い!」と叫び、私の腕を引っ張って、無理矢理教室の外へと連れ出しました。
「こいつらが教師に告げ口しないか見張ってろ。シグルドは俺と来い」
シグルドと呼ばれた男子生徒以外の取り巻きを教室の外に残し、カイル様はそのまま私の腕を引っ張って行きます。
シグルド・フォーグレイブ。濃い青色の髪に、精悍な顔立ち。均整の取れた逞しい身体を持つ、騎士見習いの方でしたね。
カイル様といつもつるんでいらっしゃる取り巻きの一人で、確か騎士団長様のご子息でしたか。剣の腕に長けており、次期騎士団長候補とも言われているとか。
見た感じの印象では、とてもまともで誠実そうですのに、なぜカイル様とつるんでいらっしゃるのか、不思議でなりません。
ご家族でも人質に取られているのでしょうか。
そんなことを考えているうちに連れてこられたのは、人気のない特別科の校舎裏。背の高い木が生い茂っているため、隠れてなにかをするにはもってこいの場所でしょう。
カイル様はシグルド様に見張りを命じてから、私を校舎の壁の前に立たせました。
さて、今日はどんなお仕置きをされるのでしょうか。制服が皺にならないようなことならいいのですが。
「最近、少し成績がいいからと調子に乗っているそうだな」
「そのようなことはございません。普段通りに過ごしております」
「黙れ! 奴隷である貴様に口答えする権利はない!」
大人しく口をつぐみます。理不尽な物言いもいつものことですから。
ですが、今日は少しだけ、普段と様子が違うように見えました。
なにかあったのでしょうか。
「クソ! なぜこいつみたいなバカが特別科で、俺が一般科に落とされなければならない!」
ああ、そういうことですか。
ついにクラス落ちが決まったのですね、おめでとうございます。
誰がどう見ても自業自得であり、当然の結果ですね。まあ、それがわかっていればクラス落ちになどなっていないでしょうし、なんといいますか真性のバカですよね、カイル様は。
「貴様! いま内心、俺のことをバカにしただろう!」
「いえ、私はなにも」
「しらばっくれても無駄だ! 貴様のようなバカが考えていることなど俺にはすぐにわかる! 俺は天才だからな!」
根拠なき天才発言に、噴き出しそうになってしまいました。
どうしましょう、このお方、七歳の時よりもバカが進行しているじゃないですか。一体どうしてこうなってしまったのでしょう。
「だがバカにしていられるのもいまのうちだぞ? クク」
不意に、カイル様が懐から短剣を取り出しました。
これには流石の私も顔を顰めます。
「なにをなさるおつもりですか……?」
「前々から、貴様のその長い銀髪が気に食わなかったのだ。一般科への土産に、調子づいているバカ女の髪を持っていってやる!」
いままでなにを言われようが涼しい顔をしていた私も、この発言には戦慄しました。
毎日お手入れをしている、お気に入りのこの髪を……そのろくに手入れもしていないであろう、いかにも安物の短剣で切り落とそうと?
