紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月1 -這生-

2章 天蓋を仰ぐ星屑

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1.「贖罪は妄想であり願望であり欺瞞へと落ちる」


「いたた・・・」
ヴィシソワーズを口に含み飲み込む。食道から胃にかけて痛みが走る。何か食
べないと体力が持たないのはわかっているのだけど、流石に昨日の今日で灼帝
から受けた傷が回復するわけでもない。余計な勘ぐりを受けたくはないので、
本日はヒリルを振り切って独り昼食を摂る。

呪紋式は万能ではないので、一瞬で傷が治るなんて便利なものはない。あくま
で人が本来持つ能力を通常以上に高めるのが呪紋式の構成となる。現在発見さ
れている式の中に存在しないだけで実際は在るのかもしれない。もっとも、私
が存在を知らないだけで、国家機密レベルで存在している可能性もある。どっ
ちにしろ現在の私は知らないからどうにも出来ない。

そんなわけで、私の内臓は未だに悲鳴を上げている。楽しみの食事をまともに
摂れない。こんな状態にしてくれた灼帝はいつか同じ、いやそれ以上の苦痛に
見舞わせてあげよう。美味しいものが食べられないのがどれ程の苦痛か、思い
報せてあげる。そして食べられない状況の目の前で私が食べる。
これだ。
灼帝への報復を考えながら、その前にザイラン殴るのが先だということを思い
出した。胸糞悪い思いをし、更に上乗せされた上に灼帝に遊ばれるという苦痛。
その辺に至っては自分の未熟さなのは承知しており、痛感もしているのだが情
報が正確でなかった八つ当たりだけしておきたい。

それにしてもザイランとベイオス両者からの接触は未だに無い。ニュースで報
道されているので二件目の猟奇殺人が起きているのを知ってはいるが、ベイオ
スは一人目の犠牲者が関係者だから情報を入手出来た可能性があるが二人目に
関してはわからない。ベイオスの目的が復讐なのであれば、二人目の犠牲者に
関しての情報は不要であり、ノッフェス追跡が優先だろう。
ベイオスが警察の情報を手に入れられないとしても、ハクオリル商会の情報収
集能力の高さを考えれば、何かしらの情報を掴んでいても不思議ではないが接
触が無い以上どうすることも出来ない。
それよりもザイランだ。事件に関連性があるからと言って情報提供せざるをえ
ない状況なのに、二件目の事件があった後も連絡すらない。一件目の事件から
間もなく今度はアイキナ市警察の管轄であるリャスリエ橋で事件が起きたため
に、それどころではない状況なのかもしれない。人には調べておけと言いなが
ら情報を回さないのは怠慢よ。

事件に事件が重なり、ランチタイム時の報道番組でないテレビ番組でも、事件
の報道割合が増えてきている。流石に連続猟奇殺人ともなれば報道のネタとし
ては困らないのだろう。
因果な商売。
その猟奇殺人に紛れ友好会館の事件も報道されるかと、仕事が終った翌日から
気にはしているのだが、報道される気配はない。私見だけどおそらく、フルク
ナ会の事件が報道された関係上、対抗勢力として目され報道された所為なのか
わからないが、マストール興業が隠蔽したのではないだろうか。実際にそんな
ものあるかどうか判らないが、報道の影響力も馬鹿に出来ない。憶測とは言え
余計な邪推でしかない。そのため、二勢力の対抗意識が浮き彫りになるのを嫌
がっての状況なのではないかと思うことにする。報道されないのは、私として
はありがたいけど。
希望的観測。
まあ実際のところ、フルクナ会とマストール興業の牽制と争いと報じられては
いるけど、事件に関しては司法裁院絡みであって、本当に二勢力が争っている
かなど、私には知ったことではない。

ああもう、楽しみのランチタイムだというのに体は痛いし、事件に巻き込まれ
考えなくてもいい事を考えてしまう。もう少し平凡な日常を美味しいもの食べ
ながら過ごしたいのに。
とりあえず痛みは消せないけど事件のことは頭の中から霧散させ残りの食事を
することにした。
痛いけど。



「ザイランの阿呆は何してやがる。」
肩甲骨あたりまである茶色の長髪が、机を蹴った反動で揺れる。同じ色の瞳に
は嫌悪感を浮かばせている。机を蹴った男性は、薄い水色のスーツに白のシャ
ツで、ネクタイはしておらず左手はポケットに入れている。
「今すぐアイキナ警察から詳細情報を取り寄せろ。」
男性は振り返ると近くに居たもう一人の男性に大きめの声を出した。言われた
男性は呆れたような顔をした。
「ギーツェ警務、今朝も確認しましたが昨日取り寄せた情報以上にはありませ
んよ。我々ですらアルサリエ橋での事件に進展がないのですから。」
起きたばかりのアイキナ市警察局管轄の、リャスリエ橋事件の情報よりも自分
のところの管轄ですら進展が無い状況に、言った本人も顔に疲れを滲ませる。
「二日も経って何もなしかよ、ザイランの能無しめ。」
ギーツェはスーツの左内ポケットから右手で煙草の箱をを取り出すと、一本抜
いてズボンの左ポケットから手を抜き、握っていた着火機をで火を点ける。一
呼吸を大きく吸い、紫煙を溜め息混じりに吐き出す。
「ギーツェ警務、室内禁煙ですよ。」
「うるせ。」
ギーツェより若く見える警務は、腰に左手を当て半眼になった青い瞳を床に落
としつつ金色の髪に右手を置いた。言ってもしょうがないかといった態度をと
る。いつものことなので、諦めがその態度に現れていた。
「ルルフェット、今日リャスリエ橋の現場と周辺の聞き込みを分所の警察員連
れて行って来い。」
「いいんですか?」
ルルフェットは本当にアイキナ市警察の管轄を勝手に荒らしていいのか疑問を
浮かべる。疑問も何もまだ、お互いがお互いの管轄を自由に捜査できる許可は
出ていないのだが、自分の保身を考えればギーツェの無茶振りを無視出来ない
ところである。橋の様子を確認したり、手前での調査くらいであれば自管轄だ
から問題ないだろうと。それに、ここで逆らったら自分が的になるが、もしア
イキナ市警察の管轄での捜査を行った場合、ギーツェが上司なので上からの小
言はギーツェに降るだろうという打算がルルフェットにはあった。
しかし、お互いの管轄で捜査が出来るようになったとしても、勝手に荒される
のはお互い嫌がるので一応了承は取って行うが、何のための管轄越えかと思う
ところもある。お互い自分の縄張り意識があり、渋々了承しているのが面倒く
さいと、ルルフェットは思っていた。

「構わん、ついでにザイランが居たら殴っとけ。」
「また無茶を・・・。」
ルルフェットは呆れた顔をして部屋を後にした。ザイラン警務とギーツェ警務
の犬猿の仲は両署内でも有名な話だが、いい加減にして欲しいとルルフェット
は思う。だがそれはルルフェットだけに関したところではなく知りえる局員皆
が思うところだった。



白金色の髪の毛に、右目が薄青の瞳で左目が金色の瞳を持つ青年が豪奢な机の
前に座している。歳の頃なら二十代後半くらいだが雰囲気は温和で落ち着いた
感じを出している。濃紺のスーツにシルバーグレーのネクタイ、白のシャツは
皺も寄れも無い。
青年は机の上にある水差しからグラスに水を注ぐと口に運ぶ。口内を潤すと言
葉を漏らした。
「アリータ、ラウマカーラ教国カンサガエ司祭の動きは。」
青年の座る椅子の背後は窓になっていて、部屋が高い位置にあるのか外にある
街並みが一望できる。その部屋の片隅に黒髪の女性が佇んでいた。髪と同じく
黒のパンツスーツスタイルで、シャツのボタンは上から二つまでが外れており
透き通るような白い肌が見えている。アリータと呼ばれた女性は一礼すると青
年に、装いの中でも際立つ真紅の目を向け口を開く。
「リンハイア様の仰った通りの範疇かと。」
「そう。」
リンハイアと呼ばれた青年は、特に感慨もなく微笑んで一言漏らしただけだっ
た。リンハイアの豪奢な机の上には【執政統括】と書かれたプレートが置いて
ある。
「カンサガエ司祭はしたたかな男だよ。つい最近まで名前すら浮上させず水面
下で動いていたのだから。他国とはいえ私も気づくのが遅れた。」
リンハイアはグラスから水を口内に流し込む。
「現教皇であるマハトカベス・アマーリュトはもともとの高齢はあるだろうけ
ど、長くは無い。」
アリータは組んでいた腕の右手を顎に添え首を傾げる。頭の後ろで一纏めにし
た、背中まである黒髪がゆっくり揺れる。
「それは、老衰ではなく人の悪意によって死ぬと?」
リンハイアは否定も肯定もせず、ただ微笑んでいる。
「問題はその後なのだけど、カンサガエ司祭は地盤を固めてしまっている為、
現状では次の教皇はまず間違いなく彼になる。」
アリータの問いに答えることなく、話を進めたリンハイアの微笑が曇る。そも
そも人の悪意によってなどという問いに対して答えなど存在しない。敢えてそ
の意を持たせるとするならば、それは結果論として付随するものだとリンハイ
アは思う。
「一週間から十日のうちにラウマカーラ教国の体制が一変する。」
リンハイアは曇らせた表情から若干厳しい表情へ推移させる。
「それに伴い更に一週間以内には近隣との情勢にも変化が生じる。」
アリータは表情にこそ出さなかったが、真紅の瞳には驚きを浮かばせていた。
確かに教皇が崩御した場合、国の主が死に新しい主に入れ替わるのだから国内
だけでも騒然とするだろう。主が変われば体制も変わるし国内外への影響もあ
り、情勢が変化するのは当然のことなのだが、驚くべきはそこではなくその期
間、あまりに早すぎるのではとアリータ思う。だが、リンハイアが言ったので
あればそこに信を置くため、アリータの真紅の瞳からはすぐに驚きの色は消え
ていた。
「カンサガエ司祭は野心が強すぎる。故に私としては教皇に収まって欲しくは
なかったのだけど。」
リンハイアの表情から厳しさは消えたが曇りに変化はなく、手持無沙汰に握っ
ていたグラスに視線を落とす。
「それは、ラウマカーラ教国との友好関係に亀裂が入る可能性があると?」
友好関係に亀裂、つまり戦争と言いたかったが、はっきりと言えず遠回しにア
リータは言った。アリータの言葉にリンハイアは肯定しようとしたがやめた。
リンハイアとしては思考を巡らし状況を推察しはするが、言葉に出すときは確
定した時のみと決めているからだ。

仮説は真実と成りえない、故にどんなに信憑性が高かろうとそれはあくまで真
実には届かないから。故に仮説により指示を出すわけにはいかないし、戯言で
も自分の立場の発言が威力を持っているのを知っているため、下手に発言出来
ないことはもどかしいなとも、リンハイア思う。ただ、憶測や推察で判断をす
ることは間違いであると。

「とはいえ、真実が見えてからでは手遅れになる可能性の方が高いため私は予
防線を張りに行こうかと思っているのだけど。」
やはりアリータの質問には答えず、リンハイアはいつもの微笑に戻りアリータ
に視線を向ける。アリータはすぐに理解し頭を下げる。自分の質問にリンハイ
アからの答えはなくとも、自分の主が答えない時はまだ確定事項ではないので
あろうことは、アリータもわかっていることなので気にはしていない。それが
解なのだと思っている。
「わかりました、護衛の方はすぐに手配します。」
「アリータは司法裁院側に回ってくれないか?」
アリータは疑問顔になる。普段であれば、護衛と共にいつも通り着いて行くも
のだと思っていた。
「ハイリ老は頭を使って動くタイプではないのと、司法裁院との関連性を公に
知られてはまずいのでね。例の件を知ってはいるだろうけど、待ってはいられ
ないのが現状でね、こちらで動いたほうが早い。」
アリータは頷いたがもう一つ疑問を口にする。
「それは構いませんが。」
「大丈夫、ハイリ老には伝えておくよ。」
アリータの疑問を最後まで聞かずにリンハイアは言葉を挟んだ。アリータは頷
くと静かに消えていった、気配とともに。
「私は安穏と過ごしたいのに、なかなかそうはさせてもらえないのが悲しい現
実だね。」
リンハイアは呟くと、水を口に含み椅子の背もたれに体を預け目を瞑った。



目の前にある黒に近い焦げ茶色で円形の塊からは香ばしいカカオの香りが漂っ
ている。その塊を左手に持ったフォークで抑え右手のナイフで半分に切れ目を
入れ左右に多少開く。中からは黒く暖かいとろみのある液体がゆっくりと溢れ
広がっていく。濃厚で甘いカカオの香りがを嗅ぎつつ、更に一口大に切りそれ
を口に運ぶ。
焼けた感触と暖かい濃厚なショコラの香りと味が口の中を埋めていく。フォン
ダンショコラを考えた人間には敬意を抱く。熱で融解してしまうショコラを、
暖かいまま食べれるというのが凄い。飲むではなく。
私は一口目を飲み込むと、一緒に頼んだ紅茶を口に含む。アールグレイオレン
ジペコの冷たい紅茶は、しっかりとしたアールグレイ独特の味だが優しい味わ
いになっている。濃厚なショコラの後には、冷たいこの紅茶は口の中を別の空
間に色を変える。また、フォンダンショコラの付け合せで、オレンジ―ピール
が付いてくるがこれがまたいい。少し乗せて食べると飽きさせない。カカオと
オレンジが合うのは当たり前だが、これが暖かい紅茶だとフォンダンショコラ
の濃厚さが強く出てしまう。故に冷たい紅茶が合うと思うのだが、私はこのフ
ォンダンショコラと冷たいアールグレイオレンジペコの組み合わせ絶妙だと思
っている。

「幸せそうな顔は凄くいいと思うのよ。」
私の至福のひと時を強引に現世に呼び戻すヒリルの声。
「だからなんでランチの時なの。」
私はヒリルの疑問にしばし考え込む。以前も思ったがランチに一般的にいわれ
る主菜を食べる必要がないと思うから。それが普通でしょ?とか思わない。お
店はその風潮に合わせなければ商売にならないから、ランチセットは沿ってい
いるのだと思う。だが、私の当たり前は食べたいものを食べる。なので考えた
あとヒリルを見て疑問に首を傾げる。
「え、いや、言ってる意味がわからない的な反応やめて。無言で・・・」
ちょっと可哀想な気がするのでフォローだけしておく。
「私は食べたいものを食べたいだけで、食を楽しむなら今これを食べたら気持
ちが幸せになれると思ったものを食べてるだけだから。」
と言って笑顔を向ける。
「ミリアがそれでいいならいいんだけどね。」
ヒリルも笑顔を向け、自分が食べていた渡り蟹のリングイネ・トマトクリーム
を食べる作業に戻った。
あれはあれで美味しそう。

ヒリルは食事をしながら店のテレビに視線を向けている。私はそれよりも二件
目の事件から既に三日経っているのにザイランからもベイオスからも連絡が無
いことの方が気がかりだった。
本業も入っていないため、ここ三日程は普通の事務員生活を送っている。楽な
のは楽なのだけど、いい加減不安にもなってくる。早くこんな嫌な事件を終わ
らせていつもの生活に戻りたいのに、なんの進展もない現状を考えると嫌な予
感しかしない。
いっそのこと無かったことにしてくれないかな。そして司法裁院からノッフェ
スの居場所確定情報が流れてきて、仕事をこなして完了。ザイランは知ったこ
ではないし、ベイオスとは会ってなかったことにしておけば円満だ。
とはいかないよな。

思慮に耽っていると何時の間にかヒリルがテレビではなくこちらを見ていた。
「何か悩み事?」
しまった。あまり気取られたくは無かったのだけど、つい最近立て込んでいた
状況と現状の差に考え込んでしまっていた。
「ん~、そう言えば最近事件の報道も少なくなったなと思って。まだ解決もし
ていないのにと思ってね。」
何とか違和感がないように切り抜けたつもり。
「そうよね、進展が無いのかな。時間的な割合確かに減ったよね。」
捜査の進展が無いせいか、進展していながら警察局が情報を出し渋っているの
かは不明だが、情報を得られない以上毎日同じ情報を流し続けるわけにもいか
ないのだろう。時事なんてそんなものだろう。
「そう、物騒な事件は早く終わってほしいのに。」
「だよね~。」
話の流れとしては上手く回避できた。

その後何事もなかったように食事を続け、ランチを終えて仕事に戻る。



お風呂上りに冷蔵庫を開け麦酒の缶を取り出すとその場で栓を開けて口の中に
流し込む。
「ぷはぁー。」
仕事から帰ってお風呂上りに飲む麦酒は気分がいい。一口目の後に吐き出す声
と吐息は、一緒にいろんな思いを吐き出しているようだ。気分がすっきりして
いろんなことがどうでもいい気分になる。だから、ストレス発散で仕事帰りに
飲む人多いんだろうな。
リビングに移動してソファに座るとテレビを点ける。映像の左上には緊急速報
と表示されていて、他の放映局を確認するもどこも同じ話題ばかりを報道して
いる。私が仕事から帰りお風呂に入っている間もずっとこの話題だったのだろ
う。
報道の内容はラウマカーラ教皇の崩御だった。
私にとっては他国の事、というよりはこのグラドリア国の国王が逝去したとこ
ろで興味はない。おそらく大勢の国民がそうだろう、いつもの生活に変化が出
ることなどないし、変わらず生きていくのが当たり前だからだ。故にこの報道
自体に私はさして興味もない。どちらかというと、ラウマカーラ教皇崩御の所
為でテレビを見ていてもつまらない。

ソファに座り麦酒を飲んでいると部屋の中の呼び鈴が鳴る。呼び鈴といっても
電子音なのだがマンションの入り口に誰か来たらしい。もう夜も十時を過ぎて
いるというのに、誰よまったく。
呼び鈴が鳴っている機械の応答釦を押すと、小さな液晶にマンションの入り口
が映し出される。映っていたのはベイオスだった。
「どうも、こんばんは。」
爽やかな笑顔で挨拶される。
いや、もう私寛ぎ状態なんですけど。
「前回の場所でお待ちしております。」
用件だけ告げるとマンションの出口に向かっていく姿が映像に映っている。
こっちの都合は!?
聞けよ。
とはいえ、私としては行かざるをえないのはわかっているが、普通聞くでしょ
うよ。私は缶に残っていた麦酒を飲み干すと、着替えて出かける準備を始めた。
最近、何の情報もなく悶々としていたところだし、報道もラウマカーラ教皇の
崩御番組ばかりでちょうど退屈していたのは確かだ。
準備が終わると私は玄関を出て、扉の二重施錠を掛けた。
そういえばあの喫茶店の名前、前回見てなかったな。

珈琲の香りが立ち込める店内に入ると既にベイオスが珈琲を飲んでいる。相変
わらず客は居ない。
私は席に着くとメニューを確認して飲み物を注文する。前回来た時に一応見て
次に注文するものを大体決めてはいるが、念のため確認する。ベイオスは特に
話を切り出すでもなく、こちらに視線すら向けずに珈琲を飲みながら小型端末
を操作している。私から話を切り出すつもりは無いので、メニューを再度開い
て食べ物を見てみることにした。
しまった、スイーツも美味しそうなのが揃っているが、頼んだ飲み物に合わせ
ると食べたい物がない。合うものが無いのではなく今の気分として食べたいと
思わないだけで。いやしかし、どうしようか。