なんとふざけたことをほざきやがるのでしょうか、このバカ王子は。
私の髪に指一本でも触れてみなさい。容赦なくブチ殺しますよ。
「やめて下さい。人を呼びますよ」
「バカめ、誰も助けになど来るものか! 来たところで、俺が第二王子だと知って止められる者などいないわ!」
「ではお父様に言いつけます。女性の髪を無理矢理切るなんて、婚約の話が白紙に戻るかもしれませんよ」
「ヴァンディミオン公爵など所詮、我が父上の犬にすぎぬ! 抗議などできるものか! それに俺が認めぬ限り、婚約は白紙になどさせぬ! 貴様は一生俺の奴隷として生きるんだからな!」
校舎の壁に私を押さえつけて、カイル様が短剣を突きつけてきます。
こうなってはもう、我慢などと言ってられません。
髪は女の命。それを切ろうという者には死を覚悟してもらうしかないでしょう。
「……さようなら、カイル様」
下卑た笑みを浮かべるカイル様に、握りしめた拳を全力で叩きつけようとした、その時。
「――騒がしいな」
どこからか、気怠げな殿方の声が聞こえてきました。
「おちおち昼寝もできん。痴話喧嘩なら別の場所でやってくれないか」
「だ、誰だ!? どこにいる! 姿を見せろ!」
流石にこんなところを誰かに見られてはマズいと思ったのか、カイル様が慌て始めます。
寸前で殴るのを止められた私は、なんとなく不完全燃焼でもやもやしながら、声の聞こえてきた方向――カイル様の背後にある木の辺りを見上げました。
「……なんだ、誰かと思えば我が愚弟ではないか」
呆れたような声とともに、誰かが勢いよく木の上から降ってきます。
透き通るような金髪に、まるで天使のような美しいお顔。青い瞳は鋭い眼光を放っていて、その部分だけを見ればカイル様にそっくりでした。
そのお方は葉っぱまみれになった臙脂色の制服を軽く払うと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて、バカにしたようにおっしゃいます。
「下らないことばかりしていないで、少しは将来のために勉強にでも励んだらどうだ? そんなことだから一般科に落とされるのだぞ、愚か者め」
パリスタン王国第一王子、ジュリアス・フォン・パリスタン様。
同じクラスなのでお顔はよく拝見していたのですが……このようにお口が悪いとは存じ上げませんでした。
教室では比較的和やかに他の方とお喋りをしていたはず。
実は相当な腹黒さんなのでしょうか。
「だ、黙れ! そうやっていつもいつも、貴様は俺のことを見下して!」
「図星をさされてすぐに声を荒らげる。そういうところが愚かだと言っているのだ。いい加減に学べ」
ジュリアス様がため息をつきながら歩み寄ってくるのを見て、カイル様が狼狽えます。
そのお顔には普段の自信満々な様子など微塵もなく、額からは汗を垂らし、目をあちらこちらに泳がせておりました。
「そ、それ以上近づくんじゃない! この短剣が見えないのか!」
子供のように短剣をブンブン振り回すカイル様を無視して、ジュリアス様は私の前まで来て立ち止まります。そして興味深そうにこちらを一瞥すると、なにかを見透かしたかのようにフッと笑みを浮かべました。
なにかしら、その黒い笑みは。
もしや私が拳を握り込んでいるのを見て、殴ろうとしていたことに気づいたとか?
いえいえ、まさかそんなことは。私のようなか弱い女が殿方を殴るなんて、普通に考えればあり得ないものでしょう。
大丈夫、バレていませんわ。多分。
「確か貴女はヴァンディミオン公爵家のご令嬢だったか。弟が迷惑をかけたな。すまなかった」
「いえ、構いませんわ。いつものことですので」
サラリと返答すると、ジュリアス様が「なに?」と眉を顰めます。
「いつも、とは? 我が愚弟が自分の婚約者に対して子供染みた下らないちょっかいをかけているとは聞いていたが、まさか貴女は短剣を突きつけられて脅されるような行為を、日常的に受けているというのか? この愚か者から」
ジュリアス様に睨みつけられたカイル様は、ビクッと身体を震わせて、目を逸らしました。
本当に苦手なのですね、お兄様のことが。
「それは、私の口からはなんとも」