「お待たせいたしました、フレーバード・オペラで御座います。」
マスターがカップとティーポットを置いて下がっていく。食べ物を考えている
間に飲み物が来てしまったので今日は諦めることにした。次はしっかりティー
タイムを想定して来なければならない。それと、出来ればもっと早い時間がい
いいな。
ティーポットから既に甘い香りが漂っている、私はティーポットを右手に取り
カップに注ごうとしたとき
「先日の話の続きで・・・」
ベイオスが話始めたので私は左手を翳し遮る。
「一口目味わうまで待って。」
自分は飲んでるからいいだろうけど、私はまだ飲みもしてない。無粋な奴め。
ベイオスは笑顔を浮かべたまま右手でどうぞと促してくる。
よし。
カップに注ぐとガナッシュの香りが一気に立ち昇る。とても甘い香りに若干幸
せ気分を味わいつつ口に含むと、鼻まで甘い香りに占領される。舌の上には多
少濃い目の紅茶の味が広がっていき、紅茶の渋みとガナッシュの甘い香りが混
じり程よい世界が口の中に創造される。
とりあえず一口目を堪能した私はベイオスの方を見る。
「よし、いいわよ。」
私の我侭反応に笑顔を崩すことなく、ベイオスは話し始める。
「単刀直入に言いますと、ノッフェスの居場所が判明しました。」
は!?
警察局も血眼になって探しているであろうノッフェスの居場所を見つけたとい
うベイオスの表情は笑顔のままだったが、瞳はそうではなかった。前回会った
時もそうだが、何故か違和感を感じる。
しかし、警察局より先に見つけるって、警察局の威信に関わる問題なのは言う
までもない。というよりは、ハクオリル商会の情報網がそれを上回っていると
言った方がいいのだろうか。どちらにしろ、これで一つ進展があったわけだが
このまま話の流れでいくと警察局が関連性を見つけていない場合、本当に事件
が迷宮入りしてしまう。
というか、一つ進展どころかいろいろすっ飛ばして結論に辿りついたような感
覚だ。
「そう。で、私はどうすればいいの?」
判明したはいいが、その先の情報を促す。それを聞かなければ今後私は何をす
ればいいのかが不明だ。
「明後日居場所に案内します。当然、私も立ち会いますので。」
「それはおかしな話ね。」
疑問でしかない。そもそも居場所が判明しているのであれば、私に関与せず自
分の目的を果たしてしまえばいい。わざわざ私に情報を回すだけ時間の無駄だ
し、何より復讐が目的ならば見つけた時点で果たしに行く方が納得がいく。そ
れにノッフェスが武闘派だとは聞いたことがない。
私の言葉にベイオスの眼に鋭さが宿ったような気がする。
「そもそも、捕獲に協力する時点では話は通る。人手が要るのだから。だけど、
居場所が判明しているのであればハクオリル商会随一のあなたであれば捕獲な
ど造作もないはず。」
暫しの間、ベイオスは表情を曇らせ口を開く。
「公にはされていませんが、ノッフェスは猟奇殺人者であると同時にかなりの
猛者です。それを見越してミリアさんにお願いしたつもりなのですが、言葉が
足りなかったですね。」
強いのであれば、ハクオリル商会から必要な人数を連れていけばいいだけなの
ではないか。
いや、違う。
「つまり、死んでも商会にとって痛手にならない選択が私か。」
ベイオスは笑みを浮かべ頷いた。それ以前に、ハクリオル商会は関係ないので
はないのか?目的が個人的なことなら、商会の人間を使う訳にはいかないだろ
うし、それで死人が出ればベイオスの立場に関わる。そう考えれば私を使う意
味はあるのか。
「それにね、彼女を死なせた自分の罪、命を奪ったノッフェスの罪、それらは
贖われなければならない。」
何を宗教染みたことを。
「あなたがどうしようと、私の情報を保証し金額さえ払ってもらえれば私は問
題ない。」
私にとってベイオスの都合などどうでもいい。早いところ司法裁院の仕事を終
らせたいのもあるし、仮にノッフェスが事件を起こしたのであれば、これ以上
の犠牲者を出さなくて済む。
「それはお約束しますよ。今回の事は私事ですので、商会の人手を使うのは個
人的に都合が良くないのもありますし。」
やはり個人的か。その方が合点がいく。しかし、本来であればこんなことに付
き合いたくはない。贖うなど、生者の妄想でしかない。
死者は何も語らないから、死者に対し何かをしようなど生者の都合で左右され
ているにすぎない。何かをしてあげたいという気持ちは大切だ。それは個人が
故人に対する思いから創られているのだから。だが、それを贖罪という言葉に
置き換えるのは生者の傲慢だ。

ベイオスは珈琲を飲み干すと、スーツの胸ポケットから一枚の紙片を取り出し
私の前に置く。紙片は折りたたまれていた。
「集合時間と場所です。」
それだけ言うと背を向けて席から離れていく。そして会計を済ませ店を出て行
った。
相変わらず自分勝手な。
しかし、私にはベイオスに手を貸さざるをえない状況なのは変わらない。私も
紅茶を飲み終わると店を出た。今回もご丁寧に私の分の料金も払い済みだった。
店の扉を出た私は、店の看板を確認する。【アリア】と書かれていた。
名前か?
いかにも、個人店でよくありそうな名前で、知らない人にとっては意味がわか
らない名称だった。とりあえず名前は覚えたので、時間が出来たらゆっくりテ
ィータイムを楽しみにこようと思いその場を去った。



広い豪奢な部屋に数々の調度品が並べられ壁には高そうな絵画が飾られている。
部屋の両脇には棚が置かれ、その上にも高そうな壺、皿、花瓶等の骨董品まで
もが並べられている。中には何かわからないような物体もある。
部屋の中央には楕円形の円卓が置かれており、それを囲むように十人ほどの男
女が座っている。皆一様に頭には円筒状の帽子を被り、白の長衣に、金の刺繍
が入った、肩から少しはみ出るくらいの肩掛け、ポンチョのような布を纏って
いる。集まった面々の表情はそれぞれ違うが、一貫して言えるのは皆一様に苦
い顔をしている。ただ一人を除いては。
「始めに鎮魂葬送の儀を執り行う日程についてだが、通例であれば崩御の一週
間後と決まっているが、各々問題無いであろう?」
一人の男、歳の頃なら四十代後半で顔には生気が満ちている。唯一苦い顔をし
ていない男が口を開く。
「カンサガエ司祭、何故あなたが取り仕切っている。本来であれば教皇の側近
であるハナノグ教使が行うべきであろう。」
カンサガエが口火を切ったことに対し、老齢でありカンサガエと同じ格好をし
た男が口を開く。
「よいのだフラノル司祭。此度の議席進行に関してはカンサガエ司祭に儂から
依頼しておる故。皆の者も此度の件はそれにて、儂が始めにその旨伝えなんだ
のが悪かった。」
先程カンサガエ司祭に対し抗議を上げたフラノル司祭に対し、ハナノグ教使が
答え他の出席者に対しても問題が無いことを伝える。カンサガエやフラノルの
服装は同じだが、教使は被り物が同じ円筒ではあるが、先端が後方に流れ先か
らは金糸銀糸がポニーテールのように流れていた。
鎮魂葬送に関してはカンサガエ司会のもと通例どおり行うわれ、日程から各々
担当まで決められた。

「鎮魂葬送の件はこれにて、本題に入ろうかと思うておるが各々が気にかけて
いるであろう次代教皇じゃが。」
鎮魂葬送の儀に関して一通り決まった後、ハナノグ教使が話題を変える。今回
の議席の本題である次代教皇の件に話を振った。出席している面々の殆どがこ
ちらの話題が本命であるのは間違いない。と、それぞれの表情が物語っていた。
それを口にする者はいなかったが。故マハトカベス教皇の鎮魂葬送よりも生き
ている側の今後が皆一様に重要なことであるのだろう。

ラウマカーラ教国での教皇選定は現教皇により任命される古典的な方法を執っ
ている。しかし現教皇が何らかの理由によりその前に崩御した場合は十人の司
祭である十司と、二人の側近である教使により協議される。
周囲の国では多種多様ではあるが、民を混じえた選定方式で国の代表を決める
民主制を執っているところが多いが、ラウマカーラ教国に至っては古式な方法
である。

「本来であればマハトカベス教皇選定のもと、戴教式が執り行われるがマハト
カベス教皇が崩御したとあっては選定方式になる。」
出席者はハナノグ教使の言葉を黙ったまま聞いている。
「ところではあるが。」
ハナノグ教使は一旦言葉を止め周囲を伺うと、驚いた顔をしている者もいれば
早く続きをと促しているような顔もある。共通して言えることは皆次の言葉を
待っているところだった。
「長く病床にあり戴教式は出来ないが、選定はしたいとの言葉があり直筆によ
り書簡を預かっている。」
ハナノグ教使の言葉により周囲がざわめく中、ハナノグ教使は薄型の木箱を取
り出す。黒い光沢のある塗薬が塗られた上に、金塗料で複雑な模様が描かれた
箱の蓋にハナノグ教使は手を添え周囲を見渡す。一同がその箱に注目していた。
「これは我とホトワス教使が立会いの下、故マハトカベス教皇が直筆にて記し
たものであり、現に至るまで中身は確認しておらぬ故我らも中身に関しては与
り知らぬこと、前もって承知するよう。」
周囲を一瞥し全員が頷き合意することを確認すると、ハナノグ教使は箱の蓋を
開けて一枚の紙を取り出し、一呼吸おいてから読み始める。

 我 ラウマカーラ教皇の名に於いて此に記すは次代教皇の名なり
 カンサガエ・プリュー
 教皇の命により異を唱えるなかれ 全ては教皇の裁定が成すものなり
 マハトカベス・アマーリュト

読み終わったハナノグ教使は遺書を頭上に掲げ、場に居る出席者に見えるよう
にする。周囲が騒然とする中、教皇に命じられたカンサガエは特に表情も変え
ず座している。
「まずは教皇、最初に成すことは故マハトカベス教皇の鎮魂葬送の儀である。」
カンサガエは深く頭を下げる。
「重々承知しております。」
頭を上げたカンサガエは、表情は変わらぬままハナノグ教使とホトワス教使に
目を合わせ口を開く。
「ハナノグ教使、ホトワス教使には故マハトカベス教皇同様ご助力を頂きたく
思います。」
再び頭を下げたカンサガエに対し、両教使は頷く。両教使が頷いた直後、勢い
よく椅子を倒して立ち上がった司祭の一人が表情を怒りに変え口を開く。
「儂には、この不徳の徒を教皇として認めることは出来ぬ!」
カンサガエを指差し、憤怒の形相をもって怒鳴る司祭。
「トマハ司祭、それはどの意をもっての言動か。」
ハナノグ教使がトマハ司祭を睨み付けながら口を開く。トマハ司祭の言葉に周
囲の司祭達は驚きと困惑の表情をし、事の成り行きを見守っている。
「これは故マハトカベス教皇による裁定ぞ、それを愚弄するか。」
変わってホトワス教使が言い放つ。が、トマハ司祭は怒りに手を震わせカンサ
ガエ司祭に怒りの目を向けたままで、ハナノグ教使とホトワス教使の強い口調
にも見向きしない。
「この不徳の徒は、よりによって教皇に毒を盛り亡き者とした。それでも次代
教皇として認められるというのか!」
トマハ司祭の発言に周囲が一瞬静まり返る。突然の発言に一同驚きが隠せずに
黙したままでいる。
「何の根拠をもっての発言か、仮にその様な不徳の徒が教皇として裁定される
とは思えぬが。」
ハナノグ教使が冷静に返す。それにより一同の態度も落ち着きを取り戻してい
く。トマハ司祭もそれ以上の言を発することもなく、追及も出来ず黙している
為ハナノグ教使は今回の議を閉めた。

トマハ司祭の言動により少なからず、他の司祭達にいらぬ疑惑や疑念を与えた
のは間違いない。トマハ司祭としては、水面に小石を投げ波紋を描くことで良
かった。生まれた疑念や疑惑はすぐに消えはしない。何も無ければその波紋は
やがて静かな水面に戻るだろうと。が、その波が大きくなった時はそれはそれ
でいいと。
ハナノグ教使は今回その中で議を終らせたが、これはこれでなんとかしなけれ
ばならないと思案していた。どちらにせよ、次の議席時までにはそれなりの答
えを用意しなければ、トマハ司祭が生んだ波紋は膨らみ、生まれた疑念は大き
なうねりに成りかねないと考えていた。

「カンサガエ司祭、情報が漏れているようだが。」
カンサガエの司祭室で、応接用の椅子に座るハナノグ教使がカンサガエに話を
振る。
「件に関わっている人間は我ら二人とタッカスル司祭だけの筈なのだが。一体
何処からの情報かは不明だが対処をを考えねばならないな。」
カンサガエは考え込む素振りをした。実際の所、情報の出所ははっきりとして
いない為対処のしようがない。であれば、これを逆に利用する手を考えるほう
が早いのではと。無理に鎮めようと足掻けば、絡め捕られる危険性もあるが、
乗りこなせば風向きも変えられる可能性はある。
「ここでトマハ司祭に事故でも起きた場合、立場が悪いのこちらだしな。」
ハナノグ教使の言葉に、カンサガエ司祭は同意する。言葉にされずともそんな
危険を侵せるはずもない。
「このことに関しては、私の方で考慮する故。」
ハナノグ教使はカンサガエの言葉を聞くと、これ以上の進展は現段階でないと
踏みカンサガエ司祭の部屋を後にする。カンサガエはそれを気にもせず、今後
に対し思慮を巡らせていた。



「ハイリ老は今日も元気そうだね。」
グラドリア国城内の廊下ですれ違う直前で、リンハイアはハイリに声をかけた。
「統括の若造は今日も何を考えているかわからぬの。」
不敵な笑みを浮かべハイリが嫌味を込めて返す。ハイリは威圧を込めて笑みを
帰したのだが、リンハイアは気にせず微笑を浮かべたままだった。
「ラウマカーラの件はご存知かとは思いますが、ハイリ老にお願いがありまし
て。」
ハイリから笑みが消え真剣な表情になる。特に考えることもせずに話しの続き
をリンハイアに促した。
「国内のことはこちらにて対応しようと考慮しております。そのため、私の抱
えを動かしたくアリータに協力頂ければと。」
「あの小娘であれば問題なかろう。」
ハイリは即答した。人を見る目と決断力は確かなのだが、もう少し考慮も必要
なのではとリンハイアは思わないでもないが、この決断力により国軍を支えて
いるのも事実であることもわかっている。
「それと、ハイリ老には今後の外戦対応をお願いしたいと。」
ハイリは怪訝な顔して、リンハイアに静かな目線を向ける。
「戦争か。」
リンハイアは微笑んだまま、肯定も否定もしない。
「さて、あまり推察の域を出ないことは口にしたくはありませんが、今から話
す内容は、個人的な雑談ということにしてください。」
ハイリは黙って頷いた。リンハイアがこの歳で執政統括を行っている理由をよ
く解っていたらだ。
「極力そうならないように手を打っているつもりではいるのですがね、なかな
か人というのは難しい。かの国の司祭殿はかなりしたたかだったため、多少後
手に廻ってしまいまして。」
ハイリは軽く笑みを漏らすと、この若造が手を打って駄目だったのなら、現状
この国内でそれ以上の事を成せる人物は居ないであろうと考える。若造とはい
え、ハイリとしてはそれくらいにこの若い執政統括を評価してはいる。
「先日、アイキナとユルフォーブに行って来たが国内の混乱はどうする?」
わからぬ先の事より、現在グラドリア国内で起きている問題に対して、どう対
処するのか、ハイリは確認してみた。
「その為のアリータですが、私も思うところがありその件に関しては私どもで
対処致しますので。」
ハイリは頷くとその場を後にした。相変わらず余談のない人だとリンハイアは
思うが、いくら城内とはいえ長話も良くない。誰が何処で聞いているかもわか
らない上、内容的に外に漏れても困る内容であるのは間違いない。
「さて、今の所出来る布石も概ね終ったことだし、私はアイキナ市に向かわね
ば。」
そういえばハイリ老は、アイキナとユルフォーブと言っていたが、何故その二
市だったのだろうか。疑問に思っても答えはわからないので、思案せずにリン
ハイアは去るハイリに一瞥を向けるとその場を離れた。

リンハイアが城を出た時には、いつの間にか二人の男女が後ろに付いていた。
アリータが手配したであろう二人は、秘書のようにリンハイアの後ろに付き従
っていた。スーツ姿で付き従う二人の男女は、執政統括が管轄する執務諜員な
のであり、その存在も公にされておらず一部の国員しか知らない。所有権も執
統括のみなので、この諜員はリンハイアの権限でしか動かせない。
「車は既に回してありますので、そのままお進み下さい。」
後ろに付く男性の方が口を開いた。
「ありがとう、用意がいいね。」
リンハイアは振り向きもせず、柔らかに答える。
「いえ。それと現地での宿泊施設も予約が済んでおりますので、本日はそちら
での宿泊となります。」
アリータの手配の良さがうかがえる。任せておいても問題ないという信頼があ
るからこそとリンハイアは思っている。
「翌日の予定は伺っていないのですが、如何致しますか?」
後ろにいる男性が、続けて口を開いた。
「当日は私が現地で指示するから、気にしなくていいよ。」
リンハイアは後ろを振り向きもせず、軽く手を上げてみせる。付き従った二人
は承知の意を込めて一礼するが、リンハイアは気にもしていない。

車の前まで着くと、運転手が後部席のドアを開けて頭を垂れる。リンハイアは
後部座席に乗り込む。続き、付き従っていた女性が乗ったところで、運転手は
ドアを閉めると、運転席に回る。助手席には男性が自分でドアを開け乗り込ん
だので、運転手は運転席のドアを開け乗り込む。
運転手が全員の安全装置を確認すると、既に目的地は伝えられているらしく、
無言のままアイキナ市に向かって車を出した。




2.「人は大地を蹂躙し、意は天より蹂躙する」


大地に根を生やし地と陽の恩恵を受けた野菜。酸味と甘みが心地よいトマトに
口から鼻に抜ける爽やかなスイートバジルの香り。大地の恵みを受けた穀物を
食べ育った豚から生まれたベーコン。
ベーコンとトマトバジルの冷製パスタ、ベーコンの脂身はトマトの酸味とバジ
ルの香りでさっぱりしている。そこに塩味が丁度いい。パスタはやはり冷製の
定番カッペリーニなのでよく絡む。これを生み出す人の技術には恐れ入るがそ
れはあくまで人としての視点でしかない。自然の恩恵をここまで受けた人間は
自然に何を還して上げられるのだろうか。
「ねぇミリア、そのパスタちょっと頂戴。」
自然の恵みを感じている私に容赦ない言葉が降り注ぐ。
「いいけど、ヒリルのも頂戴ね。」
実はその言葉を待っていたような気もする。ヒリルが食べる海の幸トマト・ア
ラビアータ風はスパイシーな赤唐辛子と大蒜の香り、魚介の香りが鼻を擽り食
欲をそそる。あのムール貝の乗ったパスタを食べたいと思わずして人と言える
のか。と、思うほどに。
「いいよ。」
私とヒリルは皿を交換してそれぞれのパスタを食べる。そして容赦なく三つし
か乗っていないムール貝の一つを頬張る。
うまい。
烏賊、浅利、ムール貝、海老の魚介出汁が絡む、トマトソースが大蒜の香りと
ともに口内を満たす。それを咀嚼していると後から来るピリッとした辛みが味
を引き締めて纏まる。
「おいしい。」
そう言った私に、ヒリルが抗議の視線を向けてくる。
「あ、私が楽しみに取っておいてるムール貝食べた!」
やっぱ駄目だったか。しかし、もう食べてしまったものは仕方が無い。代わり
に私が十分堪能しておいたから安心して。とは口に出さず脳内に留めておく。
「いや、いいんだけどね。」
私が食べたことへの罪悪感、無いけど固まった素振りを見せていると、ヒリル
は特に気にした風でもなく笑顔を見せる。
「こっちも美味しいね。」
冷製パスタを食べたヒリルが満足そうに言う。交換した皿をお互い戻し、ラン
チを続ける。
ランチが美味しいのはいいとして、私は今夜のノッフェス確保に対し気が向い
てしまってあまり集中出来ない。思う存分堪能しているように思うかもしれな
いが、それは気のせい。ノッフェスが武闘派なのであれば、私の方もそれなり
に準備が必要だし、他にも懸念点がある。
それもこれも、情報量が少なすぎるという点が一番の問題なのだが、結局今日
までザイランからの情報も無い。警察から情報も来ないし、ベイオスからは居
場所が判ったことと武闘派ということのみ。腑に落ちない点が多い気がするの
だが、情報量が少ないために何も結びつかない。ザイランの怠慢は後で殴ると
き割増しにしておかなきゃ。
報道を見ている限りでは、警察局の捜査にも進展がないのだろう。それについ
てはザイランから連絡が無い時点でわかっていることなのだが、あまりにも今
回の事件は情報が少ない。犯人が周到なのか、警察局の捜査が悪いのか不明だ
が私にとってはこの状態すら疑わしい。情報がまったく無い等、逆に何かあり
ますと語っているように感じてしまう。
それは人間特有の考えなのかもしれないが。
ここで考えていても結論は出ないのでとりあえずランチに専念することにした。



私は家に帰るとお風呂に入り休憩する。とりあえず風呂上りに麦酒の缶を開け
一息入れる。どうせ待ち合わせ時間は深夜零時なので、短時間勤務の私は家に
帰るのは夕方だから時間が余っている。かと言って、ティータイムなどしたら
幸せ気分をぶっ壊して外出しなければならなくなる。
「そういえば、晩御飯食べてないや。」
流石に深夜に動くなら何か食べてないと辛いな。私は冷蔵庫の中身を確認した
が特に何もなかった。冷凍庫に、冷凍保存食である茄子とトマトのパスタを見
つけ取り出す。一般的によく見かけれるグラレイの冷凍保存食だ。グラドリア
冷凍食品というなんの捻りもない社名の商品を私は加熱器に入れ温める。温ま
った美味くもないパスタを、麦酒を飲みつつ食べながら報道を眺めていた。
というか、零時って次の日仕事つらいわ。肌にも良くないし。
一瞬仮眠を取ろうかとも思ったが私はさほど寝起きが良いわけではないのでや
めておくことにする。
報道を眺めていると先日のラウマカーラ教皇の崩御に続き、新しい教皇が決ま
ったこととその教皇による前教皇の鎮魂葬送の日程が報道されいた。興味も無
いので、私は今夜に向けて持っていく薬莢を選んでいた。薬莢には複雑な呪紋
式が記術されている。
雪華と紅月に薬莢を装填する度に思うがこの小銃、一般的な呪紋式用の小銃は
単発銃なのだがそれは不便と言えば不便なのだ。が、そもそも効果が薬莢に記
術されているため単発でないと使えない。使用する順番が決められている時や
同じ効果の薬莢を連続で使用する時にだけ複数装填がいいなと思うだけで普段
はそれ程困らない。というか、そういう状況に陥ったことも無いし、陥ったら
陥ったでそれは嫌なことだ。