「おい、カイル。どうなんだ。事と次第によっては、ただではすまんぞ」
追い詰められたカイル様はその場に短剣を落とすと、真っ青になってブルブルと頭を横に振り、進退窮まった様子で叫びました。
「お、俺は悪くない! 全部その女が、スカーレットが悪いんだ! 俺の婚約者のくせに、俺を敬わないから! シグルド! どこに行った! この者を、ジュリアスをここから排除せよ!」
見張りをしていたシグルドがこちらに向かって駆けてきます。
「カイル様、その命令は聞けません」
近くに来るなり発せられたシグルド様のお言葉に、カイル様は呆然としたあと、真っ赤になって怒鳴ります。
「なぜだ! 貴様は俺の言うことが聞けないというのか!」
「ジュリアス様はカイル様と同じく王家の血を引くお方です。カイル様のお言葉に従いたいのはやまやまですが、ジュリアス様にもまた、俺は逆らうことができません。つまり――」
「お前は手詰まりということだ、愚弟よ」
そう告げられたカイル様は、ギリギリと歯ぎしりをして、悔しそうな形相で私を睨みつけてきました。
怖くもなんともないそのお顔を、しばらく無表情でじっと見つめます。するとカイル様は「覚えていろ」と捨てゼリフを吐いて去っていかれました。
これは、明日からまた面倒なことになりそうですね。困りました。
そう思っていると、なんでもないことのようにジュリアス様がおっしゃいました。
「安心していい。あれが貴女に直接的な危害を加えることは、もうなくなるだろう」
なにか手があるような言い方ですが、一体どうなさるおつもりなのでしょう。
国王陛下に告げ口でもなさるのかしら。
「助けていただきありがとうございました、ジュリアス様」
とりあえず深々とお辞儀をしておきます。
こうして助けていただいた以上は、まず謝辞を述べるのが筋というものでしょう。
「助かったのは、果たしてどちらのほうだったのかな」
「はい?」
首を傾げる私に、ジュリアス様がククッと黒い笑みを浮かべてつぶやきます。
「……もう少し放っておけば、もっと面白いものが見れただろうに、損をしたな」
やはりこのお方、私がカイル様を殴ろうとしていたことに気づいていましたね。
それに、私達のやりとりを最初から黙って見ていたのでしょう。
第一王子ジュリアス様、油断なりませんね。
「……ところで、ジュリアス様はなぜ木の上にいらっしゃったのですか?」
「昼休みに教室にいると、擦り寄ってくる輩がうるさいからな。ヤツらのつまらんおべっかを聞いて貴重な時間を無駄にするぐらいならば、ここで本でも読んでいたほうがマシだ」
この腹黒王子。いまのセリフを貴方の派閥の方々に是非聞かせてあげたいですね。
「だが、これからは教室で過ごすのも悪くなさそうだ。面白いものを見つけたからな」
「はあ、面白いものですか?」
「ああ。本なんかよりも、ずっと面白そうなものをな」
そうおっしゃったジュリアス様は、天使のような笑みを私に向けました。
この流れ……まさか、面白いものというのは私のことでしょうか。
――この事件をきっかけに、私は第二王子だけでなく第一王子にも目をつけられることになったのです。
私の怒りはますます膨らみ、ストレスも溜まるばかり。こんな面倒なことになるのであれば、最初から我慢せずに気に食わないお方を片っ端からブン殴っていればよかった……むしろ、これからは自分に正直に生きてもいいのでは?
ですが、そんなことをすれば家の名誉にも関わります。
色々と悩んだ末、結局私は本性を隠したまま、学院生活を送ることにしました。
私に婚約者がいるとは聞いておりました。
そしてそのお方が、この国の第二王子だということも。
私とて公爵家の娘。家が決めた相手と政略結婚することには、なんのためらいもございません。
たとえお相手の見た目に多少難があろうとも。性格的に気難しい方であろうとも。鉄の心をもってこらえましょう。
そもそもこの政略結婚を受け入れるべく、狂犬姫と呼ばれていた自分と決別し、夜会にも出席したのですから。
ですが、お父様。これはちょっとあんまりな仕打ちなのではないですか?
第二王子のカイル様が、挨拶もろくにできない、常識のないクソガキだったなんて、私は一言も聞いておりませんでしたよ?