ぼんやりテレビを見ていると何時の間にか十時近くになっている。着替えなが
ら紙片に書いてあった場所を思い出し確認していく。場所はサハナフ工業地区
のソリューイ駅付近にある公園と書いてあり、公園の場所は簡単な手書き地図
が描かれていた。
あまり駅付近は好まないのだけど、サハナフ工業地区に行くのが初めてなので
地理がよくわからない。昼間勤めている社の人間が居ないとも限らないが、そ
の辺含めて不安ではある。方向としてはメクルキ商業地区の反対になるのだが、
距離的には変わらないから一時間も走れば着きそうだ。
私は準備が終ると窓から飛び降りてサハナフ工業地区に向けて出発した。



公園に着いて辺りを見回すも誰も居ない。時間は零時少し前。公園はそれ程小
さくは無いが、入り口付近に街灯が一つのみしかないため全体的に暗い。工業
地区であるためか、駅周りもそうだが公園に至ってもまったく人通りがない。
夜間操業している工場等もあると思うのだが、やはり昼間仕事するのがメイン
だからか、夜の安全性は考慮されていないのだろう。例えば、事件があっても
朝までは発見されない確率が高そう。
「今晩は。」
薄暗い中、公園に設置された椅子に座っていると、突然横から声を掛けられる。
周辺の治安に思考を巡らせていたので、余計びっくりする。
「気配絶って近づくのやめて。」
横に立っているベイオスの方を向いて言ったはいいが、声を掛けられるまで気
づかなかった。ベイオスはハクオリル商会随一の武闘派と言われるだけあって
相当出来る。というか、気配に気づかなかったことで、先日の苦い経験が思い
出されて嫌な気分。学習能力が無いみたいじゃない。
「流石にこれからノッフェス確保に向かうのですから、私も態勢は整えておか
ねばなりませんので。」
ベイオスは笑顔を作ってはいたが、雰囲気はまったく笑っていない。以前私に
は勝てない等と言ってはいたが、それも嘘くさい。現段階でベイオスの実力を
計ることは不可能だから。
「早速ですが潜伏先に向かいましょう。ここから歩いて十分程のアランド鉄鋼
廃工場です。」
「わかったわ。」

一週間かそこらでは市内を虱潰しに探したところで、偶然でも重ならない限り
一廃工場にいる人間を探すのは確かに厳しい。しかしどんなに夜人気が無いと
はいえ、生活していればいずれ足がつく。潜伏先を移転しない限り不安との闘
いになると思うのだが、脱走してそんな生活してまでノッフェスは人を殺した
いのだろうか。
いや、本人にとっては結果死んでいるという考えの可能性もある。だけどノッ
フェスの気持ちなど解りはしなのだから無駄な疑問だ。別に解りたくもないし。
その前に考えを別方向に向けよう、偶然の重なりとは思ったがそもそも事象は
必然の上に成り立っていると考えるのが自然だ。であればノッフェスの潜伏先
を見つけられない警察局は、やはりハクオリル商会の情報網に劣っているのだ
ろう。この間、この話を聞いたときから何かがひっかかっているのだが、それ
が明確にならない所が気持ち悪い。
「何か考え事ですか?」
ベイオスの後を歩いていたのだが突然声を掛けられ考えが霧散する。故意に邪
魔してるんじゃないでしょうね。こいつ。
「ノッフェスの考えが解らないなと思ってね。」
とりあえず適当な疑問で流す。適当と言っても少し前に思ったことではあるの
だけど。ベイオスは怪訝な顔をする。
「そんな事、考えても仕方がないと思いますが。どちらかと言えば、解りたく
ない。」
私はベイオスの言葉に頷いた。確かにそうなのだが今回の事件に関してはそれ
は関係しているように思えるは気のせいだろうか。
「ちなみに、現地に着いた後ですが当初の予定通り私はあくまで立会いですの
で、ノッフェスの確保はあなにお願いします。」
あくまで参戦しないという意思表示。
「わかってる。」
ノッフェスがどれ程の手練かは不明だが、ハイリのような化け物であればもっ
と噂や伝聞が変わっているはず。私一人でもなんとかなるだろうし、もし駄目
だったとしてもベイオスがなんとかするだろう。どちらにしろ、この狂気に満
ちた殺人事件が終わるのであればそれに越したことはない。そう、こんな事件、
早く終わって欲しい。
「着きましたよ。」
ベイオスの言葉に意識を正面の建物に向けると、入り口の門の横にアランド鉄
鋼の文字が刻まれたプレートが設えてある。

工場に着くまでの間、普通に歩いてきたのだがまったく人に会わなかった。流
石に深夜零時を過ぎているのに、工場地区を歩く人間など怪しいだけの気はす
るが。可能性として警察員の巡回があってもいいような気はする。それはベイ
オスが調べたのかもしれない。それに関してはお互い、人目に付きたくないだ
ろうと、想像する。誰にも会わないというのは、私にとっても都合がいいのだ
けれど。
工場は廃棄されてそんなに経っていなのだろうか、そこまで廃れた感じはしな
い。そもそも興味が無いので一工場が廃棄になって報道されようと、その仕事
や会社に関わっていない限りは気に留めないのが普通だと思う。
閉鎖された工場の門はしっかりと閉められ、ご丁寧に鎖に錠前まで付いている。

「壁、越えて侵入しますね。流石に廃工場で警備はないでしょうけど、ノッフ
ェスの罠とかは可能性があるので、私が先に入ります。」
言い終わると同時に軽く跳躍したベイオスは壁の頂上に手を掛け、掛けた手で
自分の体を引いて宙返りするように壁の向こう側に消えた。身のこなしも見事
なものだ。
しかし、やけに親切ね。
普通、危険の可能性があるのであれば私を先に行かせると思うのだけど。私は
ベイオスに続いて周囲を確認した後、壁の上に乗ると敷地内を確認する。下を
見るとベイオスが罠は無いと含めて頷いたので、私は壁から飛び降り着地する。
「部屋は調べがついていますので、そこまで移動しましょう。そこに居れば後
はお願いします。」
ベイオスが小声で言ってくる。後はお願いってことは、今後会話も無く進むの
だろうと受け取る。まぁ、話して気づかれても間抜けな話なので、妥当なとこ
ろだろう。ベイオスが警戒しながら進む後ろを付いて行きつつ、私も罠の可能
性が高いと思い個別に確認する。

ベイオスの案内で部屋の前まで到着する。廃工場となってそれ程時間は経って
いないと外見は思わされたが結構埃が積もっていて辛かった。
マスク欲しい。
当然、埃が積もっている中を歩けば足跡が着くのだが、人が歩いた後は沢山残
っていたのでおそらくノッフェスであろうと思う。しかし、足跡がある場所を
普通歩くか、当人に出くわす可能性があるだろうが。
まったく。
と、思いつつも行動時間を調べて大丈夫だと判断したのか、本人が通る場所で
あれば罠も無いと踏んだのか知らないが、それであればノッフェスも間抜けと
しか思えない。
待て、それすら罠か。
疑いだすと限が無いのでやめた。

ベイオスが扉を指差して侵入を促す。この先罠があっても自力で回避するしか
ないか。というか、ベイオスの対応の方が親切な気はするが。
私は意を決して扉を蹴り開ける。爆発物は部屋の中にいる人物に危険を及ぼす
可能性があるし、対応するのも難しいので無いと判断の上。扉が開いたと同時
に中に飛び込む。当然、視界の先にノッフェスであろう後ろ向きの人物を捉え
ている。
飛び込みと同時に身体を捻る。視界に捉えていた人物が振り向きざまに投げた
ナイフを避ける。ナイフをこちらに投げたことで、振り向いた人物が確認出来
た、やはりノッフェス。罠である可能性も考慮していたがベイオスの情報は正
しかった。
ナイフを避けつつ私は逃げようとしていたノッフェスとの間合い一気にを詰め、
左足で踏み込み左手で鳩尾に向かって掌底を放つ。が、こちらを向いていたノ
ッフェスは私から見て右に身体を捌いて避ける。私は掌底とほぼ同時に出した
右手の手刀をノッフェスの首元に叩きいれる。吸い込まれるように入った手刀
は、ノッフェスを気絶させるのには充分だった。
最初の掌底は誘いだったのが、こんな単純な手に引っかかるとは本当に強いの
だろうかと疑問を浮かべつつ私は左半身を後方に回転させ身を捩る。後ろから
繰り出されたナイフを避けると同時にその反動で、右足の膝蹴りを放とうとし
たがそのまま後ろに跳び退る。
「いい勘してますね。」
そこにはいつもと変わらない笑みを浮かべたベイオスが居た。

私は後ろから右手で突いてきたベイオスのナイフを避け、膝蹴りを入れようと
したのだがベイオスの左手が一瞬動くのが見えたので止めた。死角で見えなか
ったが、後ろに距離を取って確認出来たのは左手のナイフを逆手に持っている
状態だった。あのまま膝蹴りを出していたら、右膝にナイフが突き刺さってい
ただろう。
「というよりは、気づいていたような反応でしたが。」
右手に持っているナイフを逆手に構えなおし、ベイオスはこちらを向く。
「なんとなくだけどね。」
詳細はわからないけど、最初から感じていた違和感が消えなかったので、おそ
らくはベイオスは嘘を付いていると判断した。
「演技が下手だったかな。」
笑みを浮かべた表情は変わらない。
「いえ。」
私はベイオスから目を離さずに言葉を続ける。
「最初に写真を出した時点で、失敗なんじゃない?」
ベイオスの表情は笑顔のまま変わらない。
「写真に差異があったとしても、警察局では大量の写真を撮るでしょう。差異
があったとしても不思議ではないと思ったのですが。」
確かにベイオスの言うとおりではあるのだが、それが本当に警察局で撮影した
ものであればの話だ。
「写真、自分で撮ったでしょ。あと、今回の猟奇殺人もあなの仕業よね。」
警察局の写真については置いておくとして、私は恐らくそうであろう予想を口
にしてみる。
「勘がいいのは計算外だったな。」
ベイオスの表情から笑顔が消えている。いや、笑顔から狂気の笑みに変わって
いる。ベイオスの発言は肯定と捉えていいのだろう。
「とりあえず、三人目の犠牲者はあんたと決めていたから、その計画に変更は
ない。」

ベイオスは言い終わる前に私との距離を詰める。左手の逆手に持ったナイフで
首を突いてきた手を、私は左掌で押して軌道を逸らすと、続けざまに来た右手
の横凪を、手首に拳を入れて弾くと同時に、ベイオスの腹部に蹴りを入れて蹴
り飛ばす。宙に浮いて後方に飛んだベイオスは両足で着地する。
「やはり強いな。」
ベイオスは両足で踏ん張り止った後、腹部に付いた埃を払いつつ言った。おか
しいな、右手と腹部は破壊するつもりで攻撃したのに、あまり効いている様子
がない。
ベイオスは既に構えなおしている。が、ナイフは逆手ではなく両手とも順手に
持ち変えている。今度は私から仕掛けてみるか。
私はベイオスとの間合いを詰めると左拳を鳩尾に放つ。が、ベイオスは軽く身
を右に逸らして避けつつ右手のナイフで私の腕を、左手のナイフで腹部を突い
てくる。私は左手を即座に戻し、ベイオスの左手を払いつつベイオスの左側へ
回避して左脇腹に突きを放つと、ベイオスは自分の右手方向、私とは反対方向
に軽く跳躍する。
ベイオスは着地と同時に一気に間合いを詰めてくると、低い姿勢から私の喉を
目掛けて左手でナイフを突き出してくる。間合いを見切って避けてもいいが手
練相手だと次の手を与えてしまう。
私は前に踏み出し、突いてきた手を左手で上方に払って、ベイオスの顎に右拳
を放つ。ベイオスは右に身体をずらし、私の拳を避けながら右手のナイフで私
の鳩尾を狙いつつ、弾かれた左手が首筋めがけ戻ってきている。左右の手で両
方のナイフを持った手を弾きつつ顎をめがけて踵を繰り出す。ベイオスは身体
後ろに逸らして避けたが直ぐ様、横回転をして床を転がり、私の踵落としを回
した。
ベイオスは転がって蹴りを避けると間合いを取って立ち上がる。ナイフ分の間
合い幅がやりにくい。手練れのうえに、二刀が別々に襲ってくるのはちょっと
しんどい。
「突きに対して踏み込んで来るのは予想外だった。あんたやりづいらな。」
ベイオスは再びナイフを構える。が、表情が渋い顔になる。そう思われている
うちにこの状況を打破しなければ。私は間合いを詰めると今度は胸部を狙って
右手で突きを放つ、やや右胸側を目掛けて。ベイオスは右半身を後方に捻り避
ける。そうなるように敢えて突きを出したのだけど。
私はベイオスの動きに合わせ右手を引き戻しながらベイオスのシャツを掴んで
そのまま後方に引き倒す。突きの手を狙っていたベイオスの左手のナイフはバ
ランスを崩したことにより私の手には届かない。が、ベイオスはバランスを崩
しながらも右手のナイフで私の首に対する突きを放つ。強引突きをを避けたが、
バランスを崩したベイオスに追い打ちをかけれるほど、綺麗に避けれなかった
ので、ベイオスに向かい構えを取り直す。
既に体制を立て直したベイオスがこちらに向かって来ようとして止める。私が
掴んだシャツが破れ胸元が見えているが、その胸元に刺青があった。
あれは・・・。
「時間か。」
小さく呟くとベイオスは更に距離を取り、ナイフをしまう。
「あんたの解体はまた今度。」
いつの間にか、いつもの笑顔に戻っていたベイオスが、その台詞を置き去りに
逃げていく。
「待て!」
刺青に気を取られていた所為もあってか、私が止める間もなくベイオスは部屋
から出て行った。きっと追いかけても追いつける可能性は低いし、まずノッフ
ェスの身柄を警察に引き渡すことを優先しなければならない。私が気を失って
いるノッフェスまで近づいたとき、建物内に人の気配を感じ身構える。
ベイオスの去り際に残した台詞を考えると、やはり罠か。気配は既に部屋の前
まで来ていた。



「ノッフェスがここに潜伏している情報は本当なのか?」
アランド鉄鋼工場の前でザイランはボンツに向かって疑問の顔を向ける。
「わかりませんよ、そういう電話を受けたって報告が来ただけですし。」
ボンツは両手を小さく上げてみせる。
「お前は、何を当たり前のように言ってやがる。」
ザイランが呆れ顔でボンツを見る。ボンツは何故そんなことを言われたのか判
らないと言った顔した。そんなボンツの隙を見逃すわけもなく、シルギーが割
って会話に入る。
「先輩あれです、店頭で人が言った言葉を鸚鵡返しにする猿のマスコットとか
の仕事が向いてます。むしろそれしかない気がします。というか先輩が猿って、
猿に失礼でした。」
珍しく笑顔で言ったシルギーは途中から猿に対し申し訳ないと思ったようで申
し訳ない顔に変わる。ボンツはシルギーを睨むがシルギーはボンツを見てすら
いなく中空に哀愁の視線を向けている。
「同感だ。」
ボンツが言い返す前にザイランが珍しく話しに乗ってきた上に、ボンツに止め
を刺した一言となり、ボンツはシルギーに言われたことよりもそっちの方がシ
ョックだったらしく地面に崩れ落ちている。
「ほら、突入するぞ。」
ザイランの合図で門の鍵が開けられ、待機していた二十人ほどの警察員がアラ
ンド鉄鋼工場内に静かに入っていく。シルギーが先頭を進む中、ザイランも行
こうとしたが、その前に未だ地面と向かい合っているボンツの尻に蹴りを入れ
てから突入した。



「動くな!」
銃を構えた警察員が部屋に雪崩れ込んでくる。
警察局!?
ベイオスは最初からこれを狙っていた?いろいろと腑に落ちない点が多い。と
りあえず考えるのは後にして目の前の状況をどうにかしないと。こんなところ
で正体を知られるわけにはいかないのだけど。ベイオスはどちらに転んでも損
をしない伏線を張っていたわけだ。私の確保が出来ればノッフェスだけが捕ま
る。私の確保に失敗しても逃げ道を用意し、警察局に確保された私が身動き出
来ないように。私の保身や、仕事の報酬はもとから無かったのか。
くそっ。
この状況に対し、どう対処しようか考えていた矢先、警察員の後ろから見知っ
た顔が現れた。
「ああ、そいつは局の関係者でノッフェス確保に先行してもらっていたんだ。」
部屋に入るなり私を見たザイランが、警察員達に言う。この状況を見て咄嗟に
言ったのであろうが、助かった。けど、顔を見られたのはまずい。いくら見た
目を変えようが、気づく奴は気づくと思うし。
「俺は彼女に状況を聞かなければならないから、ノッフェスの確保と現場の確
認は任せた。」
ザイランはボンツとシルギーに指示を出しつつ、私に一緒に来いと促す。
「あれ?」
私がザイランと部屋を出ようとした時、シルギーがこちらを見て疑問を漏らす。
が、軽く首を振ると自分の仕事に戻っていった。以前通り魔事件の際に顔を見
られているので気づいた可能性がある。変装というわけではないけれど、眼鏡
と黒のコンタクトで目の色を変え、髪型を変えているだけなので気づく人は気
づくだろうけど、この暗闇の中で気づくのであれば、意外と鋭いのかもしれな
い。ボンツに至っては絶対気づかないだろうと思うが、まさかシルギーが観察
眼に長けている等と思わせられるとは。

私とザイランは工場の建物から出ると、早速ザイランが話しかけてくる。
「何故お前がここぐっ・・・」
私に腹部を殴られ言葉が途切れるザイラン。やっと、やっと目の前に現れた好
機を逃しはしない。この間から溜まっていた鬱憤を晴らす。
「司法裁院の情報がいい加減だから、八つ当たり。」
「おまっ・・・」
お腹を抱え蹲るザイランが、私を見上げて言葉を発しようとしたが、途中でや
めた。ザイランもわかっているのだと思う。急所は外してるから、そんなに痛
くはない筈。
「これでも、悩み多き乙女なのだけど。」
「冗談はさておき、何故ここに居る?」
冗談って、本気で殴ろうか。と思ったが捕まるのは嫌なのでやめておく。いや
まぁ、もう一回殴ってるけど。
「それは私も同じ、何故局が動いているの?ここに居るって情報が事前に掴め
ていたのなら私に情報があってもいい筈。今まで一切連絡も寄越さなかったく
せにどういうつもり?」
ザイランは険しい顔をしている。状況からいって私が先に答えるのが妥当な線
よね。司法裁院の仕事をしている間柄とはいえ、その前に警察局と一般人なの
だから。
「詳しい話は、後日。今は時間が無いので手短に言うけど、私は泳がされてこ
の状況に在る。一番問題なのは、今回の事件の犯人はノッフェスではないとい
うこと。」
「なに!」
私の言葉にザイランが驚いた顔をする。高確率でノッフェスだと踏んでいた警
察局として、驚かざるを得ないだろうと思う。
「実は、俺らがここに来たのも直前に警察局へ、情報の提供があったからなん
だが、連絡して来た奴が怪しいな。」
そういう話であれば、連絡したのは十中八九ベイオスの可能性が高い。警察局
が乗り込んで来る時間が判っていたような素振りから考えるに、そうなのだろ
うが、本人から直接確認したわけではないので確証には至らない。
「おまえ、連絡して来た奴に心当たりがあるな。」
ザイランは鋭い視線をこちらに向ける。伊達に長年警務をやっているわけでは
ないし、司法裁院の中継役に選ばれているだけのことはあるのかもしれない。
私の思案の内容を察したように詰めてくる。
「それを含めて、後日ちゃんと話すわ。長時間私がここに居るわけにはいかな
いから。」
ザイランは仕方ないという素振りをした。
「後で連絡する。」
そう言うとザイランは工場内に戻っていった。私のことは適当に言っておいて
くれるのだろう。
酷く疲れた。
いろんな意味で疲れたので、早く帰って寝たい。
仕事あるし。
と、嫌なことを思い出す。私はザイランが工場内に入り見えなくなった後周囲
を確認してその場を去った。