「隠れても無駄だ! お前は今日から一生俺の付き人だからな、バカ者め!」
――こうして、私の地獄の日々は始まりました。
私が夜会に出席するたび、カイル様が執拗に付き纏ってくるようになったのです。
それも、ただ付き纏ってくるだけではありません。
時には人前で私のことを悪し様に罵倒してきたり。
また時には、お前の銀髪が気に食わないと髪を引っ張ってきたり。
ありとあらゆる地味な嫌がらせをしてくるようになったのです。
流石に目に余ったのか、注意してくれようとした大人もいました。けれど、『自分に逆らうとどうなるかわかっているのか』とカイル様が恫喝する始末。
結果、誰もが彼の行いを見て見ぬフリするように……
もちろん、お父様には婚約を白紙に戻してほしいと、何度も何度も懇願いたしました。
本来であれば、いち公爵家が王族との婚姻を白紙に戻すなど、恐れ多くて口にもできないことです。しかし、私に限ってはそれを口にできる、ある理由があったのですが――
お父様は、『王家との婚約故、それだけはできない』と、絶対に首を縦に振ってくれません。
その頃になると、夜会に出るのも嫌でした。けれど夜会を欠席すれば、カイル様は家まで押しかけてきそうです。それだけは絶対に阻止したくて、なんとか出席し続けました。
そんな辛い日々も一年、二年と続いていけば段々と慣れていくもの。
いつしか私は、カイル様にどんな悪口を言われようが、暴力を振るわれようが、まったく動じない鋼鉄の精神を身につけておりました。
やがて、なにをしても無反応な私に飽きたのか、カイル様は夜会に出席しなくなり、顔を合わせる機会は徐々に減っていったのです。しばしの間、私の怒りのゲージは増えることがありませんでした。
けれど時が流れて十五歳となり、学院に入学したところ――再び怒りに耐える日々が幕を開けました。
入学式の日の朝。
臙脂色の制服に身を包んだ私は、ふと壁にかけてある地図に目をやりました。
数多の創造神が塵芥から作ったと言われている、大陸ロマンシア。
この大陸には、大きな力と領土を持つ四つの大国が存在しています。
東の帝国ヴァンキッシュ。
西の神聖皇国エルドランド。
南の連合王国リンドブルグ。
北の公国ファルコニア。
これらの国々は、隣接する国とたびたび戦争を起こしては、領土を巡って血みどろの争いを繰り返してきました。
そんな中、四方をこの四大国に囲まれているにもかかわらず、滅ぼされずに残っている国があります。それが私の生まれ育った国、パリスタン王国でございました。
我が国は四大国のうち三国と同盟を結んでおり、外交政策はそれなりにうまくいっています。
これで内政も安定していれば我が国の将来も安泰と言えるのでしょうが……
パリスタン王国の内部は、王位を巡る争いで非常に乱れております。
王国には年を同じくする二人の王子がおり、正妃の息子である第一王子が次期国王になる予定でした。
ですが、不正を決して許さない第一王子の姿勢に、一部の悪徳貴族達は自分達の権益が脅かされると感じたらしく、愚かな第二王子を次期国王に祭り上げようとしたのです。
王位継承権を持つ二人の王子が十五歳になると、それまで水面下で行われていた争いが、当人そっちのけで激化し始めました。
そのおかげで、王宮内の勢力図は第一王子派と第二王子派で真っ二つに分かれることに。
それは王立貴族学院においても同じでした。
これから三年間、大変な毎日になるでしょうが、精々頑張ってご自分の派閥をまとめて下さいね、王子様方。と、私は完全に他人事のように思っておりました。
ところが、学院へ向かう馬車に乗った私に、お父様は厳しいお顔でおっしゃったのです。
「スカーレット。学院内においても、婚約者としてしっかりとカイル様を支えるのだぞ」
その瞬間、私の学院生活は終わりを告げました。
なんですかね、お父様は私にストレスで自殺でもさせたいのでしょうか。
昔からカイル様のことに関しては労いの言葉ひとつかけていただいたことがないのですが、私ってもしかしてお父様に嫌われていますか?