ベッドの上で寝返りを打つ。なかなか寝付けないのは、少し前にあったベイオ
スとの件の所為だ。状況がややこしくなってきたのは間違いない。そもそも、
ノッフェスが犯人であれば事件解決なのだが、ベイオスにそれを模す必要性が
まったく見えない。更に何故都合よく脱獄したノッフェスが・・・。
まて、違う気がする。ノッフェスは脱獄したのか、させられたのか、ここで話
が大きく変わってくる。どちらかといえば、後者でノッフェスはただ利用され
ていただけではないのか。
何の為に?
利用価値が無くなったからベイオスはノッフェスの居場所を晒したと考えれば
辻褄が合う気はするが、目的はさっぱり見えない。そしてベイオスの胸にあっ
た刺青、交差した剣の間に真円だけど剣は刃ではなく、鞘に収めた剣を逆さに
交差しているので、真円は柄の間にある。あの紋を見たこがある気はするのだ
けど、すぐに思い出せないので後で考えることにしよう。そもそもただのお洒
落でまったく意味がない可能性が高いので、優先度は低い。
計画は見えないが、その計画に支障が出たのは間違いないのではないか。おそ
らくベイオスの計画では私と警察局が出会う筋書きではなかった筈。三件目の
事件として、ノッフェス逮捕後に私の惨殺死体が上がる筈だった。そうであれ
ば事件は更に迷走し、混乱も広がるだろう。ただ、その混乱を何のために招く
のか。世間を騒がせたい?無能な警察局を笑いたい?
わからない。
「もう少し早く気づくべきだった。」
私ははっとして小さく言葉を漏らすとベッドから起き上がり周囲の気配を確認
する。特に気配は無いが当てにならない。とりあえず上着と小銃だけ取ると玄
関から外に出る。これが杞憂であればいいのだけど。

マンションの階段を気配を殺したまま登り中階層付近で座り込む。外は出歩け
ない。決して寝巻きだからという理由ではない、出来れば屋上も避けたい。そ
もそも計画が破綻した時点、つまり私がベイオスに殺されなかった場合、私の
口から警察にベイオスが犯人であることが漏れる。
それはアランド鉄鋼工場で話していた可能性もあるが、情報網の強いベイオス
であればまだ警察局に情報が漏れていないことが判るはず。私の素性から警察
には話さない、若しくは拘留されて警察局から出られない。という可能性もあ
るだろうけど、念の為口封じにここに来てもおかしくない。
ベイオスの計画上、私は死んでいる若しくは捕まっている予定だったというこ
とは、情報が警察局に漏れていないと判ったら修正しようとするのでは、と思
ったから私は部屋を出た。情報網が強いと言えば、私とザイランの関係を知っ
ている可能性の方が高い。であれば、私は警察局に拘束されずに自宅にいる確
率が高いと、簡単に予想がつく。
そんなことを考えながら、小型端末でザイランに文字通信を送る。とりあえず
近場の警察員をまず回して欲しい内容を送る。続いて、ザイランを呼び出す文
字通信を送信した。こんなことになるのだったらアランド鉄鋼工場で軽く話し
ておけば良かった。あの時点でそこまで頭が回っていなかった自分が恨めしい。

眠い。
結局朝まで気配を殺して、階段に待機して所為で酷く疲れている。更にお尻が
痛い。が、ここでまだ部屋に戻るわけにはいかない。朝早い住人に怪しまれよ
うとも、夜明け前から夜明けにかけて油断するのも人の性。そこを狙われる可
能性もある。
警察員が私の部屋の前まで来たようだが異常は無かったと、ザイランからの文
字通信で返信は来ているが当のザイランは昨晩のノッフェスの件で局から出ら
れないらしい。肝心な時に市民の役に立たない警察局の人間は放っておいて、
今日の行動を変えなければならない。

夜が明けて人の往来が増えてきた頃、私は部屋に戻る。戻るまでの時間、幾人
かの住人には変な目で見られたことは忘れることにする。会社には体調不良の
為休む連絡を入れつつ。
警戒しながら部屋に入ってみるが、人が侵入した形跡はない。私は急いで身支
度をするとアイキナ市警察局へ向かった。とりあえず体調不良ということにし
てあるので、マスクだけはしてみた。



「随分疲れた顔をしているな。」
警察局に着いた私を出迎えたザイランは、人のことを言えた状態ではない顔で
言う。私はアイキナ市警察局に来て、ザイランに時間を取ってもらい現在取調
室にいる。少し前にも同じような状況があった気がするが、気にしないでおこ
う。無機質な机の上には、気を使ってかコーヒーが置いてある。今回は私が押
しかけたので、何も出なくても文句は無かったが。眠気が酷い今の状況に、コ
ーヒーはいいのかもしれない。
得意ではないが。
「一睡もしてないのよ。」
「昨夜の文字通信の件か?」
察しよく私の寝ていない理由を聞いてくる。私は黙って頷いた。
「昨夜の件を話すついでに、私の身の安全度を少しでも高めておきたいの。」
「どういうことだ?」
私の言葉にまた質問してくる。私は一口コーヒーを飲む。苦い。
私は今までのベイオスとの経緯を含めて説明した。昨夜までの期間何があった
のか、猟奇殺人の犯人はまず間違いなくベイオスであること等。ついでに家に
帰ってから気づいた所為で一睡もしていないことを付け加えておく。

「何故現場で言わなかった。」
一通り聞き終わったザイランが、とりあえず言っておかなければならないとい
う態度で言葉を発した。そんな状況では無かったと察しつつも。
「一応、話したことで少しは身の安全度が上がるだろうけど、それは警察局で
ベイオスを手配してからの話よね。それ以前に、嵌められたのと疲れたのとで
頭が回らなかったし、面倒だし早く帰りたかったのよ。」
「概ね自分勝手な内容だな。」
言葉に呆れた感が乗っている。
「だが手配の方は問題ない、それはすぐにでも行う。」
ザイランは強く言った。私を安心させる為であろうと思う。しかし、そんなこ
とよりも来るつもりは無かった警察局に足を運んだことの方が私としては痛い。
シルギーにも疑念を与えてるし。
「とりあえず今日は帰って寝ろ。」
「そうするわ。」
ザイランの言葉で、私は席を立つきっかけを得たので取調室を後にした。一通
り事の顛末は伝えたし、ベイオスの手配もすぐされるだろう。現段階で出来る
ことはしたので、多少心は落ち着いた。後は、途中シルギーに会わないことを
祈りつつ警察局を出ることだが、結局会わなかったので安堵する。

私が警察局を出ると、警察局の前に高級そうな黒い車が停まっていた。その車
の助手席と後部座席から男女が降りた後、後部座席からもう一人身なりのいい
青年が降りる。
青年は私を見ると、こちらに歩を進めた。それに対して付き従おうとした男女
を片手を上げて制すと一人で私の方に近づいてくる。
誰?
あんな身なりのいい青年なんか知らないし。と思ったところで私の自意識過剰
かもしれないと思った。そもそも私の方に向かってきているだけで私が目的と
は限らない。そんなことを考えていたら青年は私の目の前で止まった。
「アラミスカ・フェイル・ミリアさんですね。」
笑顔で確認してきた青年。私はその発言に一瞬驚いたがすぐさま相手を睨み付
ける。
「私を睨んでも何も変わらないですよ。」
青年は笑顔のままだ。青年、スーツ、笑顔。最近の私の中でかなりろくでもな
いキーワードになっている。ので嫌な予感しかしない。とういか暫く見たくも
ない。
「少し、お話をしたいのですけど、お時間頂けませんか?」
そんな私の思いは無視される。
「私はあなたが誰なのか、なんの目的で話をしたいのかも全然わからないのだ
けど?」
私は相手を睨んだまま答える。ただ、私の忌々しい本名を知っている時点でお
そらく国のお偉いさんではないかと想像がつく。若しくは司法裁院のお偉いさ
んか。
「込み入った話になりますので、宜しければ車内で。公の場ではあまり話せる
内容ではありませんし、その辺は想像がついているのでは?」
青年はこちらを見透かしたように言った。面倒くさい話になりそうだと思って
も、きっと私に拒否権はないのだろう。
「わかったけど、一睡もしてなくて眠いの。まともに聞けないかもよ。」
「構いません。ではとりあえず車へ。」
青年は手を車の方に向ける。私は促されるままにに車に乗り込んだ。まぁ、多
分誘拐とかではないだろうとぼんやり考えて。

車に乗り込むと、青年は運転手にホテルまでと言った。運転手は何も言わずに
車を発進させる。車の乗り心地は全然悪くない、この緊迫感を除けばだけど。
緊迫感とは別に、乗り心地が良く速攻睡魔が攻めてくる。
「外では名乗れずに申し訳ありません、私はメルカーラ・キュア・リンハイア
と申します。」
は?
私の聞き間違いだろうか。それとももう夢か。国政の最高権力者の名前を語る
とは大胆な青年だと思ったが身分証を見せられその思いも吹き飛ぶ。この二十
代にしか見えない青年が執政統括とは、国が終る前兆なのかそれともこの青年
が怪物なのか。物腰からするに、おそらく後者であることは想像が付く。
「私みたいな若輩者が執政統括って、可笑しいですよね。」
リンハイアはこちらを見ることもなく微笑んでいる。
「あ、緊張しなくても大丈夫ですよ。別に捕って食べようってわけでもないで
すし。」
そんなことは思っていない。緊張はするが。
「この状況で緊張するなって方が無理がありますね。それに、緊張は後でして
もらいますので、今はリラックスしてください。」
こいつ、質が悪い。私の直感としては、リンハイアは絶対敵に回したくないタ
イプだ。
「話の内容は気にはなるけど、一番は眠気。ホテルに着くまで寝てていい?」
一番問題なのがこの眠気。今この車内に居る間は確実に安全圏だろう。国の最
高権力者が乗っている車に、同乗しているおそらく護衛が二人、運転手はどの
程度かわからないが、その二人がいるということは安心できる。
「どうぞ、構いませんよ。」
隣の女性、最初は秘書かと思ったが間違いなく護衛で付いてきているのだろう。
凄い形相でこちらを睨んでいたが、リンハイアの言葉にその態度を和らげる、
少しだけ。当のリンハイアは、私の言葉の直後一瞬驚いた顔をして見せたが直
ぐに笑顔でそう答えた。実際の所、驚いたのは演技の可能性が高い気はするけ
ど。そうこう考えてるうちに、意識が朦朧としてきて、私は眠りに落ちた。