まあ、いいでしょう。私はもう昔の私ではありません。
クソガキだった王子のいじめに六年以上も耐え抜いたおかげで、どんなことがあろうとも動じない心の強さを手に入れましたからね。学院に通う三年間ぐらい、余裕で耐えてみせますよ。
不退転の決意を抱き、青空の下、学院の正門前でカイル様と久しぶりの再会を果たした私は――
「なに? 婚約者として私を支えるよう、ヴァンディミオン公爵に命じられただと? フン、ならば今日から貴様は私の奴隷だな! 拒否は認めぬ! いいな!」
付き人から奴隷にランクダウンしておりました。
あの、やっぱり私、この方無理です。チェンジしてもらっていいでしょうか。
しかし、無表情のまま心のうちで叫んだところで、私の声は誰にも届くことはなく。
私は怒りの感情をひたすら胸のうちに溜め込んでいきました。
朝は男子寮の前でカイル様を迎え、彼の教室まで送り届け、昼はカイル様の昼食を買いにわざわざ王都の街まで使いっ走りにさせられて。
夕方もまた、カイル様のクラスまで迎えに行き、寮まで送り届ける。
大嫌いな人間に対して、そのように付き人染みた真似をするだけでも大変苦痛です。
だというのに、顔を合わせるたびに罵倒され、人前で侮辱され……そんなことを毎日繰り返された私の心は、以前にも増して冷たく凍りついていきました。
いっそのことお父様に逆らって、カイル様をボコボコにしてしまえば楽にもなれたのでしょう。
けれど、七歳の頃からずっとこのいじめに耐え抜いてきたという、私のちっぽけな自尊心が、安易な暴力に走ることを許しませんでした。
だって、いますべてを投げ出してしまったら、これまでの苦労がすべて水の泡。
こうして耐える道を選んだ私は、その鬱憤をぶつけるかのように、ひたすら学業に取り組み始めました。
幼少期から我が家の家庭教師に散々しごかれてきたおかげで、剣術も魔法も得意だった私。ですが、怒りや恨みを昇華させたエネルギーというのは凄まじいもので、気づけばありとあらゆる科目において、学年でトップの成績を誇るようになっておりました。
そうなってくると、カイル様にいじめられている可哀相な婚約者として見られていた私の評価も、次第に変わっていきます。
厄介事に巻き込まれるのはごめんだと、誰からも話しかけられず孤立していた私ですが、ぽつりぽつりと人から声をかけられるように。
やがて学院一の才女として私の名が広まる頃には、すれ違う生徒の誰もが振り向いて、尊敬の眼差しを向けながら挨拶してくるようになっておりました。
二人だけですが親しい友人もでき、いつの間にか〝氷の薔薇〟などという、いかにも深窓の令嬢めいた二つ名で呼ばれるようにも。
他人に自分のことをどう思われようが、基本的に無関心だった私。
けれど貴族としての体面を気にするお父様やお母様にとっては、それはもう大事なことだったようで、わざわざよくやったぞと手紙を送ってくるほどでございました。
さて、そんな私の地位向上を快く思わないお方がおりました。
言わずもがな、カイル様でございます。
常にバカにし続けていた奴隷の私が、いつの間にか自分以上に注目を浴びる存在になっていたのですから、面白くないのは当然でしょう。
その頃のカイル様は、いわゆる第二王子派の貴族のご子息達とつるむようになっており、彼らと遊び呆けた結果、成績はガタ落ち。
特別科から一般科に落とされそうになっていたので、成績トップの私への怒りに拍車がかかったのでしょう。
そうしてある日、事件が起こります。
それはお昼休みのこと。
授業を終えた私が、クラスメイトの方々と話をしていますと、突然乱暴にドアが開かれました。
そこに立っていたのは、制服をだらしなく着崩したカイル様と、その取り巻きである生徒が数人。
カイル様は不機嫌そうな顔でこちらに歩いてきて、私の胸ぐらを掴むと、教室中に響き渡るような大声で叫びました。
「貴様! 俺の昼食も買いに行かず、こんなところでなに油を売っている!」
そのあまりの剣幕に、昼下がりの賑やかな教室内が一気に静まり返りました。そんなに早く昼食が食べたいのなら食堂に行けばいいのに、と誰もが思ったことでしょう。
当の私はと言いますと、ああ、またいつもの癇癪が始まったかと慣れたものです。
やんわりとカイル様の手を押さえながら、普段と変わらぬ調子でこう返しました。
「わかりました。いますぐ王都に出て買ってまいります」
使いっ走りをさせられるのは面倒ではありますが、比較的楽な部類の嫌がらせです。
最初の頃は買ってきたものに対してイチャモンをつけられ、何度も買い直しをさせられたので大変でした。
けれどそれでは自分がお昼ご飯を食べられないと気づいたのか、最近は文句を言われないようになりました。
当然、お金は私持ちですが。
「貴様! なんだその態度は! 俺を待たせておきながら謝罪のひとつもなしか!?」
「申し訳ございませんでした。以後気をつけます」
淡々とした私の態度が癇に障ったのか、カイル様は目を吊り上げると、お顔を真っ赤にして怒鳴り散らしました。
「それで謝っているつもりか! バカにしおって! 来い! 仕置きしてやる!」
乱暴に私の腕を引っ張って行こうとするカイル様。すると流石に見かねたのか、何人かのクラスメイトが立ち上がります。
それを見たカイル様は、唇の端を吊り上げ、自信満々な顔でおっしゃいました。
「なんだ貴様ら。この俺に……カイル・フォン・パリスタンに逆らうというのか? 俺が誰だかわかってやっているのだろうな?」
身分を振りかざした恫喝に、立ち上がった方々が怯みます。
私は彼らに向き直ると、いつも通りの無表情で言いました。
「私なら大丈夫ですから。みなさま、どうかお気になさらずに」
「ですが、スカーレット様……」
もう一度、大丈夫と落ち着いた口調でみなさんに告げます。
カイル様はそれすら気に食わないのか「来い!」と叫び、私の腕を引っ張って、無理矢理教室の外へと連れ出しました。
「こいつらが教師に告げ口しないか見張ってろ。シグルドは俺と来い」
シグルドと呼ばれた男子生徒以外の取り巻きを教室の外に残し、カイル様はそのまま私の腕を引っ張って行きます。
シグルド・フォーグレイブ。濃い青色の髪に、精悍な顔立ち。均整の取れた逞しい身体を持つ、騎士見習いの方でしたね。
カイル様といつもつるんでいらっしゃる取り巻きの一人で、確か騎士団長様のご子息でしたか。剣の腕に長けており、次期騎士団長候補とも言われているとか。
見た感じの印象では、とてもまともで誠実そうですのに、なぜカイル様とつるんでいらっしゃるのか、不思議でなりません。
ご家族でも人質に取られているのでしょうか。
そんなことを考えているうちに連れてこられたのは、人気のない特別科の校舎裏。背の高い木が生い茂っているため、隠れてなにかをするにはもってこいの場所でしょう。
カイル様はシグルド様に見張りを命じてから、私を校舎の壁の前に立たせました。
さて、今日はどんなお仕置きをされるのでしょうか。制服が皺にならないようなことならいいのですが。
「最近、少し成績がいいからと調子に乗っているそうだな」
「そのようなことはございません。普段通りに過ごしております」
「黙れ! 奴隷である貴様に口答えする権利はない!」
大人しく口をつぐみます。理不尽な物言いもいつものことですから。
ですが、今日は少しだけ、普段と様子が違うように見えました。
なにかあったのでしょうか。
「クソ! なぜこいつみたいなバカが特別科で、俺が一般科に落とされなければならない!」
ああ、そういうことですか。
ついにクラス落ちが決まったのですね、おめでとうございます。
誰がどう見ても自業自得であり、当然の結果ですね。まあ、それがわかっていればクラス落ちになどなっていないでしょうし、なんといいますか真性のバカですよね、カイル様は。
「貴様! いま内心、俺のことをバカにしただろう!」
「いえ、私はなにも」
「しらばっくれても無駄だ! 貴様のようなバカが考えていることなど俺にはすぐにわかる! 俺は天才だからな!」
根拠なき天才発言に、噴き出しそうになってしまいました。
どうしましょう、このお方、七歳の時よりもバカが進行しているじゃないですか。一体どうしてこうなってしまったのでしょう。
「だがバカにしていられるのもいまのうちだぞ? クク」
不意に、カイル様が懐から短剣を取り出しました。
これには流石の私も顔を顰めます。
「なにをなさるおつもりですか……?」
「前々から、貴様のその長い銀髪が気に食わなかったのだ。一般科への土産に、調子づいているバカ女の髪を持っていってやる!」
いままでなにを言われようが涼しい顔をしていた私も、この発言には戦慄しました。
毎日お手入れをしている、お気に入りのこの髪を……そのろくに手入れもしていないであろう、いかにも安物の短剣で切り落とそうと?