私はホテルの一室に案内され、お茶を出されている。ご丁寧にお菓子まで用意
してくれているのだが。睡眠できた時間は一時間にも満たないが、少し身体が
楽になっている。
「事は急を要す為、あまりいいものは用意出来ないのですが、お口に合えばど
うぞ。」
言いながらもリンハイアはお菓子を進めてくる。当の本人は既に食べ始めてい
る。私も遠慮なく手に取る。
取らないわけにはいかない。
グラドリア国王都の有名菓子店アンパリス・ラ・メーベのシュークリームとあ
っては。テレビでは広告をよく目にするが食べるのは初めてだ。だって王都に
行く用事は皆無だから。この店、いつも行列が出来ているらしいが、これを用
意出来るのは要人の特権だろうか。お茶はオーソドックスなダージリンで葉の
緑の香りが清々しい。ファーストフラッシュだろうか。どちらにしろ、あまり
どころか贅沢なもてなしであることに変わりはない。
最近の傾向として、美味しいお茶やお菓子等を飲食する時、寛ぐためではなく
変なことに巻き込まれてるだけな気がする。あぁ、優雅なティータイムを楽し
みたいな。
それよりも部屋の方が気になる。要人ともなればロイヤルな感じのスイートに
でも泊っているかと思ったが、ちょっといい部屋程度のものだ。
「明らかに要人ですと、自分から晒す気はないのでね。」
私を見透かしたようにリンハイアは答えた。護衛に運転手が付いている時点で
要人だとは思うのだが、本人の意思とは関係なく付いているのだろう。
「さて、本題に移らせてもらいます。」
ひと時のティータイムを楽しむとリンハイアが言葉を発した後、予め準備して
おいたのだろう、女性の護衛が一枚の紙を取り出す。
「見ての通り呪紋式なのだが。」
まぁ、その通りね。リンハイアの言葉に、内心で肯定する。続いて護衛の男性
が黒い木箱を用意する。木箱には王家の紋章が入っている。男性が木箱を開け
ると中にはまだ術式が記述されていない薬莢が五十は入っているだろうか。
「この呪紋式を薬莢に記述してもらいたい。」
「は?」
私はあからさまに不愉快な顔をする。
「細かい事情は知りかねますが、あなたが本名を隠してまで生きていることに
関しては事情は察しています。しかし、我々としても国の安寧を守らねばなら
ない立場なので、あなたには申し訳ないがご協力頂きたい。」
話が見えない。というか、事情を知っているなら関わらないで欲しい。本当に。
「ラウマカーラ教国の事情は?」
不愉快な顔から怒気を含んだ表情に変え、睨みつけた私に変わらない態度で言
ってくる。またしても見透かしたようにリンハイアは言ってくるが、今のは違
う。リンハイアの説明不足だ。
「報道で多少。」
「近々必要になる時が来るでしょう。はっきりとは言いませんが。想像するの
は自由ですが。その必要な時の為の布石としてこの呪紋式が必要なわけですが、
術式が複雑すぎて現在国内にいる呪紋技師では無理でね。カマルハーが居れば
可能だったのですが、生憎と遠征中でして。それであなたを頼りました。」
カマルハーと言えば執政次官で呪紋技師統括だったか。呪紋式師としても高位
であったはず。
「知っているでしょうが、私は司法裁院の仕事をしているだけで呪紋式師でも
呪紋技師でもないわよ。確かにアラミスカという家名はあったかもしれないけ
ど、今は途絶えているし。」
リンハイアは笑顔のまま少し考える振りをした。
「式伝継承でしたか。」
言葉を言い終わった後こちらを見る。本当に考える振りだったわけでよく知っ
ている。アラミスカ家と一部の人間しかしらないことを。執政統括だから知っ
ていて不思議はないが、既に没落した家のことなどどうでもいいだろうに。リ
ンハイアはまず間違いなく私が記術を行うように詰めてくるし、それだけの材
料を揃えてきているだろう。本当に嫌な感じ。
「普段から呪式記術をしているわけではないから、精度は保証しないし時間も
欲しいのだけど。」
私は諦めて従わざるをえない。
「時間があればカマルハーを呼び戻して記術させます、わざわざあなたの所に
出向いたりはしません。あなたにはせめて三日で終らせてもらいます。」
「無理よ!」
こんな複雑な術式を何十発もの薬莢に三日で記術とかありえない。しかも終
わらせてもらうと、半ば強制。私はつい声が大きくなってしまった。
「そもそも・・・」
いや、言うだけ無駄よねきっと。ラウマカーラ教国と戦争?戦争は私の予想だ
が、になるとして前教皇が崩御してまだそんな時間も経っていないのに三日し
か猶予が無いなんてと思ったけど、リンハイアは全てを計算して動いている気
がする。逆に言えば戦争までそんなに日が無いし、それまでに布石をしておか
ねばならない立場なのだろう。と、推測する。
「頑張ってみるけど、保証はしないわよ。」
リンハイアの微笑みは笑顔に変わり頷いた。
腹立つ。
「しかし、ちょっと察しが良すぎて拍子抜けしちゃいましたね。もっといろい
ろ言われるかと思いましたが。」
ほんと嫌な奴。
リンハイアはスーツの内ポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出すと、
広げて私に向ける。紙の一番上には誓約書と書かれていた。そりゃそうよね、
国家の機密事項だもの。

私が誓約書にサインをしている間に新しいお茶が用意された。
いや、早く帰して欲しいんだけど。
せっかく美味しいお茶なので飲んで帰ることにして、お茶を飲んで落ち着いた。
ついでにシュークリームにも手を付ける。
食わないと損よね。
「あ・・・」
シュークリームを食べながら思い出したことがある。
「どうかしましたか?」
リンハイアが怪訝な視線を向けてくる。話の内容が飛びすぎてて気づかなかっ
たけど、ラウマカーラ教国の話で思い出した。ベイオスの胸にあった刺青はラ
ウマカーラ教国の御印だ。ということはベイオスってそもそもグラドリア国の
人間ではないってことの可能性が出てくる。もちろん、ラウマカーラ生まれで
グラドリア国に移住している可能性もあるが。しかし、ラウマカーラ教国の国
民全員が刺青をしているとは考えにくい。私が考え事をしていると、リンハイ
アが怪訝な視線を向けたままだったのを思い出す。
「こんなことを聞くのも変だけど。」
ラウマカーラの話が出たついでなので聞いてみようと思う。アラミスカ家のこ
とこを知っている執政統括なら何か判るかもしれない。
「どうぞ、私でわかることであれば。」
リンハイアは怪訝な視線を微笑で消すように答えた。
「最近この辺で起きている物騒な事件って、今回の件と関連していたりはしな
い?」
発想が突拍子もないかもしれないが、可能性として思いついたのでかまを掛け
るつもりで聞いてみる。
「えっと。」
リンハイアは微笑のままだったが、顔に少し困った色を浮かべる。。
「ちょっと鋭いですね。隠すつもりはないですが、何故その考えに至ったかを
まず聞きたいところです。」
やはり関係あるんだ。とすると、思った以上に複雑な話になってくるような気
がする。これは私やザイランというより、司法裁院や警察局だけで解決できる
問題ではなくなって来る気がする。
「このアイキナ市で起きている連続猟奇殺人事件に巻き込まれているのだけど、
犯人の胸にラウマカーラ教国の御印を見たから。」
「なるほど。」
リンハイアは興味深そうな目を向けてくる。
「いや、ちょっと待って。」
当時は戦闘の所為であまり意識していないのと、見たことあるなくらいにしか
思っていなかったが。
「ラウマカーラ教国の御印って左の剣に"信仰と崇拝"右の剣に"忠誠と畏怖"を象
徴とし、中央の円が神を表す太陽を示している。故に左右の剣は鞘に収まり下
向きになっていると聞いたことがあるけど、私が見たものは確かもう一本剣が
あった気がする。」
そう、ラウマカーラ教国の御印だと思っていたのだけど、若干それとは違って
いたことを思い出す。けど、ベイオスの関連性はリンハイアの発言から有りと
読み取れる。ではあの刺青はいったい。
「全ては話せませんが、ある程度の情報は提供します。」
リンハイアは紅茶を一口含む。
「地上に人が居ない場所は殆ど無く存在していて、それは全て神の許すところ
であり神に護られている。故に人は天を仰ぎ崇拝と畏怖を込めるというのがラ
ウマカーラ教国の御印に込められているそうです。」
リンハイアはそこで一呼吸置く。
「しかし、そこに欲を加えていない故に生まれたのが神殺しの印。人は人の世
であり、人が人を統治する。そこに神の介入はなく、教国は全ての頂点に立つ。
そういう思想を持った教国の人間が現れ、やがて組織化されていくのですが、
そこで出来た御印が神を象徴する太陽に剣を突き立てる御印になる。あなたが
見たのはそれでしょう。」
それって、一般人はもちろんのこと教国の一般人も知らないことなんじゃない
だろうか。しかし、そういう組織があることを知っているということはもとか
ら裏で牽制や小競り合いが国同士であったということか。
「実はアイキナ市で起きている事件に関してですが、アイキナ市だけではなく
国内の各地で起きています。猟奇殺人が、というわけではありませんが。」
リンハイアの言葉は何を示しているのか想像はつくが、複雑な意味が込められ
ている気がする。当のリンハイアは多少困った顔をしている。
「すいません、これ以上は。機密レベルのお願いをしておきながら機密を話せ
ないという状況で申し訳ないのですが。」
「いえ、大丈夫。」
とりあえず事件はアイキナ市だけではないとすれば、国が動くだろうしベイオ
スの件も警察局だけではなく、国が絡んでいるとなったのなら私が出る幕でも
ないでしょうし。
「聞いて巻き込まれても嫌だし。」
というか、関わりたくない。という意思は伝えておく。ノッフェスを確保する
ことで司法裁院の仕事は完了しているわけだし、これ以上の介入は避けるのが
正解。
「あなたがアイキナ市で巻き込まれた事件に関しては、市だけの問題ではない
ので、お気になさらず。今は記術を最優先でお願いします。」
「当然、これ以上関わりたくないので。」
私は席を立つと、呪紋式図と薬莢を取る。
シュークリームも取る。
「家までお送りしますよ。」
「やめて。」
ここの高級車で送られでもしたら折角地味な生活しているのに、そのイメージ
が崩壊しかねない。誰が何処で見ているかもわからないのに。それとやっぱり
必要以上に関わりたくない。
「わかりました。では道中お気をつけて。ホテルの出口までは見送らせて頂き
ます。」
リンハイアの言葉で女性が動き、先導して出口へと案内する。自動昇降機で一
階まで降りるとホテルの入り口まで来て、案内してくれた護衛の女性は一礼し
て去っていく。
あ、ここの場所が何処かわからない。
護衛の女性に聞こうかと思ったが既に背中を向けて遠ざかっている。呼び止め
るのも面倒なので、ホテル名を確認して小型端末で検索する。地図を確認する
と私は駅へと向かった。



マンションの部屋まで持ち帰った呪式図面と薬莢。長時間持ち歩くには薬莢は
重かった、腕が痛い。そして、ホテルを出てから気づいたのだが、王家の紋章
が入っている箱は嫌だった。見られないように持ち運んだのが疲労度を増して
いる。結局帰って来たのは夕方近かったので会社を休んだ意味がまったく無い。
むしろ余計な圧力をかけられ逆に疲れた。
というか、三日って。
私は今日も会社休んでいるのに間に休日が入っているとはいえ作業の間は休ま
ざるをえない。これで首になったら嫌だな。

家に帰ることで、現状の問題が重く圧し掛かってくる中、私はお風呂に入って
今日のところは休むことにした。
ってか全然寝てないし。
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