なんとふざけたことをほざきやがるのでしょうか、このバカ王子は。
私の髪に指一本でも触れてみなさい。容赦なくブチ殺しますよ。
「やめて下さい。人を呼びますよ」
「バカめ、誰も助けになど来るものか! 来たところで、俺が第二王子だと知って止められる者などいないわ!」
「ではお父様に言いつけます。女性の髪を無理矢理切るなんて、婚約の話が白紙に戻るかもしれませんよ」
「ヴァンディミオン公爵など所詮、我が父上の犬にすぎぬ! 抗議などできるものか! それに俺が認めぬ限り、婚約は白紙になどさせぬ! 貴様は一生俺の奴隷として生きるんだからな!」
校舎の壁に私を押さえつけて、カイル様が短剣を突きつけてきます。
こうなってはもう、我慢などと言ってられません。
髪は女の命。それを切ろうという者には死を覚悟してもらうしかないでしょう。
「……さようなら、カイル様」
下卑た笑みを浮かべるカイル様に、握りしめた拳を全力で叩きつけようとした、その時。
「――騒がしいな」
どこからか、気怠げな殿方の声が聞こえてきました。
「おちおち昼寝もできん。痴話喧嘩なら別の場所でやってくれないか」
「だ、誰だ!? どこにいる! 姿を見せろ!」
流石にこんなところを誰かに見られてはマズいと思ったのか、カイル様が慌て始めます。
寸前で殴るのを止められた私は、なんとなく不完全燃焼でもやもやしながら、声の聞こえてきた方向――カイル様の背後にある木の辺りを見上げました。
「……なんだ、誰かと思えば我が愚弟ではないか」
呆れたような声とともに、誰かが勢いよく木の上から降ってきます。
透き通るような金髪に、まるで天使のような美しいお顔。青い瞳は鋭い眼光を放っていて、その部分だけを見ればカイル様にそっくりでした。
そのお方は葉っぱまみれになった臙脂色の制服を軽く払うと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて、バカにしたようにおっしゃいます。
「下らないことばかりしていないで、少しは将来のために勉強にでも励んだらどうだ? そんなことだから一般科に落とされるのだぞ、愚か者め」
パリスタン王国第一王子、ジュリアス・フォン・パリスタン様。
同じクラスなのでお顔はよく拝見していたのですが……このようにお口が悪いとは存じ上げませんでした。
教室では比較的和やかに他の方とお喋りをしていたはず。
実は相当な腹黒さんなのでしょうか。
「だ、黙れ! そうやっていつもいつも、貴様は俺のことを見下して!」
「図星をさされてすぐに声を荒らげる。そういうところが愚かだと言っているのだ。いい加減に学べ」
ジュリアス様がため息をつきながら歩み寄ってくるのを見て、カイル様が狼狽えます。
そのお顔には普段の自信満々な様子など微塵もなく、額からは汗を垂らし、目をあちらこちらに泳がせておりました。
「そ、それ以上近づくんじゃない! この短剣が見えないのか!」
子供のように短剣をブンブン振り回すカイル様を無視して、ジュリアス様は私の前まで来て立ち止まります。そして興味深そうにこちらを一瞥すると、なにかを見透かしたかのようにフッと笑みを浮かべました。
なにかしら、その黒い笑みは。
もしや私が拳を握り込んでいるのを見て、殴ろうとしていたことに気づいたとか?
いえいえ、まさかそんなことは。私のようなか弱い女が殿方を殴るなんて、普通に考えればあり得ないものでしょう。
大丈夫、バレていませんわ。多分。
「確か貴女はヴァンディミオン公爵家のご令嬢だったか。弟が迷惑をかけたな。すまなかった」
「いえ、構いませんわ。いつものことですので」
サラリと返答すると、ジュリアス様が「なに?」と眉を顰めます。
「いつも、とは? 我が愚弟が自分の婚約者に対して子供染みた下らないちょっかいをかけているとは聞いていたが、まさか貴女は短剣を突きつけられて脅されるような行為を、日常的に受けているというのか? この愚か者から」
ジュリアス様に睨みつけられたカイル様は、ビクッと身体を震わせて、目を逸らしました。
本当に苦手なのですね、お兄様のことが。
「それは、私の口からはなんとも」
「おい、カイル。どうなんだ。事と次第によっては、ただではすまんぞ」
追い詰められたカイル様はその場に短剣を落とすと、真っ青になってブルブルと頭を横に振り、進退窮まった様子で叫びました。
「お、俺は悪くない! 全部その女が、スカーレットが悪いんだ! 俺の婚約者のくせに、俺を敬わないから! シグルド! どこに行った! この者を、ジュリアスをここから排除せよ!」
見張りをしていたシグルドがこちらに向かって駆けてきます。
「カイル様、その命令は聞けません」
近くに来るなり発せられたシグルド様のお言葉に、カイル様は呆然としたあと、真っ赤になって怒鳴ります。
「なぜだ! 貴様は俺の言うことが聞けないというのか!」
「ジュリアス様はカイル様と同じく王家の血を引くお方です。カイル様のお言葉に従いたいのはやまやまですが、ジュリアス様にもまた、俺は逆らうことができません。つまり――」
「お前は手詰まりということだ、愚弟よ」
そう告げられたカイル様は、ギリギリと歯ぎしりをして、悔しそうな形相で私を睨みつけてきました。
怖くもなんともないそのお顔を、しばらく無表情でじっと見つめます。するとカイル様は「覚えていろ」と捨てゼリフを吐いて去っていかれました。
これは、明日からまた面倒なことになりそうですね。困りました。
そう思っていると、なんでもないことのようにジュリアス様がおっしゃいました。
「安心していい。あれが貴女に直接的な危害を加えることは、もうなくなるだろう」
なにか手があるような言い方ですが、一体どうなさるおつもりなのでしょう。
国王陛下に告げ口でもなさるのかしら。
「助けていただきありがとうございました、ジュリアス様」
とりあえず深々とお辞儀をしておきます。
こうして助けていただいた以上は、まず謝辞を述べるのが筋というものでしょう。
「助かったのは、果たしてどちらのほうだったのかな」
「はい?」
首を傾げる私に、ジュリアス様がククッと黒い笑みを浮かべてつぶやきます。
「……もう少し放っておけば、もっと面白いものが見れただろうに、損をしたな」
やはりこのお方、私がカイル様を殴ろうとしていたことに気づいていましたね。
それに、私達のやりとりを最初から黙って見ていたのでしょう。
第一王子ジュリアス様、油断なりませんね。
「……ところで、ジュリアス様はなぜ木の上にいらっしゃったのですか?」
「昼休みに教室にいると、擦り寄ってくる輩がうるさいからな。ヤツらのつまらんおべっかを聞いて貴重な時間を無駄にするぐらいならば、ここで本でも読んでいたほうがマシだ」
この腹黒王子。いまのセリフを貴方の派閥の方々に是非聞かせてあげたいですね。
「だが、これからは教室で過ごすのも悪くなさそうだ。面白いものを見つけたからな」
「はあ、面白いものですか?」
「ああ。本なんかよりも、ずっと面白そうなものをな」
そうおっしゃったジュリアス様は、天使のような笑みを私に向けました。
この流れ……まさか、面白いものというのは私のことでしょうか。
――この事件をきっかけに、私は第二王子だけでなく第一王子にも目をつけられることになったのです。
私の怒りはますます膨らみ、ストレスも溜まるばかり。こんな面倒なことになるのであれば、最初から我慢せずに気に食わないお方を片っ端からブン殴っていればよかった……むしろ、これからは自分に正直に生きてもいいのでは?
ですが、そんなことをすれば家の名誉にも関わります。
色々と悩んだ末、結局私は本性を隠したまま、学院生活を送ることにしました。
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